元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ゴジラ×コング 新たなる帝国」

2024-05-20 06:07:35 | 映画の感想(か行)
 (原題:GODZILLA x KONG: THE NEW EMPIRE )ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによる、ハリウッド版「モンスターバース」シリーズの通算5作目。今回はいつにも増して人間側のドラマは軽量級だが、ひとたび怪獣どもがバトルロワイヤルを始めると、映画のヴォルテージは爆上がりする。もちろん“キャラクターの内面描写が物足りない”という真っ当な観点から作品を批評するカタギの皆さんは不満だろうが(笑)、子供の頃から怪獣映画に馴染んでいた身からすれば、本当に楽しめるシャシンになっている。

 ゴジラとキングコングがメカゴジラの襲来を死闘の末に駆逐してから数年後、未確認生物特務機関“モナーク”は、地下空洞からの謎の波長の電波信号を感知する。“モナーク”の人類言語学者アイリーンは、ポッドキャストのホストであるバーニーと獣医のトラッパー、そして髑髏島の先住民イーウィス族の少女ジアらと共に地下世界へと向かう。コングは地下空洞で同族と巡り合うが、そこで独裁的に権力を振るうスカーキングの攻撃を受ける。一方、ローマのコロッセオをねぐらにしていたゴジラも新たなバトルの勃発を察知して動き出す。



 人間側の面子はキャラが立っていないし、そこにいるだけで存在感を醸し出すようなキャストも見当たらない。一応、アイリーンの養女でもあるジアの出自に関する話が後半展開するものの、大して面白い内容ではない。そもそも“モナーク”にはもっと貫禄のあるメンバーがいるはずだし、たった数人で帰れる公算も少ないミッションに臨む意味も見出せない。

 しかし、画面の真ん中に怪獣たちが陣取るようになると、そんなことはどうでも良くなる。アメリカ映画であるからキングコング中心のエピソードが目立つのはやむを得ず、コングと同族たちとのやり取りを観ていると「猿の惑星」シリーズを思い出してしまうが(笑)、スカーキングが飼っている冷凍怪獣シーモ(アンギラスに似ている ^^;)が暴れ出したり、見事な造型のモスラが登場してくると興趣は増す一方だ。

 地下世界における無重力状態での戦いはまさにアイデア賞もので、スピーディーかつ先の読めない状況には思わず身を乗り出してしまった。舞台を地上に移してからも、ピラミッドやリオデジャネイロのコパカバーナなどの名所旧跡をバックに、怪獣たちの組んずほぐれつの大立ち回りを存分に見せてくれる。前作に続いての登板になるアダム・ウィンガードの演出は、人間ドラマよりもクリーチャーの扱いに興味があるのが丸分かりだ。

 レベッカ・ホールにブライアン・タイリー・ヘンリー、ダン・スティーヴンス、ケイリー・ホトル、アレックス・ファーンズなどの俳優陣には特筆すべきものは無いが、これはこれでOKだろう。なお、私は映画館で平日夕方からの回を鑑賞したのだが、客席を占めていたのは私と同世代ぐらいのオッサンばかり(大笑)。妙に納得してしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゴッドランド GODLAND」

2024-05-18 06:08:12 | 映画の感想(か行)
 (原題:VANSKABTE LAND)映像の喚起力は素晴らしいものがあるが、肝心の映画の中身は密度が低い。物語の設定自体に無理があるし、加えて主人公の造型が説得力を欠く。撮影には2年が費やされ、たぶんそのプロセスも困難を極めたと思われるが、製作時の苦労の度合いは作品の出来に直接影響しないという定説を再確認することになった。

 19世紀後半のアイスランドに、デンマーク国教会の命を受けて布教の旅に赴いた若い牧師ルーカスは、現地の過酷な自然環境と通じない言語、そして慣れない異文化に直面して疲労困憊する。ようやく目的地の村に到着するものの、住民との確執を克服出来る見通しも立たない。やがて彼は、捨て鉢な行動に出る。



 当初、国教会の指令はアイスランドでキリスト教(ルター派)の布教を進め、それを踏まえて年内に教会を建てろというものだったはずだ。ところが、すでに彼の地では教会は建設中であり、ルーカスはその“開館時の担当者”として行っただけなのである。まったくもってこれは、単なる茶番ではないか。

 また、村の者からは“船で来た方がもっと行程は短くて楽だったはず”と言われてしまう。つまりルーカスは早くて安全なルートをあえて拒否して、わざわざ危険な道を選んだのである。しかも、無理に行程を急いだ挙げ句に通訳を事故死させてしまう。そのおかげで彼は難儀するのだが、かくもバカバカしい筋書きには呆れるしかない。

 村に着いてからのルーカスの奇行と住民たちとの軋轢に関しても、観ている側との心情的な接点が存在せず、どうでもいい感想しか持てない。監督のフリーヌル・パルマソンは脚本も担当しているが、その出来映えをチェックするスタッフはいなかったのだろうか。

 とはいえ、マリア・フォン・ハウスボルフのカメラがとらえたアイスランドの大自然は圧巻だ。絶景に次ぐ絶景で、これが果たして地球上の風景なのだろうかと驚くしかない。四隅が丸い変型のスタンダードサイズの画面も効果的だ。しかし、それしか売り物が無いのならば自然の風景のみを紹介したドキュメンタリーでも良かったわけで、ヘタなドラマをそれに載せる必然性など見出せない。

 主演のエリオット・クロセット・ホーブをはじめ、イングバール・E・シーグルズソン、ヴィクトリア・カルメン・ソンネ、ヤコブ・ローマンなどのキャストは熱演だが、その健闘が報われたとは言い難い。なお、似たような設定のドラマとして、私はローランド・ジョフィ監督の「ミッション」(86年)を思い出した。あれも作劇には幾分無理はあったが、全編を覆う強烈な求心力に感じ入ったものだ。もっとも、あれはカトリックの伝道師の話だったので、プロテスタントの聖職者を主人公とした本作とは勝手が違うのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「壁の向こうのあなた」

2024-05-05 06:08:23 | 映画の感想(か行)
 (原題:PARED CON PARED )2024年4月よりNetflixから配信された、スペイン製のラブコメ編。この手の映画にありがちの、有り得ない設定と現実離れした筋書きが横溢して、そのあたりは苦笑するしかないのだが、どうしても嫌いにはなれない作品だ。それは憎めないキャラクターばかりが出てくること、そして観る者の感情を逆撫でするような苦々しいモチーフが見当たらないことだ。ロマコメとしての立場をわきまえた上で、好感触に徹している。その割り切り方が良い。

 ピアニスト志望のヴァレンティナは、マドリードの下町でアパートを借りて練習に励みつつ、昼はカフェでバイトしながら生活費を工面していた。ところが隣の部屋にいたのが、ほぼ引きこもりの男性ゲームデザイナーのデイヴィッド。しかも、両者を隔てる壁は限りなく薄く、ゲーム用の効果音を作成するための爆音が遠慮会釈無くヴァレンティナの生活を圧迫する。何でもアパートの所有形式がイレギュラーで、2つの部屋は別物件扱いであるため改善工事は不可らしい。ヴァレンティナは閉口しながらも、壁越しにデイヴィッドと話し合いつつ、事態を打開しようとする。



 通常、困った隣人がいたならば直接談判するか不動産屋に掛け合うのが筋なのだが、何かと理由を並べてこの2人が顔を合わせることは無い。また、デイヴィッドが意外と良い奴だと知った彼女が、別の男を彼だと勘違いして仲良くなろうとしたりと、随分と無理な展開が目に付く。しかしながら、この2人はとことん人生に前向きで、彼らを取り巻く面子もナイスなキャラクターばかりだ。

 ヴァレンティナの従姉のカルメンや、カフェの店長シーバス、果ては元カレのオスカーでさえヒロインをサポートする。デイヴィッドにもナチョという頼りになる友人がいて、何かと気に掛けてくれる。それらがまったくワザとらしくなく配置されているので、観ていて気分が良い。物語の最後は、まあ収まるところに収まるのだが、監督のパトリシア・フォントの腕前は手堅く、無理なく話をまとめている。

 ヴァレンティナに扮するアイタナ・オカーニャは人気歌手らしいが、ピアノの腕前はともかく(笑)、終盤に披露する歌声には聴き入ってしまった。とびきりの美人ではないものの、表情が豊かでチャーミングだ。デイヴィッド役のフェルナンド・ワヤールも絵に描いたような好漢。この2人ならば恋仲になってもおかしくないと思わせる。ナタリア・ロドリゲスにアダム・イェジェルスキ、パコ・トウス、ミゲル・アンヘル・ムニョスといった脇のキャストも万全だ。マドリードの明るくカラフルな町並みをとらえた映像も、観ていて楽しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コーラス」

2024-04-26 06:08:20 | 映画の感想(か行)

 (原題:LES CHORISTES )2004年フランス=スイス合作。今では世界的な名声を得た人物が自分自身の少年時代を回想するという導入部は、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」(88年)と似ているが、あれと比べればクサい部分は少なく、随分と平易な作劇である。第77回米アカデミー賞の外国語映画賞と主題歌賞にノミネートもされており、たぶん誰が観ても良さが分かる佳作だ。

 1949年のフランス。失業中だった音楽教師クレマン・マチューは、ピュイドドーム県の田舎町にある寄宿舎“池の底”に職を得ることが出来た。そこは孤児や不良少年ばかりが集められており、しかも校長は平気で体罰をおこなう人間で、学校全体の雰囲気は殺伐としたものだった。マチューは学校の空気を変えるべく、合唱団を結成して子供たちに歌う喜びを教えようとする。そんな中、マチューは学校一の問題児であるピエール・モランジュが素晴らしい歌声の持ち主であることを知る。

 少年たちは誰もが判で押したようにひねくれていて、校長はこれまた判で押したように高圧的。ジェラール・ジュニョ扮する音楽教師も“ほどよく熱血漢”である(笑)。実に分かりやすい作劇だが、いたずらに変化球を狙って結果的にハズしてしまうよりはマシで、賢明な判断かと思う。

 エピソードの積み重ね方は無理がなく、監督クリストフ・バラティエの職人ぶりが発揮されている(聞けば本作が初長編とのことで驚いた)。こういうケレンのない展開の中にいくつか泣かせどころを配置するというスタイルは一番俗受けするのだろう。事実、この映画は本国で大ヒットした。さらに教え子の母親への“淡い恋”に一時身を焦がしつつも、音楽教師としての本分を忘れず生涯を送った主人公の矜持も強い印象を残す。

 ブリュノ・クーレとクリストフ・バラティエによる音楽は万全で、子供たちのパフォーマンスも申し分ない。特にピエールに扮したジャン=バティスト・モニエはリヨンのサン・マルク少年少女合唱団のリードヴォーカリストであり、惚れ惚れするような美声を披露している。なお、冒頭での成長したピエールを演じるのが奇しくも「ニュー・シネマ・パラダイス」にも出ていたジャック・ペランで、製作にも名を連ねているというのは面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゴーストバスターズ フローズン・サマー」

2024-04-20 06:08:03 | 映画の感想(か行)
 (原題:GHOSTBUSTERS:FROZEN EMPIRE)前作「ゴーストバスターズ アフターライフ」(2021年)よりも、出来はかなり落ちる。監督が交代したことが影響していると思われるが、この程度の筋書きで製作のゴーサインを出したプロデューサー側の責任が大きいだろう。とにかく、けっこう期待していただけに残念だ。

 オクラホマ州サマーヴィルでのバトルから2年。スペングラー家の一行はニューヨークに移り住み、ゴーストバスターズとして街に出没するお化けたちへの対処に追われていた。だが、末娘のフィービーはまだ15歳であり、母のキャリーや義父のゲイリーからはメンバーとして扱ってもらえない。



 そんなある日、元祖ゴーストバスターズの一員であったレイモンドが、怪しい男から不可思議な球体を渡される。その物体には、実は強い冷却能力を持つ魔神ガラッカが封印されていたのだ。手下のゴーストたちによって復活を果たしたガラッカは、ニューヨーク中を凍らせるという暴挙に出る。フィービーたちゴーストバスターズは、この危機に敢然と立ち向かう。

 予告編で流された、真夏のニューヨークで海の向こう側から突如として氷柱が大量に現れ、街は一瞬にして氷に覆われてしまうというインパクトのある場面は、当然のことながら映画本編では序盤あるいは前半に出てくるのだろうと思っていた。この怪異現象を受けて、ゴーストバスターズの活躍が始まるという段取りの方が受け入れやすい。

 ところが、実際に作品を観てみるとこのシークエンスはクライマックスに設定されている。何のことはない、予告編の時点で“ネタバレ”をやっているのだ。さらに言えば、このパート以外には見応えのある場面は無い。だからここをフィーチャーせざるを得なかったという、配給会社の苦渋の判断が窺われる(苦笑)。

 ならば序盤から中盤過ぎまでは何が展開するのかといえば、登場人物たちの緊張感の薄い日常と元祖ゴーストバスターズの面々による脱力系の演芸もどきだけ。マシュマロマンの“大量発生”には喜ぶマニアもいるのかもしれないが、こっちは“何を今さら”としか思わない。そして、ニューヨーク凍結のあとに出てくる敵の親玉は、かなりショボい。ゴーストバスターズの攻撃も芸が無く、画面が賑やかなわりには盛り上がりに欠ける。

 前作のジェイソン・ライトマンからメガホンを引き継いだギル・キーナンの腕前はピリッとせず、ドラマは平板に進むのみ。ポール・ラッドにキャリー・クーン、フィン・ウルフハード、マッケンナ・グレイスというバスターズに扮する者たちはあまり仕事をさせてもらえず、ビル・マーレイとダン・エイクロイドといった“昔の顔ぶれ”も、ただ出ているだけ。果たして、本作の続編はあるのだろうか。そういえば80年代の初期シリーズは2本で終わってしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カルテット」

2024-04-14 06:09:55 | 映画の感想(か行)
 (原題:QUARTET )81年イギリス=フランス合作。ジェイムズ・アイヴォリィ監督特有の屈折したデカダンスが、洗練されたタッチで綴られた快作だ。磨き抜かれたエクステリアはもとより、当時の英仏の手練れを集めたキャストの充実ぶりには感服するしかない。なお、どういうわけか日本公開は88年にズレ込んだのだが、その裏事情は不明である。

 1927年、アールデコ時代のパリ。コーラスガールのマリアは夫のステファンと充実した生活を送っていたが、彼が盗品の美術品を所有していたため逮捕される。路頭に迷うことになったい彼女は、芸術家のパトロンである資産家のH・J・ハイドラーとその妻ロイスと知り合い、彼らの家で暮らすようになる。



 ところがこの夫婦はマリアを性生活のアクセントとしか思っておらず、彼女を幽閉同然に引き込んでいるだけだった。やがてステファンは釈放されるが、同時に国外追放処分になる。マリアは再び夫と幕らすために、H・Jのもとを出て行くことを考える。ジーン・リースによる半自伝的な小説の映画化だ。

 マリアの味わう息苦しさが観る者に迫ってくるのだが、彼女が閉じ込められているハイドラーの家は、ジェイムズ・アイヴォリィの映画ではお馴染みの豪奢な美で溢れている。だが、外界に通じる窓は示されずに部屋の中を照らすのは人工的な光だけだ。この退廃的な雰囲気が実に良い。

 ただ他のアイヴォリィの作品と異なるのは、囲われているのが能動的なキャラクターである点だ。しかも、マリアを演じているのがイザベル・アジャーニで、まさに弾け飛んだような個性の持ち主である。ところがここでは、彼女が斯様な存在であるからこそ、この不条理な出口無しの設定がより一層生きてくるという、設定の妙を醸し出している。

 アイヴォリィの演出は冴え渡り、並の作家がやれば底の浅いナンセンス劇になったところを、精緻なエクステリアにより上質な作品に高められている。アジャーニの演技はさすがだ。彼女は本作により第34回カンヌ映画祭で女優賞を獲得している。アラン・ベイツとマギー・スミスのハイドラー夫妻も舌を巻くほどの変態ぶりで(笑)、観ていて飽きることが無い。アンソニー・ヒギンズやヴィルジニー・テヴネといった顔ぶれも万全だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「君たちはどう生きるか」

2024-04-13 06:08:56 | 映画の感想(か行)
 私は宮崎駿はとっくの昔に“終わった”作家だと思っているので、2023年7月に封切られた際も全然観る気は無かった。しかし、先日第96回米アカデミー賞の長編アニメーション映画賞を獲得してしまったので、現在でも上映されていることもあり、一応はチェックしておこうと思った次第。結果、予想通りの不出来だということを確認した(苦笑)。それにしても、どうしてこの程度のシャシンがアメリカで高評価だったのか、理解に苦しむところである。

 時代背景は特定されていないが、たぶん戦時中。母を火事で失った11歳の眞人(マヒト)は父の勝一と共に東京を離れ、和洋折衷の大邸宅である“青鷺屋敷”へと引っ越してくる。勝一は軍事工場を営んでいて羽振りは良い。そんな父の再婚相手の夏子は、亡き母の妹の夏子だった。この状況に納得出来ず苛立つ眞人は、新しい学校では初日からケンカを吹っ掛けられる。孤立して家に引きこもる彼の前に現われたのは、青サギと人間が合体したような怪人サギ男だった。



 タイトルは吉野源三郎による有名な小説からの“引用”だが、中身は似ても似つかない。まったくの別物であるにも関わらず題名だけは拝借するという、この感覚からして愉快になれない。また、共感できるキャラクターは皆無。ゴーマンで愛嬌に欠ける眞人をはじめ、妻を失った後すぐさまその妹と結婚するという無節操な勝一、そんな境遇を嘆いているのかどうか分からないが、とにかく寝込んでしまう夏子など、よくもまあやり切れない人物ばかりを並べられるものだと呆れてしまう。

 サギ男をはじめとする各クリーチャーも、単にグロいだけでアピール度は低い。中には過去の宮崎アニメにも顔を出してきたようなシロモノも散見され、しかも存在価値は希薄。イマジネーションの枯渇だけが印象付けられる。要するに、つまらない登場人物たちが、これまた意味不明の言動を繰り返すだけの、極めて低調なハナシだ。評価する余地は無い。公開前には、音楽は久石譲であること以外は内容もキャスト・スタッフも明かされない宣伝戦略が取られたが、なるほどこの体たらくでは効果的なマーケティングも思い浮かばないだろう。

 眞人の声を担当する山時聡真をはじめ、菅田将暉に柴咲コウ、あいみょん、竹下景子、風吹ジュン、阿川佐和子、大竹しのぶ、國村隼、小林薫、火野正平と、宮崎は相変わらず本職の声優を採用しない。もちろんそれが上手く機能していれば良いのだが、木村佳乃や木村拓哉みたいな演技力がアレな面子もいたりして、作者は一体何に拘泥しているのかと、浮かぶのは疑問符ばかりだ。とにかく、今後は宮崎駿の映画は(いかに有名アワードを獲得しようとも)敬遠するに限ると決心した今日この頃である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「海潮音」

2024-04-08 06:08:27 | 映画の感想(か行)

 80年作品。60年代から80年代にかけて活躍した先鋭的な映画会社、ATG(日本アート・シアター・ギルド)の製作による。この会社の全盛期は70年代とも言われているが、私は年齢的にリアルタイムでは知らない。若手監督を積極的に採用するようになった80年代の映画から何とか個人的に鑑賞の対象になったという感じだが、その中でも強烈な印象を受けた一本だ。

 舞台になる北陸能登地方の海沿いの小さな町は、古くからの豪商で今も実業家として名を馳せている宇島家の当主、理一郎に牛耳られている。ある朝彼は、海辺でずぶ濡れになって倒れている若い女を助けた。彼女は記憶を失っており、理一郎は警察にも届けずに彼女を家で面倒を見ることを勝手に決める。もちろんそれは妻を早くに亡くした理一郎の、女に対する下心があったからに他ならない。この状況に彼の一人娘である中学生の伊代は戸惑うばかりだった。そんな中、理一郎の亡妻の弟である征夫が都会の生活を捨てて、この町に帰ってくる。彼は見知らぬ女を囲っている理一郎に異議を唱え、2人は対立する。

 この町の構図は辺境の地特有のものではない。皆が主体性を欠き長いものに巻かれる、閉塞的な日本社会そのものだ。しかしそれは、危ういバランスの上で辛うじて維持されているに過ぎない。この中に別のアイデンティティを持った異物が放り込まれ、しかもそれが看過できない存在感を持ち合わせていたならば、その仕組みは音を立てて崩れ落ちてしまう。

 言うまでもなく本作におけるその異物とは、くだんの女である。正体が分からない彼女だが、理一郎の一方的な寵愛を受けたことから周囲の動揺を招いてしまう。普通に考えれば征夫こそがその異物に相当するという流れになるところだが、宇島家の身内である彼は理一郎が支配する町のシステムから逸脱することが出来ない。

 そんな中で女の記憶が戻り、物語は未知なる展開に突入する。理一郎と伊代、そして女が最後に取る行動は、閉塞からカオスに世界が移行する劇的な状況を象徴して圧巻だ。脚本を兼ねた監督の橋浦方人はこの映画を含めて3本しか撮っておらず、しかも及第点に達しているのは本作だけなのだが、この一本だけでその名は十分に記憶に残る。

 理一郎役の池部良と謎の女に扮する山口果林は渾身の演技を見せ、泉谷しげるに浦辺粂子、烏丸せつこ、ひし美ゆり子などの面子も万全。また伊代役はこの映画がデビュー作になった荻野目慶子で、ヤバさと清純さを併せ持つ屹立したキャラクターはこの頃から他の追随を許さないレベルである。瀬川浩のカメラによる、北陸の荒ぶる海の情景。深町純の耽美的な音楽。この頃の日本映画を代表する秀作かと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コヴェナント 約束の救出」

2024-03-30 06:09:08 | 映画の感想(か行)
 (原題:GUY RITCHIE'S THE COVENANT)この映画がガイ・リッチー監督の手によるものだとは、にわかに信じがたかった。何しろ彼の身上はひたすらライトでアーバンでスマートに作品を仕立てることであり、結果的に出来不出来はあるにせよスタイルは一貫していたと思う。ところが本作はヘヴィで骨太なタッチで押しまくる戦場アクションなのだ。つまり、いつもの彼とは正反対のスタンスである。どういう事情があったのかは知らないが、芸の幅を広げたという意味でも評価に値する。

 アフガニスタン紛争真っ只中の2018年。米軍曹長ジョン・キンリーは、タリバンの武器弾薬の秘匿拠点を潰す任務に就いていた。彼をサポートするのは、優秀なアフガン人通訳アーメッドだ。あるときキンリーの部隊はタリバンの爆発物製造工場を突き止めるが、敵の逆襲に遭い、彼とアーメッドを除いて全滅してしまう。キンリーは瀕死の重傷を負っていたが、アーメッドに助けられ長い距離を移動して九死に一生を得る。無事に本国に帰還したキンリーだが、その後彼はアーメッドがタリバンに追われて絶体絶命の危機にあることを知り、彼を救うため身分を隠して再びアフガニスタンへ向かう。



 本作の雰囲気は西部劇に近いだろう。主人公は悪者どもに囲まれた中、必死の脱出を図る。一度は窮地を脱したかに見えたが、ピンチに陥った相棒を救うため再び戦いに身を投じる。そのプロセスと、ラストの戦いのシークエンスなど、無双なヒーローと駆けつける騎兵隊との構図に通じるものがある。ただし、この映画は純然たる娯楽作ではなく、戦争のリアルを追求する社会派ドラマでもあるのだ。

 リッチー監督が斯様な内容の映画を撮った本当の理由は分からないが、いつもの作風とは一線を画するスタイルに踏み切るだけの題材の重大さに惹かれたと理解したい。作劇はタイトでアクション場面はキレがある。サスペンスの醸成も万全だ。さらに観る者を慄然とさせるのは、ラストで示されるアフガン紛争で米軍に協力した現地人の多くが犠牲になったという事実である。キンリーとアーメッドのケースは、極めて幸運なものだったのだ。アフガンに米国が介入したこと自体の正当性まで問うており、これはかなり真摯なメッセージである。

 キンリー役のジェイク・ギレンホールは好演で、軍人としての苦悩を上手く醸し出していた。アーメッドに扮するダール・サリムのパフォーマンスも万全で、これを機に仕事が増えるかもしれない。エミリー・ビーチャムにジョニー・リー・ミラー、アレクサンダー・ルドウィグ、ボビー・スコフィールドといった他の面子も言うことなし。エド・ワイルドの撮影とクリス・ベンステッドの音楽も場を盛り上げる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゴールド・ボーイ」

2024-03-29 06:10:16 | 映画の感想(か行)
 金子修介監督の資質を承知の上で接すれば、かなり楽しめるシャシンかと思う。反対に彼の持ち味に馴染まない観客ならば、珍妙なクライム・サスペンスとしか思えずに敬遠してしまうかもしれない。私はといえば金子作品との付き合いは長いので、十分に良さは分かった。聞けば中国製のサスペンス・ドラマ「バッド・キッズ 隠秘之罪」(2020年)のリメイクとのことで、通常の国産映画とはひと味違う殺伐とした即物的な空気が漂っているのも納得だ。

 沖縄の大企業の幹部である東昇は、義理の両親である社長夫婦を崖の上から突き落として殺害する。完全犯罪を目論んで会社は昇のものになるはずだったが、3人の少年少女がその現場を偶然に撮影してしまう。不遇な境遇にある少年たちは、昇を脅迫して大金を要求。ただし昇も黙っておらず、彼を疑う関係者を次々に始末すると共に、少年たちをも片付けようとする。



 昇が犯行に及ぶ出だしのシークエンスから、オーバーでわざとらしい演技とセリフ回しが炸裂して、思わず笑ってしまった。金子監督の持ち味は“マンガの映画化”ならぬ“映画のマンガ化”だ。有り得ない話を徹底してカリカチュアライズし、非現実な次元にまで持って行って“これはマンガですよ”というエクスキューズが通用する構図を作り出してしまう。

 本作も同様で、少年たちの手口も昇の所業も、そして過度に閉鎖的な土地柄も、よく考えればかなり強引な御膳立てだ。しかし、作者のマンガ的なアプローチはそれらを正当化してしまう。後半になると善悪の判別などは脇に追いやられ、ゲームのような様相を呈している。

 とはいえ、その状態の中にわずかに挿入されたシリアスなモチーフが引き立つ結果にもなる。それはリーダー格の少年の家庭環境や、もう一人の少年と少女との関係性だ。ここがしっかり描かれているから、最後まで話が破綻しない。事件を追う刑事の境遇も有用なモチーフと言えるだろう。昇役の岡田将生は実に楽しそうに悪役を演じ、羽村仁成と星乃あんな、前出燿志の年少組も健闘している。特に星乃は監督のお気に入りのようで、今後も仕事が入りそうだ。

 黒木華に北村一輝、江口洋介といった脇の面子も良い。ただし、昇の妻に扮する松井玲奈は幾分力不足。彼女はけっこう演技の場数を踏んでいるのだから、もうちょっと頑張ってほしかった。柳島克己による撮影と谷口尚久の音楽は好調。倖田來未による主題歌は好き嫌いはあるだろうが、まあ良いのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする