元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「12人の怒れる男」

2008-10-31 06:46:32 | 映画の感想(英数)

 (原題:12)ロシア映画の力作だが、作為的な演出にはどうも愉快になれない。元ネタになったシドニー・ルメット監督の、往年の米映画「十二人の怒れる男」は私は観ていないので、それと比べてどうのこうのとは言えないが、少なくともこういった法廷ドラマでは理詰めの展開が必要なはずだ。しかし本作はそのあたりが弱い。

 冒頭、12人の陪審員の中で一人だけ被告の少年の無罪を唱える者が現れるが、その理由が“若い被告を安易に有罪にしてはいけない”というのは噴飯ものだ。心情的なことはひとまず脇に置いて、具体的な反証から入らないと何のために陪審員席に座っているのか分からない。そもそも彼らは、それまで公判のいったい何を聞いていたのか。

 犯行のあったアパートに住む老人の供述内容が物理的に考えておかしいとか、目撃者の女性の証言が突っ込みどころ満載だとか、そんなことは冷静に陳述を聞いていれば誰でも気が付くことではないのか。特に被告の少年と同郷であり、被告の行動様式を容易に推察できるはずのメンバーがこの時点に至るまで漫然と“有罪”の表明をしていたというのは、不自然極まりない。

 さらに違和感を持ったのは、12人のプロフィールが必要以上に長い時間を割いて紹介されていること。確かに切々とした話ばかりなのだが、それがこの法廷ドラマにふさわしいのかどうかは疑問だ。コンパクトな“暗示”で終わらせてスピーディーに作劇を進めれば、160分もの長い上映時間は不要だったはずである。また会場に迷い込んできたスズメとか、小学校の体育館を急ごしらえの議論の場に選んだ事による小道具の過剰な羅列とか、余計なモチーフが多すぎる。

 製作や脚本を兼ねるニキータ・ミハルコフ監督は、被告をチェチェン出身者に設定することにより、現代ロシアの深刻な社会問題をクローズアップさせたかったのは明白だ。しかし、それがここでは空回りしているとは言えないか。内戦の描写はシビアだが、何度も同じ場面を繰り返すなど冗長な展開が目立つ。

 舞台劇を意識したような意匠、大仰な身振り手振りで怒鳴り合う登場人物達は、劇映画としての枠組みを不用意な形で乱しているように思える。冤罪を晴らすだけでは解決しないという状況に、社会主義時代とは違った意味の抑圧が漂うロシアの国情を憂えていることは大いに分かるのだが、もう少し別のアプローチがあったはずだ。

 セルゲイ・マコヴェツキーやヴァレンティン・ガフト、アレクセイ・ペトレンコら我が国では無名ながら本国では手練れの演技者と思われる俳優を揃え、そしてミハルコフ自身も顔を出す渋いキャスティング。エドゥアルド・アルテミエフの重厚な音楽、ヴラディスラフ・オペリヤンツのカメラによる清冽な色調の画面形成など、観客を引き込む仕掛けは出来ている。ただ、前述のような作品コンセプトの練り上げ不足が、アカデミー外国語映画賞をはじめ各種アワードで注目されていながら、大賞を射止めていない原因かと思われる。
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ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」

2008-10-30 19:47:07 | 読書感想文
 1920年代6月のロンドンを舞台に、50代の政治家夫人がパーティを催す一日の心の動きを丹念に追う。ちなみに、私はウルフの小説を読んだのは初めてだ。

 「意識の流れ」なる技法がふんだんに取り入れられている作品だそうだ。要するに、とりとめもない内面をとりとめもないままに文章に託してゆく方法らしい。ただし、正直私はこのような文体は苦手である。ヒロインの内面が延々と綴られているのならまだしも、文節の途中で主語がコロコロと変わり、誰の「主観」なのかわからなくなってくるのには面食らってしまう。チャプターごとに分かれていないのも読みづらい。

 ただし、文章そのものは大層美しいことは見て取れる。表現方法や単語の使い方には何度か唸らされた。ところが、この訳(角川文庫版)はあまり上手くない・・・というか、ヘタである。もうちょっと「正しい日本語」に置き換えるよう腐心すべきだ。

 映画化もされているが、私は未見。近年では「めぐりあう時間たち」の中で重要な小道具に使われている。ただし、この「ダロウェイ夫人」を読んでも、「めぐりあう~」でのジュリアン・ムーア扮する主婦の自殺未遂の真相はわからなかった。
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「ぼくの大切なともだち」

2008-10-29 06:34:44 | 映画の感想(は行)

 (原題:Mon Meilleur Ami)やっぱり、いい大人が“親友を作ろう!”と意気込んでも無駄なのだろう。特に社会人になってからは100%無理だと言える。親友を作れるのは学生時代だけだ。ビジネスの場では友人関係は存在しない(あるのは利害のみ)。たとえ仕事とは関係のない趣味や隣近所との付き合いであっても、皆生活の糧を得るため何らかの利害関係が発生する事業所や団体に属しているか、あるいはそれらと取引する主体にコミットしている以上、損得抜きの腹を割った付き合いなんか出来るはずもない。

 しかし、それでも“親友を作るのだ!”と強く念じれば、近いシチュエーションには持って行けるのかもしれない。それを示したのが本作だ。やり手の美術商であるフランソワ(ダニエル・オートゥイユ)は、自分の誕生パーティーで同席した者達から“あなたには友人がいない”と指摘される。ならば当月中に親友を連れてくるぞと啖呵を切ったものの、周りを見渡すと誰も自分を好いてくれていないことに気付き愕然とする。やがて偶然出会ったサービス精神旺盛なタクシードライバー(ダニー・ブーン)に“友達を作る方法を教えてくれ!”と頼み込むハメになる。

 早速そのタクシーの運ちゃんはフランソワに見ず知らずの人に話しかけるような特訓を仕込むようになるが、ハッキリ言ってそういうことは営業マンの手練手管であっても友人作りのノウハウにはまるで合致しないのだ。ここから予想が付くように、この運転手にも友達と呼べる相手などいないこと明らかになる。

 映画はそこから美術品の壷の盗難ネタやらフランソワとその娘の芳しくない親子関係などが織り込まれ、不器用な二人が友人関係を形成するためのすったもんだが描かれる。逆に言えば、それだけ腹をくくってトラブルに巻き込まれることも厭わず相手のために東奔西走しなければ、友情などゲットできるはずもないのだ。社会人にとって、そこまでやれというのは無理だろう。何とか二人が親友同士みたいな案配になろうとも、その後に“世間のしがらみ”とやらで疎遠になっていく場合も大いに考えられる。そんなものなのだ。

 パトリス・ルコント監督は過去に「タンデム」などでヘタレな男同士の連帯感を描いて実績を挙げたが、今回もさすがの手際である。適度なギャグも折り込み、面白うてやがて悲しき中年男達の生き様をシニカルに綴る。クライマックスのクイズ番組(ミリオネア)の場面も結構盛り上げてくれるし、オートゥイユとブーンの演技も万全だ。

 さて、学生時代以外に親しい友人を作れる時間があるとするならば、それは老後かもしれない。一切のしがらみから自由になり、もしも失う物も何もない境遇になれば、同類相哀れむがごとき友情めいたものも発生する可能性はある。あまりパッとしない話だが、それでも孤独よりは数段マシなのだ。それを期待して年を重ねるというのも、悪くないではないか(笑)。
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「おっぱいとお月さま」

2008-10-28 06:29:43 | 映画の感想(あ行)
 (原題:La Teta i la Lluna)94年スペイン=フランス合作。スペイン・カタロニア地方に住む9歳のテテ(ビエル・ドゥラーン)は、生まれたばかりの弟に母親のおっぱいを取られたことが気に入らない。自分専用のおっぱいが欲しいとお月様にお祈りしたら、巡業に来たフランス人の踊り子エストレリータ(マチルダ・メイ)という、理想的なおっぱいの持ち主に出会えた。しかし、彼女は性的不能者の“おなら芸人”の夫と、近所に住む青年ミゲルとの間でよろめいてばかり。果たしてテテは願望をかなえることができるのか・・・・。94年ヴェネチア映画祭の脚本賞受賞作で、監督はビガス・ルナ。

 こういう子供の激しい思い込みを素材として取り上げる場合、度を過ぎると「カルネ」みたいなグロテスクな怪作になるし、表面的に娯楽色を出して軽く片付けてしまうと「ノース」や「小さな恋人」のような凡作になる。「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」という傑作はあるものの、けっこう難しいジャンルではないかと思う。この映画はどうか。

 ルナの演出はその前作「ハモンハモン」よりアクが抜けて、スムーズに物語を展開させている。冒頭のカタロニア名物“人間タワー祭”でスペクタクル的に観客をノセたあと、古いシャンソンをバックに幻想的な場面で子供のイノセントな夢を綴る。見所は、エストレリータと“おなら芸人”のステージングで、キッチュなセットとチャーミングな振り付けはフェリーニを思わせる。ダメ男と巨乳美人の取り合わせも、もろフェリーニ。ただ、フェリーニの密室嗜好(?)と違ってルナはシネスコの画面いっぱいに映像空間を広げていて、風通しは格段にいい。

 もっとも、プラスアルファの作者の悪意は感じられず、ドキッとするような官能性やら屈折したニヒリズムはない。ただ“大きなおっぱいを見たいという子供の頃の願望を映像化したかっただけ”(監督のインタビュー記事)との率直な意思があるだけだ。これはこれでいいと思う。ラストはちゃんと子供から少年への主人公の“成長物語”という定石を押さえていて、爽やかな印象を残す。

 ドゥラーン坊やはラテン系の子役らしい実に達者な演技。マチルダ・メイは意外な好演で、初めて彼女を良いと思った。何でも撮影時には妊娠中で、おっぱいの大きさが変わってきてスタッフを慌てさせたという(笑)。
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「しあわせのかおり」

2008-10-27 06:54:56 | 映画の感想(さ行)

 後半での失速が惜しい。病に倒れた中華料理屋の主人の味を“私が受け継ぎたい!”とばかりに奮闘するシングルマザーを描く本作、こういうハートウォーミングな話を得意とする三原光尋の演出は、前半部分は冴えている。

 まず、この店で出される中華定食が実に美味しそうだ。最初は勤め先のデパートに出店させようと掛け合うが、いつもけんもほろろに追い返されていたヒロインが、意地になって雨の日も風の日も通い詰めるようになる。ところが彼女の熱意に負けるものかと店主は毎日手を変え品を変えてメニューを編み出してくる。気合と気合とがぶつかり合っている間に、約800円の中華ランチは洗練の度合いを高めてゆく、そのプロセスがケッ作だ。

 そして晴れて店主の弟子となった彼女の修行風景が興味深い。おそらくは入念なリサーチと下ごしらえの賜物であろうが、中華料理屋のオヤジと慣れない新入りとの掛け合いを何の違和感もなく見せきっている。もちろん、彼女が仕事を辞めてまで料理を志した理由もちゃんと説明されており、彼女の娘をケアするソーシャル・ワーカーや、彼女に岡惚れしてしまう若造など、周囲の人物配置もぬかりがない。

 ただし、中盤以降に舞台が店主の故郷の紹興に移ると、途端に映画の動きが停滞してしまう。確かに、店主の心理的・文化的バックグラウンドを示すための一つの方法ではあったろうが、ここから何やら月並みな“日中友好PRドラマ”みたいな雰囲気になってきて、観ている側としてはタメ息をつきたくなる。

 この凡庸さは終盤に再び舞台が日本に戻ってからも尾を引いており、クライマックスであるはずの会食の場面がほとんど盛り上がらない。前半あれだけ美味しそうだった料理の数々が、殺風景なセットとも相まってまったく食欲をそそらなくなっている。これでは高いばかりでちっとも旨くない福岡市内にある某お座敷中華料理屋の宴会メニューと一緒ではないか(爆)。登場人物がやたら“美味しい! 素晴らしい!”と声を上げるのも白々しく感じてしまう。要するに中国側にヘンに遠慮した結果、リズムが崩れてしまったのだろう。師匠と弟子との二人三脚で料理を手掛けるシーンもほとんど感動できなくなってしまった。

 中谷美紀と藤竜也が好演だっただけに、残念な結果になった。それとロケ地は金沢だが、あの街の魅力がほとんど出ていない。紹興の絵葉書みたいな美しい風景に完全に負けている。もうちょっと工夫して欲しかったところだ。
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最近購入したCD(その16)。

2008-10-26 07:14:49 | 音楽ネタ
 前回に引き続き女性ヴォーカルを3枚紹介したい。なお前はジャズ系だったが、今回はロック/ポップス系だ。まず最初は元スウェードのギタリスト、バーナード・バトラーがプロデュースと作曲を手掛け、さらにバックの演奏にも参加している、英国ウェールズ出身の若手シンガー、ダフィーのファースト・アルバム「ロックフェリー」。パッと聴いた感じは、あまりにも60年代の黒人系ポップスと似ていて驚く。白人離れした・・・・と言っては語弊があるだろうが、深くてダークでソウルフルな歌声には誰しも魅了されてしまうだろう。



 もちろんただの懐メロ趣味では決して無く、B・バトラーらしいキレの良い展開や陰影に富んだ美しいメロディは、まさしく現代のポップスを演出している。何かと比較されるエイミー・ワインハウスよりも広範囲な支持を集めそうな素材だ。詞の内容も実に泣かせる。蓮っ葉のようで実は誰よりも純情なヒロインを表現する彼女のセンシティヴな実力が、前面開花していると言って良いだろう。全編に渡って捨て曲は見つからず、どのナンバーもメリハリに富んだ哀愁のストーリーがシャープかつ着実に編み上げられており、一点の緩みもない。特に本国ではNo.1ヒットになった「マーシー」や、プロモーション・ビデオも秀逸な「ウォリック・アヴェニュー」などは今年度ポップス・シーン屈指の佳曲と言えよう。録音はイマイチながら、実売2千円を切るプライスも相まって、お買い得感は相当高い。

 次に紹介するのが、カリフォルニア州出身の新人ロッカー、ケイティ・ペリーのデビュー作「ワン・オブ・ザ・ボーイズ」。とにかく若い頃のマドンナとアヴリル・ラヴィーンが合体したような元気の良さ、そして屈託の無さに思わずニヤついてしまう快作だ。どの曲も見事にストレートアヘッドな展開で、しかも鋭い研磨感を併せ持ったノリの良さは聴き手を掴んで離さない。少しハスキーでコクのある声は、絶妙のブラックなフィーリングを伴って嫌味がなく、聴き疲れることもない。ギター主体のロックが中心ながら、カントリー・ミュージックやヒップホップなどのテイストも上手く織り込み、アルバム全体に緩急付けた構成も納得だ。話題になっている歌詞の過激さもかえって愛嬌タップリである。



 彼女は20代前半の若さだが、実は10代の時から業界から目を付けられていたという。しかしスグにはデビューさせず、しっくり育ててキャラクターや曲作りを“熟成”させた後に、満を持しての登場となったらしく、いわば下積みが長い。だからこそ、一見軽い印象ながら決して浮ついた感じはなく、それどころか地に足が付いたような安心感をも聴き手に与えるのだろう。大ヒットした「キス・ア・ガール」をはじめ楽曲の練り上げは万全で、乾いた明るさを前面に出した録音も昨今のポップス系では良質の部類である。

 さて、私はブラジルのポップスにあまり興味がない。もちろんジルベルトやジョビンなどの往年の名盤はチェックしているが、ポップスは英語で歌われるのが最も自然だと思い込んでいる当方にとって、現行のブラジル音楽シーンは縁遠いものであった。しかし、そんな私が思わず買ってしまったディスクがある。それが新人歌手アレクシア・ボンテンポのファースト・アルバム「アストロラビオ」だ。実はショップの試聴コーナーで何気なく聴いたところ、速攻で購入を決めてしまったのだ。何よりこのクリーミーな声質が素晴らしい。実に滑らか、そして自然体、適度な潤いを伴ってスーッと広がっていくような、本当に魅力的なヴォイスなのだ。歌い手の知的で抑制の効いたキャラクターも十分伝わってくる。



 楽曲もそんな彼女の声を活かすような選定だ。もちろんポルトガル語中心に歌われているが、ポリスの「ロクサーヌ」やスティービー・ワンダーの「マイ・シェリー・アモール」のカバーなど英語のナンバーもある。そしてそれがインティメイトな暖かさを伴った爽やかなアレンジにより、無理なく聴き手に迫ってくる。それどころかこれらの曲にはこんなチャームポイントがあったのかと、目から鱗が落ちる思いである。録音も良好で、低音は出ていないが高域はウェットな味を付与したままグンと伸びている。音場もけっこう広い。とにかく、秋の夜長にピッタリの冴え渡った充実作である。
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「イキガミ」

2008-10-18 06:39:34 | 映画の感想(あ行)

 どうしようもない設定を、演出とキャストが何とか最後まで保たせたような感じだ。舞台になっている今の日本とよく似た国では、18歳から24歳までの若者のうち千人に一人が政府から無作為に選ばれて殺される“国家繁栄維持法”なるものが施行されている。それによって誰もが命の大切さを実感し、犯罪も減り、出生率がアップして経済成長が実現されるという寸法だ・・・・ってバカ言ってんじゃないよ(呆)。

 国家による無差別殺人が罷り通る世の中で、どこをどうすれば活気のある社会が生まれるのか。若者達はいつ消されるか分からないシビアな状況に置かれ、自暴自棄になるに決まっている。世情不安になれば出生率は落ちる。もちろん経済拡大なんか望むべくもない。

 原作はコミックらしいが、よくもまあこんなアバウトな世界観で作品を生み出せるものだ。もしもこれが昨今の格差社会の暗喩のつもりならば、まことにもって幼稚な作劇である。星新一のショートショート「生活維持省」との類似性が指摘されているが、あっちの方が作品として数段まとまりが良い。

 さらに映画は死亡対象者に対し24時間前に予告票(通称イキガミ)が配達されるというシステムを描くが、これも噴飯ものだ。そんなものを突きつけられたら誰だってヤケを起こす。当然物語の中ではそういうケースに関して言及されるが、エクスキューズにしか聞こえない。予告無しで直ちに消されてしまう「生活維持省」の方が違和感がなく、もしも対象者に24時間の猶予期間を甘受する風潮がすでに出来上がってしまっているのならば、そっちの構図の方をテンション上げて描くべきである。

 かような低調なシチュエーションの中で監督の瀧本智行は実に良く健闘している。ドラマ作りを投げていないのだ。3つのエピソードをキッチリと描き分け、混濁した部分は見受けられない。理不尽な環境に置かれた若者群像を丁寧に追っている。キャストもそれに応えており、新米の“配達人”に扮する松田翔太をはじめ、塚本高史、成海璃子、山田孝之、柄本明といった面子が正攻法の演技で受け持ち分をこなしていて、そこにはいささかのスキもない。もうちょっとちゃんとした設定のシャシンでこれらの仕事ぶりを見たかった。

 さて、本作にあるような“国家による殺人”が限定された対象に直接実行されるのではなく、間接的に不特定多数を死に追いやっているのが今の日本である。構造改革という名の国民虐待路線により、自殺者の大幅増加を演出している現状。それを真正面から糾弾した映画ぐらい作れないものか。この点、日本映画は外国映画の後塵を拝していると言って良い。
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ポール・クルーグマンのノーベル賞受賞について。

2008-10-17 06:58:29 | 時事ネタ
 日本人の科学者4人の賞獲得(正確には南部博士は米国籍なので3人だが)で盛り上がった今年度のノーベル賞だが、私はそれよりもポール・クルーグマンがノーベル経済学賞を受賞したことが実に意義深いと思う。

 私は彼の受賞の理由となった「貿易の形態と経済活動の配置に関する分析」というものは知らない。だから“文献も読んでいないのに偉そうな口を叩くな!”と言われることは承知の上で述べたいが、彼がノーベル賞を取るに至ったのは、その研究成果よりも彼の言説のスタンスが評価されたからではないかと思う。つまり、それまで“主流”と見なされてきた新しい古典派経済学(ニュークラシカル)をはじめとする既存の経済学に対して敢然と異議を唱えたことがノーベル財団の構成員達の琴線に触れたから・・・・という見方も出来ると思う。

 ニュークラシカル及びマネタリズム等の主張に基づいた施策の数々が、いかに世界経済を歪めてきたか、クルーグマンは舌鋒鋭くそれを批判する。すべての個人・法人などの経済主体が、常に合理的な行動(つまり、一番金銭的に有利になるように振る舞うこと)で合理的期待を形成する・・・・などという前提のオカルト理論を信奉し、そんな机上の猿知恵をグローバリズムの大義名分によって世界中に吹聴してきた連中のおかげで、アジア金融危機をはじめとする数々の不祥事が引き起こされた。昨今のサブプライムローン問題に端を発する騒ぎもその一環だろう。クルーグマンは経済学者や各国の経済政策担当の為政者(特にブッシュ政権)の“ここがこうなるから、結果的にこうなるはずだ。結果が違うのは、現実の方がおかしいのだ”といった原理主義者みたいな物言いを、遠慮会釈なく切って捨てた。そのため一部で顰蹙を買ったようだが、彼の主張が的を射ていたことは、すでに実証済だと言って良い。

 マネタリストは“量的緩和で資金をジャブジャブ供給すれば景気は回復する”と言った。でも実際はそうならなかった。ニュークラシカル派の経済学者は“生産性を向上するための構造改革により経済は活性化する”と述べた。しかしそんなことは起こらなかった。それどころか格差が拡大して社会不安が増し、マネー資本主義が暴走してサブプライムローンごときの底の浅いバブルが破裂しただけで金融危機を招いてしまうような脆弱な体制が広まってしまった。

 かつてノーベル財団はデリバティヴという危険なバクチの道具を発明した米シカゴ学派の経済学者に賞をくれてやったことがある。今回のクルーグマンの受賞は、その反省に立って決定されたのかもしれない。彼のインフレ・ターゲット論が実際的に有効かどうかは別にして(ちなみに、私はあまり信用していないが ^^;)、とにかく世界経済に対する論説のトレンドが転換期を迎えたことを象徴する出来事であるのは間違いない。

 さて、クルーグマンは日本経済に対しても折を見て言及している。曰く“有効需要が不足しているデフレ期においては、いくら量的緩和をしても無駄である”、曰く“景気低迷期に不良債権処理を優先しても何もならない”。しかし、これらの正しい指摘に対し、日本政府はまったく耳を傾けなかった。竹中平蔵のような現実離れのサプライサイドおたくや財務省の木っ端役人や私腹を肥やすことしか考えていない日本経団連の連中の言い分ばかりを受け入れ、デフレ促進路線を驀進。ようやくその弊害が格差問題などの形で現れて政府は方針を転換したかに見えるが、景気回復を掲げた麻生政権にしても焼け石に水みたいな財政政策しか提示できないし、相も変わらず構造改革に色目を使うことを忘れてはいない。

 物理学賞や化学賞での成果を喜ぶのも良いが、日本政府が肝に銘じるべきはクルーグマンの受賞だ。そして構造改革路線との完全なる決別を明言すべきだ。
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「インビジブル・ターゲット」

2008-10-16 06:32:35 | 映画の感想(あ行)

 (原題:男児本色)物語に深みはないが、活劇場面の釣瓶打ちで満腹度は決して低くはない。「香港国際警察/NEW POLICE STORY」のベニー・チャン監督の新作。香港に舞い戻ってきた強盗グループ。かつて1億米ドルを奪い、たくさんの人々を巻き添えにした札付きの連中と、彼らに婚約者を殺された刑事、凄腕の警部補、強盗団と接点がある元警官の弟である巡査の3人との激闘を描く。

 善玉3人にはそれぞれの事情があるとはいえ、観る者にグッと迫ってくるようなリアルな内面描写は見受けられない。取って付けたような設定だ。捜査の仕方も荒っぽい。スタンド・プレイの連続で、これではいかに香港映画とはいえ周りの理解は得られないだろう。前半の酒場での大暴れなんか、よく考えると作劇上ほとんど意味がない。クライマックスの警察署での大掛かりな乱闘にしたって、有り得ない展開の連続だ。こういうネタにしては上映時間が長過ぎるのもマイナスだと思う。

 しかし観ている間はあまり不満を覚えないのは、何と言っても悪役の存在感である。ウー・ジンやアンディ・オンが演じる犯人グループは、とにかく腕っ節が強い。警官が何人掛かってこようと、顔色一つ変えずブチのめしてしまう。しかも頭が切れて神出鬼没の立ち回りに当局側はキリキリ舞いだ。

 邪魔する者は何のためらいもなく始末してしまうかと思えば、人質を殺さないなどの“彼らなりの美学”が感じられるのも面白い。それらのバックグラウンドについてハッキリと言及していないのも賢明だ。丁寧に描くと分かりやすい反面、彼らの凶行の“限界”も見えてしまう。あえて明示しないことにより、次にどう出るか分からない不気味さを醸し出していると言えよう。

 肝心のアクション・シーンだが、これはもう程度を知らないような徹底ぶりだ。決して必然性のあるアクションではなく、いわばアクションのためのアクションなのだが、個々の描写のヴォルテージの高さは観る者に突っ込むスキを与えない。高いところから落下させたり、燃えさかる火の中で暴れさせたりと、人権無視も甚だしい所業の数々。香港製活劇はこうでなければならない(笑)。

 主演のニコラス・ツェーとジェイシー・チャン、ショーン・ユーは、悪役に比べて重みが足りない。それほどケンカが強いようにも思えない。単に若いからではなく、貫禄が不足している。彼らに限らず香港映画界は存在感のある“主役を張れる若手”が育っていないように思える。いわゆる香港四天王の時代は過去のものになりつつあるので、ここらで奮起してもらいたいところだ。
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「デスペラード」

2008-10-15 06:34:20 | 映画の感想(た行)
 (原題:Desperado )95年作品。正直言って、ロバート・ロドリゲス監督によるこの前の作品「エル・マリアッチ」の方がはるかに面白い。理由は明白で、意外性における差である。

 前作の主人公は、最初は文字通りのマリアッチ(ラテン系の“流し”みたいなもの)であり、ギターケースを間違えたことからマフィアの抗争に巻き込まれ、大立ち回りをやるハメになる。いわば素人が活劇のヒーローになる意外性の面白さが一つ。そして主人公と恋仲になるギャングの情婦との関係に代表されるような、通常の恋愛ルーティン(なんじゃそりゃ ^^;)を無視した展開。そして何より、70万円の超低予算であれだけのキレたアクションと非凡なイメージ・ショットをてんこ盛りにして、ハリウッドの大作アクションを凌ぐ娯楽作に仕上げてしまったR・ロドリゲスという才能の、極めつけの意外性が光っていた映画だった。

 対して続編である本作はどうか。かなりの製作費がかかり、主演にアントニオ・バンデラスを起用し、音楽はロス・ロボスで、ゲストにクエンティン・タランティーノまで引っ張り出した話題作でありながら、いまいち迫ってくるものがない。

 今回主人公は素人ではなく、最初からスゴ腕のガンマン(?)として登場。ギターケースに銃火器を詰め込み、一人で何十人もの敵をあっという間に片付ける。相手の弾は全然当たらず、こちらの銃弾は百発百中。スローモーションを駆使したド派手な活劇場面やら、カロリーの高そうな女との濡れ場とか、マフィアのボスとの因縁話など、見せ場を山盛りにして退屈はさせない。たぶん前作を観ていなかったらけっこう楽しめたと思う。

 でも、バンデラスの濃い顔が出てきただけで、これはスーパーヒーローが活躍するアクション物だという映画の外郭が出来てしまい、突き抜けた面白さは期待できなくなるのだ。この窮屈さは、ラスト近くに二人の助っ人が登場するシーンを除いて、全編にわたっている。基本的にスタローンやシュワ氏の路線に近くなってしまった。ならばマリアッチらしく“歌”で勝負したかったが、前作ラストで手のひらを撃ち抜かれているのでギターが弾けない(この設定は失敗だった)。それにしてもタラン氏が出てきてすぐに消えてしまうのは少し残念である(^_^;)。
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