元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「蜜蜂と遠雷」

2019-10-28 06:30:37 | 映画の感想(ま行)
 企画および製作側には、クラシック音楽を理解していない者、それどころかロクに聴いたことも無い者が多数派を占めるのではないか。そう感じるほど、この映画はサマになっていない。もとより日本映画は音楽を題材に扱うことは不得手であり、ましてや筋書きや段取りの吟味や練り上げを怠ったまま、原作が有名であるという理由だけでゴーサインを出したと思しき状況では、良い映画が出来るはずもないのだ。

 3年に一度開催される、若手の登竜門とされる国際ピアノコンクールを舞台に、トップを目指す4人の男女の挑戦と成長を描く。著名なコンクールの制覇を目指す参加者は、間違いなく天才クラスであるはずだ。本作でも映画の中では主人公達は周囲から天才と呼ばれている。しかし、いずれも劇中では一度も天才らしい輝きを見せることは無いし、天賦の才能を授かったからこそ陥る苦悩や屈託を示すことも無い。単に、普通の俳優がピアノが弾けるキャラクターを演じたというレベルに留まっている。



 加えて、演奏シーンの酷さは目を覆うばかりだ。どの演者も、音楽に没入していない。つまりは全然スイングしていないのだ。本番では俳優が直接鍵盤を叩く場面も見当たらず、それどころか、音源と身体の動きが合っていないショットも散見される。コンクールの式次第に関しても噴飯物で、審査員がコンクール中に寝ていたり、パンを頬張っていたり、挙句の果ては隣りの者と私語を交わすなど、絶対にありえない。ステージマネージャーが“今からカデンツァに入る”と関係者に連絡するなど、ナンセンスの極みだ。ピアニストがオーケストラの楽器の位置を独断で動かすというケースも、まるで考えられない。

 松岡茉優に松坂桃李、森崎ウィン、鈴鹿央士といった主要キャストは、とてもピアノが弾けるようには見えない。鹿賀丈史が演じるキャラクターが世界的な指揮者とは思えないし、斉藤由貴が審査委員というのはタチの悪い冗談だし、ブルゾンちえみや片桐はいりが出てくる場面に至っては、明らかに観客をバカにしている。

 デビュー作「愚行録」(2017年)で卓越した映像センスを見せた石川慶の演出は、本作ではびっくりするほど凡庸だ。テンポが冗長であるばかりではなく、得意のヴィジュアル処理も不発。特にヒロインの心象風景はイマジネーションが不足しており、J-POPのMVにも及ばない。水に濡れた黒い馬が幾度も登場するのも意味不明(ひょっとして、音楽用語“ギャロップ”の暗喩か?)。

 何しろ“蜜蜂”も“遠雷”も、きちんとモチーフとして提示していない有様だ。原作は読んでいないが、かなりの長編であり、映画で不満に思えたことが詳説されているのかもしれないが、いずれにしても生半可なスタンスで映画化できるものではないことは確かである。

 なお、手練れの映画ファンならば、本作はアメリカ映画「コンペティション」(80年)を意識していることを見抜くだろう。舞台設定はもちろん、ヒロインの演目がプロコフィエフの3番であることも共通している。だが、ヴォルテージは圧倒的に「コンペティション」の方が高い。これはスタッフやキャストの質以前に、音楽(特にクラシック)に対する認識が邦画と欧米作品とでは懸け離れていることが大きな要因だろう。

 たとえばカーステン・シェリダン監督の「奇跡のシンフォニー」(2007年)では、本作で説明的なセリフと舌足らずの映像で何とか表現しようとしている事柄を、ファースト・ショットで全てクリアしてしまう。果たして、日本映画がこのような芸当が出来るようになるのに、今後どの程度の年月を要するのだろうか(暗然)。
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「ホテル・ムンバイ」

2019-10-27 06:57:31 | 映画の感想(は行)
 (原題:HOTEL MUMBAI)目を見張る力作で、終始圧倒されっぱなしだった。この臨場感、この迫真性、まるで観ている側がテロリズムがもたらす修羅場に放り込まれたような、尋常ではない映像体験を強いる。そのへんのホラー映画よりも数倍怖く、並のアクション映画よりも数十倍スリリングだ。本年度の外国映画の収穫である。

 2008年11月26日、パキスタンに拠点を置くテロ組織がインドのムンバイに送り込んだ実働部隊が同時多発テロを引き起こす。現場の一つであるタージマハル・ホテルには、約500人もの宿泊客が閉じ込められていた。警察は役に立たず、軍の特殊部隊が到着するのは数日後だ。給仕係のアルジュンや料理長をはじめとするホテル従業員は、何とか宿泊客を守ろうと決死の覚悟でテロリスト達と対峙する。



 とにかく、相手が女子供だろうと何の躊躇もなく銃口を向けるテロリストの冷血ぶりに慄然とする。こいつらは活劇映画に出てくる悪者どもとは、まるで違う存在だ。ドラマの登場人物として作られたキャラクターではなく、恐ろしいほどのリアリズムを持った殺戮マシーンである。感情の読めない存在がスクリーン上を跳梁跋扈することにより、筋書きも通常のフィクションとはまるで違う展開を見せる。

 宿泊客の中には著名なアメリカ人や、傍若無人なロシアの実業家、医療関係者などがいて、当然それらのプロフィールを活かした見せ場があると思っていたら、その予想はほとんどが外れる。まさに、誰が殺されるか分からない、先が見通せない状態のまま手探りで地獄のようなサバイバル劇に放り込まれるホテルのスタッフ及び宿泊客の目線と、観客の視点が完全に一致。まさに息苦しいほどの状況を演出する。

 また、キャラクター設定も見事だ。実直さが目を引くアルジュンはシーク教徒で、アメリカ人と結婚したインド人女性はイスラム教徒であるという前提が、後半の筋書きにダイレクトに反映する。非情なテロリストが唯一人間らしい表情を見せる瞬間のインパクトも、終盤に繋がっている。この脚本は実に上手い。監督アンソニー・マラスはこれがデビュー作ということだが、どこかの巨匠みたいな上質な仕事ぶりで、ただただ驚くしかない。

 デヴ・パテルにアーミー・ハマー、ナザニン・ボニアディ、ティルダ・コブハム・ハーヴェイらのキャストに関しても言うこと無し。とにかく、底なしの恐怖と、それに立ち向かう人間達の高潔さが活写された、第一級の作品であることは論を待たない。そして、タージマハル・ホテルは惨禍から立ち直って今でも営業中という事実も、胸を打たれるものがある。
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「帰れない二人」

2019-10-26 06:52:35 | 映画の感想(か行)

 (英題:ASH IS PUREST WHITE )かつて注目作を放ったジャ・ジャンクー監督も、昨今はネタ切れのようだ。前作「山河ノスタルジア」(2015年)では冴えない題材を小手先の映像ギミックで糊塗しようとしたが(もっとも、そのことを本人は自覚はしていないと思われる)、この映画は本来のスタイルに立ち返ったものの、何ら新しい提案が成されていない。正直、長い上映時間が辛く感じた。

 2001年、山西省の大同に暮らすチャオは、街の顔役であるヤクザ者のビンと付き合っていた。ある日、敵対する勢力が放ったチンピラ連中にビンが襲われ、チャオは助けようとしてビンから預かっていた拳銃を威嚇発砲する。銃器不法所持の罪を被ったチャオは、懲役5年の判決を言い渡される。2006年に出所した彼女は、音信不通だったビンを探して長江の沿岸にある奉節に赴くが、彼は取引先の女と懇ろな仲になっていた。居場所が無くなったチャオは、新疆ウイグル自地区まで傷心の旅に出る。

 開巻からチャオが逮捕されるまでが、意味も無く長い。この間、筋書きが面白いわけでも、直截的な恋愛の描写があるわけでも、映像に見どころがあるわけでもなく、ただ漫然と画面が流れてゆくだけだ。そしてチャオが足を運ぶ奉節の奇観は目を引くが、これはこの監督が過去作品でも紹介していたモチーフなので、何ら驚きは無い。夜空にUFOが飛ぶ等の奇を衒ったシーンも、以前の作品の二番煎じである。

 ヒロインが旅の途中で出会う者達も、少しも印象に残らないし、出てくる意味も掴めない。後半、チャオがどうしてビンと再会したのか、どうやって大同に戻ったのか、それも説明されていない。また、終盤はいつの間にか時代設定が2017年になっているが、そこに至るプロセスが描かれていない。そもそも、チャオを映すパートが多い割に、彼女のプロフィールや性格が示されていない。これで登場人物に感情移入しろと言われても、無理な注文だ。

 かと思えば、21世紀に入ってからの中国社会の変節に関する描写も不十分だ。せいぜい奉節が三峡ダム建設に伴う水没地帯であったため、大規模な住民移動が実施されたという事実を紹介する程度。主役のチャオ・タオとリャオ・ファンの演技は、可もなく不可も無し。脇のキャラクターを演じる俳優達にも、目立った者は見当たらず。それにしても、この邦題は何とかならなかったのか。作品の内容を暗示しているわけでもなく、それ以前に井上陽水のナンバーと一緒ではないか(笑)。
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「太陽の年」

2019-10-25 06:46:52 | 映画の感想(た行)
 (英題:YEAR OF THE QUIET SUN )84年作品。第41回ヴェネツィア国際映画祭で大賞を獲得しているが、主要アワードの受賞作が良作とは限らないというのは、映画ファンの間では定説(?)である。ところが本作は、大半の観客がその優れた内容を認識出来るという、希有な存在だ。80年代以降のポーランド映画としても、大きな業績であると思う。

 1946年のポーランド。戦争で夫を亡くし、老いた母と一緒に暮らすエミリアは、先の見えない毎日に疲れ果てていた。ある日、彼女は戦争の後遺症に悩むアメリカ兵ノーマンと出会う。同じ心に傷を負う者同士、惹かれ合うのにはそう時間はかからなかった。2人は結婚することを決めるが、エミリアは裁判所による夫の死亡宣告がない限り再婚できない立場だ。それでもノーマンはいつまでも待つと言ってくれる。だが、母との関係により、彼女は国を離れない選択を下す。そのことを知らないノーマンは、エミリアに誘われるまま別れのダンスを踊るのだった。



 とにかく、終戦直後の物理的・精神的荒廃の描写が鮮烈だ。街は破壊され、犯罪は日常茶飯事である。物言わぬ死体が次々と発掘されても、人々は感傷に浸る余裕すら無い。ノーマンは捕虜収容所で辛い目に遭い、そのトラウマから逃れられない。エミリアの隣に住む主婦は、生活のために毎夜男を誘い入れている。

 印象的なのは、エミリアが描く太陽の絵である。そこに描かれている太陽は明るく輝いておらず、真っ黒に塗り潰されている。逆境にありながらも、心の奥底では事態が好転することを祈っている主人公達の心情を、見事にあらわしていると言えよう。

 終盤、時制は現代に飛び、修道院の老人ホームで暮らすエミリアの姿を映し出す。そして、ラストの処理は見事だ。おそらく、私が今まで観てきた映画の中でベストテンに入るほどの幕切れであり、忘れがたい印象を残す。クシシュトフ・ザヌーシの演出は堅牢で、少しも淀むことが無い。主演のマヤ・コモロフスカとスコット・ウィルソンの演技は秀逸。スワヴォミール・イジャックによる撮影と、ヴォイチェフ・キラールの音楽がドラマを盛り上げる。
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「惡の華」

2019-10-21 06:32:26 | 映画の感想(あ行)

 思春期の葛藤や苦悩を露悪的にさらけ出し、それをスラップスティック風味でエンタテインメントに昇華させようという作戦のようだが、大して上手くいっているとは思えない。しかし、見逃せないモチーフがあり、結果としてスクリーンから目が離せなかった。ひとつの長所が低調な映画を大幅に底上げしてくれるケースもあるのだ。

 北関東の地方都市に住む中学2年生の春日高男は、ボードレールの詩集「悪の華」を愛読しつつ、“自分はこんなもんじゃない”という自意識を持て余して面白くもない毎日を送っていた。ある日の放課後、誰も居ない教室で憧れていた佐伯奈々子の体操着が放置されているのを目にした高男は、思わずブルマの匂いを嗅いでしまう。

 ところが、そのヤバい光景をクラスの問題児である仲村佐和が目撃。弱みを握られた高男は、佐和と理不尽な“主従関係”を結ぶハメになる。佐和の要求は徹底してサディスティックだったが、佐和からの“指令”で奈々子とデートさせられた際に、意外にも奈々子が高男のことを憎からず思っていたことが判明。佐和との関係との板挟みになり、高男の悩みは深まるばかりだった。

 訳も分からずに苦しんだり、粗暴になったり、狂騒的になったりと、思春期の“生理”というのはとにかくグチャグチャだ。だが、映画としてそれを扱うには一方で確固とした基準が必要である。それは、道徳的規範あるいはそれを体現している“大人”の存在だが、本作にはそれが無い。

 高男と佐和だけではなく、一見清純そうな奈々子や、高男が高校進学後に知り合う常磐文もマトモではないと分かった時点で、ドラマは“何でもあり”の状態になり、話は説得力を欠く絵空事の次元に移行してしまう。井口昇の演出は混迷の度を増すばかりのドラマを整理出来ず、最後まで要領を得ない仕事ぶりだ。しかし、冒頭に述べた“見逃せないモチーフ”によって映画としての求心力は全く衰えない。それは佐和を演じる玉城ティナのパフォーマンスだ。

 伊藤健太郎や秋田汐梨、飯豊まりえといった他の主要キャストが“一般人が変態を演じている”というレベルに留まっているのに対し、玉城は完全に頭のネジが飛んでいる“変態そのもの”である。特に高男と奈々子のデートをストーキングする様子は、まるで魔女だ(笑)。今後は果たして普通の役が演じられるのかという危惧はあるが、取り敢えずは世界に冠たる若手変態女優として精進して欲しい(注:これはホメているのだ)。早坂伸の撮影は及第点。福田裕彦の音楽、そしてリーガルリリーによる主題歌も悪くない。
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「宮本から君へ」

2019-10-20 06:32:28 | 映画の感想(ま行)
 たまらなく不愉快な映画である。本年度のワーストワンの有力候補だ。現時点でこのような“非・スマート”な内容のシャシンが作られたことに対し、呆れるのを通り越して危機感さえ抱いてしまった。しかも、本来は芸達者であるはずのキャストを揃えてこの有様。原作が有名コミックだか何だか知らないが、これは企画段階で製作を取り止めて当然のネタだと思う。

 文具メーカーに勤める宮本浩は、年上の中野靖子と恋仲だ。彼女のアパートに押し掛けてきた元カレにも、キッパリと靖子との交際を宣言する。ある晩、取引先の飲み会に靖子を連れて行った際、浩は泥酔して先方の幹部の息子である拓馬に靖子の家まで送ってもらう。ところが、浩が寝入った後に靖子は拓馬にレイプされる。翌朝それを知った浩は激高して拓馬に殴りかかるが、あっさりと返り討ちに遭う。このままでは男の面子が立たない浩は、密かにトレーニングを積んでリベンジを誓う。



 まず、レイプは犯罪である。だから、主人公たちはまず合法的な手段で相手を追い詰めるべきだ。暴力に訴えるのは、最終手段である。しかも、拓馬は元ラグビー選手。武術の心得も無い浩が正面からぶつかって勝てるはずもない。とにかく相手にダメージを与えたいのならば、いくらでも(卑怯な)手段が考えられよう。そして、拓馬との“再戦”に至ってはシチュエーションと段取りが無理筋の極みだ。不良学生同士のケンカでも、ああいうバカなマネはしない。

 浩と靖子はどんなに互いを思い遣っているかを示すように、絶えず怒鳴り合っている。その有様は常軌を逸しており、常人から見れば異様な光景でしかない。反面、どうして浩は靖子のことが好きなのか、映画は全然説明しない。“好きだ!”と叫べばそれで事足りるとでも思っているのだろうか。まったく、考えが足りない。

 監督の真利子哲也の前作「ディストラクション・ベイビーズ」(2016年)がどうして納得出来る内容だったのかというと、劇中で暴力を振るう連中は無頼漢ばかりであり、映画全体がカタギの世界と一線を引いていたからだ。それに比べて本作は、登場人物は皆ちゃんとした社会人であり、シャバの掟から逃れられない立場である。法律も社会的規範もスルーして暴力に明け暮れるわけにはいかない。

 そんな構図に正当性を持たせようとするなら、それなりの前提が必要だが、この映画には皆無だ。浮き世離れしたバイオレンスシーンと絶叫芝居の連続で、観ていて完全に疲れてしまった。また、時制をランダムに配置するのも鬱陶しいだけだ。

 池松壮亮に蒼井優、井浦新、柄本時生、ピエール瀧、佐藤二朗、螢雪次朗、松山ケンイチと顔ぷれは豪華だが、内容が斯くの如しでは、本当にもったいない。さらに言えば、池松と蒼井のベッドシーンは全然キレイでもエロティックでもなく、平板で退屈。省略しても一向に構わない。
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「ジャスティス」

2019-10-19 06:32:59 | 映画の感想(さ行)
 (原題:...And Justice for all)79年作品。一応は社会派と呼ばれるノーマン・ジュイソン監督作で、舞台も時事ネタらしく法曹界になってはいるが、ブラックな笑劇仕立ての法廷物という、かなりの“変化球”である。まあ、この作家の守備範囲の広さを確認出来るし、キャストの熱演もあるので、見応えはあると言えよう。

 ボルチモアに住む弁護士アーサー・カークランドは、曲がったことが大嫌いな熱血漢。だが、しばしば暴走してトラブルを引き起こしていた。彼はジェフという若者が軽微な罪で逮捕された事件と、性的マイノリティである黒人ラルフが強盗の一味として告訴されている事件、この2つの案件を抱えている。そんなある日、アーサーと対立している高圧的なフレミング判事が婦女暴行罪で告訴される。そして何と、アーサーを弁護人として指名したのだ。渋るアーサーだったが、ジェフの保釈を条件に嫌々ながら引き受ける。ところが、この一件はアーサーを窮地に陥れようという判事側の策略だった。



 とにかく、裁判所を取り巻く連中の奇々怪々ぶりには呆れつつも笑ってしまう。フレミングは極端な権威主義者で、レイフォード判事は自殺志願。被告人の連中も変わった奴ばかり。同僚のジェイは情緒不安定。アーサーの大仰な言動も気にならないほどだ(笑)。

 後半にはフレミングの悪巧みは露見するが、それでも主人公は弁護しなければならない。職務と真実の板挟みになって身悶えするアーサーの姿は、法律家としてのディレンマを活写して興味深い。ギリギリの逡巡の果てに、主人公は大詰めの法廷で勝負に出る。これはかなりの見せ場になるのだが、ハリウッドの伝統的な裁判劇にあったスカッとした解決とは一味も二味も違う。伏魔殿としての法曹界を痛烈に皮肉っていて、その意味では訴求力が高い。

 主演のアル・パチーノのパフォーマンスは圧巻で、理性が吹っ飛ぶ寸前のアーサーの危うい内面を見事に表現している。ジャック・ウォーデンやジョン・フォーサイス、リー・ストラスバーグといった重厚感のあるベテランを配しているところも良い。ヒロイン役のクリスティン・ラーティも魅力的だ。ヴィクター・J・ケンパーによる撮影とデーヴ・グルーシンの音楽は好調。シニカルなラストと共に、異色のリーガル・スリラーとして記憶に残る一編だ。
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「ハミングバード・プロジェクト 0.001秒の男たち」

2019-10-18 06:28:57 | 映画の感想(は行)

 (原題:THE HUMMINGBIRD PROJECT )題材は面白そうだが、話の組み立て方が上手くない。実話を基にしているというのなら、その実話自体があまりスマートではないと結論付けられるのではないか。本筋とは関係のないモチーフが挿入されているのも、あまり愉快になれない。本国では批評家からの評価は平凡なものに留まっているらしいが、それも頷ける。

 2008年、リーマン・ショック後の政府の規制強化により、アメリカでは各金融機関はハイリスク・ハイリターンの投資に専念することが難しくなった。一方で超高速で株や債券の取引を実行させる高頻度取引が台頭。投資会社に勤めていたヴィンセント・ザレスキと従兄弟のアントンは、カンザス州にあるデータセンターとニューヨーク証券取引所の間を直線距離で最新の光ファイバーを敷設することにより、従来より0.001秒早い売買が可能となることを思い付き、退職して新会社を立ち上げる。

 大手スポンサーも見つかり、事業は順調に進むものと思われたが、元の会社の幹部による妨害工作や、土地買収の不調などにより、予定通りの進捗が難しくなってくる。さらにヴィンセントが病に倒れ、計画の実現性自体が不透明になる始末だ。

 工事予定地域には名義不明の土地や、施工が著しく制限される国立公園のエリアがあることは、事前に調べればすぐに分かるはずだ。そういう重要事項を棚上げしたまま見切り発車式に工事を始め、いざトラブルに直面してから大騒ぎするというのは、どう考えても頭が良いとは言えない。そもそも、通信速度を0.001秒短縮出来るという確証が得られないまま事業を始めるというのは、まさに噴飯ものだ。

 これではドラマは盛り上がらないと思ったのか、アーミッシュの居留区を登場させたり、主人公たちの出自を強調したりと、環境問題や人種差別問題を織り交ぜて話に奥行きを持たせようとしているが、いずれも取って付けたようで不発に終わっている。金融システムに関する説明も不十分なまま、ラストで悟りきったようなポーズを見せられても、観る側は脱力するばかりだ。

 キム・グエンの演出は平板で、盛り上がりに欠ける。ただ、キャストは健闘している。ジェシー・アイゼンバーグは口八丁手八丁のベンチャー企業家を上手く演じているし、敵役のサルマ・ハエックも憎々しくてよろしい。そして圧巻なのは、アントンに扮したアレキサンダー・スカルスガルドだ。猫背で禿げ頭の、いかにも神経質なオタク野郎が「ターザン:REBORN」(2016年)での颯爽とした二枚目ヒーローと同一人物とは思えない。役柄の広さを見せたことは、今後の仕事にプラスになることは必至だろう。
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「人間失格 太宰治と3人の女たち」

2019-10-14 06:48:37 | 映画の感想(な行)
 要するに、中身の無い映画だ。いや、そもそも監督が蜷川実花である。中身の詰まった映画を期待する方がおかしい。本作を観た理由は、太宰治と最後に心中する相手に扮した二階堂ふみのパフォーマンスを堪能するためであり、その“目的”はクリアすることは出来た(笑)。それ以外は、本当にどうでもいい。

 流行作家の太宰治は、妻子がありながらヨソの女と幾度も懇ろになり、自殺未遂まで繰り返す始末だった。昭和22年、歌人の太田静子と深い仲になり、彼女の日記をモチーフにして「斜陽」を書き上げ、大ヒットさせる。同じ頃。太宰は美容師の山崎富栄と知り合い、彼女を愛人兼秘書として扱う。そして昭和23年、彼は富栄と玉川上水で入水する。



 このような題材を扱うにあたって、取り敢えずテーマとして取り上げるべきは作家の私生活と文学とのディープな関係性なのだが、本作にはそんなものは無い。「斜陽」の執筆に関しても、付き合っていた女にネタをもらっただけで、何ら作家性とリンクする部分は見つからない。それどころか、この映画での太宰治は物書きとしての矜持や奥深さを持ち合わせていないように見える。単なる“だらしない男”でしかない。

 妻の美知子は本質的に“耐える女”としての役割しか与えられておらず、静子の描写は薄っぺらい。美和子を演じているのが宮沢りえで静子が沢尻エリカなので、両者の役者としての実力不足も関係しているのだが、それを演出でカバーしようとする様子も無い。主役の小栗旬に至っては、小説家にさえ見えない有様だ。

 そんな中にあって、やっぱり二階堂の存在感は群を抜いている。一見純情だが、実はしたたかに自らの破滅願望を成就する女を見事に表現している。どんなに監督がヘボでも、しっかりと自身のアピールを怠らない姿勢には、いつもながら感心する。

 蜷川の仕事ぶりは相変わらずで、拙いドラマを表面的な“様式美”によって糊塗するだけ。この人は、本質的に映画監督に向いていないと思う。他に成田凌や千葉雄大、瀬戸康史、高良健吾、藤原竜也と悪くない面子を揃えていながら大して効果を上げていないのには脱力するばかりだ。それにしても、本作では「人間失格」が太宰の遺作のように描かれていたが、最後の小説は「グッド・バイ」である。そのあたりに言及していないのも、違和感を拭えない。
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「守護教師」

2019-10-13 06:35:00 | 映画の感想(さ行)

 (英題:ORDINARY PEOPLE )マ・ドンソク演じる強面でマッチョな主人公が体育教師として赴任し、街で頻発する事件を解決するという話だ。当然のことながら、腕っ節を活かして悪い奴らをバッタバッタとなぎ倒す痛快巨編だと誰でも思うし、日本版ポスターでもそういう雰囲気が前面に押し出されている。しかし、主人公が暴れ回るのはほんの数回なのだ。これは“看板に偽りあり”である(苦笑)。

 ボクシングの東洋チャンピオンであったギチョルは、トラブルによって業界を追われ、知り合いの紹介で山間の静かな町で女子校の体育教師になる。勝手が分からない職場で戸惑うことばかりだが、やがて彼は失踪したクラスメイトの行方を捜すユジンと知り合う。学校側は単なる家出として取り合わず、警察に訴えても捜査願さえ受理されない。それどころか、住民全員がこの事件を無視しているような雰囲気だ。やがてユジンが何者かに襲われ、裏に大きな勢力が存在することを察知したギチョルは、不明の生徒の行方を探そうとする。

 原題は“市井の人々”であり、主人公の活劇を窺わせるものではない。これはアクション映画ではなく、ミステリーなのだろう。だが、その御膳立てはあまり上等ではない。この土地は選挙期間中で、政治にまつわる利権が関係しているのか思っていたらその通りであり、行方不明の女生徒が置かれた状況も驚くものではない。政治屋とヤクザが結託して街を牛耳っているという図式や、住民が無関心を決め込んでいるというモチーフもありがちだ。

 展開も意外性は感じられない。イム・ジンスンの演出はまあ水準には達しているが、脚本の出来が良くないので、損をしていると思う。ならばとことんダメな映画なのかというと、そうでもない。これはミステリーものである以上に、アイドル映画なのだろう(笑)。ユジンをに扮するキム・セロンは、かつて有名子役だったが、いつの間にか成長してスクリーン映えする若手女優になっている。ルックス面の訴求力は高く、今後の活躍も期待されよう。そして、舞台になる韓国の地方都市は、日本の昭和時代の田舎町と同じ佇まいであり、見ていてホッとする。
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