元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「迫り来る嵐」

2019-02-25 06:50:28 | 映画の感想(さ行)

 (原題:暴雪将至 THE LOOMING STORM)物語の設定や画面造型は、ディアオ・イーナン監督の「薄氷の殺人」(2014年)と良く似ている。出来の方は「薄氷の殺人」よりはいくらかマシだ。しかし、殊更持ち上げるほど良くはない。聞けば第30回東京国際映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞しているらしいが、それほどのシャシンとは思えない。

 97年、大規模な国営の製鉄工場がある湖南省の地方都市で、若い女を狙った殺人事件が頻発する。工場で警備員を務めるユィ・グオウェイは過去に数々の不祥事を解決し、周囲から“ユィ探偵”と呼ばれるほどの実績を上げていた。当然彼は工場の近くで起こったこの事件にも首を突っ込み、煙たがる警察を尻目に勝手に捜査を進める。地元における聞き込みはもちろん、怪しい人物を目撃しての追跡も厭わない。だが、ユィの無鉄砲な行動はトラブルを誘発するようになり、ついには彼の交際相手をも巻き込む事態になる。

 映画は犯人探しに主眼を置いていない。ドラマの軸になるのは、主人公ユィの屈折した心情である。しがない警備員の分際で、切れ者を気取って刑事事件を追いかける。ならば警官に転職すればいいのだが、プライドが邪魔をして今さら警察組織の歯車になるのはイヤだという。そんな根の暗い彼の内面を表現するように、画面には始終冷たい雨が降っている。

 冒頭、この事件から約10年経って彼が刑期を終えて出所するシーンが挿入されているので、ユィが何らかの罪を犯したことは確かだ。しかし、終盤で彼の所業がひっくり返されるようなモチーフが示されるので、どの行動が罪に問われたのか分からない。こういう話の組み立て方は正攻法ではなく、観ている側はストレスが溜まるばかりだ。

 97年当時は中国は市場開放路線が軌道に乗り、それに伴い古い国営事業は廃れていった。ユィの務める工場もリストラが断行される。その、決して明るくない変革の時期を暗鬱な映像と陰惨な事件、そして冴えない主人公の無鉄砲な言動で表現するという狙いは悪くないが、もうちょっと平易な展開にして欲しかった。

 ドン・ユエの演出はパワフルではあるが、暗い画面の連続が後半には鼻についてくる。主演のドアン・イーホンは熱演ながら、キャラクター設定が十分ではないので、高評価は出来ない。ただ、ヒロイン役のジャン・イーイェンは儚げな佇まいで、とても印象的であった。
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「ドミノ・ターゲット」

2019-02-24 06:23:01 | 映画の感想(た行)
 (原題:The Domino Principle)77年作品。数々の秀作をモノにしたスタンリー・クレイマー監督も、最後の映画になった本作では往年の才気は影を潜めてしまった。ただし、製作当時の先の見えない国際情勢を反映しているであろう点には、多少の興味は覚える。

 カルフォルニア州のサン・クエンティン刑務所に殺人犯として収監されているロイは、ベトナム戦争では凄腕のスナイパーとして恐れられていた男だった。ある日、マービンと名乗る男がロイに面会に来る。ロイにとって初対面の相手だが、マービンはロイの過去をよく知っていた。そして“我々に協力すれば出してやる”と言う。ロイは同房のスピベンタも同行させることを条件に、マービンの提案を受け容れる。

 脱獄したロイを待っていたのはリーザー将軍という謎の男で、彼はロイをコスタリカに連れて行く。そこでロイは妻のエリーに再会し、束の間の安息を得るが、やがてリーザー将軍は彼に暗殺の仕事を持ちかける。渋るロイだったがエリーを人質に取られ、仕方なく政府要人を始末する任務に就く。

 主人公を取り巻く状況は曖昧模糊としている。たぶんマービン達はCIAか何かなのだろうが、どういう理由でロイに目を付け、何を目指しているのかハッキリとしない。また、当然のことながら簡単に言うことをきかないロイに“仕事”を押し付ける算段も上等とは思えない。そもそも、エリーと一度会わせて良い思いをさせた後に態度を豹変させてロイに強要するのは、どう考えても面倒くさい(笑)。

 後半になると、ロイに“仕事”を持ちかけたキーマンの一人が消されたり、序盤にいなくなったはずの人物が何の説明も無く生存していたりと、プロットが乱雑になってくる。やがて気勢の上がらないラストが待ち受けているという、鑑賞後の印象はあまりよろしくない。

 とはいえ、中米とアメリカとの関係性を暗示するようなモヤモヤした雰囲気は、ある程度は出ていたと思う。また、主人公がヘリコプターに乗ったまま狙撃体制に入るという活劇場面だけは面白かった。

 ロイ役のジーン・ハックマンをはじめ、キャンディス・バーゲン、リチャード・ウィドマーク、ミッキー・ルーニー、イーライ・ウォラックとキャスティングはかなり豪華。ただし、作劇面でそれらが活かされていたとは言い難い。ビリー・ゴールデンバーグによる音楽は悪くない。
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「バーニング 劇場版」

2019-02-23 06:20:58 | 映画の感想(は行)

 (英題:BURNING )簡潔に描けば短時間で済むようなネタを、勿体ぶった語り口でダラダラと引き延ばし、挙げ句の果てに“生煮え”で終わるという、私の最も嫌うタイプの映画だ。とにかく上映中は睡魔との戦いに明け暮れ、実に不本意な時間の使い方をしてしまった。

 ソウル近郊の田舎町に住む小説家志望の青年ジョンスは、幼馴染みの若い女ヘミと偶然再会する。彼女はアフリカに旅行に出掛けるらしく、その間に飼い猫の世話をするように頼まれる。ところが、ジョンスが猫を一度も目撃することは無かった。不自然さを感じながらも旅行から戻ったヘミを迎える彼だが、彼女はアフリカで知り合ったという、素性の分からない金持ちの男ベンをジョンスに紹介する。

 ある日、3人がジョンスの自宅で酒を酌み交わしていると、ベンはジョンスに“僕は時々ビニールハウスを燃やしている”という妙な秘密を打ち明ける。そして、次に燃やす予定のビニールハウスはすでに近所に見付けているという。気になったジョンスは、次の日からを近場のビニールハウスを見回るようになる。一方、ヘミは突然姿を消してしまう。彼女が好きになっていたジョンスは必死で探すが、行方は分からない。村上春樹の短編小説「納屋を焼く」を、韓国で映画化したものだ。

 ジョンスの父親は暴行事件を起こして公判の真っ最中。母親はとうに家を出ている。小説を書きたい彼だが、いまだ構想すら覚束ない。ベンは何で生計を立てているのか不明で、時折意味の分からない行動を取る。ヘミは奔放に生きているようだが、どういう性格でどんな信条を持っているのか説明されない。こういう漫然と日々を送っているような者を3人並べて、これまた漫然とカメラを回しただけのような、弛緩した映像が何の工夫も無く続く。

 原作を読んでいない私が言うのも何だが、おそらく本作の主題は青年期の不安と焦燥、そして男女関係の不可思議さ、ついでに韓国の格差社会を描出するといったものだろう(まあ、それら以外に思い付かないのだが ^^;)。それならば、もっとタイトに、かつ明確な作劇に徹するべきだ。

 ここにあるのはジョンスの勝手な妄想と、ベンの人生を悟りきったような(端から見ればどうでもいい)表情と、ヘミのあまり上手くないパントマイムだけだ。そして、思わせぶりな気取ったセリフが全編を覆う。イ・チャンドンの演出は冗長でメリハリが無く、かつて「ペパーミント・キャンディー」(99年)や「シークレット・サンシャイン」(2007年)等の秀作をモノにした監督の仕事とは思えない。

 主演のユ・アインとスティーブン・ユァンはパッとしない。ヘミに扮するチョン・ジョンソも大して魅力無し。ただ、劇中冒頭で彼女がジョンスに向かって“整形したのよ。見違えたでしょ”と言うシーンは、少し笑えた(^_^;)。
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気鋭のピアニストの演奏を聴いてみた。

2019-02-22 06:16:30 | 音楽ネタ

 今月(2月)に福岡市中央区天神にある福岡シンフォニーホールで開催された、藤岡幸夫指揮の日本フィルハーモニー交響楽団の公演に行ってみた。曲目はドヴォルザークのスラブ舞曲第1番および交響曲第9番「新世界より」、そしてチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番である。なお、私がこのオーケストラを生で聴くのは5年ぶりだ。

 この公演で一番印象に残ったのが、チャイコフスキーの演目でソリストを務めた萩原麻未だ。彼女は86年生まれの、まだ“若手”と言っていい年代のピアニストである。パリ国立高等音楽を首席で卒業し、2010年のジュネーヴ国際音楽コンクールで金賞を取るなどのキャリアはあるが、恥ずかしながら私は今回彼女の名前および演奏を初めて知った。

 とにかく、彼女が奏でるサウンドは流麗だ。テクニックは高度に練り上げられているが、それを強調するかのようなケレンや硬さは無い。音色は明るく、隅々まで磨き上げられたように滑らか。エモーショナルではあるが、決して情感におぼれない。難曲もストレスなく進み、鑑賞後の気分は格別である。

 そして圧巻は、アンコールに応えてのドビュッシーの「月の光」だ。この有名曲は実演で耳にすることも多いが、かくも美しいパフォーマンスに接したことは無かった。タッチは柔らかいが、作品の魅力を立体的に展開している。さすが名匠ジャック・ルヴィエに師事しただけのことはあると思った。

 聞けばオール・ドビュッシーのプログラムによるリサイタルも開いたことがあるらしく、もしも近場で開催されたならば足を運びたい。また彼女の容貌はチャーミングで、スタイルも良い。野郎の聴衆に対するアピール度も高いだろう(笑)。リリースしているディスクは少ないが、こちらも積極的なレコーディングを期待したい。
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「メリー・ポピンズ リターンズ」

2019-02-18 06:28:48 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MARY POPPINS RETURNS)製作意図がまったく分からない映画だ。何しろ前作の公開は64年だ。あれから50年以上経って、どうして“続編”を撮る必要があったのか。パート2という設定ならば、ミュージカル映画史上に残る前回の作品世界を超越することが出来ない。いわば、映画が完成する前から失敗することを運命付けられていたと言える。百歩譲って、最近は良い企画が出てこないので大昔のネタを引っ張り出したというのならば、“続編”ではなくリメイクにすべきだった。

 前作から20年経った大恐慌時代のロンドン。バンクス家の長男マイケルは画家になったが、それだけでは食えないので、かつて父や祖父が働いていたフィデリティ銀行で非正規の仕事に就いていた。子供は3人だが、妻を亡くしたばかりで家事は行き届かない。さらに悪いことに、融資の返済期限切れで家を追い出されそうになる。そこに風に乗って現れたのがメリー・ポピンズで、再び子供たちの面倒を見ることになる。

 困ったことに、出てくるモチーフは前回と一緒だ。実写とアニメーションとのコラボレーションも、点灯夫たち(前回は煙突掃除夫だったが ^^;)の大々的なダンスシーンも、クライマックスの銀行でのドタバタも、すべてがパート1からの流用だ。CGも無かった時代で驚くべき映像のスペクタクルを見せた前作に比べると、今なら技術面で軽くこなせるような画面処理を同じルーティンでやっているというのは、どう考えてもスマートではない。

 そもそも、前作とは違って子供たちは最初から“いい子”だし、あえてメリー・ポピンズが出てくる必要は無いのである。ハンクス家の窮状を直接的に救うわけでもなく、いったい彼女は何しにやって来たのだろうか。さらに、今回使われている楽曲は全然魅力が無い。「2ペンスを鳩に」や「チム・チム・チェリー」といったスタンダード・ナンバーが散りばめられた前作の足元にも及ばないのだ。

 以上、“前作と比べてどうのこうの”という立場で書いてみたが、ならば本作単品として楽しめるかというと、それも覚束ない。なぜなら、キャラクターやストーリーの設定が前作を踏襲しているため、パート1を観ていなければ全貌が掴めないし、本作に対峙するためには前作をチェックするしかないからだ。そうすると、誰だって前作と比較した上での感想しか述べられない。冒頭で“続編を作る意味が無い”と書いたのは、そういうことなのだ。

 ロブ・マーシャルの演出はキレが悪く、平板だ。主演のエミリー・ブラントは頑張ってはいるが、パート1のジュリー・アンドリュースと比較するのは酷である。リン=マニュエル・ミランダやベン・ウィショーといったキャストもパッとせず、メリル・ストリープはオーバーアクト気味だし、コリン・ファースは手持ちぶさたで、良かったのはディック・ヴァン・ダイクが前回に引き続き顔を見せてくれたことぐらいだ。
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「シンプルメン」

2019-02-17 06:26:03 | 映画の感想(さ行)
 (原題:SIMPLE MEN)92年作品。ハル・ハートリーという監督は、ニューヨーク派の新しい旗手といった扱いで、その作品は90年代に“意識高め”(?)の映画ファンの間で随分と持て囃されたようだ。しかしながら2000年代以降には日本ではあまり名前を聞かなくなった。それで近年は何本か単発的に作品は公開されているが、それほど大きな話題になっていないように思う(実際、私も観ていない)。

 ニューヨークに住むケチな泥棒のビルは、真面目な大学生である弟のデニスと一緒に、警察に逮捕された父親のウィリアムに面会に訪れるが、ウィリアムはすでに脱走していた。父はかつての大リーガーで、なおかつ60年代の爆弾テロの容疑者という、とんでもない経歴の持ち主である。



 兄弟は父親を探すためロング・アイランドまで赴くが、途中で会うのは一筋縄でいかない者ばかり。どうやらウィリアムは、新しい恋人であるルーマニア人の少女エリナと国外逃亡を企てているらしい。やがてビルにも警察の手が迫り、一家の前途は危ういものになっていく。

 出てくるキャラクターは面白い。主人公の兄弟と父親はもとより、ビルと懇ろになるオイスター・バー兼民宿の女主人およびその友達も変人だ。さらにはインド系の少女や、フランス語を勉強するガソリン・スタンドの男とか、奇妙な連中が画面を前触れも無く横切ってゆく。ハートリーの演出は(良く言えば)軽妙洒脱で、予想出来ないようなアクションも折り込み、ライトな感覚でユーモラスに楽しませてくれる。

 しかしながら、同じニューヨーク派である(少し前に世に出た)ジム・ジャームッシュやスパイク・リーのような、観る者に深く語らせるような重みは無い。また、ハリウッドのメジャーな映画のような広範囲にアピールする娯楽性も希薄だ。つまり、ちょっと接してみると良い案配に知的で面白いが、あまり記憶には残らない作風だということだろう。

 ちなみに同じ頃にこの監督の「トラスト・ミー」と「愛・アマチュア」も観ているが、現時点ではあまり内容は思い出せない。ただ、マイケル・スピラーのカメラによる映像の透明感は特筆出来るし、ハートリー自身による音楽もセンスが良い。ロバート・バークやウィリアム・セイジ、カレン・サイラスといったキャストは馴染みが無いが、少なくとも本作においては良い味を出している。
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「サスペリア」

2019-02-16 06:38:51 | 映画の感想(さ行)
 (原題:SUSPIRIA)結局、良かったのはトム・ヨークによる音楽だけだった。ただし、それはサントラ盤の出来映えに限っての話であり、映画音楽としては機能していない。ならば本作における音楽以外の要素はどうかといえば、すべてが落第点だ。まさに、本年度ワーストワンの有力候補と言えよう。

 1977年、ボストンに住んでいたスージー・バニヨンは、世界的な舞踊団“マルコス・ダンス・カンパニー”に入団するため、ベルリンにやって来る。元より高い技量を持ち合わせていた彼女は、すぐにカリスマ振付師マダム・ブランに認められ、次期公演での大きな役を得る。だが、この舞踊団の内部ではダンサーたちが次々と失踪するという不祥事が発生していた。一方、舞踊メンバーの一人を診察していた心理療法士のクレンペラー博士は、そのダンサーが行方不明になったことから、舞踊団に対して探りを入れる。



 77年製作のダリオ・アルジェント監督版はホラー映画の傑作として名高いが、個人的に面白かったのは開巻約20分のみだ。ただし、映像には同監督の独特の美意識が横溢し、ゴブリンの効果的な音楽も相まって、最後まで観る者を引っ張っていくパワーはあった(ストーリーも、一応辻褄は合っている)。しかし、このリメイク版には見事に何もない。

 舞踊団が実は魔女の巣窟だった・・・・というトンデモな設定には目を瞑るとしても、魔女には“派閥”みたいなものがあって一枚岩ではないとか、この舞踊団にスージーが招かれた理由とか、そもそも魔女たちは何を目的に今まで存在していたのかとかいった、物語の根幹に関わることが全然説明も暗示もされていない。クレンペラー博士の舞踊団との関わりや、当局側との関係性もハッキリとせず、ワケの分からないままエンドマークを迎える。

 もちろん、作り手に支離滅裂な話を無理矢理にデッチ上げて力技で観客を捻じ伏せる才覚があれば良いのかもしれないが、ルカ・グァダニーノ監督は前作「君の名前で僕を呼んで」(2017年)での煮え切らなさを見ても分かる通り、パワーも才気も無い。時折挿入される“実験映画的(?)な映像モチーフ”も、一般人が奇を衒ってみたというレベル。全盛時のアルジェントの“異常性”とは格が違う。

 かと思うと、当時ドイツで起こった一連のテロ事件や、クレンペラー博士の戦時中の苦労話などを加えて、社会性や歴史性などを付与して作劇に厚みを増そうとしているが、これがまあ取って付けたような印象しかない。それどころか無駄に上映時間を積み上げることになり、結果としてオリジナル版に比べて1時間近くも長くなってしまった。これではホラー仕立ての映画の体をなしていない。

 主演のダコタ・ジョンソンは可もなく不可も無し。少なくとも、母親のメラニー・グリフィスの若い頃のようなヤバさや、祖母のティッピ・ヘドレンのような品の良さは見当たらない。ティルダ・スウィントンの怪演も不発で、クロエ・グレース・モレッツの出番は少ないし(笑)、ルッツ・エバースドルフやミア・ゴスといった他のキャストもパッとしない。

 オリジナル版のヒロインを演じたジェシカ・ハーパーも出ているのだが、役柄自体が曖昧だ。映像面でも見るべきものはなく、ダンスシーンはパワフルだが下品だ。いずれにしろ再映画化の典型的な失敗例を見るようで、鑑賞後は居たたまれない気分になった。
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「二十日鼠と人間」

2019-02-15 06:36:58 | 映画の感想(は行)
 (原題:OF MICE AND MEN )92年作品。実にウェルメイドで、鑑賞後の満足感は高い。有名な原作を前に、作り手たちは少しも動じていない。登場人物の内面は丹念に掬い上げられ、主題も明確に提示される。キャストの仕事ぶりも言うことなしだ。

 1930年代の大恐慌期、カリフォルニアの農村を渡り歩くジョージとレニーは、いつか2人で農場を経営することを夢見ている。ジョージは物知りで頭が切れるが、巨漢のレニーは知的障害があり、子供と同程度の知能しかない。彼らは新しい職場であるタイラー牧場にたどり着く。新しい仲間と仕事にも慣れ、ようやく夢の実現が見えてきたが、牧場主の息子カーリーは2人に敵意を持っていた。



 やがてレニーとカーリーの間には暴力沙汰のトラブルが発生。さらに暇を持て余したカーリーの妻がレニーにちょっかいを出したことから、取り返しの付かない悲劇が起きてしまう。文豪ジョン・スタインベックの同名小説の映画化である。

 ジョージは一人で人生を切り開ける才覚を持っているように見えるが、人間関係にコンプレックスを持ち、絶えず不安を抱えている。だからレニーという“見下せる存在”を伴っていないと生きていけない。このキャラクター設定は普遍性が高い。

 シッカリと自立して生きるのは誰しも目標とすることだと思うが、その実は依存出来る対象を(意識的にも無意識的にも)設定することによって脆弱な自我を取り繕うとするケースは多いのではないだろうか。そんなディレンマと向き合い、ついには身を切られるような“決断”を下すことにより、それまでの自分に決別するジョージの姿には、観ているこちらの心もヒリヒリする。

 ジョージ役で、本作の監督も引き受けたゲイリー・シニーズの手腕には確かなものがある。そしてレニーに扮したジョン・マルコヴィッチの神業的な演技には感服した。レイ・ウォルストンやケーシー・シマスコー、シェリリン・フェンといった脇のキャストも達者だ。

 果てしなく続く、黄金に輝く小麦畑。悲しいほど青いカリフォルニアの空。そんなスケールの大きい背景を映し込むことによって、苦悩に喘ぐ人間たちの儚さを対照的に際だたせる。この構図は見事だ。バックに流れるマーク・アイシャムの音楽もまた好印象である。
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「デイアンドナイト」

2019-02-11 06:36:32 | 映画の感想(た行)

 かなり重量感のある映画だ。“人間の善と悪”というテーマはありふれてはいるが、これを真正面から捉えて有無をも言わせぬ力業で見せきっている。また、我々が現在直面する社会問題を真摯に取り上げていることもポイントが高い。2019年の劈頭を飾る注目作である。

 秋田県の地方都市に、東京から明石幸次が帰ってくる。自動車修理工場を営んでいた父親が、大手企業の不正を内部告発したものの、訴えは無効になった挙げ句に近隣住民から村八分にされ、心労で自殺したのだ。残された母を支えるため仕事を探す幸次に、児童養護施設“風車の家”のオーナーを務める北村が施設で働かないかと声を掛ける。調理係として勤務するようになった幸次は、そこで高校生の奈々と知り合う。両親の顔も知らずに育ち、心を閉ざしがちだった彼女は、なぜか幸次には親しく接するのであった。

 やがて北村は幸次を“夜の仕事”に誘う。それは自動車窃盗グループの片棒を担ぐことだった。明らかな違法行為だが、北村は子供達を養うためには仕方が無いことだと割り切っている。最初は渋っていた幸次だが、北村に引きずられるまま悪事に手を染めていく。そして父を死に追いやった大手自動車メーカーの幹部を、復讐のターゲットに定める。

 よく考えれば本作のプロットには無理がある。いくら辺鄙な場所で夜間に“仕事”に励んでいるとはいえ、この窃盗団はかなり大規模だ。警察に目を付けられずに長い間活動出来るとは考えにくい。北村の生い立ちや境遇もドラマティックではあるのだが、さすがに現実離れしている。

 しかしながら、この映画の求心力の高さはそんなマイナス要因を余裕でカバーする。主人公の父親がやったことは、善意を背景にしていることは明らかだ。ところがその結果は世の中に反映出来ないどころか、逆に告発した本人(およびその家族)を追い詰める。不正の指摘を握りつぶす大手メーカーの姿勢は、道義に反している。だが、自社の従業員と取引先を守る上では、やむを得ない行為であるとの考え方も出来る。

 北村は犯罪者だが、福祉事業に専念するだけでは子供達を救えない。北村に手を貸す幸次のスタンスも、似たようなものだ。確かに善悪に拘泥していては自体は前に進まないが、善悪を本質的に考慮しない行為は、最終的に皆ツケを払わせられる。そんな冷徹な真実を容赦なく描く姿勢には説得力がある。

 加えて、地域を覆う暗鬱な同調圧力の実態も鮮明に示される。本来ならば、国や地方の当局側が社会正義をフォローする立場であるべきだが、問題解決を放棄して各人の自己責任に帰着させることを恥とも思っていない。世の中全体を縮小均衡に導く閉塞感を、北国の暗鬱な空模様や発電用の巨大な風車群が象徴する。

 藤井道人の演出はパワフルで、一時たりとも気を抜けない。企画原案を兼ねた主役の阿部進之介のパフォーマンスは良好。ナイーヴさと内に秘めた攻撃性を巧みに両立させた妙演だと思う。北村役の安藤政信も久しぶりにクセ者ぶりを発揮。田中哲司は楽しそうに敵役を演じる。小西真奈美に佐津川愛美、渡辺裕之、室井滋と、脇の面子も充実。奈々に扮する清原果耶は健闘していて、彼女自身の歌唱によるエンディング・テーマ曲も印象的だ。今村圭佑の撮影と堤裕介の音楽は申し分ない。
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「合衆国最後の日」

2019-02-10 06:27:58 | 映画の感想(か行)
 (原題:Twilight's Last Gleaming)77年作品。骨太の娯楽映画を得意としていたロバート・アルドリッチ監督は、本作のようなポリティカル・スリラーを手掛けても、実に鮮やかに決める。上映時間は2時間半と長いが、息切れすることなく最後まで楽しませてくれる。

 1981年11月。元空軍大佐のデルとその仲間は州刑務所を脱獄。モンタナ州のミサイル基地に侵入した。デルはこの基地の設計者であったが、反体制的な言動で政治犯として投獄されていたのだった。彼は軍当局に、ベトナム戦争当時の国家機密文書の公表と国外逃亡資金の用意、そして逃亡が完了するまで大統領が人質になることを要求する。



 司令センターの責任者マッケンジー将軍は基地内に部隊を展開させるが、事態を察したデルはミサイルの発射ボタンを押した。大統領はデルの要求を呑むことを通告し、ミサイルは飛び立つ寸前で止まる。自ら人質になるため現金を持って出向いた大統領だが、何とかして機密文書の公開を避けたいマッケンジーは、無謀な行動に出る。ウォルター・ウェイジャーによるサスペンス小説の映画化だ。

 時代設定が製作年度の数年後になっていることがミソだと思う。つまりは当時としての“近未来”の話であり、70年代以降に日本などの先進工業国との貿易赤字に悩まされ、見通しが暗くなった彼の国の“末路”が描かれていると言える。経済が不安定になると軍部の台頭を懸念する向きが多くなるらしく、本作では情報を握り潰した挙げ句に国家の主権も蔑ろにする軍の横暴がシビアに捉えられているのが興味深い。

 アルドリッチの演出は弛緩したところが無く、プロットの運びは強固だ。特徴的なのが画面分割で、それぞれのパーツを追うのは難儀だが(笑)、緊張感を増すのに貢献している。ラストの処理はちょっとした驚きで、西ドイツの資本が入っていたことも大きいのかもしれないが、脳天気なハリウッド大作と一線を画する扱いは実に面白い。

 デル役のバート・ランカスターをはじめ、リチャード・ウィドマーク、バート・ヤング、ジョゼフ・コットンなど、キャストは重量級を配しているのが嬉しい。個人的に印象的だったのが大統領に扮するチャールズ・ダーニングで、正義感が強く情に厚い人物像を上手く表現していた。ジェリー・ゴールドスミスの音楽は効果的だし、ビリー・プレストンによる主題歌も悪くない。
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