元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「戦争と青春」

2015-02-28 06:35:52 | 映画の感想(さ行)
 91年作品。公開当時に、この映画をベタボメしている評論家が多かったのには呆れたものだ。それも内容ではなく、問題意識の面だけで評価している。これがいったい“評論”と呼べるのであろうか。別に問題意識そのものが悪いとは思わないが、とにかくこのヘタクソな映画づくりは勘弁してほしい。

 東京の下町に住む高校生のゆかりは、親から戦争体験を聞きリポートにまとめるという宿題を出される。さっそく父親に話を聞こうとするが、得られたのは要領を得ない返答ばかり。そんなある日、父親の姉が飛び出した子供をかばって交通事故に遭う。背景には伯母の戦時中の体験があったようで、それをきっかけに父親は重い口を開き、ゆかりは父と伯母の戦争体験を知ることになる。



 女優二人にそろって二役を演じさせていながら、それを少しもドラマとして生かしていない。そっくりの顔の女が出て来るのに、ほかの人物がその事実をまるで無視するなんて、どういうことだろう。

 ヒロインの回想場面での、恋人と花畑で手をとりあって踊るシーンの信じられないほどのアナクロニズム。登場人物の設定などステレオタイプそのもので、やたら説明的で言い訳的なセリフ(米軍の本土空襲に対して、非戦闘員への空襲は日本軍の方が先だった、という歴史の授業みたいな展開など)の連発。ハッキリ言って、主演が工藤夕貴でなかったら、昭和30年代の映画と錯覚しただろう。

 封切られた頃に労働組合がこの映画の前売券を扱っていた事実が示すように、これは旧総評系時代錯誤の輩が好みそうな映画なのである。冒頭、ヒロインの通う高校の夏休みの宿題として“身近な戦争体験”をリポートするように言いつける先生は、明らかに日教組の構成員だし、判で押したような周囲の人々の描写も、大昔の組合運動高揚映画そっくりだ。

 “大金をかけた空襲シーン”が売り物だったらしいが、そんなことをセールス・ポイントにすること自体古い。この映画は一般大衆から費用を集めるという新しい製作手段を採用したことも話題だが、映画製作に一口10万円以上の金を出す“一般大衆”とは、本当の意味での“一般大衆”だったのかすこぶる疑問だ。

 監督は今井正で、これは彼の最後の作品である。かつて内外の映画賞を賑わせた巨匠も、この程度の作品でキャリアを終えてしまったことは寂しいことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「Facebookで大逆転」

2015-02-27 06:26:35 | 映画の感想(英数)

 (原題:FRIENDED TO DEATH )タッチは軽薄で演出にはコクが無く、キャストの演技にも特筆すべきところはないというチャラけた作品なのだが、観終わってみれば満足感を得られたりする。やはり題材を吟味して選べば、作りが大したことが無くても印象に残る映画は出来てしまうものなのだ。

 ロスアンジェルスで交通取締官として働くマイケルは、手当たり次第に切符を切りまくり、運転手からクレームを付けられるとその様子を頻繁にネットにアップして喜ぶという、どうしようもない野郎である。そんな鼻つまみ者の彼だが“オレはFacebook上ではたくさんの友達がいるのだ!”と豪語し、反省する気配は無い。

 そんなある日、彼は傲慢な働きぶりから仕事をクビになり、さらには親友だと思っていたジョエルが自分に声を掛けないで誕生日パーティーをやっていたことをFacebookのタイムラインで知ってしまう。怒ったマイケルは同僚のエミールのIDを勝手に借用して、自分が死んだという記事をアップする。そうすることによって、葬式に来てくれる本当の友達がどれだけいるのか確かめようとするのだが、ある理由からマイケルをストーキングする女の存在によって、事態は意外な展開を見せる。

 実生活ではクソみたいな性格でも、ネット上では大勢の“友達”に囲まれているからそれでいいのだ・・・・などという勘違いをしている奴を槍玉にあげているのは面白い。私みたいに無駄にネットワーカー歴が長い人間からすれば、そんな奴は珍しくもないのだが、それでもSNSが普及した現在では取り上げる価値がある。

 もちろんマイケルが仕組んだ“葬式”がそう上手くいくはずもなくドタバタの笑劇が繰り広げられるのだが、その騒動を経て登場人物達が幾ばくかの“成長”を遂げるのは観ていて気分が良い。

 ネット上の“友達”なんか、本当の友人ではない。たとえオフ会などで実際に相手に会っても、どこの馬の骨とも知れない者との付き合いはそう意義のあるものではない(多くの場合、ただの気分転換だ)。しかしながら、ネットのどこかに自分を理解してくれる(かもしれない)人間も存在しているという可能性を示唆している本作の志は決して低いものではない。特に、主人公に辛く当たっていた者が実はマイケルを心配していたことが明らかになるシークエンスは、結構ジーンと来てしまった。

 主役のライアン・ハンセンをはじめ馴染みの無い連中ばかり出ているが、こういうお手軽な作品ではあまり気にならない。監督は若手女流のサラ・スミックで、ストーカー女役で出演もしている。西海岸らしい(?)明るくカラフルな映像も楽しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ミュージックボックス」

2015-02-23 06:35:27 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MUSIC BOX )89年アメリカ作品。70年前後に“社会派三部作”を撮り存在感を示したコスタ・ガブラス監督の、80年代以降の代表作と言えるものだ。政治的なメッセージ性はもちろん、ミステリー映画としてもかなり高いクォリティを実現している。

 弁護士のアンの父親マイクは第二次大戦後にハンガリーからアメリカに移民し、これまで平和に暮らしてきた。ところがある日、突然ハンガリー政府が彼をユダヤ人虐殺の犯人として引き渡しを求めてくる。マイクは戦時中ハンガリーを支配していたファシスト政権・矢十字党の憲兵のメンバーだったというのだ。



 父の無実を信じるアンだが、マイクが移民の際身分を偽っていたこと、ユダヤ人弾圧を指導していた特務部隊のミシュカという男と同一人物であるという証言が出てくるなど、状況はかなり不利だ。それでもアンは地道な捜査を続け、検察が提示してくる証拠を一つ一つ切り崩していく。果たしてアンは父親の潔白を立証することが出来るのか。

 アンに扮するのはジェシカ・ラングで、プロ意識の高い法曹人を好演している。ヘタをすれば、優しかった父親の黒歴史を暴くかもしれないという懸念に押し潰されそうになりながら、完璧とも思える検察側の主張に敢然と立ち向かってゆく、その気負いが痛いほど伝わってくる。

 いつもはセンセーショナルな題材を得意とするジョー・エスターハスの脚本は、彼が同じハンガリーからの移民であることもあって、密度が濃く堅牢に仕上がっている。特にラストの衝撃は、過去のことを都合よく水に流すことが“美徳”とされている日本人にとってはあまりにも厳しい現実を見せつける。

 私はこの矢十字党の存在をこの映画で初めて知ったが、調べてみるとゲシュタポも真っ青になるほどの残虐性を持っていたようで、ヒットラーからも煙たがられていたようだ。こんなゴロツキみたいな連中が国民の支持を受けて政権の座に就いたことがあるというのだから、行きすぎた国家主義は恐ろしいものがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「深夜食堂」

2015-02-22 10:43:38 | 映画の感想(さ行)

 奇しくも先日観た「さよなら歌舞伎町」と同じ舞台(新宿)、そして同じグランドホテル形式、さらに似た場面もあるという映画なのだが、出来の方は本作が上だ。同様のネタを扱っても、送り手のレベルによって大きく違う結果が出てくるのだから、作品のコンセプトと作劇を煮詰めるプロデューサーの責任は重大である。

 新宿の裏通りに、深夜0時になると開く食堂がある。メニューは豚汁定食とビール、酒、焼酎しかないが、客からのリクエストがあればマスターは出来るだけ対応する。この食堂には、毎晩料理の味と居心地の良さを求めて人が集まる。ある夜、店に何と骨壷が置き忘れられていた。常連達は戸惑うが、その間にも次々と客がやってくる。

 最近愛人を亡くした女は、食堂に居合わせた若いサラリーマンと良い雰囲気になる。新潟の実家を飛び出し浮浪者同然の姿でこの店にたどり着いた若い女は、住み込みで働くことになり、常連客の女に会うため東北から出てきた中年男も、心に大きな屈託を抱えている。安倍夜郎の同名コミックの映画化で、監督は松岡錠司。

 各エピソードは御都合主義的だが、このようなタイプの映画では許される。ストーリーではなく“語り口”を楽しむ作品であり、その意味で狂言回しであるマスターと客達との“距離”が上手く取れていることに感心した。マスターは客に対して助言したり、真に困窮している者を助けたりはするが、他人の人生に踏み込むようなことはしない。食堂の主人という立場をわきまえた上で、出来ることをするだけだ。

 その“寸止め”の有り様が的確で、結果としてリアリズムよりも癒し系ドラマ(嫌な表現だが ^^;)の側面がクローズアップされ、万人にアピールできるような内容に仕上がったと言えよう。福島の被災地のエピソードも「さよなら歌舞伎町」みたいなワザとらしさは希薄で、しみじみと迫ってくる。

 特筆すべきは各パートで料理が絶妙の小道具になっていること。出てくるメニューはすべて庶民派だが、どれも素晴らしく美味しそうに撮られており、話にもうまく絡んでいる。食堂およびその周囲のたたずまいも、実に情緒があってよろしい。

 マスター役の小林薫をはじめ高岡早紀、柄本時生、菊池亜希子、田中裕子、オダギリジョー、余貴美子など多彩なキャストが持ち味を出して場を盛り上げている。特に久々登場の筒井道隆と、演技に成長の跡が見られる多部未華子の頑張りは印象的だった。そして鈴木常吉によるテーマ曲をはじめ、音楽の使い方に細心の配慮が成されていることに感心した。深夜しか開いていないのはネックだが、こういう食堂があれば私も足を運んでみたくなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「スカイ・キャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」

2015-02-21 06:29:00 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Sky Captain and the World of Tomorrow )2004年作品。監督のケリー・コンランが、自宅のパソコンで「ワールド・オブ・トゥモロー」という6分間の短編映画を作り、それが大手映画会社の目にとまって劇場版にブローアップする形で作られた作品らしい。なるほど、確かに最初の6分間というか、導入部分だけは面白いと言える。

 1939年、万国博覧会が開催されているニューヨークで、女性新聞記者のポリー・パーキンスは著名な科学者が連続して行方不明になっている事件を独自で取材していた。ところがある日、空から奇妙な巨大ロボット軍団が飛来して街を破壊してゆく光景に直面する。特ダネをカメラに収めようとするポリーだが、ロボットの魔の手は彼女にも迫る。間一髪で助けに入ったのが、空軍特殊部隊のパイロットでスカイキャプテンことジョー・サリヴァンであった。



 二人は今回のロボット襲撃事件と科学者連続失踪事件が裏で繋がっていることを疑い、共同で調査を始める。そんな彼らに世界征服を企むドイツ人科学者トーテンコフ博士と、その一味が立ちふさがるのであった。

 巨大ロボット軍団とスカイ・キャプテンとのバトルが面白い。ハイテク兵器に立ち向かうのが基本性能が優れているとは思えないP-40戦闘機というのも御愛敬ながら、通信用の電波が空中で円弧を描くとか、地図の上を飛行機が飛ぶとか、レーザー銃からドーナツ状の光が発射されるとかいった、ノスタルジックな趣向がてんこ盛りであるのは楽しめる。アクション場面に緊張感がないのも雰囲気にピッタリだ。



 だが、それ以降の、敵の本拠地に乗り込む場面になるとヴォルテージはダラ下がり。「キングコング」や「インディ・ジョーンズ」の二番煎じ的な映像(つまり、よく見かける画面)の連続で出るのはアクビばかりである。ハッキリ言って、このネタで2時間は辛い。基本的に6分間しか息が続かない監督であるから、引っ張っても1時間ちょっとでサッと切り上げるべきだった。

 主演のジュード・ロウとグウィネス・パルトロウの演技も特筆する箇所はない。見ていて楽しかったのは軍服姿のアンジェリーナ・ジョリーぐらいだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「さよなら歌舞伎町」

2015-02-20 06:25:35 | 映画の感想(さ行)

 つまらない。設定は悪くないし、出演者も(約一名を除いて)それなりのメンバーを揃えてはいるが、まったく面白くならないのは演出と脚本が三流だからである。監督の廣木隆一もシナリオ担当の荒井晴彦も、かつて良い仕事をしていた時期は(ごく短い間)あったが、今では完全に“終わっている”連中だ。こういう面子を起用したことはプロデューサーの責任であり、早い話が企画段階でボツにするべきネタである。

 周囲には“オレは一流ホテルに勤めている”と公言しているが、実はしがないラブホテルの雇われ店長をしている徹は、ミュージシャン志望の沙耶と一緒に暮らしている。しかし最近は倦怠期に入り、プロデビュー間近の相手にも気の利いた言葉一つ掛けられない。

 徹は今日も歌舞伎町にある職場に出勤し多忙な一日が始まるが、ホテルでは家出少女と来店した風俗スカウトマンや、間もなく時効を迎える男と潜伏生活を送る清掃のおばちゃん、常連の韓国人デリヘル嬢、不倫真っ最中の警察官カップルなど、多彩な顔ぶれがそれぞれのドラマを繰り広げ、同時に種々雑多なトラブルも持ち込まれる。徹自身も家族や同僚達が抱える悩みに対応しきれなくなり、ここから去る時が近いことを意識するのであった。

 いわば“ラブホテルを舞台にしたグランドホテル形式”(おかしな表現だが ^^;)の映画で、それ自体は別に悪くないだろう。御都合主義的な箇所も多数見られるが、こういうスタイルの映画では大きな欠点ではない。問題は筋書きや描写がどうしようもなく低レベルであることだ。

 オープニング場面、沙耶が部屋でド下手なギターとド下手な歌を披露し、こりゃたまらんと思ったら何と彼女はもうすぐ歌手として芸能プロと契約を交わすのだという(激爆)。逃亡犯の中年カップルの生活は弛緩しきって緊張感のかけらもなく、韓国からの出稼ぎ組は帰国するの何だのと煮え切らない。

 家出少女を憎からず思うようになった風俗スカウトマンは、元締めのヤクザから生温い(笑)オトシマエを付けられ、不倫の刑事達に至ってはバカバカしい言動に終始する。さらに、取って付けたように震災ネタだの新大久保のヘイトスピーチ集団だのを映し出して社会派に色目を使ったりする。これだから団塊世代の脚本屋(荒井)は嫌いだ。

 徹役の染谷将太をはじめ、南果歩、松重豊、大森南朋、忍成修吾、我妻三輪子と使い方によっては活きる面子が並んでいるが、作り手がこのような体たらくなので無駄な顔見世興行にしかなっていない。風俗嬢に扮したイ・ウンウの整形臭い胸には萎えたが、それよりも沙耶を演じた前田敦子の超大根ぶりには脱力した。「紙の月」での大島優子もそうだが、AKB一派にとって映画俳優への道は限りなく遠い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「約三十の嘘」

2015-02-19 06:28:01 | 映画の感想(や行)
 2004年作品。6人の詐欺師による、ママゴトみたいな“コン・ゲームもどき”に我慢できない人もいるだろうが、私は楽しめた。そもそも「avec mon mari」(99年)や「とらばいゆ」(2000年)の大谷健太郎監督に、本格的ミステリーを期待してはいけない(爆)。

 いかにも当時のこの監督らしい、ユルユルでぬるま湯に浸かったような雰囲気に身を委ね、あまりウケないギャグに“しょうがねぇなあ”と苦笑しつつ、その脱力的作劇の果てにある“面白うて、やがて哀しき人間模様”に想いをはせればオッケーなのだ。



 大阪駅発札幌行きの豪華寝台特急トワイライトエクスプレスに乗り込んだ詐欺師たち。今回のネタは偽物の羽毛布団で、ワンセット30万円の値を付けて500組売り切ろうという計画だ。無事に(?)北海道での仕事を終えて同じく寝台列車で大阪への帰途に就く一行だったが、万全を期すために大金の入ったスーツケースとその鍵を別々の者が持つようにする。ところが好事魔多し、夜が明けるとスーツケースは消えているではないか。果たして金を掠め取ったのは誰なのか。

 主人公たちは一流のペテン師を気取ってはいるが、やっていることは寸借詐欺に毛の生えたようなインチキ商法。ゲットした金は目標額に達しないものの、彼らにとっては大金だ。それが豪華寝台特急の中で紛失する。疑心暗鬼が駆けめぐるが、それでも彼らはチームを解散しない。たぶんカタギの世界で生きてはいけないであろう彼らが、互いの傷をなめながらも、精一杯イキがってみせるあたりは哀れさを誘う。

 でも“これで仕方がないじゃないか”という主人公たちの諦観を生暖かく(笑)見守るというのも、映画の楽しみ方としてまた一興ではないかと思わせる。特に椎名桔平と中谷美紀の、同病相憐れむような関係には納得した。妻夫木聡や田辺誠一も悪くない。

 クレイジーケンバンドの軽快な音楽とカラフルな舞台セットは良好。なお、八嶋智人がその頃の人気番組「トリビアの泉」の司会そのまんまだったのには笑った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ビッグ・アイズ」

2015-02-18 06:33:55 | 映画の感想(は行)

 (原題:BIG EYES)出来そのものよりも、題材の方が面白い映画だ。また「エド・ウッド」(94年)以来、久しぶりにティム・バートン監督が実在の人物を取り上げたことでも注目されよう。

 1950年代、主人公マーガレットは夫とうまくいかず、娘を連れて家を飛び出す。しかしシングルマザーが職にありつくのは難しかった時代で、得意の絵を描くことで何とか糊口を凌いでいた。ある日、彼女が描く“大きな瞳の子供”の絵に惚れ込んだ自称画家のウォルター・キーンという男と出会い、結婚する。彼はちっとも売れない自分の絵の代わりに、マーガレットの作品を行きつけのライブハウスに展示したところ、思わぬ評判を呼ぶ。

 しかしあろうことか、ウォルターはそれらの絵を“自分の作品”だと偽り、巧みな話術や宣伝力によってブレークさせる。たちまち町の名士としてのし上がったウォルターに対し、マーガレットは一日中アトリエに“軟禁”され、絵を描き続けるハメに。耐えられなくなった彼女は、ついに真実を公表することを決意する。

 まるで近年話題になった“ゴーストライター事件”を彷彿とさせるような筋書きだが、これが事実だというのだから興味深い。しかも、美術品の評価基準が曖昧だったり、ウォルターの臭い御涙頂戴話がマスコミに大々的に取り上げられたりといった、軽佻浮薄な世相は今も昔も変わらないことを示しているのも痛快だ。マーガレットの主張は裁判沙汰にまで発展するが、法廷での彼女とウォルターとの“決闘”の場面はまさにケッ作。

 だが、欠点が目立つ映画でもある。何より、ヒロインがどうしてこういうタイプの絵を描くようになったのか、まるで示されていないのだ。そのあたりを描き込まないと作品に深みが出ないのだが、マーガレットの作品に最初から心酔しているバートン監督はそこまで気が回らなかったようだ。

 そして、彼女が反撃に転じる切っ掛けになったのが某宗教の影響だったというのも安直に過ぎる。実際は紆余曲折があったはずだが、表面をなぞるだけでは説得力がない。今回の主人公は「エド・ウッド」とは違って“同業者”ではなかったことも影響しているのだろう。

 繊細で控えめな妻を演じるエイミー・アダムスはいつも通りの熱演。しかし、ヒロイン像がよく練られていない作劇ではリアリティに乏しい。対してウォルター役のクリストフ・ヴァルツは、観る者を圧倒させる怪演だ。口八丁手八丁で嘘を重ね、窮地に立っているのに根拠のないプライドを全面展開させているという屈折したキャラクターを、賑々しく表現している。

 コリーン・アトウッドの衣装デザインや、ダニー・エルフマンの音楽も光る。それにしても、現代美術のポスターやカードを有料で配るという商法を考え付いたのはウォルターが最初だったという点は面白い。金儲けのネタは、アイデア次第でどこにでも見つけられるのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ミーティング・ヴィーナス」

2015-02-17 06:20:01 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MEETING VENUS )91年イギリス作品。音楽を題材にした映画では、上質の部類に入る。「メフィスト」などで演出力を発揮したイシュトヴァーン・サボー監督の才気がみなぎる作品だ。

 ハンガリー人の指揮者ゾルタン・サントーは、オペラ座で上演されるワーグナーの歌劇「タンホイザー」を指揮する機会を得、意気揚々とパリに乗り込んできた。ところがプロデューサー達はつまらない権力争いの真っ最中で、地元キャストの組合はストライキを敢行。世界各国から招集した歌手達の間でもいさかいが絶えない。

 特にスウェーデンからやってきた世界的プリマドンナのカーリン・アンダーソンは、東欧のあまり名の知られていない指揮者なんか眼中に無い。何とか我慢していたゾルタンだが、パーティ会場でとうとう堪忍袋の緒が切れる。しかし“雨降って地固まる”の例え通り、音楽に対する真摯な姿勢を見せた彼に皆が従うようになり、何とゾルタンとカーリンとの間には恋心が生まれたりするのだ。

 もちろん、題名の「ヴィーナス」とは「タンホイザー」に出てくる悪徳と快楽の女神の暗喩である。彼女は周囲を引っかき回すが、個々の屈託など音楽がもたらす素晴らしい愉悦の前では取るに足らないものなのだ。二人が各国民をコケにする歌詞を即興で作って、鬱憤をぶちまけてストレス解消するあたりはケッ作。

 オペラの内幕と“本編”とを平行して描く手法はフランコ・ゼフィレッリ監督あたりが得意としていたが、サボー監督はゼフィレッリみたいな艶っぽいエクステリアを用意しない代わりに、オペラを作り上げる人々と世界の有り様とを真面目にクロスさせてみせる。

 ゾルタンに扮するニエル・アレストラップ、カーリンを演じるグレン・クロース、共に良い仕事をしている。鳴り響くワーグナーの音楽と、ラホス・コルタイのカメラによる、奥行きのある映像も見逃せない。またクロースのオペラの吹き替えはキリ・テ・カナワが担当しており、そちらも興味深い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ジャッジ 裁かれる判事」

2015-02-16 06:29:23 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE JUDGE )連続TVドラマのダイジェスト版みたいな印象を受ける。作劇のリズムには乱れはなく、話はスムーズに進んでストレスは感じない。しかしながら深い感銘とか熱い情念とか、そういう類のインパクトは皆無である。ヒマ潰しにテレビ画面越しで向き合うには良いのかもしれないが、劇場で対峙するには物足りない内容だ。

 シカゴで弁護士事務所を構えるハンクは敏腕だが、社会正義よりも銭勘定を重視するスタンスで周囲の反感を買っている。私生活でもカミさんとの離婚協議中で、何かとストレスのたまる毎日だ。ある日、母親の訃報を受け、葬式のためにインディアナ州の田舎町にある実家に帰る。そこには地方判事で口の悪い父親ジョセフと、うだつの上がらない兄、そして精神薄弱者の弟がいて、久しぶりに会ってもうんざりするばかり。

 特に父親とは長年の絶縁状態にあり、今回も口論になったため怒って早々に故郷を後にしようとするが、父親がひき逃げ事件の容疑者になったことを知らされ、やむを得ず弁護を引き受けることにする。42年間も判事として法廷で正義を説いてきた父親が犯人であるはずがないと思うハンクだが、集められた証拠はすべてがジョセフの有罪を示していた。やがてハンクは、父親が抱える秘密を知ることになる。

 題名から判断して法廷ものだと思っていたら、ホームドラマだったのには拍子抜けした。それでも丁寧に作られているのは確かだが、果たしてこの状況で法廷外の話に長々と言及する必要があったのか、すこぶる疑問だ。若い頃はヤンチャが過ぎて父親とは対立していたハンクが、どうして今は同じ法曹界に身を置いているのかよく分からないと思っていたら、体調を崩したジョセフを介護するハンクの姿を映し出している間にそのことはウヤムヤになってしまう。

 さらにはハンクが幼馴染の女友達と良い雰囲気になったりとか、高校時代はプロも注目する野球部員だった兄が夢を諦めた経緯とか、本筋とはあまり関係のないことが延々と語られることには違和感を覚える。おかげで上映時間が2時間半にもなってしまった。かと思えば、肝心のひき逃げ事件の真相に関しては大したプロットは付与されておらず、拍子抜けだ。もっと思い切った展開があっても良かったのではないか。

 この映画は主演のロバート・ダウニー・Jr.が設立した製作会社の第一弾として作られているが、その割には自身のワンマン映画にはなっておらず、父親役のロバート・デュヴァル(本作でアカデミー助演男優賞候補になっている)をはじめ脇の面子にも配慮はしている。しかし、そのために話が総花的になってしまったことは否めない。

 とはいえデイヴィッド・ドブキンの演出には大きな破綻はないし、ビリー・ボブ・ソーントンやヴェラ・ファーミガらの好演もあり、ヤヌス・カミンスキーのカメラによる清澄な映像が印象的で、観た後はそれなりの満足感はある。ただ、劇場を後にすると記憶から消えるのも早いことは確かだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする