元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「フォロー・ミー」

2010-08-31 06:38:04 | 映画の感想(は行)
 (原題:THE PUBLIC EYE)72年作品。「第三の男」などで知られるイギリスの著名な監督キャロル・リードの最後の作品であるが、私は今まで観たことがなく、今回のリバイバル上映で始めて接した。感想としては“中盤までは良いが、ラスト近くは腰砕け”といったものだ。作劇の詰めが今ひとつである。

 家柄が良く、ロンドンで公認会計士事務所を開設しているチャールズが出会ったのは、アメリカ西海岸出身のヒッピー女で世界貧乏旅行の途中にイギリスに立ち寄っていたベリンダ。奔放な生き方の彼女とお堅いチャールズは、自分にないものを持っている相手に惹かれて結婚する。ところが、新婚期間が終わるとベリンダは無断で家を空けることが多くなる。妻の浮気を疑い始めたチャールズは、私立探偵に調査を依頼するのだが、意外な事実が判明するという筋書きだ。



 トポル演じる傍若無人な探偵のキャラクターが最高だ。白いレインコートに身を包み、ポケットには常食のマカロンを忍ばせるという怪しい風体。彼はベリンダをこっそり尾行するどころか彼女の前に身を曝し、自分のお気に入りスポットに案内する始末。しかも、ひとことも言葉を発さずに態度と表情だけで彼女の信頼を勝ち取り、傍目からは一種のデートにも見える(笑)。不穏な動きの探偵に業を煮やしたチャールズは逆上するのだが、そのやり取りもケッ作で笑いを呼び込む。

 ベリンダの行動を見れば誰でも分かるように、彼女は浮気なんかしていない。ただ夫とのコミュニケーションが足りないことに不満を抱いているだけなのだ。おそらくは結婚前の交際では互いの生き方の違いにより、得るものが多く刺激的な日々を過ごしたのだろうが、結婚してしまえば“ただの夫婦”として収まってしまう。しかも旦那は堅物だから“釣った魚には餌はやらない”主義だ。これでは倦怠期まっしぐらであり、先は見えている。

 夫婦生活とは、結婚してから互いに積み上げていくものだ・・・・というのが本作の言いたいことである。しかし、それをコメディ・タッチの中でさらりと提示すれば良かったものの、困ったことにセリフで滔々と捲し立ててしまう。それは余計な話である。ここに至って完全に話の腰を折られた感じになり、あらずもがなの結末が待っている。これではマズい。元ネタがピーター・シェーファーの戯曲なので、セリフが先行したのも仕方がなかったのかもしれないが、もうちょっと考えて欲しかった。

 チャールズ役のマイケル・ジェイストン、ベリンダに扮したミア・ファロー、共に好演だ。ロンドンの名所・旧跡がたくさん出てくるのも楽しい。ジョン・バリーの音楽だって万全だ。しかし、筋書きがこれでは諸手を挙げての評価は差し控えたい。
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「S.W.A.T.」

2010-08-30 06:32:13 | 映画の感想(英数)
 (原題:S.W.A.T.)2003年作品。70年代の人気テレビ・シリーズ(私は未見)を映画化したサスペンス・アクション。エリート警官たちを集めた特殊部隊の活躍を描く。

 逮捕された麻薬組織のボスがテレビカメラの前で「俺を逃がした奴には1億ドル払う!」と宣言。これを聞いたロサンゼルス中の悪党たちは目の色を変える・・・・という設定は秀逸だが、このくだりは後半の展開の一部に過ぎず、映画のほとんどがSWATチームの人間模様や訓練風景に費やされるというのは不満。

 しかも、クラーク・ジョンソンとかいう監督の腕前が三流で、登場人物の扱いが平板でぎこちなく、まるでTVシリーズのパイロット版を見ているようだ。物量ばかりを投入したアクション場面は派手だがキレもコクもなく、爆発と銃撃の場面を漫然と流しているだけ。それを補うかのようにバックに大音量の音楽を付けているが、これがまた工夫も何もない無神経な“やっつけ仕事”でしかなく、ただうるさいだけだ。使われている楽曲も大したものではない。

 サミュエル・L・ジャクソンやコリン・ファレルも今回は演技面ではすることはなく、紅一点のミシェル・ロドリゲスが頑張っている程度。とはいえ、本作はシリーズ化に向けての顔見世興行と考えればあまり腹も立たないかもしれない・・・・とも思ったが、続編の話は現時点では出ていない(爆)。出来が悪いと、いくらパート2製作に色気を見せても無駄なようである。
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「ベスト・キッド」

2010-08-29 06:29:30 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Karate Kid)ジョン・G・アヴィルドセン監督によるオリジナル版(84年)と最も異なる点は、主人公に技を教える師匠が日本人から中国人に変わっていることだ。まさに時代の流れを反映している。80年代の世界の経済界は日本が主役の一翼を担っていた。ハリウッドとしても日本を無視するわけにはいかなかったのだろう。

 84年版ではノリユキ・パット・モリタ扮する老師の、渡米後の苦難をリアルに切々と描くという、メジャーなアメリカ映画としては珍しく“マイノリティに気を遣った”ような描写が印象的だった。対してこのリメイク版は、アメリカ国内の話ですらない。主人公の一家がアメリカを“追われて”中国まで落ち延び、慣れない環境に戸惑う中で師匠に巡り会うというストーリーなのだ。

 父親はすでに亡く、自動車会社に勤める母親は不況のデトロイトではポストが見つからないため、製造拠点の移設先である中国に転勤するしかない。そこでは主人公一家の方がマイノリティになってしまう。中国に頼るしかないアメリカの産業界を象徴するような設定ではないか(デフレから脱却出来ない近頃の日本など、最初からお呼びではないのだろう)。

 転校先の中学校ではイジメられる主人公だが、そんな気勢の上がらない境遇を救うのがクンフーの達人である師匠である。それも、ジャッキー・チェンが扮していることにより興趣は俄然盛り上がる。初期の「酔拳」などで彼が教えを乞うた老師の役を、今はジャッキー自身が演じていること自体が感慨深いが、そのアクションは久々にキレの良さを感じさせる。

 主人公少年の大ピンチに現れたジャッキーは、一切パンチや蹴りを繰り出すことなく、フットワークだけで十数人の相手をKOしてしまう。この場面は、ここ数年の彼の活劇シーンの中もベストと言えるものだ。

 筋書きはオリジナル版とほぼ同じで、ストーリーを追う楽しみはないが、やはりスポ根もののルーティンを踏襲しているためストレス無く楽しめる。さらに、主人公役のジェイデン・スミスがスクリーン映えする存在感を見せる。彼はウィル・スミスの息子だが、親の七光りを感じさせない素材だ。身体能力が84年版のラルフ・マッチオと比べて格段に高く、表情が豊かで愛嬌もある。今後の活躍が期待出来よう。

 ハラルド・ズワルトの演出は取り立てて才気走ったところはないが、手堅い仕上がり。ジェームズ・ホーナーの音楽は格調高く、ジャスティン・ビーバーによるエンドテーマ曲も良い。安心して奨められる娯楽編である。
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「おばあちゃんの家」

2010-08-28 07:00:17 | 映画の感想(あ行)
 (英題:The Way Home)2002年作品。田舎の村に住む祖母と、そこに預けられた7歳の少年との日々の心の交流を描く。第39回大鐘賞(韓国アカデミー賞)受賞作だが、困ったことにあまり面白くない。

 前作「美術館の隣の動物園」を観てもわかる通り、イ・ジョンヒャン監督はバリバリの“都会派”である。つまり映像のセンスや佇まいは良いが、対象に肉迫する気合いと力技には欠けているってことだ。それでも「美術館の~」では豪華キャストの存在感で鑑賞に耐えうるレベルには仕上がっていたが、この映画のようにリアリズムに徹するべき題材を扱うと、途端に馬脚を現す。

 序盤の、田舎に慣れない孫のわがままを見せるくだりはまだいいとして、祖母と和解してゆく過程がまったくダメ。まるで頭の中で考えたような、薄っぺらなシークエンスと画面の連続。登場人物の内面にグッと鋭く入っていく覚悟も何もなく、ただそれらしい展開を“ハイ、図式的にやりました”という感じで漫然と並べて行くだけではとても共感を呼べたものじゃない。シャレた音楽も白々しく、失敗作と言うしかない。

 また、祖母が口がきけないという設定は、扇情的な盛り上がりこそ期待できるものの、監督のパワー不足を補うため主演女優のキャラクター(素人を起用)にドラマを丸投げしてしまったような印象を受け、愉快になれない。田舎の佇まいには風情があるだけに、残念だ。
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「借りぐらしのアリエッティ」

2010-08-27 06:26:47 | 映画の感想(か行)

 まず、本職の声優を起用しないのは明らかにマイナスだ。もちろん、声優以外の者が担当したとしても、演技指導が上手ければ文句はない。実際、普通の俳優が声をアテて成功した例はいくらでもある。しかし、この映画はヒドい。志田未来や神木隆之介は、抑揚に乏しい淡白なパフォーマンスに終始。大竹しのぶや竹下景子、藤原竜也といったベテランも精彩を欠く。結果として、各キャラクターにまったく血が通わなくなってしまった。

 そもそも、本作における登場人物の造型は底が浅い。主人公の小人の少女アリエッティは、身体の大きさを除けば単なる“好奇心が強い思春期の女の子”でしかなく、何か特別に観る側にアピールしてくるものはない。彼女と仲良くなる中学生の翔は、病弱で大人しいという外見上の特徴こそ与えられているが、描かれるべき強い個性もポリシーも持ち合わせていない。言うなれば“退屈な男の子”である。

 アリエッティの両親や翔の祖母、お手伝いさんといった脇のキャラクターにしても、ただの記号としての存在価値しかなく、内面描写は皆無に近い。これが(いい意味での)ケレンを持ったプロの声優が“出演”していたら、何とか作劇にメリハリを付けることが出来たと思うが、声をアテているのが素人同然なので、一本調子のカラーが最後まで拭えない。

 ならばストーリーはどうかといえば、これもほとんど山も谷もなければ見せ場もない。微温的な展開が漫然と続いた後、いつの間にかエンドロールだ。ドラマが動く点といえばアリエッティの母親がいなくなるエピソードぐらいだが、この程度では盛り上がりに欠ける。小人たちの暮らしぶりこそ興味をそそられるが、それだけで上映時間を保たせられると思ったら大間違いだ。

 それでも、ここ10年間の他のスタジオジブリの作品群と比べたら“マシな部類”だと思う。もっともそれは宮崎駿の近作には不快感を覚えるのに対し、本作は“ただの凡作”のレベルに留まっているに過ぎないからだ。この映画の監督はこれがデビュー作となる米林宏昌だが、もしも宮崎自身が演出していたらもっと出来映えは悪かったかもしれない。

 繰り返すが、普通の俳優やタレントに声をアテさせて失敗するぐらいならば、最初からプロの声優を起用すべきだ。宮崎作品の主要キャラにアニメーションの声優が使われなくなったのは「紅の豚」からだが、奇しくも作品の質が低下し始めたのはそれを境にしている。もはやスタジオジブリは作品の質を保証するブランドではなく、単なる客寄せのキャッチフレーズと化してしまったようだ。
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「ウルトラQザ・ムービー 星の伝説」

2010-08-26 06:31:45 | 映画の感想(あ行)
 90年作品。古墳の近くで起こった奇怪な殺人事件に巻き込まれたテレビ局員たちが、不思議な出来事に遭遇する様子を描く。昭和41年に放映されたTVシリーズの映画化だが、脚本は今回書き下ろされたオリジナルである。

 私は本作をリアルタイムで観ているが、本編の前に上映された「ウルトラQ」テレビ・シリーズ2本の中のひとつ「1/8計画」が面白いと感じた。人口過密に悩む東京都が人間を8分の1の大きさに縮めてしまおうというプロジェクトを推進し、ヒロインがそれに巻き込まれるというストーリーだった。怪獣の登場しない「ウルトラQ」の代表作だが、今見直しても生々しさと不気味さ、そしてほんの少しの哀愁がただよう佳編であると思う。

 で、映画の方であるが、今一歩の出来である。事件を追う主人公達が、やがて古代日本において重要な役割をはたした「海人族」の秘密に迫っていくという筋書き。すさまじい移動と俯瞰ぎみの広角撮影、逆光と極端なクローズアップを中心としたカメラワークは、作品のあやしげな雰囲気つくりに大いに役立っているし、火を吐く怪獣“ナギラ”は平成ゴジラよりずっといいし、吉野ケ里遺跡をはじめとするロケーションも悪くないのだが、いかんせんキャスト(柴俊夫、荻野目慶子、風見しんご等)が弱体気味で、感情移入がしにくい。

 はっきり言ってこれは30分あるいは一時間のテレビ番組向けのハナシだと思う。映画の後半は完全にダレていて、「ま、どうでもいいや」って感じで・・・・。

 監督は(今は亡き)実相寺昭雄。テレビ版「ウルトラ」シリーズにおける奇妙な感覚の作品はすべて彼の演出によるが、映画では思い入れが強いわりに独りよがりになるのが彼の作風だと私は思っている。当初この作品は平成ガメラシリーズを手掛けた金子修介が監督する予定だったのが、いつの間にか交替してしまったもの。私は今だ1960年代を引きずっていた実相寺のおじさんよりも、テレビ・シリーズを見て育った世代である金子監督の作品を観たかった。
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「キャタピラー」

2010-08-25 06:43:25 | 映画の感想(か行)
 コンセプトとしては、高畑勲監督の「火垂るの墓」に通じるものがある。つまり、テーマを考えれば本作の舞台は戦時中ではなく、現代の話なのだ。

 最近、まるで「火垂るの墓」の兄妹のように、子供が犠牲になる事件がイヤになるほど多い。「キャタピラー」に出てくるような身障者と、それを介護する者(たいていの場合、特定の身内)に誰も手を差し伸べず、悲惨な結果に繋がった事件もよく耳にする。本作においては、ヒロイン一人に介護を押し付ける大義名分が“お国のため”であったが、現在それが“個人主義”や“自己責任”といったスローガンに変わっただけだ。

 くだらない御題目は盲信するくせに、本当に困っている者達に対しては無関心を決め込む。こういうコミュニケーションの不全、および情報の閉塞化こそが“戦争”の本質なのではないか。その意味では、現代においても“戦争”は日常生活のすぐ裏側に潜んでいるのだ。



 劇中、昭和天皇・皇后の御真影が頻繁に映される。それはリベラル派の若松孝二監督らしく、天皇の戦争責任を問うているのだ・・・・という見方は皮相的に過ぎるだろう。御真影は、当時の日本を覆い尽くし、また現在でもしつこくはびこっている“情報遮断”のメタファーだという受け取り方も出来る。

 物資が不足し、本来は徴兵されるはずもない者達にも赤紙が届くようになって、冷静に考えれば敗色濃厚なのは明らかなのだが、それでも大本営の嘘八百の報道等で浮ついた風潮は治まらない。映画は終盤に敗戦というカタストロフでその歪んだ構図が打ち払われる様子を暗示しているが、現代の閉塞状況も“破局”にまで至らないと国民は認識しないのだろうか。観賞後は実に苦いテイストが口に残る感じだ。

 本作によりベルリン国際映画祭で日本人として35年ぶりに最優秀女優賞を受賞した寺島しのぶの演技は、やはり凄い。四肢を失って“食べて、寝る”だけの存在に変わり果てた夫(大西信満)に対する忌避感と同時に、一方では皆が“軍人の妻の鑑だ”と持て囃すことによる屈折した高揚も感じている。そして女盛りの身体には性欲も十分にある。

 国や時代への不信感も募らせながら、それらがアンビバレンツに混じり合った人間性を見事に表現している。特に、薄暗い部屋で身障者となった夫と重なり合う場面は、凄惨な光景の中に匂い立つようなエロティシズムと美しさが横溢し、まさに圧巻である。

 若松の演出は、ピンク映画時代の即物性が先行したような切れ味がある。撮影期間が短いのも(少々荒っぽく感じるときもあるが)パワーを一点集中させる意味では好都合だ。あの戦争から現代を照射する野心作であり、間違いなく本年度の日本映画の収穫である。
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「リバー・ランズ・スルー・イット」

2010-08-24 06:49:05 | 映画の感想(ら行)

 (原題:A River Runs Through It )92年作品。1912年、モンタナ州ミズーラの町、豊かな自然に恵まれたこの土地で生まれ育ったノーマン(クレイグ・シェーファー)とポール(ブラッド・ピット)の兄弟をめぐる人間ドラマ。ロバート・レッドフォードの監督第3作で、公開当時の評判はかなりのものだった。

 やはりレッドフォードは筋金入りのナチュラリストだ。最近のアメリカ製娯楽映画の対極にある、派手な演出でカネかけて云々、とは無縁の映画づくり。あくまでも淡々と、主人公の兄弟とそれを取り巻く家族や友人を描く。

 ごくまっとうな道を歩むノーマンに対し、弟ポールの生き方は破天荒だ。地元の新聞社に就職するが、いつも酒びたり。悪い仲間と喧嘩やバクチに明け暮れ、恋人がインディアンであることから、封建的な土地の者を敵に回すことになる。そしてノーマンの恋人(エミリー・ロイド)の兄と対立したり、兄弟で危険な川下りをやったり、といった起伏のあるエピソードを盛り込んでいるにもかかわらず、印象は実に静かだ。しかし、退屈しない。

 そして何といってもフライフィッシングの場面の素晴らしさ。生ける物のごとく水面を飛翔する釣り糸、竿の振りの躍動感、川面に踊る鱒、これほど釣りのシーンを美しく撮った映画を私は知らない。アカデミー撮影賞受賞のフィリップ・ルースロのカメラ、マーク・アイシャムの音楽、映画の醍醐味を伝えてくれる映像美だ。

 しかし、水準以上の作品であることは認めながら、諸手を挙げて絶賛してしまうほど私は人間が素直ではない(爆)。観た後の印象が意外と薄いのは、すべてがきれいごとに流されてしまっている感じがやや強いからだ。

 釣りをはじめ、あらゆる点に秀でていながら、問題児として数奇な運命をたどる弟ポールのキャラクターがいま一歩不鮮明。このへんを突っ込むと、人道主義者&理想主義者のレッドフォードの作風とドラマが合わなくなり、ぎこちない失敗作に終わったことは明白だろうが、それでもあえて指摘したい。

 だいたいこのドラマ、本当の問題児はポールだけで、周囲の者は“いい人”にとどまっているのが不満だ。古き良きアメリカ、懐かしい中西部の風景、それは結構だが、そこにプラスアルファのトンがった主張を見い出したいのだ。

 映画の終盤で年老いたノーマンが、かつての川で釣りをするシーンが映し出される。人生のすべてを悟ったようなモノローグが印象的だが、これは原作(主人公ノーマン・マクリーンの自伝でもある)の手柄であって映画のそれではない。かなりの線に達しながら、結局アカデミー賞の主要部門ノミネートにはもれてしまった原因が分かるような気がする。

 レッドフォードの監督作では、ウェルメイドに徹した今回の映画よりも、多少ドラマが破綻しても自己の主張を貫こうとしたデビュー作「普通の人々」(80年)の方がピンときたりする。それにしてもこの公開名はどうにかならなかったのか。原題をカタカナ表記するだけでは芸がない。もっとセンスの良い邦題を付けるべきだった。
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「きな子 見習い警察犬の物語」

2010-08-23 06:31:25 | 映画の感想(か行)

 主演女優と警察犬・きな子の奮闘以外は、何も見るべきものはない映画だ。小林義則の演出は(テレビ屋出身ということも関係してか)凡庸に過ぎる。冒頭、嵐の山中で救助活動を敢行する警察隊を描く空撮シーンは、何かの間違いではないかと思うほどお粗末である。

 荒天でも何でもない気象環境の中で漫然とカメラを回し、後からフィルムの上から縦に筋を入れて豪雨に見せかけているみたいな(まあ、実際にそんなことはしないが)稚拙な画面に観る側はまず萎えてしまう。

 救助の場面も緊張感がゼロで、ただ警察犬を走らせていたら、いつの間にやら遭難者が発見されたという芸のなさ。アクシデントの一つや二つ挿入してもバチは当たらないと思うのだが、作者はその程度のことにさえ頭が回らない。

 亡き父のような警察犬訓練士になることを夢見て警察犬訓練所に入所したヒロインが、言うことを聞いてくれない相棒の“きな子”や所長のシゴキに悩まされながらも、成長していくというストーリー自体には異存はない。ただしその語り口は平板そのもの。何の工夫もなく“ここがこうだから、こうなりました”という筋書きを追っているに過ぎない。さらには、登場人物による大量の説明的セリフが映画を盛り下げる。

 クライマックスであるはずの、豪雨の中での探索シーンもヴォルテージは低いまま。決死の覚悟で山に入ったはずが、途中で都合良く雨は上がり、死ぬ一歩手前で喘いでいるはずの幼い遭難者はノホホンとした顔で救助を待っている。おまけにヒロインと一緒に現場で眠り込むに至っては(そんなことをすれば身体が冷えて取り返しの付かない事態になる)、観ていてバカバカしくなってきた。

 作品の性格上、夏休みの家族連れを当て込んだ映画であり、手練れの映画好きがマジメに対峙するようなシャシンではないのは分かるが、こうも穴だらけの作劇ではせっかく映画館まで足を運んでもらったファミリー層も“引いて”しまうだろう。訓練発表会の場面も出てくるが、わざわざ挿入させた珍しい素材も見せ場が皆無であるため、完全に空振りだ。

 しかしながら、ラブラドール・リトリーバーの子犬“きな子”の仕草は、犬好きの観客にとってはたまらないだろう。発表会での顔面から転落する大失態をはじめ、いろいろな“コスプレ”で可愛らしさを強調。そういう場面だけを期待して作品に接すれば、あまり腹も立たないのかもしれない。

 そして主演の夏帆は相変わらず魅力的だ。今回の舞台は香川県丸亀市だが、彼女自身は東京出身ながら見事に地元の子になりきっている。可愛くて素直でピュアなキャラクターは誰にでも好かれるだろう。今後も映画に出続けて欲しい。所長役の寺脇康文やその妻に扮する戸田菜穂も的確なパフォーマンスだ。ただし、もうちょっとマシなスタッフと一緒に仕事をさせたかったというのが本音。映画自体はスクリーン上で接する価値はない。テレビ画面で十分だ。
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「永遠のマリア・カラス」

2010-08-22 06:22:13 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Callas Forever)2002年イタリア=フランス=イギリス合作。伝説的なオペラ歌手マリア・カラスの晩年を描く。ハッキリ言って実につまらない映画だ。だいたい、この設定を考えた奴は万死に値するとさえ思う。

 50代にして全盛時の声が出ないことを理由に引退したカラスが、若い頃の音源を利用した口パクのオペラ映画にホイホイと出演し、しかも出来上がった後で“こんなものを世に出すにはプライドが許さない”とばかりにジャンク処分を迫るなどという馬鹿げた筋書きを目の当たりにすれば、世の多くの心あるオペラファンは怒り心頭に発するであろう。

 カラスというのはこんなに愚かな女だったのか? いや、それならそれでも良い。その愚かさを全面開示して観る者を納得させれば映画として筋は通る。しかし、ここに描かれるカラスは目先のことしか考えない退屈な俗物だ。これでは映画的趣向のカケラもない。

 しかも劇中劇で描かれる「カルメン」のオペラ映画が致命的にショボく、かつてカルロス・サウラやフランチェスコ・ロージが手掛けた映画版「カルメン」とは雲泥の差。本作の監督フランコ・ゼフィレッリが昔作った「トラヴィアータ(椿姫)」よりも大幅に落ちるというのだから困ったものだ。

 とにかく、おそらくはカラスを賛美する目的で作られたであろう本作が、結果としてカラスを貶めることになったのだから、スタッフは猛省すべきであろう。主演のファニー・アルダンの熱演だけが唯一の救いである。
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