元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ディープ・カバー」

2011-03-26 06:57:40 | 映画の感想(た行)

 (原題:Deep Cover)92年作品。主人公・ラッセル・スティーヴンスJr.(ラリー・フィッシュバーン)は子供の頃、強盗事件を起こした麻薬中毒の父親を目の前で殺されたことから、警官になった。指令に従ってロスアンジェルスを本拠地とする国際麻薬シンジケートのトップに近づくため、ジョン・Q・ハルと名を変えて売人になりすます。悪徳弁護士ジェイソン(ジェフ・ゴールドブラム)と知り合って内部に入り込むうち、ハルはこの組織が政府高官と癒着し、南米諸国の政治家を巻き込んだ陰謀を進めていることを突きとめていく。

 「レイジ・イン・ハーレム」(91年)で知られるニュー・ブラックシネマのオーガナイザー、ビル・デュークの監督作。冒頭、チャールズ・マーティン・スミス扮する警察の上司が任務に適した警官を面接で選ぶシーンが興味深い。“黒人とニガーの違いは何か?”など、もろ人権侵害の質問が飛び出す。人種差別の溝は深いとの認識を新たにしたのもつかの間、映画はロスの街に横行する暴力の洪水を描きつつ、組織に潜行した主人公の内面を綴っていく。

 アクション映画らしいシーンがふんだんにあるが、それだけで終わらないところがこの作品のセールス・ポイントである。悪人を演じる主人公は、トップに近づくほど次第に自分の心の中にある闇の部分が多くなっていくのを感じ始める。

 任務の目的が実は政治的なゲームに過ぎないと知った時、彼の行動は最初の指令を無視したものになっていく。自身も麻薬に手を出し、組織の女とねんごろになり、上司と対立し警官を辞めるハメに。組織内部で対立する者を次々と葬り去り、シンジケートの顔役になった主人公を待つ運命は果たして・・・・・。

 暴力を嫌悪しながらそれに魅了されていく人間の心の弱さを描いたこの作品は、善良で実直な刑事(クラレンス・ウィリアムズ)を安易に登場させるなど、いくぶん図式的な部分もあるが、見応え十分といえる。ハードボイルドを絵に描いたような主人公のツラがまえもいいが、弁護士ゴールドブラムの怪演が光る。
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「トゥルー・グリット」

2011-03-25 06:33:46 | 映画の感想(た行)

 (原題:TRUE GRIT )新星ヘイリー・スタインフェルドの存在感に圧倒される一編だ。父親の仇を討つため、連邦保安官コグバーンと共に遙かなる西部の荒野を行く14歳のマティに扮した彼女は、コグバーン役のジェフ・ブリッジスや彼らに同行するテキサス・レンジャー役のマット・デイモン、敵役のジョシュ・ブローリンといったベテラン俳優たちを相手に一歩も引かない演技の確かさを見せる。

 何があってもへこたれない精神力と、海千山千の荒くれどもと五分に渡り合うタフ・ネゴシエーターぶり。この年齢にして一家を支える使命感を持ち、自分が何をやるべきなのかを熟知している。そんな凛とした佇まいと清潔感は、コグバーン達はもとより悪い奴らも一目を置くほどの存在の大きさを醸し出す。そんなヒロイン像を見事にスクリーン上に創造したスタインフェルドを起用した時点で、本作の成功は約束されたようなものだろう。

 元ネタのジョン・ウェインがアカデミー賞を獲得した「勇気ある追跡」(1969年作)は観ていないが、この映画単体で見てもかなり出来は良い。リメイクしたのがコーエン兄弟というのは少し意外だが、いつもの一種“病的な”シチュエーションがないことを別にすれば、追いつめられた人間が開き直っていくというプロセスにコーエン兄弟の今までの作品に通じるものはある。強がってはいても弱さを隠せない西部の男達の描写も“毎度お馴染み”といった具合だ。

 ただし、今回は製作総指揮のスティーヴン・スピルバークの持ち味も強く出ていると思う。キビキビとしたドラマ運びや、広がりのある映像空間の創出にそれを感じる。特に、終盤に映し出される満天の星空をバックに馬を走らせるシークエンスなど、多分に作り物めいてはいるが目覚ましい美しさと魅力に溢れている。おそらくは、スピルバーグの参加が広範囲な支持を集めるのに貢献したのだろう。

 映画のラストには大人になったマティを登場させる。少女時代に体験した西部での冒険のあとにも、彼女には人生の苦難が待っていた。それにしっかりと対峙して生きたマティこそが真の勇気(トゥルー・グリット)の持ち主であると、高らかに宣言しているようだ。

 カーター・バーウェルの音楽、ロジャー・ディーキンスのカメラ、共に言うこと無し。惜しくもオスカーは逃したが、受賞作の「英国王のスピーチ」よりはずっと好きな作品だ。本年度のアメリカ映画のひとつの収穫である。
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DACを聴き比べてみた。

2011-03-24 06:44:54 | プア・オーディオへの招待
 先日、福岡市内のオーディオショップにて複数のDACを使っての試聴会が開催されたのでリポートしたい。DACというのは「Digital to Analog Converter 」の略称で、デジタル信号をアナログ信号に変換する機械のことだ。オーディオの世界ではCDまたはパソコン類に格納されたデジタルの音楽信号を、アンプに伝えられるようにアナログに変換する装置のことを言う。

 通常、CDプレーヤーにはDACは内蔵されている。またAVアンプや一部のステレオ用プリメインアンプにはDACが配備されているものもある。単体のDACはCDプレーヤーのデジタル出力およびパソコンのオーディオ・インターフェースから同軸または光ケーブルによって接続され、DACからはアナログケーブルによってアンプに繋がれる。

 DAC部分を別筐体にしたセパレート型のCDプレーヤーは、80年代前半のCD黎明期にすでに出現していたが、近年単体のDACが数多く出回るようになったのは、パソコンを音源として使うユーザーが増えてきたせいであろう。

 DACのクォリティはサウンドに及ぼす影響が大きいと言われているが、DAC自体の「試聴」および「聴き比べ」が出来る機会は多くはない。それだけに今回のイベントは貴重だ。

 用意された機器は4台。ORBのJADE-1LTD、FIDELIXのCAPRICE、LUXMANのDA-200、そしてNmodeのX-DP1である。どれも定価は15万円前後で、オーディオ用DACとしては中級クラスだ。なお、試聴に使用したCDドライヴ部は米国PS AUDIO社PerfectWave Transport、アンプはNmodeX-PM10、スピーカーは同X-RM100である。

 まず聴いたのはJADE-1LTだ。電子機器の設計等を行っている大阪府のジェーエイアイ(株)という会社が手掛けるブランド「ORB」のラインナップの一つである。まず、どちらかというと寒色系のNmodeの機器から暖かみのある音が出てきたのには驚いた。中低域の厚みもある。ただし、解像度・分解能はそれほどでもない。物理特性よりも独特の音色を楽しむために作られた製品のようだ。

 次に試したのがCAPRICEである。製造元のFIDELIXはSONYにいたエンジニアが立ち上げたガレージ・メーカーで、製品は専門誌では高い評価を受けている。聴いた感じは高解像度でハイスピードという印象だが、中高域に魅力的な艶がある。このためか、聴き手を引き込むような臨場感と色気があり、玄人筋からウケがいいというのも納得だ。しかし、実用一辺倒で見た目の高級感はない。4台の中では最も小型なので、空いたスペースに押し込めるには丁度良いだろう。

 LUXMANは我が国を代表する高級アンプメーカーだが、DA-200も手抜きのない出来だと言える。とにかく、音像がキチッと整えられていて高音から低音まで万遍なく出る。音場も見通しが良い。だが、感心したのは最初の数分間だけだった。しばらく聴いていると、何とも言えない違和感が湧き上がってくる。全てが作為的なのだ。おそらくこれが“オーディオファンが喜ぶ音造り”であり、店頭効果は高いと思う。しかし、少なくとも私にとっては音楽が響いてこない。音色が乏しくモノクロームであり一本調子の展開である。同じLUXMANのアンプに接続するともっと違った印象を受けるのかもしれないが、今回に限っては評価は出来ない。

 アンプとスピーカーがNmodeの製品であったせいか、X-DP1は今回最もバランスが良かった。欠点は見つからない。デジタル信号をそのまま淡々とアナログに変換しているという印象で、聴いていて安心出来る。またヘッドフォン端子が優秀であり、その辺のヘッドフォン専門アンプよりもワイドレンジな音が出る。

 もしも4台の中で選ぶとすると、個人的には滑らかな音のCAPRICEということになろう。けれども、この製品は電源ケーブルの交換が出来ない。ちなみにX-DP1の電源ケーブルを付属品から市販品に替えてみると音の重心が下がって情報量も多くなり、総合点ではCAPRICEに肩を並べてくる。何でもFIDELIXは少量生産なので注文してから数ヶ月は待たされるという。そのあたりの事情もユーザーとしては勘案しなければならない。

 今回試聴したDACは、いずれもヘッドホンアンプ搭載機やプリアンプとして使用できる多機能型である。だが、一方では(この4機種の他にも)変換機能だけに特化した製品も存在しており、DAC単体として見た場合はそういう機器の方がクォリティは高いと言える。

 もちろん、この4台のようなDACを手持ちのCDプレーヤーに繋げてグレードアップを狙うという使い方は有り得る。ただし、場合によってはCDプレーヤーを買い替えてしまう方が効果が高いケースも考えられる。導入するには機能と使い方、そしてスペースユーティリティを十分吟味して考える必要があるだろう。
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「冬の小鳥」

2011-03-23 06:39:56 | 映画の感想(は行)

 (原題:Une vie toute neuve )正直、それほど良い映画とは思えない。昨年度(2010年)のキネマ旬報誌のベストテンに入った作品群の特集上映の一つで、私は見逃していた映画だし、ちょうどいい機会だと思って鑑賞したのだが、何とも不満の残る結果となってしまった。

 確かに冒頭部分は印象的だ。1975年、全州に住む9歳のジニ(キム・セロン)は父親に連れられて旅行に出掛けたつもりだった。しかし着いたところはソウル郊外のカソリックの児童養護施設。お土産の大きなケーキを所員に渡した父はさっさと出て行く。ジニは捨てられたのだ。

 映画は父親の顔をハッキリとは映さない。ただ、久々の父親との遠出に無邪気にはしゃいでいたジニの姿を丹念に追うのみである。どういう事情があるのか知らないが、可愛い子を犬や猫を捨てるかのごとく放り出すこの父親に対しては、怒りしか感じない。しかも、ジニを預けた後にすぐさま転居し、完全に親子の縁を切ってしまうという徹底ぶり。

 この映画は韓国からフランス人の養子になった女流脚本家のウニー・ルコントの自伝的作品だ。つまりは描かれていることは事実に則している。演出もルコント自身であり、父親の描写は人間ここまで冷酷になれるものかという絶望感が横溢している。画面の緊張感も高い。

 しかし、ジニが養護施設で過ごす日々には、別に特筆すべきエピソードはない。上級生のスッキ(パク・ドヨン)をはじめとする他の児童との関係は、丁寧に撮られてはいるが、ありがちな描写に終始している。

 ケガをした小鳥をめぐるくだりも、何やら「禁じられた遊び」や「ポネット」などからの借用じゃないかと思ってしまった(ルコントがフランスで育ったことも、ひょっとしたら関係しているのかもしれない)。もっとドラマティックなシークエンスを用意してもよかったのではないか。フィルム撮りではないせいか、画面が平板であるのも気になった。

 資料によると、韓国からの海外養子縁組は朝鮮戦争の際に養護施設を通じて行われたらしい。総計20万人とも言われる子供が見知らぬ異国での生活を強いられることになったと聞く。国情が不安定になると、その歪みは子供などの弱い者達を直撃するのだ。実に理不尽なことである。
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「tokyo.sora」

2011-03-22 06:39:06 | 映画の感想(英数)

 2002年作品。東京で暮らす20代の女性6人を主人公にしたグランドホテル形式のドラマで、CMディレクター石川寛の監督デビュー作。フィルム撮りではなかったので開巻早々に鑑賞意欲を喪失した。内容の方も弱体気味。“こうすれば自然な演技になるだろう”とか“こんな映像にすれば観客が気持ちよくなるだろう”とかいう下心がミエミエの“癒やし系もどき作品”でしかない。

 何より困ったのは、ドキュメンタリー・タッチを狙っているわりには各エピソードの構成が作為的なこと。本上まなみ演じる売れない女優などその最たるもので、ダサい服装と髪型、そしてヘンにオドオドした性格設定は、ワザとらしくて見ていられない。ランパブ嬢に扮している板谷由夏と井川遥の扱いも凡庸そのものだ。

 唯一まともだったのは高木郁乃演じる喫茶店のウェイトレスと雇われマスターとのやり取りで、他愛のない会話を固定カメラで淡々と撮っているだけだが、映画の中でここだけが日常的な時間が流れていてホッとする(キャストが無名のせいもあるだろう)。なお、2時間7分という上映時間は長すぎ。あと30分削ったら少し違う印象を持ったかもしれない。菅野よう子の音楽は良好。
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「ランナウェイズ」

2011-03-21 07:19:51 | 映画の感想(ら行)

 (原題:The Runaways)映画の出来がどうだと言うよりも、扱われている題材がとても懐かしくて、それだけでも観て良かったと思った。ランナウェイズとは、70年代半ばのアメリカ西海岸で結成されたメジャーレーベル史上初の“女の子ばかりのロックバンド”のことである。ちょうど私が洋楽ロックにどっぷりとハマっていた頃に、このグループは一世を風靡していた。

 当時はロックを女性がやるという例は、世界中探しても数えるほどしかなかったのだ。特にアメリカでは70年代初頭から活躍していたスージー・クアトロの他は、パンク・ムーヴメントに乗って売り出したパティ・スミスとプロンディぐらいしか思い付かない。

 ランナウェイズが世に出たのはパンク・ニューウェイヴの勃興が切っ掛けとなっていたのは言うまでもないだろう。彼女たちの楽曲は特別なテクニックを要求するようなものではなく、限られたコード展開しか提示されていないのだが、勢いとパワーで聴き手を離さない。まさにパンク・ロックの方法論だ。

 実を言うと、ランナウェイズは本国よりも日本で人気があった。この頃は日本のポップス・ファンのレベルは高く、クイーンもチープ・トリックもその真価を最初に見抜いたのは日本のリスナーだった。ランナウェイズも大物バンドになる可能性を秘めていたが、内紛により2年で消滅してしまった。解散後にリーダーのジョーン・ジェットが結成したザ・ブラックハーツはランナウェイズのサウンドを継承するものであったが、ブラックハーツが世界的にブレイクするのは80年代に入ってからで、このことからも日本のファンの先見性が光っていたと言える。

 さて、本作はランナウェイズの結成から終焉までを追った実録もので、逆境にめげずに夢を追いかけた少女たちを描く青春映画でもある。ただしフローリア・シジスモンティの演出をはじめ、全体的にあまり深みはない。まあ、現役で活躍しているJ・ジェットをはじめ当事者たちの大半が健在なので(ドラムス担当のサンディ・ウエストだけはすでに故人だが)、突っ込んだ描写や思い切った解釈は難しいのだと思う。

 それでも、純粋に音楽が好きだったJ・ジェットと基本的に跳ねっ返りの不良少女に過ぎなかったヴォーカルのシェリー・カーリーとの、性格の違いによる確執は面白く示されていた。特にシェリーのシビアな家庭環境は良く描けている。演奏シーンは申し分なく、日本公演の場面もそれほどヘンな描写は出てこないので安心して観ていられる。

 主演のクリステン・スチュワートは快演で、顔つきや身のこなしなど本物のJ・ジェットにそっくりだ。「トワイライト」シリーズなどよりこっちの方が良い(笑)。シェリーに扮しているのはダコタ・ファニングだが、ついこの前まで子供だと思っていたらいつの間にか高校生の年代になっていたのには(←当たり前だが ^^;)驚いた。下着姿で大胆演技に挑んでいるが、今後も役柄を広げて欲しい。プロデューサーのキム・フォーリーを演じるのマイケル・シャノンも好調。さらにはシェリーの母親役にテイタム・オニールまで出てくるのだから、かつての青春映画のファンには喜ばれよう。
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石原都知事の「天罰発言」について。

2011-03-20 13:30:31 | 時事ネタ
 去る3月14日、石原慎太郎都知事が今回の大震災について「津波は天罰」などという発言をし、大顰蹙を買った。さすがに後日謝罪したが、謝れば済む問題ではないと思う。政治家、それも首長という地位にある者が、いくら口が滑ったとはいえ斯様な暴言を吐くこと自体、適性を欠いていると判断されても仕方がない。

 マスコミ等は「天罰とは被災者に対して失礼だ!」との論調でこの発言を批判しているようだが、石原の言い分の不適切な部分はそれだけではない。むしろ別の箇所にある。それは「日本人のアイデンティティーは我欲になった」というくだりだ。

 あれだけの大災害に遭遇しても、現地では略奪や暴動のひとつも起こらず、整然と救助を待つ姿勢に各国のメディアが驚きと賞賛を持って報じている。こうした被災者たちのどこに「我欲」があるのだろうか。また、普段は社会問題に無関心に思えた若年層が、積極的に募金や献血に応じている。彼らが「我欲」にまみれているなどとは、断じて言わせない。

 石原は「アメリカの国家的アイデンティティーは『自由』。フランスは『自由と博愛と平等』。日本は無い」と強調しているが、何を眠たいことをほざいているのか。日本にはそれらに匹敵する共助の精神がある。自国を貶めるのもいい加減にして欲しい。

 それと「減税という耳障りのいい言葉で釣られて国民が歓迎するという心情が、今の政治を曲げている」という物言いに至っては、あまりの馬鹿っぷりに脱力するしかない。今日本経済に一体何が必要なのか。それは、不況を克服するにはマクロ経済政策である。具体的には減税を含む財政政策だ。減税は「耳障りがいいだけの言葉」ではない。今最も必要とされている施策なのだ。

 名古屋市で既成政党が負けたのは、減税を掲げた新興勢力の主張に対抗出来なかったからだ。つまりは市民の視点で政治を行っていない連中に対する鉄槌が下ったわけである。

 石原は都民の視点で政治に臨んでいるのか・・・・都民ではない私が迂闊なことは言えないが、少なくともオリンピックの誘致や新銀行の運営など、あまり役にも立たないことに執心していたようにしか見えない。

 日本人ほど「我欲」から遠い民族はいないと思う。結局「我欲」に拘泥しているのは一般国民ではなく、石原をはじめとする為政者や財界や官界のお偉方だけではないのか。天罰が下るべきは今回の地震で被害を受けた人々ではない。石原を筆頭とする「奴ら」である。

 さて、震災の復興の財源として、またぞろ増税論が出てくる気配がある。この期に及んで消費税増税案なんかを採用したら「被災した人たちは困窮しています。だからみんなも一緒に困窮しましょう」というアホっぽい結果にしかならない。だいたい、税金というのは徴収するまで時間が掛かる。税率をアップさせて、いろいろとシステムや段取りを整えて、それから徴税して復興に回すのでは間に合わない。政府貨幣発行や日銀の国債買い入れなどで資金を手っ取り早く調達し、早急に施策に投入するのがベストである。

 とにかく今回の石原の発言により、完全に「上から目線」の政治家が存在していることが明らかになった。石原は次の知事選にも出るらしいが、今回の失言(本音?)をリカバリーするような態度(被災地への具体的な積極支援など)を直ちに表明しない限り、当選は覚束ないと言って良いだろう。
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「YOYOCHO SEXと代々木忠の世界」

2011-03-19 06:35:17 | 映画の感想(英数)

 70歳を過ぎても精力的に製作活動を続けるAV監督“ヨヨチュウ”こと代々木忠の半生を追うこの映画、まず2つの意味で実に興味深い。ひとつは、アダルトビデオの“歴史”が説明されていることである。

 80年代初頭の黎明期はレンタルは存在せず、セルのみであったこと。松下電器(現Panasonic)がビデオデッキの販促のため、一台ごとにAVを一本ずつオマケで付けていたこと。ハードの発達や流通面の変化、製作側とビデ倫との鍔迫り合い、また風俗産業の推移に伴う影響など、一般にはよく知られていない世界の実情が垣間見え、これだけでも面白い。

 そしてもう一つは、成人映画とアダルトビデオとのコンセプトの違いが明確に提示されることだ。正直、私はアダルトビデオはそんなに見たことはないのだが(ホント)、それでも劇中でいくつか紹介される代々木作品のハイライト部分を見れば、この作風はかなり特異であることが分かる。

 徹底した実録主義で、ドキュメンタリーに近い。いかにして見る者に即物的な性欲を催させるか、そのためには虚飾を削ぎ落として出演者の文字通り赤裸々な内面を引き出さなければならない。脚本があって演技指導があって・・・・という劇映画の一ジャンルである成人映画とはまったく違う方法論が要求される。

 面白いのは代々木自身はかつて映画の製作に携わっていたことだ(70年代に起きた日活のワイセツ裁判の当事者の一人でもある)。映画の何たるかを知っていたからこそ、映画とはユーザー層も見られる環境も違うビデオの特性に気付いたとも言える。ピニ本業界から参入してきた村西とおる等とは一線を画する存在になったのも、映像表現に対するポリシーと審美眼があったからこそだろう。

 素材を“裸”にして原初的な欲求に身を委ねさせるというメソッドは、出演する側にとって一種の精神分析にも成りうる。事実、彼の作品は心理学・精神医学の観点からも語られるのだという。心に傷を負った女性達が彼の作品に出ることによって、精神の開放感を得たという“症例”も紹介される。彼女たちの面倒を見ていた代々木の盟友が若くして死んでしまい、代わりに代々木自身が大勢をケアするハメになって、鬱病になってしまったという笑えない話も興味深い。

 監督は代々木作品の助監督を6年間務めたという石岡正人で、身近にいる者に対する気安さからか、代々木も明け透けに本音を出してくれる。シビアな題材ながら終始リラックスした雰囲気が漂うのもポイントが高い。ナレーションを担当する田口トモロヲをはじめ、笑福亭鶴瓶や槇村さとる、和田秀樹、愛染恭子といった多彩な面々が映画を盛り上げる。見終わると、代々木の作品をチェックしたくなった(笑)。
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「続・社長太平記」

2011-03-18 06:39:31 | 映画の感想(さ行)
 東宝の「社長シリーズ」の一本で、昭和34年作品。監督は当時サラリーマンものを数多く手掛けていた青柳信雄だ。森繁久彌扮する下着メーカーのおとぼけ社長が九州に乗り込んで珍騒動を繰り広げる。

 筋書きは御都合主義の典型。主人公達がビジネスに失敗すると、いつの間にやら別の人脈が出来上がっているというタイミングの良さ。もちろんそこから攻めると万事上手くいく(爆)。出てくる女性の扱いもなぜか“昔好きだった女と瓜二つ”みたいなパターンばかり。まあ、内容は実に凡庸なのだが、ノンビリと観る分にはいいかもしれない。

 昔はサラリーマン映画がたくさん作られていたが、この、良い意味での“ぬるま湯的な”雰囲気は、今では得難いものだろう。昨今の不景気は、普通の会社員にさえなれない若者や、リストラや賃下げに悩む中高年を大量に生み出し、サラリーマンそれ自体の存在意義も揺らいでいる。

 当時の博多や小倉の風景も興味深い。それにしても、社長が森繁で営業部長が三木のり平、支社長が小林桂樹で経理部長が加東大介という会社は、ハタから見てれば面白いけど実際にそこで働くのはイヤである(笑)。
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「アレクサンドリア」

2011-03-17 06:38:02 | 映画の感想(あ行)

 (原題:AGORA )見応えのある歴史ドラマである。手堅く積み上げられた作劇もさることながら、現代に通じるテイストを的確に織り交ぜているあたりがポイントが高い。それは今も世界中に蔓延る民族・宗教・思想等に対する拭いがたい偏見と差別だ。

 4世紀末のエジプト、ローマ帝国は衰退期に入っていたが、アレクサンドリアは何とか繁栄を保っていた。しかし、台頭するキリスト教勢力が従来のローマの神々を信仰する貴族階級を圧倒しつつあり、不穏な空気が流れている。図書館長の娘で天文学者のヒュパティア(実在の人物)は、豊富な知識とリベラルな考え方で多くの弟子に慕われていたが、キリスト教徒の狼藉により図書館を追われ、なおかつ原理主義に走った総司教のキュリロスにより“魔女”として指弾されるようになる。

 映画の冒頭は通信衛星から撮影された地球の俯瞰映像からのアフリカ北部へのズームアップであり、最後はカメラが宇宙空間へと引いていく。そして劇中で街を席巻するキリスト教徒たちは、蟻の群れのような捉え方をされている。描かれている史実をグローバルな視点で解釈しようという主旨が見て取れるが、そのスタンスは観る側にその構図を見透かされて終わるような底の浅いものではない。

 キリスト教徒が先進的な知識を持つヒュパティアを敵視する理由も分かるし、彼女がどうして彼らと相容れないかも明確に描かれる。ヒュパティアに恋い焦がれる奴隷のダオスは、彼女の知性に惹かれると共に、拭いがたい差別を受けていることも実感している。表面的に上流階級の者から可愛がられようとも、彼らは結局ダオスを人間扱いしない。

 そんな社会的な“断層”を埋めてくれるように見えるのがキリスト教だ。一応“神の前では平等”という建前を持つキリスト教は、下層階級にとっては救いになる。しかし、そのキリスト教も新たな“断層”を作り出すだけであった。一神教たる特徴と聖書絶対主義を前面に出せば、どんな者でも“異教徒”に仕立て上げられる。キュリロスのようなアジテーターに対峙する方法論を何ら提示していないのだ。

 主義主張が異なるというだけでコミュニケーションが停滞し、あとは“神の名”による対決姿勢しか道はない。もちろんこの図式は現代でも続いていて、世界各地で紛争の元になっている。特にエジプトは今混迷の真っ只中にあるというのが、何とも象徴的だ。

 アレハンドロ・アメナーバルの演出は「空を飛ぶ夢」のような余計なケレンを抑えていて好感が持てる。主演のレイチェル・ワイズは好演で、明晰な頭脳と強い意志を持つヒロイン像をうまく表現していた。マックス・ミンゲラやオスカー・アイザックといった脇のキャストも万全だ。そんなに多額の予算を掛けているわけでもないが、舞台装置等は実在感があり、作品に重量感を与えている。アレクサンドリアの図書館は破壊されてしまったが、もしも今でも残っていたとしたら歴史的史料の宝庫になったことだろう。惜しい話だ。
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