元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

今年の書き込みはこれで終了。

2006-12-30 18:44:49 | その他
 本年のブログ更新はこれで終わりです。一年間付き合ってもらって、ありがとうございました ->ALL。

 年が明けてしばらくはバタバタしそうなので、次の書き込みがいつになるか分かりませんが、なるべく早めに再開します。それでは、よいお年を。
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「鉄コン筋クリート」

2006-12-30 18:26:12 | 映画の感想(た行)

 上映時間が111分と、アニメーションにしてはやや長いと思われるが、弛緩している部分や目をはなして良い場面なんかひとつもない、すさまじい密度の高さを持つ作品だ。

 架空の街「宝町」を舞台に、子供ながら裏の世界を仕切っているクロとシロの二人の孤児が、再開発に名を借りた犯罪組織の進出騒ぎに巻き込まれてゆく過程を描く松本大洋の同名漫画の映画化。何より各登場人物の掘り下げの深さが尋常ではない。

 腕っ節の強さと才覚で孤高を保っているつもりのクロと、幼く見えながらも実は誰よりもクロを想い、クロの心の支えとして屹立した存在感を示すシロとの関係性が、二人の屈託を含めて徹底的に描き込まれていることに感嘆する。彼らの抱える底なしの孤独と、一点の光となる微かな希望とが絶妙のイメージ描写により表現されるとき、胸が締め付けられるような切ない感動が湧き起こる。

 主役の二人だけでなく、彼らを見守る浮浪者の老人の聡明ぶりや、昔気質のやくざとその一の子分との皮肉な運命、管轄の警察署のベテラン刑事と若手エリートも単なる作劇上の“飾り”ではなく、映画の中で確実に内面が変わってゆくドラマ性の一翼を担っている。対して“蛇”と呼ばれるマフィア(?)の元締めと殺し屋達には非人間性しかない。この対比がドラマにメリハリを付けると共に、作者のスタンスも明らかにさせる。それは人間性に対する掛け値なしの肯定だ。自らを信じ、また信ずるに値する他者を得ることが、ラスト近くのシロのセリフ通り“あんしん、あんしん”ということなのだ。

 ノスタルジックで、しかしどこにもない街である舞台・宝町。この造型は見事と言うしかない(ここだけで入場料のモトは取れる)。観る者の度肝を抜くようなアクションシーン。凄惨なリアリズムと詩情あふれる美しい幻想場面が抜群のコントラスト。Plaidによる音楽も素晴らしい。

 監督のマイケル・アリアスは米国人ながら日本のアニメーションに対する造型の深さを伺わせる。さらに声の出演が絶妙だ。クロに扮する二宮和也は上手い。終盤では“深層心理の声”まで担当しているが、まったく違和感のない安定した仕事ぶりだ。さらに凄いのがシロ役の蒼井優。陳腐な表現だが、キャラクターそのものに成りきっている。軽いトランス状態さえ感じさせる役柄への没入ぶりは圧倒的。ヤクザ役に田中泯を持ってきたのも作者の慧眼というしかなく、まるで「たそがれ清兵衛」の剣客がそのまま出てきたような凄みを感じさせる。

 断じて子供向けの映画ではなく、アクの強いキャラ・デザインも相まって確実に観客を選ぶ作品だが、ヴォルテージの高さは今年度の邦画随一だ。必見。
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最近購入したCD(その6)。

2006-12-30 08:14:02 | 音楽ネタ
 2006年はモーツァルトの記念イヤーであると同時に、ショスタコーヴィッチの生誕100年目でもあったのだ。そういえば彼の作品は一番有名な交響曲第五番と、その次に有名な第十番のディスクしか持っていなかった。いい機会なので、遅ればせながら他の曲のCDを2枚ほど買ってみた。



 最初は交響曲第九番。“軽い第九”としてソ連当局からの指弾を受けた作品らしいが、エリアフ・インバル指揮の ウィーン交響楽団は、純音楽的にこの曲の妙味を引き出す。実は全曲を通して聴くのは初めてなのだが(汗)、変幻自在なオーケストレーションと、フッと現れる美しいフレーズはさすがショスタコだ。同時カップリングに交響曲第三番も入っている。こちらは一楽章のみで、合唱も入っているという変わった曲。だが、後半にかけての凄みは“小品”のイメージを覆す。録音もワンポイント的ながら音像の捉え方も万全。これが千円程度の廉価版なのだからお買い得だ。



 次は交響曲第11番。「1905年」という副題が付いている。史実を元にした表題性の強いネタの曲だが、これも私はじっくり聴くのは初めて。演奏はマリス・ヤンソンス指揮のフィラデルフィア管弦楽団。このオーケストラの特徴か、メッセージ性よりも音色の澄んだ明るさが印象的。特に緩徐楽章の美しさは感動的で、こんなにキレイな曲だったのかと思わず聴き入ってしまった。録音は少し音場の埃っぽさはあるが、響き自体は目覚ましい美しさを発揮している。これも廉価版だが、値段以上のお買い得感はある。

 ショスタコーヴィッチは交響曲の曲数だけはやたらあるけど、イマイチ馴染みがなかったのだが、この2枚の内容から、15曲すべてのディスクを揃えたい気になった。
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「敬愛なるベートーヴェン」

2006-12-29 06:58:27 | 映画の感想(か行)

 (原題:Copying Beethoven )晩年近くの楽聖ベートーヴェンと写譜師の若い女性との関係を描いたアニエスカ・ホランド監督作品。

 これはダメだ。何より、映画が音楽に乗り切れていない。冒頭、危篤状態のベートーヴェンの元に急ぐヒロインの“心象風景”みたいなものが描かれるが、小手先のカメラのギミックに音楽が被さるだけの見ていて鬱陶しいだけのもの。このシーンをもって“二人は音楽によって固く結ばれていた”なんていう歯の浮くようなモチーフをスクリーン上で表現できたと思っているらしいところが、どうにも痛々しい。

 交響曲第九番の初演で、彼女が“影の指揮者”になって耳の聞こえないベートーヴェンを補佐するという、本作のハイライトたる場面も、音楽に対するパッションも何も感じられない。ただ漫然と演奏シーンが流れるだけだ。さらにベートーヴェンの“(当時の)問題作”とされる後期の弦楽四重奏曲の初演場面も、この曲の素晴らしさは微塵も出ておらず、単に“うるさい曲”としか表現できていない。作者はいったい何のためにベートーヴェンを取り上げたのか、さっぱりわからない出来映えである。

 それでも楽聖とヒロインとがどういう経緯で互いを信用するに至ったのかが的確に描かれていればいいのだが、これもまた全然なってない。単に“変わった(だけど凄い才能を持つ)オジサンに気まぐれに興味を抱いた若いねーちゃん”という構図が差し出されるのみ(笑)。ヒロインの恋人の扱いも尻切れトンボである。

 主人公役のダイアン・クルーガー、ベートーヴェン役のエド・ハリス、共に熱演だが印象は薄い。さらに、この「敬愛なるベートーヴェン」という、まともな日本語にも気の利いたシャレにもなっていない邦題にも気勢がそがれる。いったい配給会社は何を考えていたのやら(暗然)。
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「007/カジノ・ロワイヤル」

2006-12-28 06:41:40 | 映画の感想(英数)

 (原題:Casino Royale )まず、シリーズお馴染みの凝ったタイトルバックが“お色気皆無”であることに驚いた。それを裏付けるように、若い頃のジェームズ・ボンドを描く本作は内容はハードボイルドに徹し、“甘い”部分は極力おさえられている。それどころか、初めて人を殺したときの狼狽ぶりや惨劇を目の当たりにしてショックを受けたボンドガールを真摯にいたわる場面など、従来のシリーズ諸作ではほとんどなかったリアルな描写が散見される。

 話が荒唐無稽になるほどマンネリ度が増していった本シリーズの打開策として製作側が取った作戦は、スパイ映画の本分に立ち返ったシリアス路線なのだと合点した。

 主役のダニエル・クレイグは正統派のハンサムとは言い難いが(笑)、マッチョな体つきで活劇シーンも難なくこなす。その白眉が前半の工事現場でのチェイス場面だ。「YAMAKASI」でお馴染みの“バルクール”の一員セバスチャン・フォーカン演じる悪者と共に、まるで人間技とは思えない身のこなしを披露。“凄い”というより“美しい”と表現したくなる出色のシークエンスだ。これを観るだけでも入場料のモトを取れる。

 ただし、残念ながら脚本の練り上げは不足している。後半からの話の分かりにくさもさることながら、無駄な場面が多すぎる。上映時間をあと30分削ってタイトに仕上げるべきだったろう。監督が凡才のマーティン・キャンベルだけに、各シークエンスの繋ぎもギクシャクしている。いつも思うのだが、どうしてこのシリーズは手練れの職人監督を使わないのだろうか。誰でも知っている定評のある演出家を起用すればもっと面白いものが出来るだろう。

 クレイグ以外のキャスティングもパッとせず、敵役のマッツ・ミケルセン、ボンドガールのエヴァ・グリーン共々小粒だ。とはいえ、原点回帰とも言える本作の製作意図は評価できる。次作以降も期待したい。
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「戦火の勇気」

2006-12-27 06:47:57 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Courage under Fire)96年作品。湾岸戦争で同士討ち事件を起こした陸軍士官(デンゼル・ワシントン)が、戦死した女性将校(メグ・ライアン)が叙勲にふさわしいかどうか調査すると意外な事実にぶち当たるというこの映画。中東紛争を扱った映画としては力のこもった作品だと思う。

 女性将校の部下たちの証言によって事の真相や彼女の性格までコロコロ変わるという「羅生門」みたいな展開を見せるが、違うのは真実が“薮の中”に入り込んでいくばかりの「羅生門」に対しこの映画ではたった一つの“真相”に向かって話が収斂されていく点だ。しかもその“真相”は戦意高揚の華々しいものとは似ても似つかぬ悲惨極まりないもの。“胡散臭い愛国心”どころか“戦争なんてクソくらえ!”と国家を告発したくなるような内容だ。しかもこの“真相”を隠蔽し“美談”に仕立て上げようとする軍の独善も糾弾される。

 いちおう“勝ち戦”とされているあの戦争の後でこういう映画を作るとは、アメリカ映画の良識もわずかながら残っているのだなと思いホッとする。さらに単純なプロパガンダ作品にせず、家族愛をからめた一般人の視点で物語が進んでいくのにも感心した。

 エドワード・ズウィックの演出は戦闘シーンと心理描写に非凡なものを見せ、彼の仕事ではベスト。キャストは皆好演で、いくつもの性格を巧みに演じ分けているM・ライアンはもとより事件のキーマンである軍曹ルー・ダイヤモンド・フィリップスの演技も見逃せない。ただ、D・ワシントンはいくら悩んで酒に溺れても少しも崩れた感じにならないのは持ち味なのだろうか(笑)。
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「サラバンド」

2006-12-26 06:47:57 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Saraband)まさかイングマール・ベルイマンが新作を撮っていたとは考えもしなかった。74年製作の「ある結婚の風景」の“後日談”で、主演も前作同様リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソン。今頃になって続編を撮る気になった理由は分からないが、出来た作品はさすがに横綱相撲の貫禄を見せている。

 泥沼のような夫婦の“死闘”の後、30年ぶりに再会した二人だが、その年月が過去の修羅場をまったく風化させていないところが凄い。それどころか、二人の確執は夫の息子の心理状態にも暗い影を投げかけ、さらなる惨状を露呈させる。

 人間とはこれほどまでにどうしようもない生き物なのか・・・・という見方を“神からの視点”で突き放して綴るのかと思いきや、夫の孫娘の純真さに“救い”を見いだすあたりは、それでも世の中を捨てきれない作者の切迫した“祈り”を感じさせ、観る者を粛然とさせる。

 ほとんど舞台劇のような形式だが、セリフのひとつひとつは、まるで喉元に突きつけられた刃のごとき鋭さだ。クローズアップと引きのショットとのタイミングも絶妙で、時折挿入されるイメージ場面も鮮烈。これは作劇の教科書とも言える洗練された仕事ぶりだ。渾身の演出とキャストの渾身の演技。スクリーン上にまったくスキがなく、最後までピーンと緊張の糸が張りつめている。

 なお、本作品はビデオ・プロジェクターでの上映だった。まあ、昨今のプロジェクターは性能が良くなったので、それ自体を頭から否定はしない。しかし、劇場側は35ミリ・スタンダードサイズの上映環境を整えておらず、見せられた画像は横長の不自然極まりないもの。おまけにスクリーンの3分の2程度しか表示されない。はっきり言って、これほどヒドい上映にお目にかかるのは久しぶりだ。ちゃんとした上映が出来ないのなら、最初から公開を引き受けるべきではない。作品自体が上質なだけに、後味の悪い結果となった。
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「恋人たちの食卓」

2006-12-24 07:42:56 | 映画の感想(か行)
 (原題:Eat Drink Man Woman 飲食男女)94年作品。「ブロークバック・マウンテン」の李安(アン・リー)監督が台湾時代に撮った、観る者の腹の虫を鳴りっぱなしにするスペクタクル級のグルメ映画。

 主人公の朱(ロン・ション)は現在引退はしているが、元は一流ホテルのシェフだ。冒頭、三人の娘たちに夕食を作る場面からその名人芸に見とれてしまう。確かな包丁さばきと、念には念を入れる材料の仕込み。難しい火加減水加減も鼻歌まじりで、あっという間に食卓に美しい盛りつけの料理が並ぶ。たかが家庭料理にここまで凝るかぁ! と半ばあきれていると、映画が進んでも、あちこちにこういう美味しそうな場面が満載。大披露宴の料理から小学生のお弁当まで、中華料理の真髄を見せてくれる。特に、突然現役シェフからの応援を依頼された主人公が、大勢の料理人たちが右往左往するホテルの大厨房に乗り込んでいくシーンのドキドキする躍動感(スピーディなカメラワークの見事さ!)には圧倒されてしまった。

 さて、当然映画の本題は料理の見せつけ方ばかりにあるのではない。男手ひとつで三人の娘を育てた初老の主人公と、娘たちの微妙な確執を描くホーム・コメディある。高校教師の長女(ヤン・クイメイ)は学生時代の失恋がネックとなって、いい歳になった今でも恋愛に踏み込めない。次女(ウー・チェンリェン)は有能なキャリア・ウーマンだが、海外転勤の話が出て迷っている。女子大生の三女(ワン・ユーウェン)は気ままな生活を送っている。しかし、三人の心の中は父親のことで占められ、反感と愛情が入りまじった特別な意識で父をとらえており、人前では絶対に男友だちの話をしないのはそのためであった。

 彼女たちが、いかに父親の影響下を離れ自分自身の人生を歩んでいくか、そして子供たちに去られる主人公の悲哀(歳を取って味覚が落ちてもいる)を決して重くならず、カラリと楽天的に描く作者の姿勢は好ましい。“家族の結び付きを料理という「儀式」の面から捉えた”という作者の言葉(パンフにある)どおり、人を幸せにするコミュニケーションの手段としての料理が、傑作「バベットの晩餐会」(87年、デンマーク)の崇高さよりも家庭料理の次元でわかりやすく親しみをこめて描かれる。

 そして李監督の語り口のうまさ。意外なドンデン返しの連続で爆笑させたあと、静かな余韻を残すラストが忘れられない。女優陣の健闘もかなりのものだが、「ウェディング・バンケット」の主役だったウィンストン・チャオが脇に回って飄々とした味を出しているのも嬉しい。
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最近購入したCD(その5)。

2006-12-23 12:52:10 | 音楽ネタ
 またまた最近買ったディスクを紹介します。最近はよくジャズを聴くので、今回はジャズのみということで・・・・(^^;)。



 まずは、往年のトランペット奏者ケニー・ドーハムが1950年代末にトミー・フラナガンやポール・チェンバースらと吹き込んだ「Quiet Kenny(邦題:静かなるケニー)」。同じトランペッターでもマイルス・デイヴィスや今ならウィントン・マルサリスのようにテクニックに物を言わせた高踏的なプレイを披露するのではなく、実に落ち着いたケレン味のない演奏を展開。全体的にくすんだ、渋い音色だが、技巧的には申し分なく、他のプレーヤーとの息もぴったり。特に第一曲目「Lotus Blossom」で、ベースとトランペットによるイントロから“タタン!”とドラムスが入るあたりはスリル満点だ。録音も素晴らしい。



 次に、ギタリストのラルフ・タウナーとヴァイブ奏者のゲイリー・バートンとのデュオによるインプロビゼーション中心のアルバム「マッチブック」。74年にリリースされている。清涼な音作りで知られるECMレーベルのラインナップの中にあって、ひときわ“透明度”の高いディスクである。まるで北極圏の遙かな上空から雪と共にサーッと舞い降りてくるようなサウンドだ(事実「オーロラ」というタイトルの曲もある ^^;)。演奏はリラックスしているようで、あちこちに冷たい火花が散っているような、スリリングな展開を見せる。BGM的に聴き流すもよし、対峙して聴き込んでもよし、とにかく“買って良かった”と素直に思えるディスクだ。



 最後は、アン・バートンのバックで流麗なピアノを披露していたルイス・ヴァン・ダイクがトリオを組んでリリースした「バラード・イン・ブルー」。2004年のレコーディングだ。これも実に良かった。音がとにかく綺麗なのだ。ゴリゴリのジャズマニアからすれば“ふん、ムード音楽じゃないか!”と軽くあしらわれるようなタイプのサウンドだが、ジャズ初心者の私にとっては、そんなことはどうでもいいのである(笑)。映画「いそしぎ」や「おもいでの夏」のテーマをはじめ、雰囲気満点の名人芸に、ただただ聴き入るばかりのナンバーが続く。録音はやや人工的かもしれないが、響き自体は目覚ましい美しさだ。バッハのチェンバロ曲のアレンジが出てくるのも嬉しい限り。誰にでも奨められる逸品だと思う。
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岡嶋二人「99%の誘拐」

2006-12-22 06:44:00 | 読書感想文
 昭和40年代に起こった誘拐事件と、その関係者が再び巻き込まれる昭和60年代に起こる誘拐劇。二つの事件の因縁めいた関係を描くサスペンス篇。第十回吉川英治文学新人賞の受賞作である。

 この作家(二人のライター共同のペンネームである)の作品は初めて読むが、テンポがよくスラスラと読め、最後までストレスを感じさせない筆致だ。途中で結末が分かってしまうのだが、それでもストレスなしで目を通すことが出来る。ちょっと長い時間、列車に乗っている間に手にする本としては最適であろう。

 だが、内容はそれほど濃くはない。人物描写も浅い。“犯人”の手口は、完璧に予定通り事が運ぶという、万に一つの偶然性に寄りかかっている(正確には一つだけ予想外のことが出てくるのだが、あまりに大きく厳然とした事態なので、ほとんど齟齬は生じない)。要するに突っ込みどころが満載なのだ。途中でちょっとした予期せぬトラブルが次々と起こり、“犯人”がそれを取り繕うために悪戦苦闘するようなシチュエーションを入れた方が数段盛り上がったろう。

 それよりも面白かったのが、犯行にパソコンを使うことで、OA機器にまったく縁のない捜査陣が右往左往するところ。当時はパソコンを自在に操るのはプロかオタク青年ぐらいで、一般にはパソコンアレルギーを持つ者が山のようにいたことを思い出す。まあ、当時のその状況を前提にしないと、トリックの説明にかなりのページを割くような本書のスタイル(出版されたのは88年)は成り立たなかっただろう。今読むと少し微笑ましい。そういえば私がパソコン通信を始めたのがちょうどこの頃であり、懐かしく思えた。
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