元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

SOULNOTEのアンプA-1を試聴した。

2016-04-30 06:35:10 | プア・オーディオへの招待
 先日、今年(2016年)リリースされたSOULNOTEのプリメイン型アンプA-1に触れることが出来たのでリポートしたい。

 価格が17万円で、私も使用している同社のsa3.0とほぼ同じだ。だから当然sa3.0の後継機種という見方も出来るが、居合わせたメーカーのスタッフの話によると、まったく違う製品のようである。アナログアンプとデジタルアンプのハイブリッド構成であったsa3.0とは異なり、A-1は純正のアナログアンプだ。大きなトロイダル型トランスを搭載し、寸法(奥行き)と消費電力と発熱量は大きくなっている。そもそも、同ブランドを主宰していた著名な技術者である鈴木哲が、設計にほとんど関与していないとのことだ(彼と一緒に仕事をしてきたエンジニアが手掛けているらしい)。



 厚手の波型パネルを採用したルックスは、なかなか見栄えが良い。仕上げはシルバーとブラックの2種類が用意されているが、シルバーの方がリスニングルームでは映えるだろう。各部材も吟味されているようで、たとえばスピーカー端子はsa3.0に比べれば大きめだ。これならばケーブルの装着も幾分楽になるかもしれない。

 繋げられていたスピーカーは英国PMC社のものだ。前のsa3.0をはじめこのクラスのアンプとPMC製品とのコラボの音は聴いたことがないので、他のアンプに比べてA-1自体がどういう性格の音なのかはハッキリと把握は出来なかったが、聴いた感じは伸びや切れ味よりも温度感や厚みを重視したサウンドではないかという気がした。なお、スタッフの話だと“強いて言えば、sa3.0の後継ではなく、sa1.0の上級版という位置付けだ”とのことで、以前sa1.0を使用していた身としては納得するところがある。

 もちろん、このブランドのモデルらしく、某社製品みたいにスピーカーを選ぶようなクセの強さは見当たらないので、少なくともこのクラスのアンプでは汎用性が高くて“使える製品”であるのは確かのようだ。



 しかしながら、サイズと発熱が大きいことは置き場所に気を遣う必要がある。加えて、ボリュームがレベルごとにリレーを切り替えるような方式にしているらしく、音量を変えるとカチカチと音が出る。この方式を採用したことによってギャングエラー(左右の音量の違い)をキャンセルすることが出来たらしいが、使用する上で気にするリスナーもいるかもしれない。サウンド面では万人向けだが、使い勝手に関してはユーザーは注意が必要な製品だと言えるだろう。

 なお、ペアになるCDプレーヤーのC-1はこのクラスでは珍しい“CD専用機”で、SACDに重きを置かないリスナーにとっては選択肢が増えそうだ。・・・・というか、すでにメディアとして“終わって”いるSACDに対応するプレーヤーは、高級機だけで十分だと思う。
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「アイアムアヒーロー」

2016-04-29 06:38:26 | 映画の感想(あ行)

 作りが下手だ。面白くなりそうなモチーフは早々に捨て去られ、あとは過去のゾンビ映画のネタを堂々と流用。脚本も穴だらけだ。いくらお手軽なパニック・ホラー編とはいえ、もうちょっとマジメに撮って欲しいものである。

 主人公の鈴木英雄はかつて出版社の漫画コンテストで受賞した経験もあるのだが、35歳になる現在も売れず、傲慢な漫画家のアシスタントとして細々と生計を立てている。ある日、同棲していた恋人が体調を崩し、そのままZQN(ゾキュン)と呼ばれるゾンビになって英雄に襲いかかる。

 何とかその場を切り抜けた彼だが、気が付けばあたり一面にZQNが溢れ、すでに政府も自衛隊も壊滅しているようだ。“標高の高い場所ではZQNは活動できない”という噂を頼りに、道中で知り合った女子高生の比呂美と共に富士の裾野のショッピングモールにたどり着いた英雄だが、そこでは伊浦という青年が“恐怖政治”を敷き、避難民を支配していた。英雄は食料調達の先兵にされてZQNの群れの中に乗り込むハメになるが、安全だと思われた伊浦たちのアジトにもZQNが押し寄せ、絶体絶命のピンチに陥る。

 冒頭、冴えない生活を送る主人公の日常が紹介され、そこに非日常が浸食していくという筋書きになるのだが、そのプロセスが早急に過ぎる。ここをじっくりと描き込めば、よりインパクトが強くなったはずだ(そのために後半のパニック場面が少々削られても構わない)。また、赤ん坊のゾンビに噛まれて“半ZQN状態”になった比呂美が前半に人間離れしたパワーで英雄を救う場面があるのだが、何と彼女が“活躍”するのはそこだけで、あとは“寝たまま”だというのには呆れ果てた。

 ゾンビ化した英雄の恋人は実に不気味な動きをして観る者を驚かせるものの、これ以後ZQNがそういうアクションをする場面は無い。このように重点的に描けば盛り上がるような箇所は放置され、町中でZQNが暴れ回るシーンや中盤以降でショッピングセンターでのバトルや仲間内での裏切り、といった“どこかで観たような場面”ばかりが並べられる。

 そもそも、しがない漫画家のアシスタント風情がライフル射撃の名手だという設定に無理があるのではないか。今は不遇だが実は昔警官だったとか元外人部隊とか、あるいは元ヤクザのヒットマンとか、そういうシチュエーションにした方が違和感が少ない。

 ZQNの生態はハッキリとせず、素早く動ける奴もいれば“従来型のゾンビ”みたいにゆっくりとしか歩けない奴もいるし、ZQN化するプロセスも映画が進むにつれて都合良く変えられていたりする。ほかにも“高速道路上の事故に巻き込まれてもかすり傷一つ負わない主人公達”をはじめ、いい加減な作劇が満載。取って付けたようなラストの脱出劇も鼻白むばかりだ。

 主演の大泉洋はいつも通りの演技。主人公と共闘する元看護婦に扮した長澤まさみもいつも通りの仕事ぶり。比呂美役の有村架純もいつも通り可愛い(笑)。あとの面子は語る価値無し。佐藤信介の演出は特筆できるものが見当たらないし、あえて劇場で観る必要は無いシャシンだと断言してしまおう。
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「ロング・ウォーク・ホーム」

2016-04-25 06:32:22 | 映画の感想(ら行)
 (原題:THE LONG WALK HOME)94年作品。公民権法が制定される前のアメリカ南部を舞台にしたドラマでは、テイト・テイラー監督の「ヘルプ 心がつなぐストーリー」(2011年)には及ばない。しかし、本作もそれなりのレベルは維持しており、丁寧な演出も相まって、観て損の無い出来に仕上がっている。

 55年のアラバマ州モンゴメリー。白人家庭の主婦ミリアム・トンプソンは、頑固だが人の良い夫ノーマンと2人の娘に囲まれて、何不自由ない生活を送っていた。黒人メイドのオデッサはこの家に9年間勤めており、何かとミリアム達を助けていた。そんなある日、黒人女性が白人にバスの席を譲らなかったことから逮捕されるという事件が発生。これに怒った5万人の黒人が、バスをボイコットする騒ぎに発展する。



 オデッサもトンプソン家までの長い道のりを歩いて通うことを決意するが、見かねたミリアムは夫に内緒で彼女を車で送り迎えする。最初はオデッサのためを思ってそういう行動に出たミリアムだったが、人種差別の実態を知るにつれ、次第に事の重大さを理解していく。やがてオデッサの娘が白人の不良連中にからまれたことをきっかけに、ミリアムは夫の反対を押し切り、黒人達と連帯するようになる。実話を元にした映画化だ。

 絶妙な小道具と重層的なキャラクター配置で完成度の高さを見せつけた「ヘルプ 心がつなぐストーリー」に対し、この映画は平易に対象を描いている。そのあたりが物足りないとも思えるが、リチャード・ピアスの演出は正攻法そのもので、こういうテーマを扱う上でありがちなセンセーショナル性やセンチメンタリズムを過度に前面に出すようなことはない。ケレンに走る一歩手前で踏みとどまり、抑制された作劇を実現させている。

 それがよく表れているのは、黒人への差別意識で盛り上がる“良識的な”白人達のパーティの場面をサッと切り上げて、オデッサとミリアムが現状と将来についてしみじみと語り合う場面に移行するシークエンスのように、何気ない日常の方を重視するやり方だ。メッセージを無理なく伝えることに関して、賢明な方法だと思う。

 ミリアム役のシシー・スペイセク、オデッサに扮するウーピー・ゴールドバーグ、共に好演。南部の風景を美しく捉えたロジャー・ディーキンスのカメラと、ジョージ・フェントンの格調高い音楽も良い。
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「リップヴァンウィンクルの花嫁」

2016-04-24 06:27:35 | 映画の感想(ら行)

 岩井俊二監督の衰えが如実に感じられる一作。卓越したインスピレーションも技巧面の非凡さも見当たらず、小綺麗だが微温的な画像が延々3時間も流れるだけ。何のために撮ったのか分からないシャシンだが、製作側としてはたぶん“岩井ブランド”には今でも一定の商品価値があると踏んでゴーサインを出したのだろう。

 中学校の派遣教員をしている皆川七海は、SNSで知り合った鉄也との結婚を決める。ところが彼女の両親は随分前に離婚しており、そのせいか式に出席してくれる親族は少ない。思い悩む七海の前に突然現れたのが“便利屋”と称する安室という男。彼の勧めるままに代理出席者を多数頼んでその場は乗り切るが、鉄也の母親カヤ子は彼女を信用してはいなかった。結婚からしばらく経って、カヤ子の奸計により七海は浮気の濡れ衣を着せられ、鉄也と別れるハメになる。

 帰るところも無くなった彼女は場末のホテルに職を得て細々と暮らしていたが、またもや現れた安室が今度は彼女に式の代理出席者のバイトを斡旋する。その仕事で知り合ったAV女優の里中真白が住む豪邸でメイドとして働くことになった七海だが、真白は難病を患っていて余命幾ばくも無い。七海は真白に残された日々を一緒に過ごすことを決める。

 黒木華演じる七海の教壇での弱気でオドオドとした態度は、成島出監督の「ソロモンの偽証」(2012年)で彼女が演じた役柄と一緒であり、この芸の無さを見せつけられた時点で早々に鑑賞意欲が減退する。彼女はおそらく身近にいる男とマトモに付き合ったことは無い。SNSで交際相手を見つけようとはするが、鉄也と知り合ってからも“受け身”の態度を変えようとはせず、せいぜい心情をネット上で書き連ねることしか出来ない。

 さらにはどう見ても怪しい安室という男を、単に“目の前に現れたから”という理由で簡単に信用し、結果的に逆境に追い込まれてしまう。こういう依頼心が強くて鬱陶しい女をそれらしく表現しているのは黒木の実力の賜物であるが、頑張れば頑張るほどマイナスオーラが発散され、観ているこちらはウンザリしてくる。

 真白のキャラクターも噴飯物で、演じているCoccoには色気も若さも感じられず、これでAV女優という設定はデタラメだ。そんな真白が邸宅に住める道理も無ければ、手前勝手な願望で七海を巻き込む必然性も存在しない。綾野剛扮する安室のキャラクターに至っては、得体の知れない雰囲気を振りまくだけで全然深く掘り下げられていない。

 このように“宙に浮いた”ような登場人物達が、甘ったるい映像の中で寸劇じみたものを嬉々として展開する様子を長時間見せつけられるに及び、不愉快な気分になってきた。おそらく作者の言いたいことは終盤での真白のモノローグに集約されているとは思うのだが、それをテーマにするならば設定や作劇を根本から見直すべきだ。しかし、今の岩井にそれだけの力量があるとは思えない。

 過去の作品で何度となく唸らされた音楽の使い方も、本作では陳腐そのもの。クラシック音楽に芸のないアレンジを施して、漫然と流しているだけだ。取って付けたようなハッピーエンド(のようなもの)も含めて、鑑賞後の印象は最悪。もはや岩井は見限って良い作家だと思う。
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「達磨はなぜ東へ行ったのか」

2016-04-23 06:11:50 | 映画の感想(た行)
 (英題:Why Did Bobhi Djarma Go East? )89年韓国作品。静謐な美しさが感じられる映画だ。単に映像がキレイであるというだけではなく、深みがある。監督のペ・ヨンギュンはこれがデビュー作だが、大学で美術を教えているというキャリアからも頷けよう。仏教を題材にしているが、特定の宗教に特化したようなアプローチは成されておらず、普遍的にアピールできるモチーフを採用しているあたりも感心した。

 人里離れた山奥の小さな禅寺に引き取られた孤児のヘジンは、ある日、つがいの鳥の片方を殺してしまう。残されたもう一方はヘジンに復讐しようとして付きまとい、おかげで彼は道に迷い、果ては崖から滑落した落ちたりと、踏んだり蹴ったりの目に遭う。青年僧キボンは母親を見捨てたことへの悔恨から荒行に励むが、激流に流される。キボシを助けようとした老僧ヘゴクも寝込んでしまう。



 主な登場人物は上記の3人だが、頻繁に会話を交わすわけではない。しかしながら、言葉では表現出来ない屈託や葛藤が、圧倒的な自然の風景と空気感、そして音響によって観る者を包み込む。

 幾分抽象的なヘゴクとヘジンの苦悩に比べ、キボンの境遇は身につまされる。目の見えない母の面倒を妹に押しつけ、一度は実家に戻るが、厳しい現実を目の当たりにして逃げ出してしまうのだ。いくら修行を積んだところで、卑近な事実を見せつけられれば途端に下世話な次元に拘泥してしまう。だが、こういう人間の愚かさを一方に見据えた上で、崇高な悟りは存在するのではないかという、作者の透徹した視点が窺われる。

 第42回ロカルノ国際映画祭で5部門を獲得。カンヌ国際映画祭でも上映されている。ペ・ヨンギュンはこれ以降映画を撮ったというニュースは聞かないが、本作を超える作品を容易にモノに出来るとは思えず、それはそれで良かったのかもしれない。
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「グランドフィナーレ」

2016-04-22 06:29:22 | 映画の感想(か行)

 (原題:YOUTH )ラストで響き渡る主題歌「シンプル・ソング」は素晴らしい。曲調はもちろん、ソプラノのスミ・ジョーとヴァイオリンのヴィクトリア・ムローヴァという一流プレーヤーを配した演奏陣のパフォーマンスは、まさに音楽の持つ力を底の底まで掘り下げ、鮮烈な感動を観る者に与える。しかし、この映画で良かったのはこのパートだけなのだ。あとは観る価値は無い。

 アルプスの高級スパ・リゾートホテルに滞在している老作曲家フレッドのもとに、英女王からの勲章の授与と出演のオファーが届く。しかし、自分はもう引退した身であるからと、申し出を断る。そのホテルにはかつては名声を欲しいままにした元サッカー選手や、それなりの実績はあるが昔主演して大ヒットしたヒーロー映画の役名で今でも呼ばれることにウンザリしているハリウッドの役者、そしてフレッドの60年来の親友である映画監督のミックらが宿泊していた。

 ミックは若いスタッフたちと新作の企画を練っていたが、主演予定のベテラン大物女優のブレンダからは良い返事がもらえない。そんな中、フレッドは同行していた娘のレナがミックの息子にフラれたことを知る。それはミックにとっても初耳で、驚いた彼は息子を呼び出すが、彼は新しい恋人を連れて来て仲の良さを見せつけるばかり。フレッドはレナを慰めようとするが、仕事一筋で家庭を顧みなかった父親に心を開こうとはしない。そこで彼は「シンプル・ソング」にまつわる妻への想いを初めて打ち明ける。

 一線を退いた音楽家と往時の才覚が失われつつある監督が、昔日の想いに捉われつつも現在の状況に折り合いを付けるまでを描く。当然、そのため2人の心象風景的なショットが大々的にフィーチャーされるのだが、これが退屈極まりない。

 たとえば、フレッドが牧場の前で“指揮棒”を振ると、牛の鳴き声や風の音、鳥のさえずり等が一大シンフォニーになって響き渡る場面では作者のドヤ顔が見えてくるようだが、残念ながらタイミングと見せ方が凡庸で、寒々とした空気が流れるだけだ。また、失意のミックが見る過去に自分が手掛けた作品のキャラクターたちが草原に一堂に会する幻想シーンも、段取りが平板で画面の奥行きも感じられず、観ていてシラけてしまう。斯様な具合で年寄り2人のグチめいた映像スケッチが延々と並べられ、加えて他の宿泊客のどうでもいいような思わせぶりな言動がワザとらしく被さってくる。

 監督のパオロ・ソレンティーノはフェデリコ・フェリーニら往年のイタリアの巨匠の影響を受けていることは間違いなく、ラストクレジットに至っては“フランチェスコ・ロージに捧ぐ”というフレーズまで出てくるのだが、彼の力量は名監督達の足元にも及ばず、単にモノマネ(のようなもの)を披露しているに過ぎない。

 マイケル・ケインにハーヴェイ・カイテル、レイチェル・ワイズ、ポール・ダノ、そしてジェーン・フォンダという豪華なキャスティングも虚しい。ただ、アルプスの風景は大層美しいので、観光映画としてはそこそこ評価されよう。
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「スピード」

2016-04-18 06:25:30 | 映画の感想(さ行)
 (原題:SPEED )94年作品。ヒットした映画で、ストーリーを詳述する必要もないだろう。主演のキアヌ・リーヴスとサンドラ・ブロックが一躍有名スターの仲間入りをした作品としても知られるが、今から思い起こすと、それよりもカメラマン出身のヤン・デ・ボン監督の個性が目立っていた映画だと思う。

 カメラマン出身ということもあるのだろうが、台詞に頼らずに映像だけでドラマのシチュエーションを的確に説明してしまうテクニックは、当時のプロデューサーが残したらしい“映像が映画と一体化している”というコメントがピッタリだと思う。たとえば主人公2人がそれぞれ仕事の現場に出かける際、同じようにガムを噛み、同じようにドリンクを頼み、同じリズムで身体を動かしている様子を画面に確実に捉え、このまま2人が気の合う仲になることを暗示させる。



 さらには、絶体絶命の状態において2人の表情を短いカットで交互に映し、微妙な心情の変化を表面化させる手法。そしてラスト近くの無数のガラスの破片が結婚式みたいに抱擁する2人に降り注ぐシーンに至っては、映像派として大見得を切った作者のドヤ顔が目に浮かんでくるようだ(笑)。

 脚本の流れと作劇のテンポは文句なし。デニス・ホッパー扮する悪役もアクが強くてよろしい。佐藤純弥監督の「新幹線大爆破」(75年)との設定の類似性も指摘されたが、この作品の方が娯楽編として優れていると思う。

 ヤン・デ・ボンは2003年の「トゥームレイダー2」以降の仕事は伝わってこない。今は何をしているのか分からないが、もしも元気に仕事が出来る状態であるならば、新作を撮って欲しいと思う。
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「ルーム」

2016-04-17 06:46:35 | 映画の感想(ら行)

 (原題:ROOM)あまりにも薄味で突っ込み不足。手応えが無さすぎる。本来描くべきポイントは手抜きされ、作者が描きたいと思っていたであろう部分は言葉足らずのために説得力を欠く。聞けばいくつかの映画賞を獲得しているらしいが、その高評価もにわかに信じがたい。

 若い女ジョイと5歳になる息子のジャックは、狭い部屋で暮らしていた。実はジョイは7年前に男に誘拐され、それからずっと部屋に閉じ込められているのだ。ジャックは誘拐犯に乱暴された結果、産まれた子供である。ある日、ジョイは一計を案じ、ジャックに死んだふりをさせて犯人に部屋の外に運び出させることに成功。すぐさま逃げ出したジャックは警察に保護され、監禁部屋の存在も明るみになり、犯人は逮捕。ジョイも無事救出される。だが、7年ぶりに帰宅すればジョイの父親は家を出ており、母親は別の男と暮らしていた。何もかも変わった状況に彼女は戸惑いを隠せない。当然のことながらジャックも外界に慣れるのに時間が掛かり、加えてマスコミや世間からの好奇の目にさらされる。アイルランド出身の作家エマ・ドナヒューの同名ベストセラー小説の映画化で、ドナヒューは脚本も担当している。

 犯人はどうやって7年もの間、ヒロインを監禁できたのか。どのように出産に対応したのか。閉じ込められていた場所は人里離れた土地ではなく一般の住宅地だが、近所の者に勘付かれる危険性は無かったのかetc.そういうことには一切触れられていない。

 ジョイがジャックの死を告げたとき、なぜ犯人はそれを良く確かめなかったのか。最初に対応した警官は、ジャックからの数少ない情報でどうやって犯人宅を突き止めたのか。ジャックが逃げた直後、焦った犯人はなぜジョイに危害を加えなかったのかetc.そういったことも説明していない。もちろん、犯人のプロフィールも全然紹介されない。要するに犯罪ドラマとしてのプロットは穴だらけだ。

 ならばこの親子が救出されてからのプロセスはどうかというと、何とも煮え切らない。二人の葛藤が、型通りなのだ。定石通り悩み、定石通り周囲と衝突し、定石通り自暴自棄になるが、これまた定石通り立ち直る。作者としてはこの部分を重視したかったようだが、斯くの如く筋書きが腰砕けで話にならない。

 特に、ピンチに陥ったジョイがジャックの髪の毛の束を貰っていつの間にか回復してしまうくだりは、あまりの安直さに脱力した。かと思えば母親の新しい交際相手は何の屈託も無くジャックと打ち解けてしまうし、そもそもヒロインの家庭は元々裕福で、あまり切迫した印象を受けないのも辛い。

 レニー・アブラハムソンの演出は平凡。本作でオスカーを獲得した主演のブリー・ラーソンは熱演ではあるが、正直言ってある程度のスキルを持つ俳優ならば誰でもやれる仕事だと思う。父母役のジョアン・アレンとウィリアム・H・メイシーは堅実に役をこなしているが、それほどドラマ面でクローズアップされていないのは不本意だっただろう。

 唯一目立っていたのがジャックに扮したジェイコブ・トレンブレイで、見た目の可愛らしさに加えて演技のカンも良く、今後も注目される子役だと思う。もっとも、アチラの映画界では有名になりすぎた子役が成長して身を持ち崩すケースは少なくないので、注意して欲しい(苦笑)。
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雑誌「暮しの手帖」について。

2016-04-16 06:39:10 | その他
 今年(2016年)4月に始まったNHKの朝の連続ドラマ「とと姉ちゃん」は、雑誌「暮しの手帖」の創刊者の一人である大橋鎭子の生涯を題材にしている。「暮しの手帖」は昭和23年に創刊。それから出版元の経営が危うくなる等の紆余曲折があったが、現在でも刊行されている。一応婦人向けの雑誌なのだが、実を言うと私が十代の頃、この雑誌の密かなファンだった(笑)。

 とはいっても、リアルタイムで購読していたわけではない。昔、実家の押入れの奥にけっこうな冊数の古本が仕舞われており、ヒマな時にページをめくっていたのである。どうしてこの雑誌にハマったのかというと、他とは違う屹立したポリシーがあったからだ。それは、徹底的に読者の立場を考慮するというものだった。借り物の価値観や商業ベースのトレンドを廃し、軽佻浮薄なハヤリ物にも背を向け、編集者が真に読者にとって有用だと思った情報だけを提供しようとしている、その姿勢に感心したものだ。



 そのスタンスが最大限に発揮された企画が“商品テスト”であった。市場に出回っている家庭用品や食品を一度に集め、実際に品質を確かめようというものだが、その手法は具体的かつシビアで、妥協を許さない。余計なバイアスを回避するために、原則として雑誌には他社の広告を載せないという徹底ぶりだった。個人的にウケたのはエアコン(当時はルームクーラーという名称が一般的だった)のテストで、そのエントリー品目の中にわが家で使っていた機種も入っており、当の使用者も気が付かないような微妙な操作性の特徴をズバリと指摘していたのには驚くしかなかった。

 他にはガスオーブンや電気カミソリ、冷蔵庫や炊飯器、さらにはインスタントラーメンやレトルトカレーまでがテストの対象になっており、読んでいるだけでも面白い。どんなに有名なメーカーの人気商品であろうが、テスト結果が芳しくなければ、容赦なくこきおろす。時には“消費者をバカにしている。即刻販売を停止せよ!”という、過激なフレーズが誌面を飾ることさえあった。

 残念ながら2007年を境に“商品テスト”は中止になっている。理由は人手とコストらしいが、買い物下手な“B層”が幅を利かせる昨今だからこそ、復活させてほしいと思う。

 さて、もしもこの“商品テスト”がピュア・オーディオ機器を対象に実施されたらどうなるのだろうか。おそらく全機種に対し“消費者のことを考えていない。市場に出す価値なし!”と裁定されるだろう。サイズと重量がやたら大きいくせに、取っ手も付けられておらず、使いまわしに苦労する。発熱と消費電力がバカにならない。接続端子の大きさと位置がデタラメだ。ツマミが小さく安っぽい。操作スイッチのレスポンスが悪い。そもそも“スピーカーケーブルの被膜を取り去って芯線を出す”などという“高難度”の作業を使用者に強いること自体が大間違いetc.とにかくボロクソに叩かれるはずだ(大笑)。

 話が逸れたが(^_^;)、とにかく大橋鎭子と共同発行者の花森安治が現役だった頃の「暮しの手帖」は、端倪すべからざる存在感があったのは確かなのだろう。“商品テスト”以外でも、大橋のエッセイや質量とも圧倒的な読者投稿欄など、読み応えのあるコーナーが多かった。
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「ボーダーライン」

2016-04-15 06:21:25 | 映画の感想(は行)

 (原題:SICARIO )始まってから30分ぐらいの、アメリカとメキシコの国境線で繰り広げられる銃撃戦までは面白い。黒塗りの専用車を連ねて市中を疾走する主人公達と、それを不気味に追う現地警察。やがて国境のハイウェイで渋滞に捉まるが、いつの間にかギャングの一味に囲まれていた。襲撃を開始する悪者どもに対して、こちらも情け無用の銃弾の雨をお見舞いする。衆人環視の元で高速道路が血に染まり、まさに日常生活の隣に生々しい暴力が控えているという、彼の地の切迫した状況を容赦なく描き出している。しかしながら、映画のテンションはこのシークエンスを境に落ちる一方。終わってみれば凡作に過ぎず、徒労感ばかりが大きい。

 アリゾナ州チャンドラーで誘拐事件の容疑者宅への奇襲捜査を指揮した参加したFBI捜査官のケイト・メイサーは、その功績から上司の推薦により国防総省のマット・グレイヴァー率いるチームに加わることになる。その目的は、誘拐事件の主犯とされるメキシコ麻薬カルテルの親玉マニュエル・ディアスを追い詰めることだ。国境の町エル・パソに移動したケイト達は、マットのパートナーで正体不明のコロンビア人、アレハンドロと合流。メキシコ側のシウダー・フアレス市に入り、作戦の実行に当たる。

 メキシコのマフィアの狼藉ぶりと社会全体の歪みは、すでに多くの作品に取り上げられている。小説ならばドン・ウィンズロウの「犬の力」という秀作があり、映画でもエドワード・ジェイムズ・オルモス監督の「アメリカン・ミー」(92年)やスティーヴン・ソダーバーグ監督の「トラフィック」(2000年)といった注目作がある。そして同じくシウダー・フアレスを舞台にしたシャウル・シュワルツ監督の「皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇」(2013年)は、迫力満点のドキュメンタリーだった。しかしながら、この「ボーダーライン」がそれらの作品に比肩するとは全然思わない。

 結局ヒロインのケイトはただの狂言回しであり、自分から何かアクションを起こすような存在ではないのだ。ならば他のキャラクターはどうかといえば、マットは傍観者に過ぎず、ケイトのチームメイト達も“その他大勢”でしかない。

 ならば残るのはアレハンドロだが、登場人物の中では唯一バックグラウンドに言及されており、作者の彼への思い入れの強さが感じられる。だが、後半で明かされる彼の“正体”が興味深いものなのかといえば、そうではない。彼の言い分は十分に衝撃的ではあるものの、極端にインモラルな状況であるこの地域においては、別に驚くようなことではないのだ。

 監督のドゥニ・ヴィルヌーヴはこのアレハンドロの造形に、例によって粘り付くようなタッチで臨む。ところがキャラクター自体が観る側にとって掘り下げるに値しないものであるため、ドラマが停滞する結果にしかならない。中盤以降のテンポの悪さは、ここに起因している。

 ケイト役のエミリー・ブラントとマットに扮するジョシュ・ブローリンは、今作では可もなく不可も無し。アレハンドロを演じるベニチオ・デル・トロだけが得意気だが、役柄自体が斯くの如しであるため、あまり盛り上がらず。ヨハン・ヨハンソンの音楽とロジャー・ディーキンスのカメラだけは優秀だが、あまり広くは奨めたくないシャシンである。
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