元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「昭和歌謡大全集」

2007-01-31 06:50:30 | 映画の感想(さ行)
 2003年作品。カラオケ好きのオバサンたちと若者グループとの殺し合いを描いた村上龍の同名小説の映画化。

 この過激な題材をマジメで堅実派(?)の篠原哲雄監督に料理出来るのかと危惧していたが、実際観てみると彼なりに「マジメに」過激な映画作りに努力したことが見受けられ、好感を覚えた。もしも三池崇史や塚本晋也などの「鬼畜系」に撮らせていたら、見た目は面白くなっただろうが、ドラマが空中分解していた可能性が高い(笑)。

 もっとも、漫然と日々を送っていた登場人物たちが、殺戮を繰り返すうちにイキイキとしてくるあたりの内面的屈折は捉えられておらず、表面的な描写に終始する。エンタテインメントとしては納得できるが、いまひとつ物足りないのも確かだ。個人的には、安藤政信の青年が鈴木砂羽のオバサンに惨殺される際に「チャンチキおけさ」が流れるシーンが一番ウケた。しかし、それ以外には昭和の流行歌をドラマとうまくシンクロさせている箇所が見当たらないのが惜しい。

 キャラクター設定は文句なしで、樋口可南子と松田龍平のふてぶてしさは好印象だし、怪しい金物屋のオヤジ役の原田芳雄や自転車屋のミッキー・カーチスがトボけた味を残す。圧巻は「地縛霊みたいな女の子」を演じる市川実和子で、彼女の不気味な持ち味が全開。まさに狂気の世界に一直線だ(笑)。それにしても、破滅的なラストはテロが「ヨソの国の出来事」ではなくなりつつある現在、シャレにならないインパクトがある。
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勝手に選んだ2006年映画ベストテン

2007-01-30 06:59:45 | 映画周辺のネタ

 ちょっと遅くなったけど、2006年度の映画ベストテンを自分なりに選んでみた。まずは外国映画の部。

第一位 プロークバック・マウンテン
第二位 ミュンヘン
第三位 プライドと偏見
第四位 グッドナイト&グッドラック
第五位 サラバンド
第六位 父親たちの星条旗
第七位 シリアナ
第八位 めぐみ 引き裂かれた家族の30年
第九位 隠された記憶
第十位 プロテューサーズ

 そして、日本映画の部。

第一位 鉄コン筋クリート
第二位 武士の一分(いちぶん)
第三位 ゆれる
第四位 ラブ★コン
第五位 紙屋悦子の青春
第六位 時をかける少女
第七位 博士の愛した数式
第八位 青春☆金属バット
第九位 フラガール
第十位 雪に願うこと

 2006年は外国映画、特にアメリカ映画の頑張りに目を見張らされた。逼迫した世情に敏感に反応するかのように次から次へと問題作を発表。前代未聞の“厳しい映画のオンパレード”になった。しかも、そういう作品をスピルバーグをはじめとする有名監督がこぞって手掛け、内容面の評価だけではなく決して低くはない興行的価値さえも生み出している。ハリウッド映画が世界的に幅広く観られているのは、何も脳天気な金満大作のおかげだけではなく、“やる時はやる”という硬派なマインドも併せ持っているからではないかと思い至った一年であった。

 対して日本映画はだらしない。格差社会問題はもちろん、拉致問題や硫黄島の攻防戦や、果ては昭和天皇でさえもまんまと外国人に持って行かれた。ではスクリーンに主に掛かっているものは何かというと、これがノスタルジアや“純愛もの”におんぶにだっこの、毒にも薬にもならない“お涙頂戴劇”か、テレビ局とのタイアップ等の安易な企画ばかり。

 その理由は、たぶん日本の観客のレベルが低いからだろう・・・・と書けば身も蓋もなく、ならば諸外国の映画の観客はどれほど程度が高いのかと聞かれれば答えに窮するが、日本の場合はその“観客のレベルの低い部分”に完全におもねっている興行側の姿勢がある。特にテレビ局の“下請け”に成り果てている映画会社に「グッドナイト&グッドラック」みたいな映画が作れるはずもない。あちこちのサイトで“邦画バブル”なる用語を目にするが、バブルである限りいつかは必ずはじけるはずだが、興行側は目先のことしか考えない。まあ、この“目先のことばかりにこだわる”というのは映画界に限らず今の経済界全体に言えることである。形ばかりの隆盛・見かけだけの好景気は、行き詰まるのも早い。今年あたりからその“ツケ”が回ってくるのではないかな。
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「黒薔薇VS黒薔薇」

2007-01-29 20:06:18 | 映画の感想(か行)
 92年香港作品。バツイチで売れない女流童話作家ウォン(マギー・シュウ)と友人のB級映画女優キュン(テレサ・モウ)は、ある日麻薬組織の殺人現場を目撃。警察の目をごまかそうと、その現場に残してきた“黒薔薇参上(「黒薔薇」とはテレビのヒーローものに出てくる怪盗)”の書き置きが原因となり、彼女たちは本物の黒薔薇一味のホン(フォン・ボーボー)とファン(ウォン・ワンシー)に捕えられてしまう。以前からウォンを好きだったロイ刑事は、彼女を助けようと黒薔薇の館に忍び込むが、彼の顔がホンとファンの初恋の人とそっくりだったため、話はヘンに方向に発展。やがて彼女たちを追うマフィアの連中もからんできて、三つどもえのワケのわからん事態になる。

 はっきり言ってこれは、トンでもない映画である。観終わって表情がこわばり、冷汗じっとり、鳥肌ざっくり。面白いのかくだらないのか、駄作なのか傑作なのかわからないが、とにかくムチャクチャな映画だ。たとえて言うなら、「ホット・ショット」みたいにハリウッド製おふざけムービーから“わかりやすさ”を削除し、そこへ「モンティ・パイソン」風イギリス変態テイストを少々ふりかけ、おなじみ香港映画の強引な演出テンポでつっ走るとともに、中国製大衆歌謡メロドラマ映画のダサさを力いっぱいインストールしたような作品、というところか(書いてる本人も意味がわかっていない ^^;)。

 観客の読みをことごとく裏切る唐突な場面の連続。登場人物がいきなり歌い出したかと思うと、正統派クンフー映画調になったり、ラブストーリーと思ったら突如全員錯乱してバカなことをおっ始める。散りばめられたギャグは一見どれもハズしているようでいて、その内容を考えるヒマを観客に与えず、次々と連射される。中国の伝統的な音楽(?)とカラオケの画面みたいな下世話な歌謡曲路線が珍妙なコンビネーションを見せる。さらに、フランス映画「デリカテッセン」の“ハワイアンに合わせてベッドの上でギシギシやるネタ”(?)をそっくりパクるという、香港らしいウサン臭さも忘れてはいない。

 出演者のハチャメチャぶりには感心したが、中でもロン刑事役のレオン・カーファイのド変態演技には圧倒させられる。これが「愛人/ラマン」のハンサムな中国人エリートと同一人物とは・・・・。うーむ、アジア映画は奥が深いぞ(何言ってんだよ)。
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「ディパーテッド」

2007-01-28 07:42:52 | 映画の感想(た行)

 (原題:The Departed)香港映画「インファナル・アフェア」のハリウッド版リメイクだが、あの傑作と比べるのは無理があるとしても、本作単体としては随分と気勢の上がらない映画である。

 最大の難点は、警察とマフィアがそれぞれのスパイを相手方に送り込むという設定において、刑事がマフィアに潜入するくだりだけが不必要に長いことだ。これは逆ではないのか。潜入捜査なんて過去の映画でさんざん描かれている。対してマフィアが警察に潜り込むなんてのは過去にはあまりないネタであり、そもそも悪の権化であるマフィアの一員が、たとえボスの言いつけであっても“正義”を建前とする警察に籍を置くのは、本人の内面で相当な葛藤があることは想像に難くない。重点的に描くべきなのはこっちの方であり、だからこそオリジナル版では続編をまるまる一本使ってマフィアのスパイである刑事の“その後”まで描いたのだ。

 とはいえ、監督のマーティン・スコセッシが警察のスパイとマフィアのボスとの関係にこだわった理由もある程度は分かる。それは「ギャンク・オブ・ニューヨーク」と同じくイタリア移民とアイルランド系との確執を描きたかったからだろう。

 ただしそれはイタリア系である監督のアイデンティティを前面に出す効果はあっても、映画自体としては何ら興趣を生み出さない。要するに“どうでもいいこと”なのだ。その“どうでもいいこと”にかなりの上映時間を割いたことにより、作品の重要ポイントであるべき主人公二人による丁々発止の頭脳戦がだいぶんお座なりになってしまった。終盤のバタバタとした展開も愉快になれず、これはすでに凡庸なノワールものとしてのレベルに落ちていると言って良い。

 主演のレオナルド・ディカプリオとマット・デイモンは、まあいつも通りで特筆するほどでもなく、少なくとも「インファナル・アフェア」のトニー・レオン&アンディ・ラウとは月とスッポンだ。ヒロイン役のベラ・ファミーガに至っては“フツーのおねーさん”であり、いくらオリジナル版でのこの役が“お飾り程度”だったとはいえ、ケリー・チャンとは比較にならない。良かったのはサスガの貫禄を見せるボス役のジャック・ニコルソンと、毒舌刑事のマーク・ウォルバーグぐらいか。

 なお「インファナル・アフェア」では主役の二人がオーディオショップで出会う印象的なシーンがあるが、本作ではその場面はない。ただし、マット・デイモンの自宅ではちゃんと“それなりの機器”が置いてあるあたりはオリジナル版に対してのフォローのつもりだろうか。ちなみにアンプ類はマッキントッシュ社製、スピーカーはハッキリと映されていなかったが、ヘッドフォンはゼンハイザー社製のものだった。
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「ラッキーナンバー7」

2007-01-20 07:29:19 | 映画の感想(ら行)

 原題は“LUCKY NUMBER SLEVIN”であり、題名のどこにも“7”という数字は出てこない。こんな苦し紛れの邦題を付けるより、劇中のキーワードになる“カンザスシティ・シャッフル”あたりをタイトルにした方が数段スマートだったろう。最近の配給会社のセンスはなっとらん!(笑)

 さて、本作は「ユージュアル・サスペクツ」や「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」に通じる複雑な構成を持つゲーム感覚の犯罪映画。しかし、プロット面が要領を得ないこともあるが、鑑賞後の印象は上記二本に比べて悪い。非常に陰惨な感じを受けてしまう。何より、登場人物および展開に“軽やかさ”がないのだ。

 ジョシュ・ハートネット扮する主人公の青年を拉致する二つの犯罪組織は、元はひとつだったが幹部の仲違いから分裂し、今では通りを挟んでにらみ合っている・・・・という設定こそ面白いが、あとは血で血を争う抗争のプロセスを暗示させるようなモチーフが続き、犯罪組織を手玉に取ろうとする側の手口も残虐で愛想がない。そして事の発端になった“ある事件”の経緯が“これ以上はない”というほどに救いようがない。終盤近くにどんでん返しが続くごとに嫌な感じが増してゆくような気がする。

 ストーリーは一見スジが通っているようで、よく見ればかなり御都合主義的なところがあり(具体的に指摘するとネタバレになるのでやめとくけど ^^;)、ラストのオチも取って付けたような印象が否めない。

 出演はハートネットのほかにブルース・ウィリス、モーガン・フリーマン、ベン・キングズレー、ルーシー・リュー、スタンリー・トゥッチ、ロバート・フォスターなどの多彩な面々が顔を揃えるが、どうもパッとしない。ギャングのボスに扮するフリーマンとキングズレーは、ハッキリ言って損な役回り。思わせぶりにスクリーン上をうろつくウィリスは相変わらずの大根だし、掟破りの“ぶりっ子演技(笑)”で観客の予想を裏切るルーシー・リューも頑張ってはいるのだが、あの御面相ではちょっと無理があったりして・・・・(ファンの人ゴメン ^^;)。

 ポール・マクギガンの演出は可もなく不可も無し。まあ“ヒマつぶしに見るには良い”といった感じの作品だろう。
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「トゥームストーン」

2007-01-19 06:52:47 | 映画の感想(た行)
 (原題:Tombstone)93年作品。“OK牧場の決闘事件”を扱った西部劇だが、同じネタで同時期に封切られた「ワイアット・アープ」よりはるかに面白い。理由は明らかで、「ワイアット・アープ」みたいに暴力がはびこるアメリカ社会への警告だとか、主人公の内面的葛藤とか(しかも結果として描ききれていない)、大河ドラマ的風格とか、そういう評論家受けしそうな二次的ファクターに全然色目を使っていないことである。

 冒頭、当時のフィルムをバックに、南北戦争直後の西部はならず者の天下となり、犯罪発生率は現代のニューヨークの比ではなかったことが語られる。そして観客に向かってズドンと一発。コンセプトとしては現在の大都市を舞台にした刑事アクションものと変わらないオープニングであり、最初から“これは純然たる娯楽作品だよ。虚構の話なんだよ(史実だけど)”と宣言しているようなものだ。それならそれで構えて観る必要はないわけで、単純な娯楽活劇としての評価しか出てこない。この選択は正解だった。

 ワイアット・アープにカート・ラッセル、ドク・ホリデイにバル・キルマー、ジョニー・リンゴにマイケル・ビーン。貫禄はないかわりに、若々しい無鉄砲さがみなぎるキャスティングで、ひょっとして実際のアープたちに近い造形なのかもしれない。悪党どもも見るからに悪人で、「ワイアット・アープ」のように“悪人にも必然性がある”などと思わせぶりな姿勢は微塵も見せない。ワイアットとドクの友情は青春映画のそれで、女性関係もサラリと流す。

 加えて監督は「ランボー/怒りの脱出」(85年)のジョージ・P・コスマトスだから、痛快アクション劇としての面白さは十分だ。OKコラルの決闘は史実では2分少々の出来事らしいが、使われた弾丸は40発以上。いかに激しい戦いだったかわかるが、これをコスマトスは見事に再現。たたみかける演出でイッキに見せる。その後のアープ一派と悪党どもの追撃戦も手を抜かない。草原を駆ける馬をバックに、次々と悪党を血祭りにあげる疾走感はなかなかだ。

 ラストは本編では描かれなかった、OKコラルに向かうアープたちの雄姿をスローモーションで再現するファン・サービスまである。娯楽映画のツボを押さえた快作。西部劇に文芸路線や社会派ドラマはやっばり似合わないことを実感する(ま、例外もあるが)おススメの一本である。
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「犬神家の一族」

2007-01-18 06:47:04 | 映画の感想(あ行)

 観終わって“これは何かの冗談ではないか?”と思った。市川崑監督によるセルフリメイクで、主演の金田一役も前回と同じ石坂浩二。意外と老け込んでいない演技は印象的だ。でも、脚本も展開も76年版と一緒という本作を、現時点で作る意味があったのか、すこぶる疑問だ。

 わざと彩度を落とした画面でレトロ臭さを強調し、死体の描写もあえてリアルさを避けた安っぽさを強調、さらには各キャストの大時代な田舎芝居の釣瓶打ちで、要するにおどろおどろしいB級テイストが満載なのだ。さりとて、ストーリー面で面白いところはひとつもなし。もちろん、エロさも不足。決して短くはない上映時間のあいだ、アクビをかみ殺していた私がいた(笑)。この映画を劇場で観るのと、前作をテレビ画面で見るのとでは、カネがかからない分、後者の方がリーズナブルに思える。

 好意的に解釈すれば、CG全盛の昨今において極端な安っぽい手作り感覚を打ち出すことで注目されるのを狙ったということも出来る。しかし、いくら巨匠といえども、そういう小手先のシャレみたいなもので製作費を無駄遣いして良いわけがない。映画会社としては十分“勝算”があってのことなのだろう。その意図とは、ズバリ高年齢層の動員だ。

 謎解きは平易で犯人はすぐ分かる。濃いキャスティングと“予想通り”の演技。加藤武の“よし、わかった!”は、水戸黄門の“印籠が目に入らぬか!”と同じく、お約束の決めぜりふで、これで年配の観客を呼べないはずがない・・・・と踏んだ配給元の思惑は、しかし見事に外れてしまった(爆)。

 週末だというのに劇場はガラガラ。考えてみればアタリマエで、いくら“お約束”の展開だろうと、昔の石井輝男作品みたいなチープなグロ描写では一部の好事家は興味を覚えるだろうが、一般ピープルにとってはお呼びではないのだ。大衆が求めているのはもっと“健全”で“泣ける”ものであり、決して本作のような中途半端な懐古趣味ではない。低調なマーケティングにより老巨匠のお遊びに付き合ってしまった東宝こそいい面の皮である。

 それにしても、ラストの金田一探偵の、観客に向かっての別れの挨拶は、市川崑監督自身の“本当の別れの挨拶”を表現しているのではないかと一瞬思ってヒヤヒヤした。こんな珍作で映画人生を終わらせてなるものか。首に縄を付けてでも撮影所に連れて行き、もう一本快打を放ってもらうよう期待したい。
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「ザ・ペーパー」

2007-01-17 06:47:56 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Paper )94年作品。若い映画作家は独りよがりのシャシンを垂れ流す前に、ロン・ハワードの映画を観て勉強すべきだ。この作品など実に見事。脚本と演出と演技が精密機械のように作動し、一点の狂いもない。

 ニューヨークのローカル新聞社に勤める記者ヘンリー(マイケル・キートン)のハードな一日を描くコメディ。ブルックリンで起きた白人実業家の射殺事件を他社に抜かれたことで、容疑者をいち早くスクープすることに情熱を賭ける女性編集局長(グレン・クロース)との確執を中心に、妊娠中の妻(マリサ・トメイ)の容態、ガンに冒された上司(ロバート・デュバル)と家を出た娘との関係、駐車違反をスッパ抜かれた交通局の重役とその記事を書いた記者(ランディ・クエード)との衝突、さらにヘンリー自身もその日他社への移籍の面接を受けることになっている。こういう多種多様なエピソードがわずか一日という限られた時間の中で、きちんと起承転結が示され、ラストにすべて集約されるというのだから驚きだ。

 しかも上記の面々のほか、ジェイソン・ロバーツやキャサリン・オハラも出演するという多彩なキャスト。それぞれに見せ場が用意され、展開もスリリングであり、“ウチは一流新聞社ではないが、真実だけを載せてきた”というジャーナリストのプライドも披露され、人種問題や家庭の崩壊の実態、警察の不正やら役所の事なかれ主義なども糾弾され、最後にはヒューマニズムの勝利をうたいあげる。まことに巧妙、非のうちどころがない、教科書のような映画作りである。

 しかし・・・・。冒頭“勉強すべき”だと書いたのは、この計算された映画技法についてのみ、なのである。いわば映画の基本、ドラマツルギーについての教科書としての価値は大いにある映画だが、それプラス映画の“破天荒な面白さ”とは最も遠い作品でもある。

 芸達者なキャストはすべて予想された通りの演技で、各エピソードは予定調和の域を一歩も出ない。構成が巧妙な分、底が割れる場合もある。ドラマが上映時間の中で完結してしまい、観客の心にそれほど長くは残らないだろう。ただ、観ている間は十分に楽しませてくれる。そういう映画だ。

 観客一人一人の受け取り方が見事に画一化される計算高い映画は、計算された以上の感銘を呼ばないことも、また事実なのだ。“上手い映画”と“面白い映画”の距離は、ほとんどないようでいて、けっこうある。
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「悪夢探偵」

2007-01-16 06:44:32 | 映画の感想(あ行)

 塚本晋也監督、さてはhitomiに惚れているなァ・・・・・といった下世話な感想が先に来てしまうシャシンだ(笑)。

 通常ミュージシャンが演技する場合、持ち前のパフォーマンス能力で俳優顔負けの演技を見せるケースがあるし、たとえ上手くはなくとも存在感で観る者を納得させてしまう例が多い。しかし、本作でのhitomiは見事なほどの大根だ。それも頭に“超”が付くほどの演技下手。そもそもセリフ回しが怪しい。長いフレーズでは必ずトチる。何を言っているのか最後まで分からない場面だってある。外見的にも肌の状態が良くない。いわゆる鮫肌だ。当然役柄である“キャリア組のエリート捜査官”にはまったく見えない。

 しかし、それでも作者は彼女の魅力を重箱の隅をつつくようにほじくり出して画面に映し出す。何気ない仕草や表情が可愛く思えることがあるし、モデル出身らしいスタイルの良さを強調する衣装および嘗めるようなカメラワークには観ているこちらも苦笑い。早くも続編を作る意向だとかで、監督としてもhitomiと少しでも一緒にいたいという魂胆がミエミエだ(爆)。

 さて映画の内容だが、他人の夢に入り込んで事件を解決するという“夢探偵”という設定では共通している「パプリカ」よりは面白い。何より、幾分チープな絵造りながら悪夢の持つ禍々しさや不気味さをよく表現できている。仮装パレードみたいな「パプリカ」とは大違いだ。

 決して脚本は万全ではなく突っ込みどころはあるのだが、暗鬱な色調と力まかせの(自己破壊願望を加味した)ホラー演出で独特の世界観を獲得しているため(まあ、この監督の描く世界はいつもこんな感じなのだが ^^;)、さほど気にならない。各キャラクターの屈折したバックグラウンドもちゃんと説明されている。

 hitomi以外のキャストである松田龍平、安藤政信、大杉漣、原田芳雄といった面々は各々持ち味を発揮。特に松田は“いやいやながら探偵やってる主人公像(笑)”を見事に体現化。あのルックスと雰囲気はこの手の作品にピッタリだ。

 余談だが、最後の“探偵”とヒロインとの会話はアルフレッド・ベスターのSF小説「分解された男」のラストを思い出させ、ほんのちょっと感銘を受けてしまった(爆)。人間の心の中にあるのは“悪意”だけではないのだ・・・・という当たり前のことが印象的に思えてしまう昨今の世相である。
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筒井康隆「パプリカ」

2007-01-15 06:44:01 | 読書感想文

 前回映画の感想を書いたが、原作も読んでいる。結論を言えば、映画と小説とでは原作の圧勝だ。どんなに凄いヴィジュアル描写が文章で表現されていようと、一度映像化してしまえば(よほど素晴らしいものやアイデアを注ぎ込んだものなら別だが)底が見えてしまう。

 さらに、映画化版では主要なキャラクターが一人、ばっさりと削られている。そして映画に出てくる警部は、原作では警視副総監というVIPであり、部下を使って事件を周到に追いつめてゆくのだが、警部一人のスタンドプレイに終わる映画化版は説得力を欠く。もちろん、警部が映画ファンなどというモチーフはまったく出てこない。パプリカに協力するのが“現実”の側を担う地位にある者達であることは重要で、これが“現実”のディテールを補強していることになるのだが、映画の作者はそのあたりに気が付かなかったようだ。

 さて小説そのものの感想だが、シチュエーションの説明に終始する前半は正直退屈だった。しかし、夢が現実にまで溢れてくる終盤近くの展開は筒井節の真骨頂。次から次に出てくるぶっ飛んだイメージの洪水で、アッという間に読み終わってしまう。

 映画版では空間面の異常を描こうとしていたが、原作では時間軸まで夢によってグチャグチャになる有様までも扱っており、そこまで映像化しようとするのは並大抵のことではなく、改めて筒井康隆作品の映画化の難しさを痛感した。

 そしてヒロイン・パプリカと本当の人格である千葉敦子の造型が、いかにもスケベなオヤジが考えた“理想像”であるのが笑える。おきゃんなパプリカと高嶺の花に見える千葉敦子は一見正反対のキャラクターだが、どちらもオヤジの“空想上の産物”だ。もちろん、露出度とエロさも映画化版のはるか上を行く。もちろん、それが不愉快かというとそうではなく“おお、やっとるわい”という感じで微笑ましい。そして楽しい(^^:)。とにかく、読む価値十分の快作である。
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