元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「レッドクリフ Part I」

2008-11-30 07:09:19 | 映画の感想(ら行)

 (英題:Red Cliff )まるでテレビゲームみたいな映画である。登場人物全員がステレオタイプのキャラクター設定。深い内面描写などまったく存在しない。どうして彼らは戦乱の世に自らの立ち位置を定めたのか、何を理想としていかなる思想信条を持っているのか、またそれに至った経緯は何かetc.それらについて全然触れられていない。

 行き当たりばったりに活劇場面が展開し、皆が型どおりのセリフを吐くのみ。史実(とされているもの)に基づく原作・三国志の筋書きを漫然と流しているだけである。時代劇を面白く見せるには、歴史に対する骨太な解釈と確固としたコンセプトが必要だが、本作には見事なほどそれが欠けている。

 それを象徴するのが冒頭の“歴史背景のレクチャー”をはじめとする御親切な説明の数々。主要登場人物には“どこの何某”というテロップが付くし、しかも同じキャラクターについて劇中で何回も出てくる。もちろんそれは最初から映画に表示されていたものではなく、日本の配給側が勝手に挿入しているのであるが、困ったことにあまり違和感がない。

 言うなれば映画自体が“誰某がこういう行動をして、結果こうなりました”といった平板な粗筋だけを追っているので、そんな“ト書き”めいたアタッチメントを山のように実装しても、粗筋の補足的素材として片付けられるのだ。これが真に面白い史劇でそんなことをすると“観客をバカにしているのか!”と罵倒されること間違いなしだが、本作はレベルの低い御説明がふさわしい“その程度”のシロモノなのである。

 アクションシーンはさすがジョン・ウー監督だけあって良くできている。この題材では得意の“横っ飛びで二丁拳銃”は使えないが(爆)、伝統的な剣戟スタイルと昨今のクンフー映画のテイストを上手く盛り込み、退屈させない。敵軍を自陣に誘い込むための策略も面白く、手を変え品を変え順次撃破してゆくプロセスも(幾分マンガチックだが)楽しませてくれる。これでキャストが弱体気味だったら浮ついたシャシンになったところだが、トニー・レオンに金城武、チャン・フォンイー、チャン・チェン、ヴィッキー・チャオといった有名どころを揃えているため、何とか場を持たせることに成功している。岩代太郎の音楽も悪くはない。

 しかし、カネをかけた割にはヘンに安っぽい映像と、くだんの説明的テロップの釣瓶打ちにより、画面いっぱいにB級臭さが横溢しているのは確か。続編は2009年のGWになるそうだが、よっぽど思い切った展開が予想されない限り、観に行く気になるかは分からない。
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「シンドラーのリスト」

2008-11-29 07:50:59 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Schindler's List )93年作品。スティーヴン・スピルバーグの“シリアス路線”を一気に世間的に認知させた第66回アカデミー賞受賞作。公開当時は観終わって“やっぱりスピルバーグはスピルバーグだ!”との印象を深くしたものだ。危惧されていた“ハリウッド製戦争巨編”の気配は微塵も見せず、クレーンやステディ・カムといった大仰なカメラワークもなし、それほどメジャーな俳優を起用しなかったのも偉い。何よりも白黒映像の美しさが目にしみる。ジョン・ウィリアムズの音楽、イツァーク・パールマンの官能的なヴァイオリンが恍惚とさせる。長い上映時間を少しも退屈させない演出のテンポのよさはサスガだ。

 しかし、この作品について私はあえて異議を唱えたい。すでにいくつかの評論に挙げられているこの映画の最大の欠点が最後まで引っかかってしまうのだ。つまり、なぜシンドラー(リーアム・ニーソン)はユダヤ人を救ったのかが描かれていないことだ。主人公がどういう人物なのか最後までわからない(ベン・キングズレー扮するユダヤ人計理士やレイフ・ファインズの狂的なナチス将校は的確に描かれているにもかかわらず)。シンドラーは正義の人としては登場しない。安い給料で働くユダヤ人に目をつけて一儲けしようとする俗物であり、どうしようもない女好き、偉い奴に取り入る手腕は一流の、鼻持ちならない男だ。

 そんな人間が命張ってユダヤ人救出なんかに乗り出すか? 普通だったら考えられないことだが、これはれっきとした史実だ。そこを思い切って描写しないと、映画は絵空事になるばかりである(赤い服を着たユダヤ人の女の子に心動かされた、などというキレイ事には耳を貸さない)。

 でも、そこがスピルバーグらしいところなのだ。それまでの彼の作品に現れる“対象”を思い浮かべてほしい。不気味なトラックの運転手、凶暴なサメ、現代に生き返った恐竜、悪の権化のようなナチスetc.これらはすべて得体が知れない存在であるにもかかわらず“最初から「悪」そのもの”として設定してある。逆の例が「E.T.」「未知との遭遇」の宇宙人で、こっちは人間の理解を超えた“善であるもの”であり、どうして善なのか、なぜ人間と友好的なのかはまったく描かれない。初めに善悪を規定しておいて、それらとかかわり合う過程を娯楽性たっぷりに描くことが映画のメインになっている。

 同じようにシンドラーもスピルバーグは最初から“善なるもの”と設定してしまっている。いくら表面的には生臭い野郎でも、善人として規定したからには、そのバックボーンなど描く必要はない、というのが作者のスタンスであると思う。しかしそれではこの題材はモノにならないのだ。“戦争は地獄だから怖いのではない。その地獄を天国と感じることが怖いのだ。そういう人間の心理こそが怖いのだ”とは「地獄の黙示録」を観たときの黒澤明の言葉だが、戦争の悲劇を特定の人物を中心として描くには、綿密な心理描写が不可欠である。ところがそんなことをまるで無視したこの映画は失敗作と言っていい。収容所の場面、ゲットーの場面、見せ場を満載しながら単なる“記号”としての印象しか持てないのはそのためである。

 数々の残酷な描写が話題になってたが、ハッキリ言って当事者意識において「プラトーン」には負ける。さらに「ゆきゆきて、神軍」にはもっと負ける。絶望的な暗さにおいて「コルチャック先生」にも、当然それ以外のアンジェイ・ワイダ監督の諸作品(特に「地下水道」)にも及ばない。そしてソ連映画「炎628」の激しさには逆立ちしたってかなわない。

 スピルバーグとしては10年以上あたためた企画であり、彼なりに真剣に撮ったのだろう。作品としてはまるで食い足りない出来だが、世界一メジャーな作家がこういう題材を取り上げたこと自体は大いに評価する。これがきっかけとなって、一人でも多くの観客がこの問題について考えてくれればいいと思った。ただ、この程度ではアカデミー賞は取ってほしくない。文句なしの傑作である「ピアノ・レッスン」を抑えてのオスカー獲得は尚更納得できなかった。
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「ハンサム★スーツ」

2008-11-28 06:35:53 | 映画の感想(は行)

 本作の最大の見どころは、食堂を営む主人公が買い出しを終え、器量はイマイチながら働き者の女性アルバイトと一緒に店に戻るシークエンスだ。彼女の提案で、街を行き交う人々の“幸せそうな表情”をカメラに収めつつ帰宅することになる。すると、それまで個々人にとって単なる“街の風景”でしかなかった通行人たちが、それぞれ哀歓を持った“血の通うキャラクター”へと変貌してしまう。

 考えてみれば当たり前なのだ。人間は記号ではなく皆プライベートな生活があり、日々のちょっとしたことに対して幸福感を覚えつつ生きている。たとえば美味しいものを食べたとき、仕事が上手くいったとき、人から少し親切にされたときetc.たぶん本人たちもそれが特別な“幸福”だとは気付かないはず。しかしそれ無しには絶対生きられない。観る者に“ちょっと立ち止まって周りを見てみよう。人生、そんなに捨てたものではない”とのポジティヴなメッセージを無理なく送る、作者の志の高さ(?)みたいなものが感じられて気持ちが良い。

 さて、以上のような主題のツボとも言えるモチーフをモノにしておけば、あとは内容が荒唐無稽だろうと許せてしまうのだ。着るだけでハンサムになれるスーツを手にした冴えない男がスーパーモデルに変身し、願望を現実のものにするため大騒動を繰り広げるお笑い編も、結局“人間、外見だけではない”という肯定的なスタンスを愚直なまでに貫いている限り、決して悪ふざけにはなっていない。

 塚地武雅の“ハンサム・スーツの着用後”を演じている谷原章介は絶好調。「ラブ★コン」に続いてのおちゃらけキャラクターが完全に板に付いてきたようだ。こういう平面的な二枚目(?)は得てしてスクリーン上に登場すると退屈に感じられがちなのだが、彼はプライドを捨てて三枚目に徹しているあたりが好感度が高い(笑)。

 脇に控える中条きよしや伊武雅刀、温水洋一といった濃い面々が持ち味発揮。ヒロイン役の北川景子は本当にカワイイし、佐田真由美や大島美幸(←儲け役 ^^;)、本上まなみら女優陣も適材適所だ。さらに意外なゲスト連中が意外なところに登場してくるのも楽しい。

 英勉の演出はテンポが良く、独特のカラフルな色彩感覚と書き割りみたいなキッチュな舞台セットのアピール度で、冗長になりそうな部分も巧みに切り抜けている。渡辺美里が歌う「マイ・レボリューション」をはじめとする80年代の流行歌も効果的。エンドロールの終わりまで興趣が尽きない快作だ。
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「マグノリアの花たち」

2008-11-27 06:38:55 | 映画の感想(ま行)
 (原題:Steel Magunolias)89年作品。公開当時は評判を呼んだハーバート・ロス監督作品だが、私はちっとも面白いとは思わなかった。原作はオフ・ブロードウェイの舞台劇。キャスティングはけっこう豪華である。

 まず登場するのが冴えない風貌の若い女、この役をその頃は人気が高かった「愛しのロクサーヌ」や「夜霧のマンハッタン」でおなじみのダリル・ハンナが演じている。彼女は美容学校を卒業したばかりでこれから街の美容院に就職するという設定だ。その美容院の女経営者が「9時から5時まで」などに出てて歌手としても有名なドリー・パートン。彼女の夫がサム・シェパードで、大工なのだが、あまり仕事がなく、文字通りの髪結いの亭主。そしてこの店の常連たちにシャーリー・マクレーン、オリンピア・デュカキス、サリー・フィールドとアカデミー賞候補にいつも名をつらねる女優たちが扮している。

 さらにフィールドの結婚を間近にひかえた娘役が、当時は若手売り出し中だったジュリア・ロバーツ。映画はこの6人の人生模様というよりも、フィールドとロバーツの親子に絞られ、他のキャラクターはこの二人を取り囲む形になっている。

 導入部の美容院のシーンでロバーツが糖尿病の発作を起こすくだりがあるが、もうそれだけで結末がわかってしまうのが興ざめ。それだけでなく、各女優の個性から誰がどんな役でどんな演技をするのか事前に予想がつくし、本編もやっぱりそのとおりだったりするから面白くない。せいぜい美人のダリル・ハンナに不細工なメガネをかけさせるくらいでまるで意外性がない。無礼を承知で言うなら「昼メロ的予定調和」に満ちた作品である。

 物語の舞台になるルイジアナ州の小さな街の風景をカメラは美しくとらえているし、音楽もいいんだけど、なんとも退屈な映画だった。同じ頃に公開された、これも豪華キャストによる家族ドラマ「バックマン家の人々」と比べると、あちらはビビッドな「世代論」として目を見張るものがあったけど、こっちはとりたてて言うほどの内容がない。どうして評論家たちのウケが良かったのかイマイチわからない映画だ。
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「私の恋」

2008-11-26 06:34:22 | 映画の感想(わ行)

 (英題:Love, First )市内某映画館で開催されている“韓流シネマ・フェスティバル2008 ラブ&ヒューマン”なる特集上映の中の一本。はっきり言って全然面白くない。ソウルを舞台に、5組の男女の恋愛模様を描く。とはいってもオムニバス映画ではなく、ひとつのそれぞれのカップルに互いに小さな接点を持たせたまま、ひとつのストーリーの中でエピソードが進んでいく形式だ。ところが、どの話もワザとらしくて臭くて見ていられない。

 ファーストシーンの歯が浮くようなモノローグから始まって、テレビの韓流ドラマみたいな予定調和のメロドラマがダラダラと続くのみ。そして大団円が“皆既日食の日、愛の奇蹟は起きる!”みたいなノリなのだから、観賞後はかなりの脱力感に見舞われてしまった。監督は「青春漫画 ~僕らの恋愛シナリオ~」のイ・ハンなのだが、あの映画のような真摯な姿勢は微塵も窺えない。

 その理由を私なりに考えてみると、これは弱体気味の俳優達に尽きるのではないだろうか。たとえ話が凡庸でもキャストに存在感があれば何とか乗り切れてしまうのだが、本作はヒド過ぎる。感情移入できるキャラクターどころか、ルックスや演技の面でも特筆すべき面子が誰一人登場しないのだ。テレビドラマの通行人みたいな連中が、勝手によろめき話を披露しているだけ。一体いつから韓国映画界は人材が払底してしまったのだろうか。

 考えてみれば韓国の俳優(特に若手)でサマになっているのは、男優では“四天王”クラスとあと数人、女優でもその程度。特に20歳代後半の、以前からよく映画やドラマに出ている連中より下の世代は全く目立っていない。スターの雰囲気を漂わせた俳優陣で内容が垢抜けないシャシンも何とか場を保たせていた韓国映画にとって、非常にヤバい状況なのではないだろうか。

 そういえばこのイベント、数年前までは劇場には入れないほど客が溢れるほどの大盛況だったのが、今回は半分ちょっとの入りだ。ブームは完全に終わり、わずかに残った韓流スターのファンは映画館ではなくビデオか有料放送で満足しているというのが実情だろう。まあ、ひと頃の猫も杓子も韓国映画を輸入していた状況にはピリオドが打たれ、ミニシアターにはそれに相応しい作品ばかりが公開されるようになって、マトモな映画ファンにとっては安堵できる状況になったのは間違いないのだが・・・・(^^;)。
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「スーパー・ハイスクール・ギャング」

2008-11-25 06:29:10 | 映画の感想(さ行)
 94年作品。主人公の高校生は若戸大橋の近くのダルマ船の中に住んでいるのだが、通っている学校は福岡市内の福岡第一高校である。近くにあるという実家は熊本県の黒川温泉の旅館であり、バイト先は大分県の城島高原で、少し自転車を飛ばせば阿蘇に着く。また、近所には鹿児島の吹上浜があり、そこから筑豊のボタ山も見える・・・・。

 このようなほとんど無茶苦茶な地理的設定からして失笑もの。まあ、映画の中での話だし、地元の者だけが観るものでもないからいいんだけどね。これが“九州を拠点に邦画界に旋風を起こす”という地方誘導型のプロジェクトの産物だったのだから、少し考え込んでしまう。

 ともあれ、製作当初は九州発の映画として地元先行ロードショーされた作品である。プロデューサーは「パンツの穴」「熱海殺人事件」などの松本廣。製作は博昇興産という地元の企業グループ。小説家を目指している落ちこぼれ高校生が、幼なじみの少女の“空を飛んでみたい”という一言にノセられて、仲間と一緒に軽飛行機作りに奮闘する話。森脇道の同名小説の映画化で、監督は「いとしのエリー」などの佐藤雅道。

 正直言って、あまり上等ではない映画だ。設定は面白そうだが、演出が圧倒的にヘタ。主人公たちがどうして飛行機作りに邁進するのか、その理由付けが不十分だし、人物描写も表面的でキャラクターが“立って”いない。行きあたりばったりの展開が目立つし、余計な描写も少なくない。一般公募されたキャストは素質はいいんだけど(特にヒロイン役の古賀文絵と不良少年に扮する高市直亮は共に悪くはない)、それが映画自体の面白さにはつながらないもどかしさを感じる。

 もっと実力のある監督を起用できなかったものか。フィルムの質かどうかは知らないが、やたら粗くて暗い画面にも興醒めだ。地方から映画を発信しようというこの企画は大いに結構ながら、その製作意図だけでは評価できないのも当然であろう。
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「ホームレス中学生」

2008-11-24 07:09:07 | 映画の感想(は行)

 理不尽なホームレス生活を強いられる主人公に救いの手を差し伸べる友人と、その家族の描写に感動した。この一家はまったく裕福ではない。狭い市営アパートに6人も押し込められ、それぞれのプライバシーなんかあったものではない。しかし、彼らはそんな状況を恥とも思っていないのだ。

 一見無愛想だが頼りになる一家の主と、世話好きで優しいその妻。子供たちは騒がしいが、ヒネた奴なんか一人もいない。長男の友人とはいえ赤の他人を何のためらいもなく受け入れ、それどころか自活できるまでバックアップしてくれる。おそらくこれが、作者の考える理想の家族像なのだろう。

 対して主人公の家庭は、父親が子供たちの扶養を放り出して勝手に“解散宣言”してしまうハプニングよりずっと以前に、母親が死んだことによって“崩壊”している。そして最後まで父親を交えた家族が復活することはない。

 もちろん、片親だけになった家庭がすべて“崩壊”するわけではない。立派にやっている家族だって大勢いる。ただしそれには、欠けた一方の親の役割をもう片方(あるいは子供)がカバーしてやることが必須条件だ。主人公の家庭はどうしても“母親の不在”を埋めることが出来ない。子供たちは前向きに生きてはいるが、最終的に帰属できる“家”を自分らで持てなくなった感傷が観る者の胸に迫る。家族というのは堅固なようで、実はもろい。それだけに掛け替えのないものだという当たり前のことを真摯に提示してくれる本作のスタンスは納得できるものだ。

 青春映画の名手として知られる古厩智之監督は、前作「奈緒子」では長大な原作を無理に圧縮したような作劇の不手際が目立ったが、今回の田村裕による原作はコンパクトで映画化するのには丁度良かったらしく、破綻のない仕事ぶりを見せる。

 主演の小池徹平は中学生を演じるには年齢面で厳しいかと思えたが、なかなか健闘していて見ているうちに気にならなくなる。マジメな長男役の西野亮廣、ダメな父親を飄々と演じるイッセー尾形、民生委員役のいしだあゆみ、そしてくだんの友人の両親に扮する宇崎竜童と田中裕子など、脇も的確である。また長女の池脇千鶴は20代後半にもかかわらず堂々と女子高生を演じていて、しかもそれがサマになっているのがコワい(爆)。シビアな話にもかかわらず大阪らしい人情味と楽天的な雰囲気が横溢し、観賞後の味わいは格別である。
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最新素材のケーブルをチェックしてみた。

2008-11-23 06:43:32 | プア・オーディオへの招待

 どうも酒が入ったまま家電店をうろつくとロクなことがない。酩酊状態で思わぬ買い物をしてしまうことがあるからだ(笑)。先日、珍しく仕事を定時に終えた後、ちょっとした飲み会が終わって時計を見ると、まだ家電店が開いている時間帯。少し覗くつもりだったはずが、帰宅して気付いてみるとRCAケーブルのパッケージが入った手提げ袋を片手に持っていた。しかも満員電車で揉まれたらしく箱はグチョグチョ状態。しかし中身は異常がないようなので一安心・・・・とは当然いかない。吟味しないで買うのは割りの悪い博打みたいなものだ。果たしてどんなクォリティの代物を買ってしまったのか。それを確かめるべく週末に実装してみた。

 購入したのはOYAIDE(オヤイデ)ACROSS 750 RRという製品だ。同社は我が国のオーディオアクセサリーのメーカー。ケーブル・電源関係が充実していて、一昨年に買った電源タップがやはりOYAIDE製だったが、それについては特別な感想はない。普通の安心品質だ。同社のRCAケーブルを調達するのは初めてである。

 このケーブルの導体はPCOCC-Aと呼ばれる特殊素材で出来ている。PCOCCとは「単一方向性結晶無酸素銅線」のことで、結晶体を大きくして電気抵抗を減らそうというアプローチで20年前ぐらいからオーディオ製品に応用されている。本製品さらにそれに高度な加熱・冷却の温度コントロールを施し、導体の鏡面仕上げを行うことにより電導効率をアップさせたものらしい。さらにケーブル内部は十字絶縁構造なる凝った仕様で、プラグ部分は高品質の真鍮、各接点部分はロジウムメッキ仕上げだ。私の手持ちのケーブルの素材がせいぜいOFC(無酸素銅)レベルの安価なものなのに対し、これには最新技術がふんだんに投入されている。それにしては価格は1万数千円と、酔った勢いで買ったにしてはリーズナブルなプライスだったので、ホッと胸をなで下ろす私なのであった(爆)。

 さっそく音を出してみる。まず分かるのは音の奥行きが大きくなったことだ。私が使っているKEFのiQ3というスピーカーは音場の前後感はあまりないが、それでもステージの奥まで何とか見えるようになったのは大したものである。それに各楽器の定位がハッキリとしてきた。高域も伸びが良い。全体的にスーッと抜けるような、整然とした音の組み立てが気持ちいい展開である。

 スピーカーケーブルとの相性は、私が所有しているものでは以前紹介した英国QED社のSILVER MICROがベストフィットだった。それまで使っていたCHORD社のCRIMSONというRCAケーブルがQEDと合うと思っていたが、ACROSS 750 RRはその上を行く。清涼な音場は一つの“様式美”さえ感じさせる。この価格でこの品質はコストパフォーマンスは高いと言って良いだろう。

 しかし、それでも我が家のリファレンスであるMOGAMIのNEGLEX 2534を使ったRCAケーブルと、Beldenのスピーカーケーブル8460とのコンビネーションには敵わない。確かにACROSS 750 RRはベストバイ商品だが、このサウンドはオーディオファン向けである。音像の定位と音場展開はオーディオ好きが喜ぶようなアピール度には違いない。ただしそれは“作られたもの”なのだ。例えて言うならば、無理矢理に音像を再構築して気持ちよく聴かせてしまう作戦を取っている。対してMOGAMIとBeldenは業務用らしく“素のまま”のフラット指向だ。私は色を付けていないケーブルの方が断然好きである。何というか、安心して聴けるのだ。たとえACROSS 750 RRのような特定帯域の強調感が無く全域に渡ってオーディオ的快感をもたらすような性格の製品であっても、そこには“色付け”があることには間違いない。ケーブルに色が乗ってしまえば、必ず聴きづらいソフトが出てくる。それを危惧するより業務用ケーブルでフラットに攻めた方がリスナーとしては気苦労がないのだ。よって音楽ファンならば業務用ケーブルをチョイスすることが賢明である・・・・という結論もあり得よう。

 もちろん、せっかく手に入れたACROSS 750 RRをお蔵入りにする気はない。時折は気分を変えるためにQEDのスピーカーケーブルと共に実装することもある。ただし、リファレンスとして常時は使わない。個人的に“ケーブルはクセの少ない製品が一番手であるべきだ”と思う。その意味では業務用が私にとっての適合品であったのだ(^^;)。
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「石内尋常高等小学校 花は散れども」

2008-11-08 06:34:01 | 映画の感想(あ行)

 新藤兼人監督の“枯淡の境地”が垣間見える一本。すでに96歳になり、いまだ映画を撮っていること自体が不思議に思えるこの巨匠の新作は、立派なコメディであった。

 広島県・石内尋常高等小学校で、全身全霊で生徒と向き合う担任の教師と個性豊かな生徒達との触れ合いを描く序盤からして、キャストの大仰な演技とオフビートな展開で笑わせてくれる。30年後の同窓会で集まる元生徒達は、それぞれ年齢がバラバラだ。自身をモデルにしていると思われる元学級委員で今は脚本家の主人公と、彼に想いを寄せていた女生徒で今は料亭の女将との逢瀬は、クサい芝居を笑いに昇華させたような爽快感が漂う。果ては脳梗塞で倒れた件の教師を看病する妻は、白髪こそ目立つが顔は若いまんまである(爆)。

 通常ならばそれらの不手際を指弾するところだが、この監督の手にかかれば、すべて許してしまいたくなる。おそらく、新藤監督の頭の中では同窓生の年代がまちまちであっても全く意に介さないのであろう。昔のクラスメートとの“よろめきドラマ”も勝手な願望。いつまでも若い教師の妻は、作者が“こうあって欲しい”と思った結果に過ぎない。

 前の「三文役者」と同様、物理的な整合性を飄々とねじ曲げて、それでも映画的興趣を失わないこの超ベテラン監督の“余裕”が全編にみなぎっている。また、このライト感覚溢れる作劇の中にフッと挿入される戦争の悲惨さを示すエピソードも、それゆえ強く印象に残るのである。

 教師役の柄本明は絶好調。前半の、無鉄砲さで騒動を引き起こす闊達さから、老齢になってからの枯れ具合まで実に楽しそうに演じている。同窓生の中では飛び抜けて若くてルックスが良い(とされる)主人公には豊川悦司が扮していて、ここも作者の勝手な願望かと思い苦笑してしまった。彼と大竹しのぶとのワザとらしい芝居は他の映画で見せられるとブーイングの嵐だろうが、いわばファンタジーの世界である本作では違和感はあまりない。

 そして大杉漣は「エクステ」での怪演を思い出すようなヤンチャぶり。悲惨な役柄なのだが、世俗を突き抜けたような明るさが感じられるのは(監督の演技指導もあるのだろうが)サスガと言うしかない。六平直政や川上麻衣子などの脇のキャストも申し分ない。

 さて、自伝のシリアスな面を“部下”の山本保博監督が撮った「陸(おか)に上った軍艦」に託し、コミカルなテイストをこの映画で表現した新藤監督のフィルモグラフィはここで大団円になるのだろうか。私としてはもう一本、「北斎漫画」みたいな娯楽作をキメてもらいたいと思う。
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「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」

2008-11-07 06:27:01 | 映画の感想(ま行)
 (原題:My Big Fat Greek Wedding)。2002年作品。とても楽しい映画だ。ギリシャ系の舞台女優ニア・ヴァルダロスが自身の結婚体験などを元に執筆した戯曲の映画化で、展開は御都合主義そのもの。上手い具合にハンサムな典型的アメリカ白人(ジョン・コーベット)の結婚相手と出会い、またその彼が都合良くギリシャ正教に改宗してくれたりする。しかも、たとえばヒロインに横恋慕していた野郎が登場する・・・・というようなトラブルは何も発生しない。

 こういう“ドラマティックな展開が皆無”であるこの映画が面白いのは、ハッピーな結婚をしたヒロインとそれを心の底から祝福する周囲の人々の善意と幸福感がスクリーンを通して観ている側にストレートに伝わってくるからだ。そしてこの作品がアメリカで大ヒットしたことも十分納得できる。WASP等の社会的マジョリティがマイノリティ文化と接触し、固有の習慣・生き方を理解して共存する。ここに観客は“多民族社会の理想形”を見たのだろう。

 そしてギリシャ系住民の濃厚な人間関係は、時として鬱陶しさを覚えるものの、孤独とは最も遠い地点にある。親族全員が見守ってくれるという安心感はシビアな生活を送るアメリカの都会人にとって一種得難いものであろう。それを象徴しているのが婚礼のシーンで、両親と同僚だけという寂しい出席者の新郎側に対し、新婦側には山のような参列者が押し寄せる。新郎側はそれを羨ましく見つめるだけだ。ドライでスマートな人間関係を気取るより、賑やかで開けっぴろげな沢山の人々の間でワーワー言いながら暮らす方が(もちろん現実は甘くないが)数段幸せだ・・・・この映画が言いたいのはこれである。

 こういったポジティヴなスタンスをバックアップするジョエル・ズウィックの演出も快調だ。それにしても、来客があると寄ってたかって御馳走攻勢や酒攻勢を仕掛けるギリシャ系のパワーには圧倒させられる。マトモに付き合うとこちらも10キロは太りそうである(笑)。
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