元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「パシフィック・ハイツ」

2015-11-30 06:35:13 | 映画の感想(は行)

 (原題:PACIFIC HEIGHTS )90年作品。ジョン・シュレシンジャーといえば出身国イギリスでいくつかの秀作を撮った後、渡米してアメリカン・ニュー・シネマの一翼を担った監督である。しかし80年代以降はどうもパッとせず、そのままキャリアを終えてしまった。本作も要領を得ない出来で、才能の枯渇が感じられる。月日の流れというのは残酷なものだ。

 結婚間近のドレイクとパティのカップルは、サンフランシスコの高級住宅街パシフィック・ハイツに豪邸を購入する。ところが思いがけず多額の修繕費が必要であること分かり、部屋を間貸しすることにする。入居者は二組で、一部屋には日本人のワタナベ夫妻、そしてもう一部屋を借りたのが、ヘイズなる独身男だった。

 ヘイズは一見紳士風だが、入居翌日から奇行が目立ち始め、やがて見知らぬ若造を勝手に住まわせ、挙げ句に家賃も払わない。怒ったドレイクは弁護士を雇って訴訟に踏み切るが、抜け目の無いヘイズを裁判で負かすことが出来なかった。逆に家から追い出されてしまうドレイクとパティだが、やがて意外な事実を知ることになる。

 ハッキリ言って、凡庸なサスペンス編だ。ヘイズに扮するマイケル・キートンは、これが“地”ではないかと思うほど気色の悪い好演であるが、B級ホラーの敵役としては適任でも(作者が狙ったらしい)重厚なサスペンス劇のキャラクターには似つかわしくない。そもそも、コイツの屈折した内面がまるで描かれていないのだ。その描写の底の浅さは主人公の二人にも言えることで、演じるマシュー・モディンとメラニー・グリフィスも、まるで生彩が無い。

 シュレシンジャーとしては、日常生活の隣にある恐怖を扱うことでアメリカ社会の病理までも抉ろうとしたのだろうが、全編これ表面的な展開に終始している。結末に至る過程も、まったく工夫の跡が見られない。いっそのことサスペンス編にせず、マコ扮する日本人夫婦らとの触れ合いをじっくりと描いた人間ドラマにした方が、よっぽど見応えのあるドラマに仕上がったと思われる。

 撮影監督にアミール・モクリ、音楽にハンス・ジマーという手練れの人材を起用していながら、まったく印象に残らない仕事に終始しているのも脱力する。
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「コードネーム U.N.C.L.E.」

2015-11-29 07:05:20 | 映画の感想(か行)

 (原題:The Man from U.N.C.L.E. )肩の凝らない娯楽編だと思う。何も考えずにボーッとスクリーンを眺めるにはもってこいのシャシンだ。しかも、元ネタになったTVシリーズと時代背景を変えていないところがポイントが高い。無理に舞台を現代に移した挙げ句にボロを出すよりも、“絵空事”として割り切ろうとしているあたりに、作者の冷静さが垣間見える。

 1960年代前半。ナチスの流れを汲む国際犯罪組織が、核兵器とその技術の拡散によって世界を混乱に陥れようとしていた。東西両陣営にとって“共通の敵”が出現したということで、双方は手を組むことになる。その実行部隊として白羽の矢を立てられたのは、CIAの凄腕エージェントのナポレオン・ソロと、KGBに史上最年少で入った超エリートのイリヤ・クリヤキンだ。

 当初は互いを鬱陶しく思っていた2人だが、仕事を進めていくうちにチームワークらしきものが醸成されてくる。しかしながら、手掛かりはその陰謀の鍵となる失踪したドイツ人科学者の娘だけであった。ソロとイリヤは彼女を守りながら、科学者本人を探し出さなければならない。核ミサイル発射のタイムリミットが迫る中、果たして2人は世界を救えるのだろうか。往年のTVドラマ「0011ナポレオン・ソロ」の新たなる映画化だ。

 やはり主人公達のキャラクターは面白い。有能だが稀代の女たらしでチャラけた雰囲気のソロと、真面目で几帳面だが短気なイリヤ。性格は水と油で反目し合ってはいるが、どこかウマが合う部分がある。それぞれの欠点を補い、最強のチームとして機能するようになる過程には違和感はない。

 ストーリーは二転三転する凝った作りになっているようだが、それほどの求心力は感じられない。それよりも、いかにも“映像派”のガイ・リッチー監督らしい外連味たっぷりの画面構成が目立っている。レトロ感とカッコ良さが漂うタイトル・バックをはじめ、登場人物達の出で立ちが“現代にも通じるノスタルジー”を絶妙に醸し出している。アクションシーンは大向こうを唸らせるようなものではなく、多分に映像処理過多のスタイリッシュさを前面に出しているが、これがヘンに生々しい雑味を出さずにあっさりしたテイストに仕上げることに貢献している。

 ソロに扮するヘンリー・カヴィルは「マン・オブ・スティール」のヒーロー役とは打って変わったライト感覚を見せ、案外これが“地”ではないかと思わせるほどだ。イリヤを演じるアーミー・ハマーも「ローン・レンジャー」ではヒーロー役だったが、ここでは堅物な持ち味をほんの少しズラした妙演を披露している。司令官役のヒュー・グラントは海千山千ぶりを見せつけ、ヒロインに扮したアリシア・ヴィキャンデルはとても可愛い。続編がいくらでも作れそうな仕上がりで、今後の展開に期待したい。
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ヴァイオリンとピアノのコンサートに行ってきた。

2015-11-28 06:59:31 | 音楽ネタ

 先日、福岡市早良区にある西南学院大学チャペルで開かれたヴァイオリンとピアノの演奏会に行ってきた。ヴァイオリンは札幌交響楽団のコンサートマスターである田島高宏、ピアノは田島ゆみだ。なお、2人は夫婦でもある。曲目はモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ第34番、シューマンの3つのロマンス、イザイのヴァイオリン・ソナタ第3番、そしてフランクのヴァイオリン・ソナタだ。

 10月に同じ会場でチェロのリサイタルを聴いたが、あのときはかなり前方に席を陣取ったためか、音が響いてこないのには閉口したものだ。今回はその反省を踏まえて客席の後方に座ってみた。するとこれが功を奏したのか、実に良く音が聴こえる。ホールの性格を見極めるのも音楽鑑賞では重要だということか。

 田島高宏の演奏は艶っぽさや美音調を狙ってはいないが、オーソドキシーに徹した堅実なものだ。聴いていて安心感があり、さすがコンサートマスターを担当しているだけのことはある。テクニックも申し分なく、高い技巧を必要とするイザイのソナタも余裕でこなす。田島ゆみのサポートも万全で、息の合ったところを見せる。

 フランクのソナタは、すべてのヴァイオリン・ソナタの中では私が一番好きな曲だ。しかしながら実演で一度も聴いたことが無かった。それだけに今回のプログラムは嬉しい。田島高宏の端正なパフォーマンスにより、この曲の旋律美を大いに堪能した。

 アンコールとして演奏されたモーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスまで、短い時間であったが、随分と得をした気分で会場を後にすることが出来た。このホールでの演奏会は入場料がリーズナブルなので、構えずに気楽に行ける。また機会があれば足を運びたい。
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「グラスホッパー」

2015-11-27 06:32:47 | 映画の感想(か行)

 予想通りの出来。伊坂幸太郎による原作は、私が読んだ彼の小説の中では一番面白い。しかしながら監督が二流の瀧本智行で、脚色が「光の雨」だけの一発屋臭い青島武という、気勢の上がらないスタッフの手による映画化だと知った時点で、先は見えていた。要するに失敗作だということだ。

 ハロウィンの人混みで賑わう10月31日の夜。渋谷ハチ公前のスクランブル交差点に、突然ヤク中の男が運転する暴走車が突っ込んでくる。この事件で婚約者を失った中学教師の鈴木は、何者かによって真犯人がサプリメント販売会社フロイラインの寺原親子であると知らされる。半年後、教師を辞めてフロイラインで働くようになった鈴木は復讐の機会を狙っていた。ところが彼の目の前で寺原ジュニアが殺害されてしまう。どうやら“押し屋”と呼ばれる殺し屋が手を下したらしい。一方、ターゲットを自殺に追い込んで始末するという殺し屋の“鯨”は、余計なこと知りすぎたおかげで“蝉”と名乗る若いナイフ使いに命を狙われるハメになる。

 どこか現実離れした設定と、実体感の無いキャラクターの跳梁跋扈は伊坂作品の特徴だが、これを観る者が納得出来るような世界観に昇華させるためには、堂々と大風呂敷を広げられる海千山千の作り手を呼びつける必要がある。しかし、どう考えても凡庸な瀧本監督は不的確な人選と言わざるを得ない。結果、まるで気勢の上がらない出来に終わっている。

 とにかく、どのモチーフも扱われ方が及び腰なのだ。浮き世離れした登場人物達は、どれも書き割りのような薄っぺらさで、ただ“記号”としての位置付けしかされていない。ちっともキャラが“立って”いないのだ。こんな調子だから、鈴木が真犯人を知るようになったプロセスとか、各殺し屋のポジショニング(?)とか、フロイラインの事業内容とかいった、常道的なドラマツルギーの観点による説明不足の部分が余計にクローズアップされてしまう。

 映像面でも見るべきところはあまりない。アクションシーンも大したことはない。キャストで良かったのは“鯨”を演じる浅野忠信と、鈴木の婚約者に扮した波瑠ぐらいだ。画面の真ん中に鎮座する鈴木役の生田斗真と“蝉”を演じた山田涼介はジャニーズ系だが、無駄にカッコつけた振る舞いは勘弁して欲しかった。寺原会長の石橋蓮司とフロイラインの女幹部の菜々緒に至っては、何かの冗談としか思えない。

 なお、映画の結末は原作とは違う。別に“違ってはイケナイ”と言うつもりは無いが、随分と腑抜けたエンディングであることは確かだ。こんなものしか提示出来ないのならば、最初から映画化する必要は無かった。
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今年もホークスの優勝パレードを見に行った。

2015-11-23 06:48:51 | その他

 去る11月22日、2年連続で日本一に輝いた福岡ソフトバンクホークスの優勝パレードを見に行った。沿道には35万人が詰めかけ、大変な賑わいだ。

 正直、シーズンが始まる前はホークスが優勝するとは微塵も思わなかった。いくら前年に日本一になったチームとはいえ、工藤公康は監督としては新人。一年目から勝てるほど世の中そう甘くはないはずだった。ところがフタを開けてみれば、レギュラーシーズンは2位以下を大きく引き離しての貫禄勝ち。日本シリーズでもツバメ軍団を軽く粉砕し、まさしく横綱相撲。これには舌を巻くばかりだった。

 その理由はハッキリとは分からないが、たぶん監督が投手出身であるだけに、ピッチャーの起用方法に長けていたからなのだろう。調子の良い選手を酷使して、挙げ句に肝心なところで役に立たなかったということを回避していたように思う。つまりは“働かせる方法”よりも“巧妙に休ませる方法”を重視していた。もちろんこれは選手層の厚いホークスだから出来たことだが、一部の選手ばかりに大きな負荷が掛かるような指導方針は時代遅れであるのは確かのようだ。

 それにしても、両リーグの実力差が年々開いていることには改めて驚かされる。ここ10年間でセリーグのチームが日本シリーズを制したのは3回だけ。今シーズンは交流戦でも白星を稼いだのはパリーグ側であり、セリーグのペナントレースはそれ以後“レベルの低い接戦”を強いられた。原因はいろいろとあるだろうが、セリーグ側も抜本的な対策を講じないと“日本シリーズ不要論”が出てこないとも限らない(笑)。

 どうでもいいが、工藤監督は50歳過ぎても頭がフサフサだ。同じくかつての西武ライオンズでアイドル的人気を誇っていた渡辺久信がとうの昔にツルっぱげであるのとは対照的である(激爆)。やはり若い頃からのケアがモノを言うのだろうか。若い選手も参考にしてもらいたい(←何を言っておるのだ ^^;)。
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「アクトレス 女たちの舞台」

2015-11-22 07:23:38 | 映画の感想(あ行)

 (原題:SILS MARIA)同じくジュリエット・ビノシュが主演した「トスカーナの贋作」(2010年)同様、わくわくするような映画的興奮を味わえる。間違いなく本年度のヨーロッパ映画の収穫のひとつで、本当に観て良かったと思える逸品だ。

 ベテラン女優マリアは、演劇関係の授賞式のため若い女性マネージャーのヴァレンティンと共にスイスに来ていた。ところが、突然に恩師である舞台監督の死を告げられて動揺する。そんな時、その演出家の代表作であり、彼女が若い頃に主演した出世作「マローナの蛇」の再演のオファーが届く。

 当然また自分が主役を張れると思ったマリアだが、彼女に振られた役は自身がかつて演じた小悪魔的な若い女ではなく、ヒロインに翻弄される中年女性の役だった。迷ったあげく役を引き受けたマリアは、当地にある演出家の別荘に住み込んでヴァレンティンを相手に台本の読み合わせを開始するが、主人公を演じられないという厳然たる事実が次第に彼女を追い込んでゆく。

 マリアの年齢ではこの演劇の主役になれないことは当たり前で、本人もそれは頭では分かっているが、それでも大女優のプライドとしてはそれを認めたくはない。中盤、時間を割いて描かれるヴァレンティンとの読み合わせの場面は、その現実を受け入れざるを得ないという理性と、断固拒否したいという感情とが交じり合うマリアの内面がヴィヴィッドに描出されて圧巻である。

 それはまたフィクションの世界が現実と拮抗していくスリリングなプロセスを示していることはもちろん、ビノシュ本人の女優としてのキャリアが反映していることも見逃せない。新しく主演に据えられたアメリカの若手女優に扮しているのはクロエ・グレース・モレッツだが、若い頃のビノシュは今のモレッツ以上に“尖った”存在であった。しかし時は流れてかつてのビノシュのポジションをモレッツの世代が担うことをドラスティックに提示しているあたりも、実に感慨深いものがある。

 そして達観した位置にいてこの新旧交代劇を冷静に見つめるヴァレンティンの存在も、ドラマに奥行きを与えている。彼女の“真の役割”が暗示される終盤は、アルプスの山々を蛇のように流れる神秘的な雲の動きにも象徴され、その存在感は際立っている。演じるクリステン・スチュワートの仕事ぶりは素晴らしく、ルックスのマイナス面を差し引いても(笑)十分評価に値する。

 オリヴィエ・アサイヤス監督作を観るのは「冷たい水」(94年)以来だが、本作での演出力の高さはすでに“巨匠”の風格を漂わせている。美しいスイスの風景と、豪華なシャネルの衣装、そして効果的なクラシック音楽の起用。額縁に入れて飾りたくなるような映画である。
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「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」

2015-11-21 06:46:33 | 映画の感想(か行)
 2001年東宝作品。本作は封切り当時に映画好きの仲間達と徒党を組んで観に行ったのだが、冒頭の“数年前にゴジラに酷似した怪獣がアメリカを襲ったが、日本の関係者はそれをゴジラだとは認めていない”とのナレーションに大笑いしたのは我々のグループだけだった(浮いているなー ^^;)。言うまでもなく、ローランド・エメリッヒ監督によるハリウッド版(98年)をバカにしたフレーズだが、あの映画のレベルの低さは今でも特撮映画ファンの物笑いの種になっているようだ。

 舞台は初代ゴジラの襲撃から復興した“もうひとつの日本”。グアム島沖で消息を絶った米原子力潜水艦の捜索に向かった日本海軍が、海底でゴジラと思われる生物を発見する。防衛軍の立花准将は上層部に対して警戒を促すが、弛みきった軍当局は立花の意見を聞き入れない。一方、各地で怪生物の目撃情報が飛び交うようになる。



 オカルト番組のリポーターで立花の娘である由里は、それらの現場が日本古来の怪獣が眠っている場所と事件発生現場が一致していることに気付き、独自取材を開始。そんな中、ゴジラがいきなり静岡県に上陸する。同じ頃に地中から出現したバラゴンをはじめ、そして横浜に移動してキングギドラやモスラと対戦。ところが今回のゴジラの強さはハンパなく、他の怪獣をまったく寄せ付けない。さてどうなるのか・・・・という話だ。

 タイトルバックの雰囲気からラストに流れる伊福部昭の“ゴジラのテーマ”などからして、原点回帰というか、大昔の“怖いゴジラ”の再現を試みようとの金子修介監督の意志は強く感じられる。しかしながら怪獣がバタバタと出てくる中盤の展開は上手くない。

 ゴジラが先の戦争で犠牲になった人々の残留思念の集合体であり、キングギドラが“ヤマトの守り神”というのも、なんか違う気がする。ついでに言うと、モスラの唄も出てこない(笑)。でも、クライマックスの怪獣バトル・ロワイアル場面はなかなかの迫力。日本人の平和ボケを揶揄したシーンが散見されるのも面白い。

 なお、宇崎竜童の司令官は貫禄不足(もっと演技派のベテラン俳優を配した方が良かった)。ヒロイン役の新山千春は、いつもながらの大根。佐野史郎や南果歩、大和田伸也、村井国夫、天本英世、中村嘉葎雄、津川雅彦と脇は結構豪華だが、顔見世興行の域を出ない。

 このシリーズはこの頃“昭和29年の第一作以降はなかったことにする設定”が目立つようになっていたが、久々に日本で製作される次回作はどういう切り口を持ってくるのか、ちょっと気になるところだ。
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「エール!」

2015-11-20 06:35:00 | 映画の感想(あ行)

 (原題:La famille Belier )作り方を間違えている映画である。この設定においてドラマが一番盛り上がる点は何か、そこへたどり着くまでのプロセスはどうあるべきか、そんなことが一切考慮されていない印象を受ける。シチュエーションだけで満足しているような、作り手の不遜な態度が垣間見えるようだ。

 フランスの片田舎で農業を営むベリエ家は、高校生の長女ポーラ以外、全員が聴覚障害者である。彼女は両親と弟の“耳と口”の役割を果たし、一家を支えていた。ある日ポーラは音楽教師のトマソンに歌の才能を認められ、パリの音楽学校で行われるオーディションを勧められる。合格すれば音楽の仕事をしながらパリの学校に通えるのだ。思わぬチャンスが到来して喜ぶ彼女だが、歌声を聴けない家族からは反対される。何より、ポーラは家族と“外界”とのコミュニケーションに欠かせないのだ。彼女は家族を説得すべく、一計を案じる。

 この話が成り立つためには、ポーラの歌声が本当に素晴らしいことが不可欠だ。誰が聴いても、こんな田舎に埋もれさせておくには惜しいと思わせるほどのパフォーマンスを見せつけることが大切である。しかし、どういうわけか、彼女の歌唱力は大して高くない。ハッキリ言って“中の上”クラスだ。こんなレベルでオーディションを勝ち抜けるとは、とても思えない。

 もっとも、映画の前半では“本当は歌が上手いのではないか”と思わせる箇所はある。それは合唱団の練習時で一瞬だけ伸びやかなソプラノを響かせる場面だ。当然それ以降はその唱法を突き詰めていくと思ったのだが、予想に反してそうならない。代わりにルックスが良い男子同級生とデュエットするの何だのという、ラブコメ的展開が用意されるのみ。これでは盛り上がるはずもないのだ。

 そもそも、この家族の有り様はホメられたものではない。要するにポーラを“便利屋”扱いして家に縛り付けているだけではないか。特にヒドいのが母親で、完全に子供を自分の所有物として見ている。父親も大した考えも無いまま村長に立候補するという脳天気ぶりで、コメディ仕立てとはいえ、随分といい加減な振る舞いが目立つ。こんな家はとっとと出て行くに限る。

 唯一印象に残ったのは、耳の聞こえない者ばかりの家庭は物音に対して無頓着だという点だ。ベリエ家は朝から食器をガチャガチャと鳴らしたり床をドンドンと踏みつける音で喧しい。まあ仕方が無いと言えるが、かなり異様な感じを受ける。

 エリック・ラルティゴの演出は平板。ヒロインを演じるルアンヌ・エメラは本作でセザール賞の新人賞を獲得したらしいが、それほどの逸材とは思えない。なお、劇中でミシェル・サルドゥの楽曲が流れるが、聴くのは久しぶりだ。昔のフレンチ・ポップスには良い曲が多かったと、つくづく思った。
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「ジャグラー ニューヨーク25時」

2015-11-19 06:25:05 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Night of The Juggler)79年作品。この頃はいわゆる“ハリウッド製のアクション大作”というのは影を潜めていたように思う。かき入れ時のシーズンにスクリーンを飾るのはSFやアニメーションで、アクション映画が復権するのは80年代末の「ダイ・ハード」を待たねばならなかった。だが一方で、小規模ながらキレの良い活劇編もいくつか公開はされていた。それはたとえばコリン・ヒギンズ監督の「ファール・プレイ」であり、リチャード・T・へフロン監督の「アウトローブルース」であったりするのだが、この映画もそうである。

 元警官でトラック運転手のジョンは、小学生の娘キャシーを学校まで送った直後、彼女の悲鳴を聞く。見ると、キャシーが見知らぬ車に引きずり込まれているではないか。ジョンはその車を追跡するが、途中で事故に遭った彼は、病院に担ぎ込まれてしまう。一方、誘拐犯のソルティックの当初のターゲットは資産家の娘のはずだった。ところが彼は勘違いして、キャシーを攫ってしまったのだ。



 それでも彼女を金持ちの娘だと信じて疑わないソルティックは、多額の身代金を要求する。ジョンは警察に相談するが、相手にしてもらえない。彼は動物登録所の女性所員のマリアの強力を得て、娘を取り返すべく戦いを挑む。ウィリアム・P・マッギバーンの小説「夜の曲芸師」の映画化だ。

 何やら黒澤明監督の「天国と地獄」を思わせるような設定だが、こちらの主人公は単身で悪に立ち向かう。とにかく、スタイリッシュなタッチとは無縁の、猪突猛進型の展開に瞠目させられる。冒頭を飾るカーチェイスも、ゴツゴツとして荒っぽい。そしてジョン自身の出口の見えない焦燥感を象徴するかのように、次から次へと舞い込むトラブルのエゲツなさは、観る側も息苦しくなってくるほどだ。

 加えて終盤の追跡劇の舞台になるのが地下水道だというのだから、圧迫感はかなりのものである。しかし、それだけに全てが解決した時のラストは実に心地良い。監督はテレビでの仕事が多かったロバート・バトラーだが、本作ではまさしく骨太な演出を披露する。

 主演のジェームズ・ブローリンはジョシュ・ブローリンの父親だが、息子以上の男臭さを見せる。犯人役のクリフ・ゴーマン、主人公と対立する警察官を演じるダン・ヘダヤも、良い案配のアクの強さを醸し出している。それにしても、舞台となったサウス・ブロンクス地区における黒人やプエルトリコ人たちの困窮ぶりは、富裕層の阿漕な土地転がしによるところが大きい。理不尽な貧富の差は、この時代から大きく表面化していたのだ。
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「岸辺の旅」

2015-11-18 06:03:31 | 映画の感想(か行)

 ごく一部分を除いて面白くない。第68回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門において黒沢清は本作で監督賞を受賞したが、彼のフィルモグラフィの中でも質の面では“真ん中より下”に位置するだろう。とにかくこの要領を得ない展開には、脱力せざるを得ない。

 ピアノ教師の瑞希の夫である優介は3年前に行方不明になり、彼女はそれから喪失感に苛まれていた。ようやく立ち直りかけて仕事を再開したある日のこと、夫が突然帰ってくる。しかも彼は“俺、死んだよ”と瑞希に告げるのだった。そういえば優介の立ち振る舞いはどこか浮き世離れしており、人間臭さも希薄である。どうやら幽霊だというのは本当らしい。

 彼は“一緒に来ないか、きれいな場所があるんだ”と瑞希を誘い、2人で旅に出る。それは優介が死んで幽霊になってから3年間、あたりを彷徨っている間にお世話になった人々を訪ねていく旅だった。湯本香樹実による同名小説(私は未読)の映画化である。

 優介はゴーストのくせに食事もすれば仕事もする。神出鬼没のようでいて、移動手段は生きている人間と同じく徒歩か公共の交通機関だ(笑)。どうしてそうなのだと突っ込むことも出来るが、あえてそれは問うまい。同監督の映画では“約束事”として受け入れるしかないだろう。しかしながら、このロードムービーは話自体がつまらない。

 彼らが最初に会うのは、小さな町で新聞配達業に携わる老人・島影である。2人は彼の店で住み込みで働き始めるが、実は島影は優介と同じく既に死んでいて、しかもそれに気が付いていないのだという。このエピソードは悪くない。次第に“あの世”に呼ばれていく老人のこの世に対する未練が切々と描かれ、幕切れも鮮やかだ。

 しかし、これ以降のパートがまるでダメ。食堂を切り盛りする女将の、亡き妹に対する想いは平板な展開に終始。山奥の農村で出会う人々も、ワザとらしくて見ていられない。最後は予想通りだが、通り一遍の描写で感銘度は低い。

 主演の浅野忠信と深津絵里は頑張っているし、小松政夫や柄本明、奥貫薫といった脇の面子もよくやっているとは思うのだが、熱演すればするほど映画の底の浅さが見透かされてしまい、何ともいたたまれない気分になる。唯一目立っていたのが、優介の浮気相手を演じた蒼井優だ。出演時間はわずかなのだが、尋常ではない性悪さを醸し出していて絶品である。彼女の前では、さすがの深津も影が薄くなってしまった。

 いつもながら黒沢作品はロケーションは見事。各エピソードの舞台設計は隅々まで考え抜かれている。芹澤明子による撮影、そして大友良英と江藤直子による音楽も効果的だとは思う。だが、漫然と進むだけの映画の中ではそれらは浮いている。あえて観なくてもいいシャシンだと結論付けるしかない。
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