元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ナチュラルウーマン」

2018-03-31 06:32:45 | 映画の感想(な行)

 (原題:UNA MUJER FANTASTICA)ヒリヒリとした感触を持つ辛口の映画ながら、求心力は高い。マイノリティに対する風当たりの強さを社会批判的に描きつつ、最終的に印象に残るのは主人公の凛とした存在感だ。観て良かったと思える佳編である。

 サンティアゴのナイトクラブでウェイトレスをしながら歌手活動をおこなうマリーナは、元男性のトランスジェンダーだ。彼女は、年の離れた恋人オルランドと一緒に暮らしている。関係は順調で、今度2人で旅行に出掛ける計画を立てていた。だが、ある晩オルランドは自宅で倒れてしまう。病院に担ぎ込まれたが、帰らぬ人になった。マリーナは悲しむが、オルランドの元妻およびその息子の態度は冷たく、住んでいたアパートから追い出される。さらには通夜や葬儀にも出席出来ないことになり、彼女は唯一の希望であるオルランドとの旅行のチケットを探し回る。

 冒頭の、オルランドが封筒を紛失するシークエンスが、後半のマリーナの行動の伏線になっているのをはじめ、本作のシナリオは良く出来ている。最初はヒロインに親切にしてくれたオルランドの弟も、次第に世間体を気にするようになり、警察も今回の一件を性犯罪だと決めつける素振りを見せる。ついにはマリーナは、オルランドの関係者によって手酷い仕打ちを受けてしまう。

 この容赦ない筋書きには身を切られる思いがするが、一方で彼女をフォローしてくれる人もいる。それは彼女が働く店の主人であり、ボイストレーナーの教師だったり、兄弟たちだ。これらは決して御都合主義的な人物配置ではなく、いわば“渡る世間に鬼はない”という作者のポジティヴな達観と捉えるのが正しいだろう。主人公の“自分は一体何者なのか”というアイデンティティの検証に立ち会う、スリリングなプロセスを体感出来る。

 セバスティアン・レリオの演出は粘り強く、さらに鏡を使った印象的なシーンを多用するなど、観客を引っ張る上で健闘している。特筆したいのが音楽の使い方で、主人公が歌手であるという点が最大限活かされている。ラストの処理はもちろん、序盤のクラブでの歌唱、そして挿入されるアラン・パーソンズ・プロジェクトのナンバー「タイム」が大きな効果を上げている。

 主演のダニエラ・ヴェガもトランスジェンダーであるためか、切迫したパフォーマンスで観る者を釘付けにする。鋭い眼差しが印象的な逸材だ。オルランドに扮するフランシスコ・レジェスも良い味を出している。第90回アカデミー賞における外国語映画賞部門のチリ代表で、見事大賞に輝いた。ベンハミン・エチャサレッタのカメラが捉えるサンティアゴの街の風景も興味深い。
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FOCALのスピーカーを聴いてみた。

2018-03-30 06:32:35 | プア・オーディオへの招待
 先日、ディーラーにてFOCALのスピーカーを試聴したのでリポートしたい。FOCALは79年設立。フランスのロアール県にあるサンテティエンヌを本拠地に、商品開発はもちろん、ユニットから筐体まですべて自社製造しているという“メイド・イン・フランス”を地で行く大手メーカーだ。今回聴くことができたのは、同社が2017年秋に発表したフロアスタンディング型のScala Utopia Evoである。

 実を言えば、同社のスピーカーは過去に何度もショップやオーディオフェアの会場で聴いている。いかにもフランスらしい・・・・と書けば語弊はあるかもしれないが(笑)、色気のあるコッテリとした中高音と豊かな低域が特徴の、独特の魅力を持つブランドである。



 しかし、小型の機種では気にならないゆったりとした低音の出方が、フロア型になると低域過多になり、それに呼応して全帯域に渡って分解能が低下して定位が甘く聴こえるという難点があった。だから“FOCALはコンパクト型に限る”という認識を長らく持っていたのだが、今回リリースされたこの大型機種ではどのような展開になっているのか興味があった。

 一聴すると、懸念されていた欠点がほぼ解消されていることに驚く。全体的にタイトでフラットな印象になり、音像・音場ともにクリアだ。しかも、同社の特徴である豊かな色彩感はしっかりと踏襲されており、聴感上の物理特性と明るく艶のあるキャラクターとを両立させている優れものだと言える。接続していたLUXMANのアンプ類との相性も良好のようだ。

 また、FOCAL製品は上質のエクステリアを有しているが、本機も美しい仕上げと(複数のカラーが選べる)深みのある色合いが魅力的だ。デザインは好き嫌いが分かれるかもしれないが、個人的にはセンスが良いと思う。



 ただし、このモデルの定価は420万円である。一般ピープルには縁のない値付けだ。それに同価格帯の他社製品と聴き比べた場合、どれだけのアドバンテージがあるのか分からない。いずれにしろ、オーディオ製品(特にスピーカー)を選ぶ際は、徹底した試聴と比較検討が必要だろう。

 あと余談だが、デモとして再生されたソフトの中にJ-POPのナンバーが一曲あった。予想はしていたが、録音の悪さが表面化しており、居心地の悪い思いをした。しょせんは安価なミニコンポやDAPで聴くことを前提に作られた音源で、これをピュア・オーディオ・システムで鳴らすとアラが目立つのは仕方がないのかもしれない。
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「ブラックパンサー」

2018-03-26 06:39:16 | 映画の感想(は行)
 (原題:BLACK PANTHER )特に高評価するような映画ではないが、ストーリーが破綻していないのは有り難い。最近は脚本のイロハも分かっていないような雑な筋書きのシャシンが幅を利かせ、それをまた不必要に褒める向きもあったりして脱力することが少なからずあるが、本作のように肩の凝らない娯楽映画であっても話の組み立てに無理がない事例に接すると、思わずホッとしてしまう。

 中央アフリカにあるワカンダ王国は発展途上国だと思われているが、実はそこで産出される鉱石ヴィブラニウムを元にした、先進国を凌ぐ高度なテクノロジーを隠し持っていた。国王は代々ヴィブラニウムを悪用されないように、ワカンダの本当の姿を他国に知られないようにしてきた。また、国王はブラックパンサーと呼ばれる超人でもあり、そのパワーで国を守る役目も負っている。



 先王の死去により後を継いだティ・チャラは、ヴィブラニウムを盗んだ武器商人のクロウを追う過程で、謎の男エリック・キルモンガーに遭遇する。キルモンガーはワカンダの王家と因縁のある出自らしいが、ある事情で成人するまで国外で過ごしてきたのだ。大きな野心と高い身体能力を持つキルモンガーは、国王の座をティ・チャラから奪い取ろうと画策する。

 「シビル・ウォー キャプテン・アメリカ」(2016年)でも登場したヒーローの“単独主演作”だ。マーヴェル作品ながら、他の“アベンジャーズ”映画のように“一見さんお断り”ではなく、これ一本で独立した娯楽編として仕立て上げられているので、幅広い層にアピール出来る点は評価して良い。

 キルモンガーがなぜワカンダから遠く離れた場所で生まれ育ったのか、どうして凶暴な性格になったのか、そしてティ・チャラを付け狙う理由は何か、それらが平易な語り口で説明されている。悪役のプロフィールが描き込まれていれば、それだけ主人公の活躍も映えるのだ。

 キルモンガーは一時は覇権を握るが、窮地からカムバックしたティ・チャラと大々的なバトルを展開する。ワカンダ王国はいくつかの“派閥”で構成されており、それぞれがどちらの側につくかは、単なる日和見では無く事情を抱えていることが示されるのもポイントが高い。



 ライアン・クーグラーの演出は、バトル場面においてはあまり目新しいアイデアは提示していない。見かけはハデだが、凡庸だ。ただし、アフリカらしい野趣あふれる大道具・小道具、そして衣装、登場人物達の振る舞いは一見の価値がある。主役のチャドウィック・ボーズマンをはじめ、マイケル・B・ジョーダン、ルピタ・ニョンゴ、フォレスト・ウィテカーと、出演者の大半は黒人だが、皆良い味を出している。唯一の主要白人キャストであるマーティン・フリーマンも頑張っているし、ティ・チャラの妹に扮するレティーシャ・ライトは可愛い。

 ルドウィグ・ゴランソンの音楽およびケンドリック・ラマーによる主題曲も悪くない。それにしても、これだけのハイテク技術を持っているワカンダ王国をバックにしたブラックパンサーがアベンジャーズに加わると、アイアンマンことトニー・スタークが主宰するスターク・インダストリーズの立場が危うくなるのではないかと、いらぬ心配をしてしまう(笑)。
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「ラブレター」

2018-03-25 06:19:30 | 映画の感想(ら行)
 81年作品。にっかつがロマンポルノ10周年記念として製作したもので、スタッフ・キャスト共、成人映画ではなく主に一般映画の枠から起用されている。そのためポルノ映画としてのテイストが薄く、効果的な宣伝も相まって普段は成人映画館に足を運ばない観客を動員し、異例のヒット作になったということだ。だが、出来自体は褒められるレベルには達していない。

 有名詩人の小田都志春は、家族がありながら34歳もの年齢差がある加納有子を愛人として囲っていた。都志春は忙しくてあまり有子に会えないが、その短い逢瀬では二人の愛欲は燃え上がる。やがて彼は妻の介護に専念して、有子とはほとんど会わないようになる。だが、決して彼女を蔑ろにしているわけではなく、有子が知り合いの夫と話しているのを見かけただけで、嫉妬に狂ったりする。



 都志春の気まぐれな行動はエスカレートし、有子と籍を入れたり抜いたりとやりたい放題。さすがに有子も精神のバランスを崩し、入院させられてしまう。詩人の金子光晴と若い愛人との、長きにわたる関係を取材した江森陽弘のノンフィクション作品の映画化だ。

 いくらでも扇情的に盛り上げられるネタながら、監督の東陽一が成人映画のスキームをあまり理解していないためか、どうも印象は平面的である。かと思うと、都志春の本妻が絡むエピソード等は変に生々しいタッチを見せる。ただそれは決して“リアリティがある”というプラスの意味ではなく、単に“見せなくてもいい場面に付き合わされた”という不快感が先行する。

 主人公たちが互いに“トシ兄ちゃん”“ウサギ”と呼び合って子供っぽく振る舞うのも、痛々しくて愉快になれない。山のない展開に終始した後、ラストの愁嘆場を思い入れたっぷりに見せられても、観ている側は鼻白むばかりだ。脚本に田中陽造、撮影に川上皓市という手練れを起用しているにも関わらず、ヴォルテージが上がることはなかった。

 関根恵子(現・高橋惠子)と中村嘉葎雄の演技には、特筆すべきものはない。加賀まりこや仲谷昇といった脇のキャストもパッとせず。なお、封切時の併映は「モア・セクシー 獣のようにもう一度」(加藤彰監督、畑中葉子主演)というものだったらしいが、私は(たぶん)観ていないと思う。あるいは、観ていたけど覚えていないだけかもしれないが・・・・(^^;)。
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「シェイプ・オブ・ウォーター」

2018-03-24 06:35:33 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE SHAPE OF WATER)生理的に受け付けない映画だ。あのクリーチャー造型のヌメヌメした質感や生態を見せつけられた時点で、早々に劇場を後にしたくなる。だが、こんな個人的な好悪のレベルを別にしても、本作のクォリティは及第点には程遠い。ハッキリ言って、よくこんな穴だらけの筋書きで各種アワードを獲得したものだと思う。

 1962年、政府の軍関係の極秘研究所で清掃員として働くイライザは、過去のトラウマによって声が出せない。友人は同僚のゼルダと、同じ下宿に住むイラストレーターのジャイルズだけ。ある日彼女は、密かに運び込まれた不思議な生き物を目撃する。それはアマゾンで神のように崇拝されていた半魚人だった。イライザはその半魚人に興味を持ち、こっそり会いに行くようになる。2人は少しずつ分かり合えるようになるが、研究所ではその個体を詳しく調べるために、解剖することを決定する。彼女は仲間と一緒に半魚人を救い出そうとするが、サディスティックな研究所員のストリックランドは、執拗に追い込みを掛ける。

 まず、一介の掃除婦が重要軍事機密を保管している部屋にフリーパス同然で入り、簡単にくだんのクリーチャーと“接触”するという設定自体が噴飯ものだ。アマゾンの奥地で生息しているはずの半魚人に、なぜか海水が必要とされ、しかも映画の後半には淡水の中でも平気で動き回っているという一貫性のなさ。

 半魚人はいくら拷問されても銃で撃たれてもダメージを受けないのに、後半は何の理由も示さず“弱っている”というハナシになっている。ストリックランドは半魚人に指を食いちぎられても病院に行かず、さらにその指に関するネタを最後まで引っ張る割には何のメタファーにもなっていない。

 そして最大の難点は、イライザがこのクリーチャーと“恋仲”になってゆく背景が全く語られていないことだ。普通、ああいう不気味なモンスターに恋心を抱く人間はいない(だいたい、オスかメスかも分からないだろう)。百歩譲って“それでもいるのだ!”と強弁したいのならば、せめてこの女が以前から魚介類に対して強い執着を持っていることぐらい、前振りとして示すべきだ。単に“口がきけなくて孤独だったから”という釈明で、すべての観客を納得させることが出来ると思ったら大間違いである。

 斯様に突っ込みどころ満載の筋書きを漫然と提示した後、まるで「美女と野獣」か「スプラッシュ」のパロディのような構図で安易に感動を誘おうとしても、そうはいかない。

 ギレルモ・デル・トロの演出は平板そのもので山場も無く、かと思えばイマジネーションに乏しい下品なエロ描写でお茶を濁しているあたり、脱力せざるを得ない。ミュージカルや古い映画の“引用”も、あまり芸は無い。主演のサリー・ホーキンスをはじめ、マイケル・シャノンやリチャード・ジェンキンス、オクタヴィア・スペンサーなどキャストは頑張ってはいたが、映画の中身が斯くの如しなので感心するには至らず。アレクサンドル・デスプラよる流麗なスコアも空しく響く。ヴェネツィア国際映画祭やアカデミー賞での受賞は、何かのトレンドに“忖度”した結果としか思えない。
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「迷走地図」

2018-03-23 06:38:17 | 映画の感想(ま行)
 83年松竹作品。野村芳太郎監督による松本清張の小説の映画化ながら、このコンビのそれまでの諸作に比べると、クォリティは落ちる。それはひとえに、松本清張の原作が(通常の)犯罪ドラマではなく、多数の登場人物が交錯するブラックな群像劇に近いことが原因だろう。こういう題材には大風呂敷を広げるのが得意な海千山千の演出家が担当するにふさわしいのだが、どう考えてもスクエアな作劇が身上の野村監督にはマッチしていない。結果として、要領を得ない隔靴掻痒な出来に終わったのも仕方がないと思わせる。

 与党の第二派閥の領袖である寺西正毅は、次期首相の座を確実視されていた。彼を支えていたのは妻の文子の“内助の功”と、私設秘書の外浦卓郎である。ところが、この2人は不倫関係にあり、寺西の目を盗んでは逢瀬を重ねていた。総裁選を控え、いよいよ現首相の桂から政権の禅譲を受けると思っていた寺西だが、ここにきて桂は総理の座に執着するようになる。



 アテが外れた寺西は、第三派閥の板倉派を抱き込むために関西財界の有力者から20億円もの融資を引き出す。しかし、板倉派は寺西の思うようには動いてくれず、逆に桂派へ秋波を送るようになる。そんな中、外浦が財界の大物から東南アジアの会社に招かれているとの理由で突然辞任。また、外浦の友人で政治家相手の代筆業をしている土井が謎の死を遂げるなど、ますます事態は寺西にとって面白くない方向に転がってゆく。

 派閥の親玉たちをはじめとする政治家連中や、マスコミや財界人などバラエティに富んだ面子が登場してのドライな政争を扱っているように見えて、プロットの要所を占めるのは件の不倫騒ぎやホステスを介しての“色仕掛け”だったりと、扱われているモチーフは随分と下世話だ。

 ならばそれらを冷ややかに笑い飛ばすほどの底意地の悪いタッチを作品に求めたくなるが、どうにも野村の演出は面白みがない。それぞれのネタは深く突っ込まれることなく表面をなぞるばかりで、終盤には登場人物の“真相は藪の中さ”というお決まりのセリフで片付けてしまうあたり、大いに脱力してしまう。

 寺西役の勝新太郎をはじめ、岩下志麻、松坂慶子、渡瀬恒彦、宇野重吉、伊丹十三、大滝秀治とキャストは豪華なのにもったいない。なお、このようなフィクションよりも、総理夫人の奔放な言動に政官共に振り回されている現在の状況の方が、よっぽどブラックだ。まさに“事実は小説(および映画)よりも奇なり”である。
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「ハッピーエンド」

2018-03-19 06:43:55 | 映画の感想(は行)
 (原題:HAPPY END )観る前は、ミヒャエル・ハネケ監督がタイトル通りの“ハッピーエンド”の映画なんか撮るわけがなく、この題名は単なる皮肉だろうと思っていた。しかし、終わってみればこの監督には珍しく甘口の描写が目立つことが分かる。もちろん、内容はフツーの映画に比べると激辛なのだが、ハネケの考える“ハッピーエンド”とはこういうものだと得心した次第だ。

 13歳のエヴは離婚した母と二人暮らしだったが、情緒不安定で小言ばかりの母親を鬱陶しく思い、劇薬を飲ませて“始末”する。彼女はフランス北部のカレーに住む父親トマのもとに引き取られるが、そこは大手ゼネコンを一代で築き上げた祖父ジョルジュの豪邸だった。伯母のアンヌは引退したジョルジュの後を継いで社長の座に就いていたが、彼女の息子で専務のピエールは無能なロクデナシだ。



 ある日、ジョルジュは自殺未遂を引き起こす。何とか回復するものの、その後彼はボケたふりをして周囲を煙に巻く。やがて暗い影のあるエヴに自身と通じるものがあることを感じたジョルジュは、秘密にしていた今は亡き妻との関係をエヴに話し、彼女に揺さぶりを掛ける。

 エヴの母親に対する仕打ちやジョルジュの過去の行為は反社会的だが、それ以外は不思議とハネケ作品特有の鬼畜なモチーフは出てこない。通常の彼の仕事ぶりだったら、たとえばトマが新しい妻との間にもうけた赤ん坊はエヴに殺され、邸宅の使用人であるモロッコ移民の家族は悲惨な目に遭い、ラスト近くのアンヌの再婚パーティーの席上では血の雨が降るところだ(爆)。

 ただし、ハネケ監督はいつものインモラルな素材の代わりに、今回はSNSを大々的にフィーチャーしている。たとえ直に接すれば忌避感のある血染めの現場でも、ネット越しに見れば“単なるネタ”になってしまう。そういう昨今のトレンドの不条理性を強調しているように見えるが、残念ながら70歳を超えたこの監督にとって、新しいメディアの扱い方は多少荷が重かったようで、見る者を慄然とさせる異常性の描出には至っていない。



 例によって、大半の登場人物はロクな奴ではなく、その無様な言動の捉え方には容赦していないが、そこは題名が示すように決して“(究極の)バッドエンド”にはならないところが御愛敬と言えるかもしれない。

 ジャン=ルイ・トランティニャンとイザベル・ユペールの起用は、「愛、アムール」(2012年)の続編を想起させる。マチュー・カソヴィッツやフランツ・ロゴフスキも好演。エヴ役のファンティーヌ・アルドゥアンも実に根が暗そうで、作品のカラーに合っている(苦笑)。クリスティアン・ベルガーのカメラによる海沿いの風景はとても美しい。
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「青春神話」

2018-03-18 06:52:02 | 映画の感想(さ行)
 (英題:Rebels of the Neon Gold )92年台湾作品。台北、西門町。主人公シャオカン(リー・カンション)は受験間近の予備校生だが、さっぱり勉強に身が入らない。アツー(チェン・チャオロン)は歓楽街で友人アピン(レン・チャンピン)と遊ぶ小銭を盗んでは、欝屈した日々を送っている。アツーと付き合っている少女アクイ(ワン・ユーウェン)はローラースケート場で働いているが、退屈な毎日をテレクラで紛らわせている。シャオカンが交差点でアツーとアクイが乗ったバイクに見とれたことから、4人の生活が少しずつ影響し合うようになる。台湾の名匠ツァイ・ミンリャン監督のデビュー作だ。

 とにかくシャオカンのキャラクターが圧倒的だ。自分で“このままじゃダメだ”と思いつつ、予備校も勝手に辞めフラフラした生活にのめり込んでいく。親は自分に期待している。父親は何とか息子とのコミュニケーションを取ろうと努力している。本人もそれはわかっている。でもどうしようもない。



 アツーたちと接触したいと思っても、自然な行動をとれない。出来るのは彼らのあとをつけるだけ。極めつけは、アツーとアクイがラブホテルに入っている間にアツーのバイクをメチャクチャにするシーン。困り果てたアツーを物陰から見て大喜びする。ボロボロのバイクを押して歩くアツーのあとをスクーターで追い、一度は知らぬ顔して通り過ぎるが、また戻って“手伝おうか?”などとワザとらしく声をかけたりする。

 なんてイヤな奴。しかし、これを見て“男ならバシッと自分の気持ちを出さんかい! ウジウジするな”と片付けてしまうのは、残念ながら“大人の勝手な論理”に過ぎないと思う。この年代で、しかも行き場のない状況に立たされている若者ならば、程度の差こそあれ、こんな気持ちになって当然だと思う。正直言って私もそうだった。

 シャオカンは自分が何やってるか承知している。いかにイヤな性格かわかっている。相手を不愉快にさせているのもわかるし、それがどんなに悪いことかも知っている。それでもマゾヒスティックに陰湿な行為に自分を追い込んで行く。他人を傷つけることでしか他者との関わりが取れなくなっている。このどうしようもない若者像の、何とリアルに描かれていることか。はっきり言ってシャオカンを除いた3人だけのドラマだったら、単なる不良少年もののルーティンしか提示できなかったはずだ。

 ツァイ・ミンリャンの仕事ぶりは容赦なし。登場人物のみっともなさをヒリヒリするほど具体的に差し出して、しかも演出態度には屈折した部分はなく、ストレートに観客に迫ってくる。ツァイ監督とずっとコンビを組むことになるリー・カンションの演技にも瞠目させられる。トリノ映画祭最優秀新人監督賞などを受賞。93年の東京国際映画祭でも銅賞を受賞している。
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「ザ・シークレットマン」

2018-03-17 06:23:32 | 映画の感想(さ行)

 (原題:MARK FELT:THE MAN WHO BROUGHT DOWN THE WHITE HOUSE)見応えのあるポリティカル・サスペンスだ。ウォーターゲート事件自体はよく知られているとはいえ、重要な役割を果たした当局側の人物に関して深く描かれた作品が今まで無かったこともあり、興味深く最後までスクリーンに対峙することが出来た。

 1972年5月。長らくFBIに君臨していたフーヴァー長官が死去。当然次は自分がトップになると思っていた副長官マーク・フェルトは、司法次官のパトリック・グレイが長官代理の座に就いた事実に愕然となる。同年6月、ウォーターゲート・ホテルの民主党本部に侵入した男たちが逮捕される事件が勃発。真相解明のため捜査を開始したフェルトだが、なぜかグレイから48時間以内の解決を命じられ、それ以降は打ち切られることが指示される。

 納得出来ないフェルトは、TIME誌やワシントン・ポスト紙に内部情報をリーク。マスコミによって事件の実行犯が元CIA職員であり、FBIが真相を隠蔽しているとの言説が広まる。そして大統領選直前になって、ワシントン・ポスト紙に“ディープ・スロート”と呼ばれる謎の内部告発者から得た情報に基づき、この事件は政権側によるスパイ工作であると断じた記事が掲載される。ジョン・D・オコーナーによるノンフィクションの映画化だ。

 アダム・キンメルのカメラによる寒色系の即物的な映像、ダニエル・ペンバートンによる緊迫感のある音楽により、ドキュメンタリー・タッチの迫力あるエクステリアを獲得している。ピーター・ランデズマンの演出に弛緩したところは無く、観る者をグイグイと引き込んでゆく。

 実は、主人公フェルトがこういう所業に及んだ理由は分かっていないという。本作においても明示されていないが、それでも彼の複雑な胸中は上手く表現されている。

 確実視されていたポストが外部の者に奪われたこと、FBI捜査官としての矜持、そしてちゃんと育ててきたはずの娘が家出して行方知れずになり、今までの社会常識が通用しない時代を肌で感じていること等、さまざまな想いが渦巻き、結果的に自身の信念を貫くことを選んだ主人公像を、リーアム・ニーソンは見事に演じている。ダイアン・レインやジョシュ・ルーカス、トム・サイズモア、ジュリアン・モリスといった脇のキャスティングも渋い。

 それにしても、この事件が明るみに出たような筋書きは今の日本で達成可能なのか、心配になってくる。特定秘密保護法の制定をはじめとする、異論を許さないトレンドが見受けられることは愉快になれない。それでなくても、同調圧力の強い国民性ではある。
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「バイオレント・サタデー」

2018-03-16 06:39:03 | 映画の感想(は行)
 (原題:THE OSTERMAN WEEKEND)83年作品。巨匠サム・ペキンパー監督の最後の映画なのだが、どうにも気勢が上がらない内容だ。前作「コンボイ」(78年)から長いインターバルがあるのは、スタジオ内での同監督の狼藉三昧が問題になったため、一時的に干されたためらしい。とはいえ、それまでコンスタントに撮り続けていた作家が仕事が出来ない状態に置かれると、腕は鈍るという見方も出来るだろう。

 テレビキャスターのジョン・タナーは、ある日、CIAのエージェントであるファセットから、学生の頃からの友人3人がソ連のスパイと内通していることを知らされる。その3人とは、放送作家のオスターマン、医師のリチャード、証券マンのジョセフだ。彼らはKGB主宰の“オメガ”なる組織に属しており、そのうち1人を転向させる計画への協力を持ちかけられる。タナーはCIA長官ダンフォースの独占インタビューを条件にこれを承諾する。



 週末、それぞれの妻を同伴した件の3人がタナー邸に招かれる。家の中には、CIAがセットした隠しカメラやマイクが満載だ。用心のためにタナーは妻子を実家に帰そうとするが、空港で2人が何者かに誘拐されそうになったことから、雰囲気は一気に剣呑なものになる。実は一連の段取りは、妻を殺されたファセットによるCIA当局への復讐であったことが明らかになる。原作はロバート・ラドラムによるサスペンス小説だ(私は未読)。

 冒頭、ファセットの妻が殺される場面がTVの荒い映像で流されるが、これはかなりインパクトがある。しかし、このシークエンスを超える箇所は、それから先は全然見当たらない。なるほど、ペキンパー御大が得意とするスローモーションによるアクション場面はフィーチャーされているし、ケレン味たっぷりの画面分割も展開されるのだが、往時のペキンパー作品と比べると、パワーダウンは否めない。

 話自体が入り組んでいる割には軽量級な印象を受けるし、そもそも“オメガ”の正体も大したことがない。主演はルトガー・ハウアーだが、どうにも煮え切らない演技に終始。他にジョン・ハートやデニス・ホッパー、バート・ランカスターという濃い顔ぶれを揃えていながら、あまり有効に機能させていない。音楽はラロ・シフリンだが、これだけ印象に残らないのは珍しいだろう。

 なお、本作が撮られた翌年にペキンパーは59歳の若さで世を去っている。不摂生な生活が祟ったらしいが、もうちょっと彼の作品を観たかったと思う映画ファンは少なくないはずだ。
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