元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「教育と愛国」

2022-06-27 06:14:36 | 映画の感想(か行)
 興味深いドキュメンタリー作品だ。しかし、私が興味を覚えた点は、おそらくは作者が狙っていた線とは違う次元の事柄だろう。映画に対する批評というのは、必ずしも作り手が主張したいテーマを中心として展開されるわけではないのだ。観る者によっては、そこから外れたモチーフに反応してしまうことがある。だからこそ、映画というのは面白いと言えるのだ。

 大阪の毎日放送に所属するディレクターの斉加尚代が、2006年の教育基本法の改正に端を発する教育現場への国家権力の介入を描いた番組「映像’17 教育と愛国 教科書でいま何が起きているのか」に、追加取材と再構成を施して映画版として仕上げたものだ。元のTVプログラムは、2017年のギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞している。



 2006年以降、戦後初めて学習指導要領に“愛国心”が盛り込まれ、道徳は“特別の教科”として位置付けられた。それと同時に、教科書検定制度に関して当局側からの目に見えない圧力が増し、現場の自主性は制限されていく。有り体に言ってしまえば、本作は教育問題を“左方向(リベラル方面)”から扱ったものだ。

 作者としては反動勢力によって教育や学問の自由が攻撃される様子を描きたかったのだろうが、あいにくこちらは斯様な図式には与しない。当局側の指示の通り、慰安婦問題をめぐり誤解を招くおそれがあるため“従軍慰安婦”ではなく単に“慰安婦”という記述が適切だし、戦時中の“徴用”をめぐっては“強制連行”や“連行”といった用語は避けた方が良い。そもそも、慰安婦問題に関しては当時政府当局や軍による強制連行の記録は存在しないという“事実”をもって、政府レベルでは“終わり”にすべき事柄なのだ。また、当事者の証言とやらも信用できるものではない。

 しかしながら、それでもこの映画は観る価値がある。それは、声高に愛国教育とやらを唱える者たちの胡散臭さを見事に活写しているからだ。

 大威張りで“戦後レジームを脱して美しい国日本を作ろう!”などと述べている政治家が国会で百回以上も虚偽答弁をしていたり、お偉い大学の名誉教授が“歴史から学ぶものは何もない”と言ってのけたり、改憲に積極的な政党の構成員が首長を務める自治体は、未曽有のコロナ禍の感染者数を記録していたりと、まさに“この界隈にはマトモな人間はいないのか!”と言いたくなる。

 どんなに高邁な理想を語っても、どんなに正論じみたコメントを残そうとも、そう述べる本人の普段の言動がロクなものではなかったら、信用するに値しないのだ。

 また、この映画は日本を覆う反知性主義にも警鐘を鳴らす。例の日本学術会議問題に代表されるように、憂国・愛国界隈に属している者、およびそれを支持している層は、たぶん学術書など読んでもいない。威勢よく“憲法を改正しろ!”と叫ぶ者も、憲法の条文に目を通したことは無いのだろう。知識・教養を軽視すれば、亡国への道をまっしぐらだ。

 斉加の演出は時として話が脇道に逸れる傾向があるものの、概ね真摯に映画に向き合っている。井浦新によるナレーションも的確だ。観る者によって意見は分かれるかもしれないが、幅広い層に奨めたい作品であることは論を待たない。
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「ラルジャン」

2022-06-26 06:14:46 | 映画の感想(ら行)

 (原題:L'argent)83年作品。「スリ」(1959年)や「少女ムシェット」(1967年)など、シビアでストイックな作風で知られるロベール・ブレッソン監督が最後に撮った映画である。通常、尖った演出スタイルが身上の作家は年齢を重ねるたびに“丸く”なっていくらしいが、ブレッソンに限ってはこの遺作においてラジカルなテイストはピークに達している。とにかく85分という短い尺ながら、その重量感は尋常ではない。第36回カンヌ国際映画祭における監督賞をはじめ多くのアワードを獲得しているが、十分納得できる。

 パリに住むブルジョワ少年が、借金のある友人に返済の先延ばしを頼むが、相手はニセ札を使ってお釣りをせしめろと言う。少年はニセ札を写真店で使うが、ニセ札を掴まされた店の主人夫婦は、その札で燃料店への支払いに使ってしまう。燃料店の従業員イヴォンがそれに気付かずレストランで使おうとすると、たちまちバレて警察に拘束。無実を訴えるが、写真店の店員の偽証により服役を余儀なくされる。その間、妻と子は不幸な目に遭い、ようやく出所したイヴォンには何も残されていなかった。文豪トルストイの「にせ利札」の映画化だ。

 善良だったイヴォンが、周囲の人間たちの悪意によって坂道を転げ落ちるようにダークサイドに飲み込まれてゆく。ブレッソンの演出には、扇情的なテイストは皆無。冷徹に、イヴォンの迷走を追うのみだ。それが却って衝撃度を増進させていく。

 我々の日常生活には無数の陥穽が口を開けており、それは当事者の資質などに関係なく、近付く人間を容赦なく引きずり込む。この不条理極まりない現実は、ストレートにはかなり映画にしにくい。若干のエモーショナルなモチーフを伴った因果律が無ければ、スノッブなドキュメンタリーもどきのシャシンに終わってしまう。だが、そんなリアルな不条理を真正面から映像化してサマになる作家は数少ないながら存在していて、ブレッソンはその第一人者だ。

 セリフや登場人物の感情表現は最小限に抑えられていながら、映像は隅々まで精査されており、並々ならぬ濃厚さを醸し出している。主演のクリスチャン・パティをはじめ、カロリーヌ・ラング、シルビー・バン・デン・エルセンといった顔ぶれは馴染みが無いが、皆ブレッソンの過酷とも思われる演技指導に十分に応えている。

 それにしても、ラスト近くの処理には身震いした。なお、トルストイの原作は二部構成で、第二部は主人公の更生が描かれているというが(私は未読)、この映画化はひたすら暗転する第一部のみだ。このあたりも実にブレッソンらしいと言えよう。
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「オフィサー・アンド・スパイ」

2022-06-25 06:54:31 | 映画の感想(あ行)
 (原題:J'ACCUSE)ロマン・ポランスキー監督作にしては、かなり薄味で淡白な仕上がりだ。もちろん、ハリウッド映画のような単純明快な勧善懲悪法廷ドラマにせよとは言わない。そんな方向性のシャシンならば、この監督が手掛ける必要は無い。しかし、少しはニューロティックで危うい面を挿入しても良かったのではないか。キャストの演技や作品のエクステリアが良好であるだけに、余計に気になってしまう。

 1894年、フランス陸軍大尉アルフレド・ドレフュスは、ドイツに軍事機密を漏洩したスパイ容疑で逮捕され、フランス領ギアナ沖の離島への流刑に処せられる。彼の上司であり諜報部の責任者に就任したピカール中佐は、ドレフュスの無実を示す証拠を発見。上官に再審を迫るが、ドレフュスがユダヤ人であることから無用な政治的軋轢を避けようとする上層部はもみ消しを図る。ピカールは本件をマスコミにリークし、支援を申し出た作家エミール・ゾラらと共に、腐敗した権力に立ち向かう。実際に起きた冤罪事件“ドレフュス事件”を扱った作家ロバート・ハリスの小説の映画化だ。



 ポランスキーは自らもユダヤ人として戦時中に辛酸を嘗めたこともあり、彼としては珍しくストレートな作劇を狙っているように思える。しかし、それがポランスキーらしさをスポイルしているとも言える。真相に向かってプロットを理詰めで積み上げていくような趣向は希薄で、裁判の内容もあまり掴めない。

 かと思えば、ピカールが不倫しているだの、唐突に決闘のシーンが現れるだのといった、あまり本筋とは関係が無く、さりとて効果的でもないモチーフが提示されるのは愉快になれない。そもそも、法曹界と軍当局およびマスコミとの力関係がどうなっているのか分からず、話自体に面白みが感じられない。極め付けは終盤のドレフュスとピカールとの対面シーンで、当事者の慇懃無礼な態度が目につき、後味は良くない。

 それでもピカール役のジャン・デュジャルダンをはじめ、ルイ・ガレル、エマニュエル・セニエ、グレゴリー・ガドゥボワ、メルヴィル・プポー、マチュー・アマルリックといった出演陣は良い仕事をしており、パベル・エデルマンによる撮影やアレクサンドル・デスプラの音楽も申し分ない。確かな時代考証に裏打ちされた美術や衣装デザインは万全だ。その意味では観て損はないだろう。
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「小さな泥棒」

2022-06-24 06:11:48 | 映画の感想(た行)
 (原題:LA PETITE VOLEUSE )88年作品。本作は「なまいきシャルロット」(85年)などで知られるクロード・ミレール監督が、この頃アイドルから大人の女優へ脱皮する時期を迎えていたシャルロット・ゲーンズブールを、前作に続いて起用した作品である。確かに、主人公像にはまったく共感できないものの、ゲーンズブールの存在感だけは際立っており、その意味では存在価値のある映画だ。

 1950年、フランス中部の小さな町で伯父夫婦と暮らす16歳のジャニーヌは、盗み等の非行に明け暮れる無軌道な日々を送っていた。父親はおらず、母親は5年前に彼女を残して家を出ている。ある日、彼女は教会でお布施を盗もうとしているところを捕まってしまい、伯父宅にいられなくなる。住み込みのメイドの職を見つけるが、彼女の素行の悪さは治らず、再び盗みを働いた挙句に泥棒仲間のラウールと逃亡の旅に出る。だが、道中でジャニーヌだけが逮捕され矯正院に送り込まれてしまう。



 この映画の原案を担当したのはフランソワ・トリュフォーだ。おそらくトリュフォーが監督していたら、悪事を重ねる主人公の中にある若者らしい苦悩や逡巡を掬い上げていたと思われるが、正攻法の作劇が身上のミレール監督では、ヒロインは単なる不良娘としか描かれない。金目の物を見つけると盗むことしか考えず、男関係もとことんだらしない。いくら生い立ちが不幸だろうと、言い訳できる余地はない。彼女を取り巻く人間関係も、妙に図式的だ。

 ところが、これをゲーンズブールが演じると何となくサマになってしまう。あの人生投げたような表情と捨て鉢な振る舞いだけで、何か深いものがあるのではないかと(実際は映画的にそんなことは描かれてはいないのだが ^^;)、納得したくなってくるのだ。ラストはジャニーヌの“成長”を表現しているようでいて、中身は従来通りである(笑)。

 ミレールの演出はストレートだがコクや艶は無い。しかし、結果的にその点はあまり瑕疵は表面化していないと言える。ディディエ・ブザスやシモン・ド・ラ・ブロス、ラウール・ビルレーといった脇の面子は悪くはないが、最も印象的だったのは劇中で主人公が矯正院で出会う親友モリセットを演じたナタリー・カルドーヌだ。ある意味、ゲーンズブールを上回るほどのフレッシュな魅力を感じる。ただ、彼女の本職は歌手なので今に至るも出演作は多くは無いのが残念だ。
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「浅草キッド」

2022-06-20 06:20:22 | 映画の感想(あ行)

 2021年12月よりNetflixにて配信。楽しく観ることができた。ビートたけしの自伝的小説の映画化だが、たけしよりも師匠の深見千三郎を主人公として描き込んでいる点が気に入った。型破りだったたけしが、昔気質の芸人である深見にどれだけ影響を受けていたか、そのあたりを垣間見られるだけでも価値がある。

 昭和40年代の浅草。ストリップ劇場兼お笑いライブ会場のフランス座でエレベーターボーイをしていたタケシは、座長の深見に師事し、いつかステージに立って観客を沸かせることを夢見ていた。深見の指導は厳しかったが、タケシは芸をこよなく愛する彼を慕っており、また歌手を目指す踊り子の千春や深見の妻の麻里などの周りの人間にも恵まれ、少しずつ腕を上げていく。だが、テレビの普及に伴いフランス座の客足は目に見えて減り、経営は火の車。とうとうタケシは先輩のキヨシと共にフランス座を飛び出し、その過激な漫才スタイルで人気を獲得していく。

 本作を観ていると、毒舌満載で斬新だったビートたけしの芸風が、実は伝統的なお笑いの王道を歩んでいた深見のスタイルを踏襲していたことが分かる。たけしは師匠からは基礎的な芸事を叩き込まれ、どこに出ても通用するようなスキルを身に付けることが出来た。だから、いくら自分が売れても、恵まれない境遇に追い込まれた深見のことを忘れはしない。

 何かと理由を付けて師匠の元に足繁く通う彼の姿は、けっこう泣かせる。そして、それを分かっていながらタケシを不肖の弟子扱いしてイジりまくる深見の振る舞いは、芸における理想的な師弟関係を映し出していて感心する。

 劇団ひとりの演出は前作「青天の霹靂」(2014年)に比べるとかなり進歩しており、作劇のリズムはそれほどでもないが、各登場人物の内面はうまく表現している。深見役の大泉洋は、いつもの通り“何をやっても大泉”なのだが(笑)、今回は彼の持ち味と役柄が驚くほどシンクロしており、たぶん深見自身もこういう人だったのだろうという印象を受ける。

 タケシに扮する柳楽優弥はさすがのパフォーマンスで、ただのモノマネにならないギリギリの線でこの突出した漫才師を表現していた。門脇麦に土屋伸之(ナイツ)、中島歩、大島蓉子、風間杜夫、鈴木保奈美など、脇の面子も多彩だ。高木風太のカメラによる風情のある浅草の風景、大間々昂の音楽や桑田佳祐による主題歌も良かった。
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「ハケンアニメ!」

2022-06-19 06:50:20 | 映画の感想(は行)
 どこが面白いのかさっぱり分からないが、なぜか世評は高い。“傑作だ!”という声もあるほどだ。中身よりも取り上げられた題材で好意的に受け取られるケースもあるのかと、勝手に納得しようとしたが、やっぱり個人的にはダメなものはダメである。とにかく、作り方を完全に間違えているようなシャシンで、求心力は微塵も感じられない。

 主人公の斎藤瞳はアニメーション好きが高じて、地方公務員の職を辞してアニメ製作の現場に飛び込んだ。苦労の甲斐はあってそれなりに仕事ぶりが認められ、ディレクターとしての第一作として夕方時間帯の連続番組を任されることになる。ところが、そこに立ちはだかったのは天才監督と呼ばれる王子千晴だった。彼は瞳が担当する番組と同じタイムスケジュールで、別の局でプログラムを受け持つことになる。瞳は手強い相手と対峙するため、プロデューサーの行城理をはじめとするスタッフたちと共にアニメ界の頂点(ハケン)を目指して奮闘する。辻村深月による同名小説の映画化だ。

 物語の前提から、すでに不備が目立つ。そもそも、駆け出しの若手であるヒロインに、ゴールデンタイムの番組を演出デビュー作としてセッティングするのは、どう考えても無理がある。まずは、深夜帯などで腕試しさせるのが筋ではないか。百歩譲って、彼女にそれだけの才能があるという設定だとして、ならばその鬼才ぶりを遺憾なく発揮させるモチーフがあって然るべきだが、それはどこにも無い。

 それどころか、彼女が作るアニメ番組は、どこがどう面白いのか全然説明されていない。これは王子が担当する番組も同様で、面白さが掴めないプログラム同士が勝手に視聴率を競っているという、観ているこちらにとってはどうでもいい話が延々と続くのみ。だいたい、ある程度の評価が期待される(らしい)2つの番組を、どうして同じ時間帯にオンエアしなきゃならないのか。少なくともマーケティングとしては悪手だろう。

 また、ブラックな環境が取り沙汰されるこの業界を描く中で、まったくそのようなネタが出てこないのも違和感満載だ。よく見れば、この映画はアニメーション業界を新奇な題材として扱っているだけで、内実は従来のテレビドラマでよく取り上げられる“オフィスもの”と変わらない。吉野耕平の演出は平板で、盛り上がりは感じられない。

 主演の吉岡里帆は気が付けばスクリーン上でお目に掛かるのは初めてだが、演技にアクセントが無く小粒で存在感に欠ける。(少なくとも今のところは)テレビ画面向けのタレントでしかない。中村倫也に柄本佑、尾野真千子、古舘寛治、徳井優、六角精児、そして声優の花澤香菜など顔ぶれだけは多彩だが、上手く機能させていない。若手アニメ作家同士の鍔迫り合いよりも、工藤阿須加扮する自治体関係者と、小野花梨が演じる原画担当兼PR要員との関係を主に描いた方がもっと面白くなったと思う。
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「シング・ア・ソング! 笑顔を咲かす歌声」

2022-06-18 06:14:52 | 映画の感想(さ行)
 (原題:MILITARY WIVES)監督が「フル・モンティ」(97年)のピーター・カッタネオということで、本作もあの映画と同じ印象だ。つまりは、題材は面白そうだが中身は薄味で求心力に欠ける。観る者に感銘を与えるような骨太な物語性は存在せず、あまりストレスも覚えずサラリと映画は進むのみ。肌触りは良いが、鑑賞後にはあまり記憶に残るようなシャシンではない。

 2009年、アフガニスタン紛争に介入したイギリスは現地に多数の兵士を送り込んでいたが、その家族は軍基地で暮らしながら遠征した者の無事を祈るしかなかった。ストレスを抱える従軍兵士の妻たちは、共に苦難を乗り越えるための活動として合唱を始めることにする。主宰者は大佐の妻ケイトと、思春期の娘に頭を悩ませるリサだ。素人ばかりのメンバーで最初は歌声はまったく揃わなかったが、努力の甲斐あって次第にサマになってゆく。そんな合唱団のもとに、毎年開催される戦没者追悼イベントへの招待状が届く。実話をもとにした一編だ。



 このムーブメントはメディアに注目され、やがて全英を巻き込むようになったらしいが、そのようなドラマティックな御膳立ては出てこない。ただ“何となくそうなった”という印象しか持てない。実際には紆余曲折はあったはずだが、映画では深く描かれず、せいぜいが追悼イベントの当日にちょっとしたトラブルが発生する程度だ。

 キャラクター設定も弱い。ケイトは一人息子をアフガン派遣で亡くしているにも関わらず、あえて平静を装っているが、その喪失感がほとんど伝わってこない。リサも一見賑やかだがその内面は掘り下げられていない。他のメンバーは外見こそバラエティに富んでいるが、存在感に欠ける。そもそも、発表するオリジナルの楽曲はいつ出来てどのように練習したのか分からない。

 それでも、彼女たちが歌う80年代ヒット曲の数々は懐かしいし、イギリスの田舎の風景は味がある。主演のクリスティン・スコット・トーマスとシャロン・ホーガンをはじめ、グレッグ・ワイズ、ジェイソン・フレミング、エマ・ラウンズ、ギャビー・フレンチといった面々は、いずれも申し分のないパフォーマンスを見せており、その点は評価できる。
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「その人は 昔」

2022-06-17 06:22:47 | 映画の感想(さ行)
 1967年東宝映画。当時人気絶頂だった歌手の舟木一夫がデビュー3周年を記念して作った同名のコンセプト・アルバムを元にした作品で、監督は「人間の條件」シリーズ(1959年より)や 「名もなく貧しく美しく」(1961年)などの松山善三。音楽は同アルバムを担当した船村徹が受け持っている。

 北海道の日高地方の漁村に住む若者(舟木)と少女(内藤洋子←娘の喜多嶋舞よりカワイイ ^^;)は、過酷な労働に追いまくられる生活を嫌い家出同然に上京するが、都会のせち辛さは二人の淡い期待を裏切り続け、そして・・・・というストーリー。この悲しい結末は当時の映画の傾向を表しているのかもしれないが、それ以上に、一片の救いもないドン底の展開を見せられるにつけ、松山監督の過度の被害者意識を印象づけられる。だからダメな映画かというとそうじゃなくて、そういう激しい思い込みが異様な迫力で画面を横溢し、圧倒されてしまった。



 いちおう“歌謡映画”という体裁の作品で、最初から最後まで歌の連続であり、ほとんどミュージカルといっていい。楽曲の数なんて、一時期のハリウッド作品やインド映画などより多い。しかも、歌唱シーンはけっこう凝っている。ここまで力いっぱいやられると、ダサさを通り越して感心するしかない。内藤が歌う「白馬のルンナ」は元々この映画の挿入歌だったことを本作を鑑賞して初めて知った。山中康司に金子勝美、生方壮児、小沢憬子といった他の面子は正直言ってすでに現在では知られていないが、皆悪くはない演技をしている。

 余談だが、私はこの作品を某映画祭の特集上映で観た。しかしながら、すでにフィルムの劣化が激しく、全編赤く退色してしまっていたのには呆れてしまった。本作はビデオ化はされていたようなので、市販ソフト版はそのような有様ではないとは思う。しかしながら、たぶんフィルムの保存状態が悪くて半ば“埋もれてしまった”作品は他に少なからずあるのだろう。そういえば、大昔のプログラム・ピクチュアの中にはジャンクされてしまったシャシンが多数あると聞いたことがある。フィルム・アーカイブの重要性を改めて痛感した。
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「マイスモールランド」

2022-06-13 06:16:20 | 映画の感想(ま行)
 十分に描き込まれていない部分があるのは気になったが、タイムリーかつ重要なテーマを扱っており、キャストの力演も光る。今年度の日本映画の中では、確実に記憶に残る意欲作だと評したい。また、監督がこれがデビュー作になる若手であるというのも頼もしい。

 埼玉県川口市の高校に通う女生徒チョーラク・サーリャはクルド人だが、幼い頃から日本で暮らしている。彼女は大学進学資金を貯めるためアルバイトをしているが、バイト先で東京の高校に通う崎山聡太と出会い、仲良くなる。そんなある日、彼女とその家族にとって大いなる危機が訪れる。一家の難民申請が不認定となり、在留資格を失ってしまったのだ。父親のマズルムは拘束され、強制送還される恐れも出てきた。さらにサーリャとその妹と弟は、街を離れることも禁じられてしまう。



 日本では現在ウクライナからの避難民が受け入れられている一方、同じく難を逃れて日本にやってきたクルド人たちは難民として扱ってもらえない。これは、多くのクルド人の国籍がトルコであるため、日本とトルコの“外交関係”を考慮して難民認定が認められない事情があるらしいが、映画ではまったく言及されていないのは明らかな不備だ。

 また、難民申請に関して裁判を起こすような場面が挿入されるが、訴訟対象と内容が詳説されていないため、作劇面でのアクセントになっていない。父親が不在になった一家が、猶予期間を置かずに住処を追い出されそうになるのも、法的には無理筋の展開だ。

 しかしながら、ヒロインが自らのアイデンティティに悩みながらも必死に地域住民と折り合おうとする様子や、聡太との“友だち以上恋人未満”の関係を築いていく箇所などは、描写が丁寧で共感を呼べるものになっている。そして、多様性が高まる日本の風景を巧みに切り取る作者の力量も確かだ。

 特に、マズルムが“俺たちの国は一人一人の心の中にある”と言うシーンは印象的で、国籍という頸木を超えた新たなコンセプトがこれからの社会に必要ではないかというメッセージが伝わってくる。監督の川和田恵真は自身がイギリス人の父親と日本人の母親を持つこともあり、題材に対するアプローチは実に真摯だ。是枝裕和門下ということだが、今後の仕事ぶりも期待できる。

 サーリャを演じる嵐莉菜は、これが映画初出演とは思えないほどの達者なパフォーマンスを見せる。劇中で“あなた、お人形さんみたいね”と言われるほどの極上のルックスも含め、今年の新人賞の有力候補だ。また、マズルムに扮するアラシ・カーフィザデーをはじめ、彼女の本当の家族が脇を固めているのも興味深い。聡太役の奥平大兼を筆頭に、韓英恵に板橋駿谷、田村健太郎、サヘル・ローズ、藤井隆、池脇千鶴、平泉成などのキャストも好調だ。第72回ベルリン国際映画祭ジェネレーション部門に出品され、アムネスティ国際映画賞スペシャルメンションを獲得している。
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「エデンの東」

2022-06-12 06:49:15 | 映画の感想(あ行)
 (原題:EAST OF EDEN)1955年作品。有名なシャシンだが、私は観たことが無く、今回“午前十時の映画祭”のプログラムの一つとして初めてスクリーン上で接することが出来た。感想としては、かなり“微妙”というのが正直なところ。公開当時はかなりウケが良かったらしいが、それは主演のジェームズ・ディーンのカリスマ性によるところが大きいと思われる。

 1917年、カリフォルニア州サリナスで農場を営むトラスク家の当主アダムは、冷凍野菜の遠方への出荷という、当時としては斬新なマーケティングに挑んでいた。しかしその施策は失敗し、莫大な負債を抱える。彼には双子の息子がおり、高潔で頭が良いアーロンは父親のお気に入りだったが、無鉄砲で山師的なキャルは問題児扱いされていた。



 キャルは父親の借金を何とかしようと、亡くなったと聞かされていた母親ケートが近くの町で酒場を経営し繁盛させていることを知り、彼女からの出資金を元手に大豆相場で大儲けする。意気揚々と稼いだ金を父親に渡そうとするキャルだが、アダムは第一次大戦による特需で得た利益など手にするに値しないと、息子の申し出を拒否。絶望するキャルを、アーロンの恋人アブラが慰める。ジョン・スタインベックの同名小説の映画化だ。

 聖書の教えに忠実であろうとするアダムは、道徳的には立派かもしれないが、付き合うには“重い”キャラクターだ。ケートが出て行ったのも当然だと思わせる。アダムの資質を受け継いだアーロンも、如才ないが堅苦しい。そんな家族に囲まれて育ったキャルは小さい頃から苦労が絶えなかったと思わせるが、それでも父親に対する思慕の念を捨てきれない。

 そのアンビバレンスな状態に翻弄され、時として奇行に走るキャルには同情するしかないが、それを危ういタッチで演じるJ・ディーンのパフォーマンスには感心する。確かにルックスと実力を併せ持った俳優で、その早すぎた退場は惜しまれる。とはいえ、アダムとアーロンが持ち合わせる価値観を一時は肯定するようなドラマ仕立てには現時点では付いていけないのも事実。特に終盤の扱いには、観ているこちらの頭の中にクエスチョン・マークが乱立してしまった(苦笑)。



 エリア・カザンの演出は悪くはないのだが、「紳士協定」(1947年)や「波止場」(1954年)ほどの切れ味は感じられない。スタインベック作品の映画化でも「怒りの葡萄」(1940年)や「二十日鼠と人間」(92年)の方が優れている。なお、ジュリー・ハリスにレイモンド・マッセイ、ジョー・ヴァン・フリート、リチャード・ダヴァロス等の共演陣は万全。

 レナード・ローゼンマンによるテーマ曲は映画音楽史上に残る名スコアだが、今までヴィクター・ヤングの演奏によるカバーバージョンしか聴いたことがなかった。しかし、実際の映画のサウンドトラックは意外と速いテンポで、印象を新たにした。
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