元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「オン・ザ・ミルキー・ロード」

2017-10-30 06:29:26 | 映画の感想(あ行)
 (原題:ON THE MILKY ROAD )エミール・クストリッツァ監督のお馴染みの個性的な持ち味は発揮されているが、内容を勘案すると上映時間が長すぎる。しかも、中盤以降の展開は明らかに冗長だ。余計なシークエンスを削ってタイトに仕上げれば、もっと評価出来る映画になったと思われる。

 舞台は東欧のどこかの国の村。戦争の真っ最中であり、村のあちこちで銃弾が飛び交っている状態だが、それでも住民の暮らしは続く。主人公の中年男コスタは、兵士たちにミルクを届けるため毎日ロバに乗って前線を渡り歩いている。ミルク売りの娘ミレナは彼を愛しているが、コスタは正直あまり乗り気では無い。折しも休戦協定が結ばれて、村はつかの間の平和を取り戻す。



 ミレナの兄ジャガは戦場の英雄で、家族はもうすぐ帰ってくる彼のために結婚相手を探すことにする。花嫁に選ばれたのは、ローマからセルビア人の父を捜しに来て戦争に巻き込まれたという美女だった。だが、コスタは彼女を一目見るなりゾッコンになり、勝手にセッティングされたミレナとの結婚なんか、どうでもよくなってくる。一方、この花嫁と以前付き合っていたがフラれてしまった多国籍軍の英国将校が、彼女を連れ戻そうと特殊部隊を村に送り込み、村は再び戦火にさらされる。

 やかましいバルカン・サウンドとカラフルな画面。出演者達の大仰なパフォーマンスや、それに匹敵するほどの動物たちの名演技(特にコスタが飼っている、ダンスを踊るハヤブサはケッ作だ)。いつもの“クストリッツァ節”は健在である。しかし、命からがら村を脱出したコスタと花嫁の逃避行がメインになる後半は、どうにも締まらない。



 3人の兵士がコスタ達を追いかけるのだが、なぜかターゲットに近付いても3人一緒に行動している。三方に分かれて攻めるのが筋だと思うのだが、これでは“まとめて片付けてください”と言っているようなものだ。もちろん“クストリッツァ流の寓話仕立てだから問題ない”という見方も出来るのだろうが、特殊部隊の村での所業はやけにリアルだし、終盤のチェイス場面もオフビートなテイストは希薄だ。

 そもそも、後半にコスタ達が展開するロードムービーは行き当たりばったりであり、“これで終わりか?”と思ったらまたダラダラと続くというパターンの繰り返し。これでは評価出来ない。

 主役はクストリッツァ自身で、けっこう好演だ。ヒロイン役のモニカ・ベルッチが振りまく華やかなオーラは、いつもながら大したものだ。ペシミズムあふれる幕切れは悪くはないが、そこに至る展開がピリッとしないのであまり印象に残らず。鑑賞後の満足度はイマイチである。
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「動天」

2017-10-29 06:43:11 | 映画の感想(た行)
 90年作品。この映画は何と、大手総合商社の一つであったトーメンが製作している。思い起こせば80年代から90年代初頭にかけて、映画作りとは縁の無いようなカタギの(?)企業が次々と映画業界に参入していたものだ。当時は景気が良かったのでそんなケースは珍しくもなかったのだが、今考えると随分と賑やかな話である。現在ではまずあり得ないだろう。

 1858年、江戸幕府は日米通商条約を結び、長らく続いた閉鎖的な外交体制は終わりを告げた。上野国出身の商人である中居屋重兵衛は、商売の傍ら佐久間象山の弟子になり、あらゆる学問を学ぶ。彼はいつか世界を相手に商売をしたいと思っていた。やがて重兵衛は横浜に進出し、外国商館に引けを取らない豪壮な館を建築する。



 そんな時、便宜を図っていた外国奉行の岩瀬肥後守が幕府の政策を批判したためにリストラされ、家禄没収の処分を受ける。さらに重兵衛も、贅沢すぎる銅瓦で館の屋根を茸いたことによって当局側からマークされる始末。それでも盟友の勝海舟と世界進出の夢を語る重兵衛であったが、幕府による横浜への弾圧は益々厳しくなる。1860年、意を決した重兵衛は水戸烈士たちを陰から支援し、井伊大老を襲撃する計画を立てる。

 商社の製作による映画であるせいか、主人公の重兵衛を一介の商人ではなく何やらオールマイティなヒーローに仕立て上げているのには苦笑する。大仰に見得を切ってチャンバラ映画の主人公よろしく振る舞う様子は、まるで往年の東映時代劇の世界である。

 さらには、活劇場面を連発することによって強引な筋書きの欠点を糊塗しようというスタンスは、昔の日活アクションばりだ。そういえば監督の舛田利雄は“日活の舛田天皇”と呼ばれていたほど、このジャンルに精通している。

 だが、製作された時点を勘案しても、この映画は現在に通じるものが無い。骨太なテーマ性は不在で、単にビジネスマンである主人公の利害を追認しているだけだ。この企画は東映京都撮影所にも舛田利雄にも金銭的な恩恵をもたらしたと思うが、スポンサー及びその業界をヨイショするための仕事なので、あまり気が乗っていなかったと思われる。観た後は実に印象が薄いのも、そのためだろう。

 主演の北大路欣也をはじめ、黒木瞳、島田陽子、西郷輝彦、高橋悦史、江守徹など配役は豪華。さらに音楽は池辺晋一郎で谷村新司が主題歌を提供しているという、大盤振る舞いだ。しかしバブル後はトーメンは次第に勢いを無くし、ついには豊田通商に吸収合併されてしまう。時の流れを感じずにはいられない。
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「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」

2017-10-28 06:27:05 | 映画の感想(あ行)
 面白そうな題材は扱っているが、アプローチを間違えている。アメリカ占領下にあった戦後の沖縄で、米軍の圧政と戦った瀬長亀次郎という人物を描いたドキュメンタリー作品。那覇市長や衆議院議員も務めたということだが、私は不勉強にも彼のことを知らなかった。だから、瀬長が実質的にどういう功績を残したのか興味津々だったのだが、劇中ではまるで紹介されていないのだ。

 もちろん、彼が米軍にマークされるほどの影響力のある運動家で、後に政治家になった人物だということは一応説明されている。ただそれは“事実の羅列”に過ぎない。私が知りたいのは、瀬長がどうして大勢の人々を動かし、アメリカにも日本政府にもタイマンを張れるようになったかだ。つまりは彼の“カリスマ性”である。



 沖縄県民等に向けた瀬長の講演回数は、かなり多いはずだ。しかし、映画ではその動画はまったく紹介されない。彼の肉声が聞けるのは、国会での佐藤栄作首相との論戦と、80年代に入ってからのテレビのインタビュー映像のみである(それも断片的に提示されるに過ぎない)。たとえ講演時の映像や音声が残っていなかったとしても、議事録ぐらいはあるはずだ。もしも、それさえ無いというのならば、瀬長が詳細な日記をつけていることは劇中で示されているので、その内容をじっくりと検証して彼の思想や人柄に迫ることも出来たはずだ。

 この映画は戦後の沖縄で重要な役割を果たしたとされる瀬長亀次郎を、その人物像に肉迫することなく、彼を知る人々を登場させて、ただ“凄い。立派だ”と誉め上げているだけのように思える。つまりテーマの“本丸”には触れず、その“外堀”だけを埋めて満足しているのだろう。



 そんな隔靴掻痒な印象が、ハッキリとした違和感へと変わるのは、現沖縄県知事の翁長雄志が登場してくる終盤近くの展開だ。たぶん米軍に蹂躙された沖縄県民の声を率直に代弁していたであろう瀬長の主張を、いつの間にやら左傾勢力のプロパガンダに利用しようとしている、その姿勢には愉快ならざるものを感じる。だいたい、本作には沖縄の地政的な重要性の有無さえ言及されていないのだ。

 監督が「筑紫哲也NEWS23」でキャスターを務めた佐古忠彦だというのも、何だか“それらしい”感じがする。とにかく、映画の面白さ云々よりもイデオロギー的主張が前に出てくるような作り方は、受け容れがたい。なお、坂本龍一による音楽は効果的だ(坂本自身の政治的スタンス等は、ここでは問わない)。
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エリオット・パティスン「頭蓋骨のマントラ」

2017-10-27 06:31:17 | 読書感想文
 ミステリーとしては設定がかなりの“変化球”だが、決して奇を衒うことがなくストレートにグイグイと引き込まれる。国際的な人権問題を告発する等、ジャーナリスティックな視点を伴っているため、話が全然絵空事にならない。読み応えのある本だと言える。

 中国経済部の主任監察官である単道雲(シャン・タオユン)は、政財界の大物が引き起こしたスキャンダルを捜査していたが、いささか“深入り”しすぎたため、当局側によってチベットの奥地・ラドゥン州の強制労働収容所に入れられてしまう。日々過酷な強制労働に駆り出され、心身共に消耗した単だが、ある日作業現場で男の首なし死体が発見されたことから、彼を取り巻く環境は一変する。



 近々司法部の監査が入る予定があるのに、殺人事件が起こったことを上部機関に知られるのはまずいと思った州の軍最高責任者は、何と囚人である単に事件の解決を命じるのだった。だが、中国の硬直した官僚主義が壁となって立ちはだかり、軍や共産党の幹部などの勝手な思惑も入り乱れ、捜査は難航する。

 不条理な状況で無理筋の仕事をあてがわれた主人公の屈託は良く描けているが、それよりも周りのキャラクターが“立って”いる。監視役の副官や単と協力して捜査に当たる若いチベット僧、そして囚人仲間のチベット人達、いずれも、それぞれで一冊の本が書けてしまうほど印象的だ。特に、厳しい境遇においても信仰を捨てることがないラマ僧たちの姿は、とても感動的だ。

 作者はアメリカ人(白人)で、主人公が中国人、舞台はチベットということから勘案する通り、中国のチベット弾圧が大々的に取り上げられているが、後半の展開がひとひねりもふたひねりもしており、単純な“イデオロギー糾弾小説”にしていないのは面白い。作

 者のパティスンは執筆時には小説家としてのキャリアが浅かったためか(本業はジャーナリスト)、少々文章が要領を得ない部分もあるが(翻訳のせいかもしれない)、チベットという神秘の国の描写はなかなかに興味深い。これは映画化しても面白いかもしれない。
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「アウトレイジ 最終章」

2017-10-23 19:23:18 | 映画の感想(あ行)

 期待していなかったが、実際に観た印象も予想通りの“中の下”のレベルだ。もっとも、前2作も観ているので、惰性でスクリーンに対峙したというのが実情である(苦笑)。ただ、この監督独特の作劇のリズムは健在なので、観ている間はさほど退屈はしなかったのはまあ良かった。

 前作での山王会と花菱会との抗争で好き放題暴れ回った元大友組組長・大友は、韓国の裏社会を牛耳る実力者である張会長のもとに身を寄せていた。ある日、滞在先の済州島で韓国に出張中の花菱会の幹部・花田がトラブルを起こし、そのため張会長の部下が殺されるという事件が発生する。怒った大友は数人の子分を引き連れてこっそりと日本に戻るが、そのことが花菱会内部の会長派と若頭派との権力争いを誘発し、さらには張グループとのバトルに発展していく。

 前回狼藉の限りを尽くした大友が何食わぬ顔で韓国に高飛びし、さらには日本に舞い戻って大殺戮をやらかしても、警察は申し訳程度の捜査をするだけ。いくら裏社会から警察に“根回し”がされていたといっても、現実離れしている。話自体も行き当たりばったりで、登場人物同士が何やらモゴモゴと会話していくと唐突に血の雨が降るというパターンの繰り返しだ。しかも活劇場面は少しも盛り上がらず、カタルシスも無い。

 まあ、これは実録路線ではなく一種の絵空事だと割り切れば、あまり腹は立たないのかもしれない。いわば本作は北野武監督の前作「龍三と七人の子分たち」(2015年)の焼き直しだ。目立ってるのはジジイばかりで、しかも比較的年齢の若い順から死んでいく。年寄りの心意気ここにありという感じか(笑)。

 北野作品に特有の、乾いたギャグや静的な画面配置、そして演出の“呼吸”は本作でも大きくフィーチャーされている。また過去の作品のモチーフもあからさまに採用されており、この監督の虚無的な作風を承知している観客向けのシャシンと言えるだろう。

 主演のビートたけしをはじめ西田敏行、白竜、名高達男、塩見三省といったおなじみの面々に加え、大森南朋、ピエール瀧らが新たに参加。全員が楽しそうに演じているが、言い換えれば予定調和で意外性は無い。強いて挙げれば、前会長の娘婿で元証券マンの野村に扮する大杉漣のヘタレ演技が面白かった程度。

 柳島克己の撮影と鈴木慶一の音楽はいつも通りだ。それにしても、このシリーズは今回で終わるとして、これから北野監督はどういう作品を手掛けるのだろうか。いつまでもオフビートなヤクザ物ばかりではマンネリだ。(前にも書いたが)他から持ち込まれた企画を、他人の脚本を元に撮り上げるという方法をそろそろ考えた方が良いのではないだろうか。
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「ハワーズ・エンド」

2017-10-22 06:21:55 | 映画の感想(は行)

 (原題:HOWARDS END )92年イギリス作品。ジェイムズ・アイヴォリィ監督の絶頂期の一本で、この格調の高さには唸るばかりだ。重厚で端正だが、無駄は省かれ作劇は筋肉質で緩みが無い。また時代の雰囲気を存分に出しながら、凝ったエクステリアの創出に溺れることもなく、正攻法でドラマが組み立てられている。まさに横綱相撲と言うべきだろう。

 20世紀初頭のイギリス。姉マーガレットと妹ヘレン、そして弟ティビーの三人からなるシュレーゲル家は、向かいに住む金持ちのウィルコックス家とはソリが合わない。というのも、以前ヘレンがウィルコックス家の次男ポールと無茶なアバンチュールを展開してから、互いに気まずい関係になっていたのだ。それでもマーガレットはウィルコックス家で唯一芸術を理解するルース夫人と仲良くなる。

 やがてルースは世を去るが、その際に“別荘ハワーズ・エンドはマーガレットに譲る”と言い残す。ウィルコックス家の当主ヘンリーはマーガレットに惹かれ、彼女を後添えに迎えることになったが、ヘレンとヘンリーとの間には確執があり、事は上手くいかない。しかもヘンリーは思いがけず“昔の女”と出くわすハメになり、マーガレットとの仲は危うくなる。E・M・フォースターの同名小説の映画化だ。

 決して豊かではないが知的で進歩的なシュレーゲル家と、ドライな功利主義で財産のあるウィルコックス家。明らかに別々の世界に属する両家だが、その奥底では融和を熱っぽく模索してやまない。その複雑な人間関係と人情の機微を、アイヴォリィの演出は巧みにすくい上げる。

 冒頭、ヴァネッサ・レッドグレイヴ扮するルースの存在感が素晴らしい。露に濡れた木立の間を、白い衣装で歩く彼女の描写から、一気に作品世界に引き込まれる。マーガレットを演じるエマ・トンプソンをはじめ、アンソニー・ホプキンス、ヘレナ・ボナム=カーター、ジェームズ・ウィルビィと当時の英国の名優をずらりと並べ、それぞれに見せ場を用意するという贅沢さ。美術担当のルチアーナ・アリジによる見事な調度品の数々。トニー・ピアース=ロバーツのカメラによる痺れるほどに美しい映像。リチャード・ロビンズの音楽も申し分ない。
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「野良犬」

2017-10-21 06:43:43 | 映画の感想(な行)
 昭和24年製作の黒澤明監督作品。私は“午前十時の映画祭”にて今回初めてスクリーン上で接することが出来た。世評通りの面白さで、当初このネタにしては長いと思われた上映時間も気にならないほど、観る者を引き込んでいく。また、この時代の“空気”を上手く醸成しているのも見事だ。

 警視庁捜査一課の若手刑事・村上は、射撃訓練を終えて帰宅途中、バスの中で拳銃を掏られてしまう。銃の中には7発もの弾丸が残されており、犯罪に使われたら大変だ。村上は上司の指示で窃盗犯係のスタッフに相談し鑑識課の手口カードを調べてもらったところ、女スリのお銀の名が捜査線上に浮かぶ。彼女から銃の密売グループの存在を聞き出した村上だが、折しも件の拳銃を使った強盗傷害事件が発生。村上は所轄のベテラン刑事・佐藤と組んで密売組織のブローカーの本多、さらには拳銃を譲り受けた遊佐を捕まえるために奔走する。



 映画は真夏の出来事として描かれる。とにかく、画面全体から伝わってくる“暑さ”が尋常ではない。冷房も無いバスの車内で満員の乗客に閉口しながら失態を演じてしまった村上の焦りと、それに追い打ちをかけるような炎天下の熱気の描写。密売グループの一味を探すため、ドヤ街を何日も歩き回る村上を悩ませる群衆の人いきれと汗臭さ。本多を逮捕するため、超満員の野球場のスタンドの中を動き回る捜査陣。すべてが殺人的な猛暑を伴って観客に迫ってくる。

 これだけ暑いと、人は体裁を取り繕う余裕は無い。むき出しの本音が画面を飛び交う。そしてそれは、戦後間もない日本の猥雑なバイタリティを表現していることは論を待たない。クライマックスの村上と遊佐との対決は、そこに至る村上の直感と、バックに流れる上流家庭からのピアノの調べが、絶妙の演出だ。

 村上を演じる三船敏郎、佐藤役の志村喬、遊佐に扮する木村功、いずれも好演だ。特に若いころの三船は後年の作品群とは違い、正統派の二枚目ぶりを見せつける(笑)。遊佐の恋人のダンサーを演じる淡路惠子はこれがデビュー作だが、存在感は圧倒的(当時まだ十代だというのも驚きだ)。

 村上と遊佐は共に終戦直後に辛酸を嘗めたが、一方は立ち直って悪を追い詰める側になり、もう一方は犯罪者に落ちぶれる。まさに運命のいたずらだが、厳しい時代状況にあっても、悪は悪として断罪しなければならないという作者の真っ直ぐな正義感が滲み出て好ましい。この頃の日本映画を代表する快作だ。
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「メキシコ万歳」

2017-10-20 06:31:18 | 映画の感想(ま行)
 (原題:QUE VIVA MEXICO!)ソ連の巨匠、セルゲイ・エイゼンシュテインが1928年にメキシコに渡ってから撮った作品だが、1931年に未完のまま製作が終了。フィルムがアメリカに残されて長らく埋もれたままであったが、72年にフィルムがソ連に返還され、撮影スタッフの生存者の尽力で当時の資料を基に79年に完成されたものだ。

 当初は4つのパートから成るオムニバスものだったが、第4話は未撮影である。第1話は当地の古い民謡をバックに結婚式が映し出され、植民地となる前のメキシコの平和な生活を表現している。第2話はスペインのコルテスに占領された植民地時代のメキシコが舞台で、神秘的な聖処女祭が描かれる。ただし、この2つのパートは風俗的な興趣はあるものの、映画としては面白くはない。しかし、第3話はそれまでの凡庸な展開を帳消しにするほど、ヴォルテージが高い。ここだけで観る価値は十分ある。



 20世紀初頭、ポルフィリオ・ディアスによる独裁制の時代。プルケ(火酒)を醸造する竜舌蘭の農場で働く農奴セバスチャンは、許嫁のマリアが地主に乱暴されことに激怒。仲間と共に地主に対して蜂起する。しかし、あえなく鎮圧され反乱分子は処刑されてしまう。マリアはセバスチャンの遺体を前に泣き崩れる。

 ユーリー・ヤクシェフの叙情的な音楽に乗って展開されるこの物語は、まるで神話のような格調高さと重量感に溢れている。展開も実にドラマティックだ。もちろん、作者はこのエピソードを通じて資本主義の矛盾と労働者革命の重要性というプロパガンダを提示したかったのであろうが、そんなイデオロギーの範疇を超えて、映画的面白さに満ちている。

 なお、エピローグとして伝統的な“死の日”のカーニバルを描き、死を笑い飛ばすようなメキシコ民衆の姿が紹介されているが、第3話のインパクトがあるから効果的に見える。とにかく、映画史上にその名を残すこの作家の功績を確認する意味でも、存在意義のある作品だ。
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「ドリーム」

2017-10-16 06:31:31 | 映画の感想(た行)

 (原題:HIDDEN FIGURES)とても面白かった。人種問題に代表される時代の一断面を鋭く描きながらも、語り口は明るく、娯楽性たっぷりだ。取り上げられた題材もすこぶる興味深く、退屈するヒマもなくスクリーンに向き合える。本年度のアメリカ映画の収穫であると思う。

 1960年代初頭、アメリカとソ連は冷戦状態の中、熾烈な宇宙開発競争を繰り広げていた。ヴァージニア州ハンプトンのNASAラングレー研究所の計算センターに勤務するキャサリンは、天才的な数学の才能を持っていたが、黒人であるため出世の道は閉ざされていた。しかし、ひょんなことから働きを認められた彼女は、黒人女性として初めて宇宙特別研究本部に配属される。だが、そこに待っていたのは同僚達の冷たい視線とあからさまな差別だった。一方、計算センターの管理職を目指すドロシーとエンジニアを志すメアリーも、理不尽な環境にもめげずに夢を追い続けていた。やがて3人はその才覚で逆境を跳ね返し、NASAにとって重要な人材になってゆく。マーキュリー有人飛行計画に関与した黒人女性たちの功績を追った実録物だ。

 当時の人種偏見の実態は、かなりヴィヴィッドに描かれる。宇宙特別研究本部には有色人種用のトイレは無く、キャサリンは用を足すため遠く離れた敷地内の別棟まで走らなければならない。職場内のコーヒーカップは同僚と明確に“区分け”され、せっかく資料を作っても手柄は白人の若造が横取りしてしまう。もっとも、当時のNASAは実際それほど酷い差別は存在しなかったようだが、時代の“空気”を再現する意味ではモチーフとして有用で、これらの描写はさほど問題にはならないと思う。

 本作の美点は、これほどまでにシビアなネタを扱っていながら、作風がとことんポジティヴであることだ。彼女たちは、何があってもめげない。逆風なんかユーモアとウィットで笑い飛ばし、生きることを楽しもうとしている。

 序盤、車がエンストして定時に職場に着くことが難しくなった3人を手助けしたのは、彼女たちがNASAに勤務していることを知った白人の警官であった。いくら差別が蔓延っていても、物事の本質を見ている人間は少なからず存在し、努力は必ず報われるというスタンスを作者は全く崩していない。

 キャサリンは夫を亡くし幼い子供を抱えて苦労しているが、やがてそんな頑張り屋の彼女を見初めた素敵な恋人が現れる。ドロシーやメアリーも、家族や仲間に恵まれて心置きなく目標に向かって邁進してゆく。それらが単なる御都合主義ではなく、主人公たちにとって“必然”であるかのように観る者に納得させる求心力が全編にみなぎっている。

 セオドア・メルフィの演出は堅実で、ドラマ運びに淀みがない。主人公を演じるタラジ・P・ヘンソンやオクタヴィア・スペンサー、ジャネール・モネイの3人のパフォーマンスは実に達者で、脇を固めるケヴィン・コスナーやキルステン・ダンスト、マハーシャラ・アリらも良い味を出している。マンディ・ウォーカーのカメラによる南部らしいこってりとした色遣いが印象的な映像、そしてハンス・ジマーと共に音楽を担当するファレル・ウィリアムスとベンジャミン・ウォルフィッシュがナイスな楽曲を提供している。

 人を外観や出自だけで判断してしまうと、彼女たちのような優秀な人材を見い出せず、結局は業務に支障を来してしまうのだ。差別は道徳的にはもちろん、ビジネス面・経済面でも有害であることを改めて痛感する。
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「秋のソナタ」

2017-10-15 06:32:35 | 映画の感想(あ行)
 (英題:Autumn Sonata )78年作品。スウェーデン映画であるが、監督のイングマール・ベルイマンが税金問題に関わっていたため国内で製作できず、ノルウェーで撮影されている。ゴールデングローブ賞の外国語映画賞受賞をはじめ、米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート等、数々のアワードを賑わせた作品だ。しかしながら、個人的にはあまり評価しない。どうも設定に無理があるような気がする。

 ノルウェーの田園地方にある牧師館。夫と暮らすエヴァは、母親のシャルロッテに7年も会っていない。そこで母を自宅に招くために、手紙を書く。車を運転してやってきたシャルロッテは、世界的に知られたピアニストで、老いた今も華やかなオーラをまとっている。母子は笑顔で抱き合うが、2人には秘めたる確執があった。それはエヴァの温厚な牧師の夫も同様で、互いに本音を見せずにどこか余所余所しい態度を取る。



 実は、この牧師館にはシャルロッテのもう一人の娘レナが同居していたのだ。彼女は進行性の麻痺の病気で寝たきりの生活を送っており、以前は療養所に入っていたが、すでに退院していた。母親はそのことを知らないばかりか、見舞いにも行かなかったのだ。その夜、シャルロッテと2人きりで語り合うエヴァだったが、エヴァは酔いに任せて若い頃の母に対する屈託を蕩々と述べ始める。シャルロッテも自分も苦しんだと激しく反論。興奮した母子のバトルはいつまでも続くのだった。

 確かにシビアな話なのだが、観る側としては“仕方が無いだろう”という諦念を抱かざるを得ない。これは同監督の「ある結婚の風景」(73年)と比べてみると、ドラマ的な盛り上がりの違いを認識することが出来る。「ある結婚の風景」の主人公達は夫婦であるが、有り体に言えば夫婦はもともと“他人同士”なのである。だから、行き違いを避けるには徹底的な話し合いと意見の摺り合わせが必要になる。それでもイヤならば別れれば良い。

 しかし、本作の当事者達は親子関係にある。いくら仲違いしようと、安易に関係性を帳消しには出来ない。エヴァとシャルロッテは、傷付け合っても“しょせん親子”であり、このギクシャクした状態で今後も過ごすしか無いのだ。さらにレナの存在は露悪的な部分ばかりが目に付き、観ていてウンザリする。

 シャルロッテ役のイングリッド・バーグマンはこれが最後の出演作になる。いくらシリアスな演技に徹しても、かつての輝かしいキャリアを思い起こすと、この映画の彼女は見るからに寂しい。エヴァに扮するリヴ・ウルマンは好演だが、筋立てにあまり興味が持てないので強い印象は残せない。ただ、スヴェン・ニクヴィストの撮影は見事。この名カメラマンの代表作だろう。
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