元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ブラック・クランズマン」

2019-04-29 06:37:58 | 映画の感想(は行)

 (原題:BLACKKKLANSMAN)オスカーを獲得した「グリーンブック」よりはいくらか面白く、スパイク・リー監督作としても久々に水準に達する出来だとは思うが、絶賛されるようなヴォルテージの高い内容かというと、首を捻らざるを得ない。実話の映画化との触れ込みながら、あまりストーリーに説得力が無いのも気になるところだ。

 1970年。コロラド州コロラドスプリングスの警察署で初の黒人刑事として採用されたロン・ストールワースは、当初は署内の白人のスタッフから煙たがられていた。しかし情報部に配属されると、持ち前の積極性を発揮。過激な白人至上主義団体としてマークされていたKKK(クー・クラックス・クラン)に潜り込むため、メンバー募集に電話をかける。

 KKKの幹部に電話口で気に入られたロンだったが、問題は入会の面接試験を受けるのが事実上不可能であることだった。そこで、ロンは同僚の白人刑事フリップ・ジマーマンに共同捜査を持ちかける。電話はロンが担当し、フリップがKKKの連中と直接会うというのだ。つまりはKKKの内部調査のために、二人で一人の人物を演じる変則的なフォーメーションが成立する。

 シリアスな題材を扱ってはいるが、タッチは明るくスムーズだ。効果的なギャグも時折挿入され、まさしくこれはスパイク・リーの映画なのだと納得する。特に“白人の英語と黒人の英語は違う”というネタには笑った。しかしながら、設定とストーリーには無理がある。

 二人一役でKKKに潜入する主人公達だが、声や話し方が同一であるはずがなく、そのあたりを見破られる危険性は無かったのか疑問だ。そもそも、警察当局やロン達に明確な目的性が感じられない。最初から白人刑事に担当させた方が良かったのではないか。そのあたりを糊塗するかのように、後半ではKKKによるテロ騒ぎが扱われるが、取って付けたような印象だ。実話という御題目に寄りかかりすぎて、脚本の精査を怠ったようである(オスカー受賞も納得できない)。

 さらに、ラストでのニュースフィルムの挿入も賛否が分かれるところだろう。確かに今もKKKは存在しているが、それが現時点で人種問題に総論的にコミットできる素材なのかどうか、甚だ疑問だ。なお、主演のジョン・デイヴィッド・ワシントンとアダム・ドライバーは好演。ワシントンの父親はあのデンゼルであることを知り、少し驚いた。
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パイオニアの凋落。

2019-04-28 06:57:07 | プア・オーディオへの招待
 去る3月末、電機メーカーのパイオニアの東京証券取引所第1部で取引される株式が上場廃止となった。同社は出資を受ける香港ファンド“ベアリング・プライベート・エクイティ・アジア”の完全子会社となる。加えて、大量のリストラを予定しているとのことだ。

 パイオニア株式会社は2018年1月に創立80周年を迎えた老舗で、元々はスピーカーの作り手として世に出ている。そしてオーディオ機器全般に商品範囲を広げ、1960年代から80年代末にかけて、同社の音響製品は一世を風靡した。また、80年にはレーザーディスクプレーヤーの第一号機をリリースし、90年代末にはプラズマ型ディスプレイを世に問うなど、ヴィジュアル部門でも実績を残したメーカーであった。

 しかし、バブル崩壊後は趣味のオーディオは斜陽化し、90年代後半からのDVDの普及によってレーザーディスクも役割を終えてしまう。さらには液晶テレビ普及による大幅なディスプレイ市場の価格低下のあおりを受け、同社が手掛ける高級プラズマ型製品は売れなくなる。ついには2008年のリーマンショックによって、決定的なダメージを被ってしまう。



 2015年にはパイオニアのホームAV事業はかつてのライバル企業であるオンキヨー株式会社に移譲され、DJ機器事業も投資ファンドに売却してしまう。残るカーエレクトロニクス関連分野に傾注して生き残りを図るが、スマートホンのカーナビゲーション用アプリが幅を利かせるようになり、同社の販売する高級カーナビは伸び悩む。こういった、いわば八方ふさがりの状況に陥った結果が、今回の外資ファンド介入の一件に繋がっている。

 以前、当ブログではパイオニアと並ぶオーディオ界の雄であった山水電気の破綻について書いたことがあるが、このパイオニアの経営危機に関しても似たようなことが言える。つまりは時流に乗ることが出来なかったのだ。

 もちろん、パイオニアはオーディオ機器一筋だった山水電気とは違い、業務範囲は広く開発力もあった。だからこそ今まで生き残ってこられたとも言えるのだが、それでも業界のトレンドを見誤って今日の窮乏を招いている。

 ではその“トレンド”とは何かというと、AV機器専門メーカーが大規模な企業形態のまま存続することの困難性であろう。特に高級ピュア・オーディオ機器のような趣味性の高い商品は、ユーザー層が限られるようになった昨今では、上質なものを少量供給するスタイルが望ましい。それには、一部上場するような大企業は不向きである。ガレージメーカーのような、小回りの利く形態が適当であるはずだが、経営陣は過去の成功体験が忘れられなかったらしく、企業規模や体制を抜本的に見直すことは出来なかったようだ。

 どうしても大企業の形態を維持したかったのならば、ソニーのように手広いジャンルで事業部制を敷くか、あるいはアップルのように先進的なソフトウェア分野も押さえるなど、融通性を高めておく必要があったと思われる。

 それでも、残ったカーエレクトロニクス事業に同社を支えられるような需要があればまだ良かったが、前述のように多くの場合スマホで間に合うようになっている。唯一の頼みの綱は自動車の自動運転技術だという話もあるが、くだんの外資ファンドはそれが目当てであろう。シャープのように外資導入で持ち直した例もあるが、下手すれば事業切り売りで解体の憂き目に遭うかもしれない。

 いずれにしても、かつて山水電気やトリオ(現JVCケンウッド)と並ぶ名門と言われたブランドが傾いているのは寂しいことだ。ただし“昔は良かった”などとノスタルジーに浸るのもスマートではない。業績が悪化した企業は、退出するのみである。

 さて、私自身はパイオニアのオーディオ製品をあまり使ったことは無い(テレビやレーザーディスクプレーヤーは所有していたことがあるが)。得意分野と言われていたスピーカーも、個人的には(一部を除けば)あまり好きではない。ただ、思い出に残っているのは、昔知人宅の応接間に鎮座していたパイオニア製のセパレート型ステレオである。家具調の仕上げが施された堂々とした佇まいだった。そういえばセパレート型ステレオを世界で初めて発表したのもパイオニアだ。それだけに、ある年齢より上の世代では、思い入れのあるメーカーであることは確かなようだ。
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「キャプテン・マーベル」

2019-04-27 06:51:58 | 映画の感想(か行)
 (原題:CAPTAIN MARVEL)2018年に公開された「アベンジャーズ インフィニティ・ウォー」と、近々封切られる「アベンジャーズ エンドゲーム」とを“繋ぐ”役割はあるが、それ以外の価値を見い出せない。正直言って、冒頭に流れるマーヴェルの著名なライターだったスタン・リーに対する追悼メッセージだけ見て、劇場を後にしても別に困らないと思う。

 1995年、宇宙帝国を築いたクリー人のエリート特殊部隊“スターフォース”の女性メンバーであるヴァースは、繰り返し見る悪夢に悩まされていた。ある時“スターフォース”に宿敵スクラルが潜伏する星トルファでのミッションが与えられる。ヴァースは戦闘中にスクラルの司令官タロスによって囚われるが、何とか脱出して帰還する途中にトラブルによりトルファの近くにある星系に属していた地球に墜落する。

 彼女が流れ着いたのはロスアンジェルスだったが、特殊能力を持った彼女に諜報機関S.H.I.E.L.D(シールド)のエージェントであるニック・フューリーと新人のフィル・コールソンが接触する。ところが彼女を追ってスラクルの連中も来襲し、たちまちバトルが勃発する。

 キャプテン・マーベルことキャロル・ダンヴァースは、「アベンジャーズ インフィニティ・ウォー」のラストでフューリーが助けを求めた相手だ。よって今回は彼女のプロフィールと、どうしてキャロルがS.H.I.E.L.Dと関わるようになったかを描くパートのはずだが、作りが雑である。

 そもそもキャロルの性格がハッキリしない。彼女は米空軍のパイロットだったが、事故で偶然にクリーに拾われ、その際に記憶を失っているという設定だが、あまり自主的に動いているように見えない。ただ周囲に流されているだけだ。後半でスラクルの立場とクリーの真の狙いが明らかになるものの、何やら取って付けたようなモチーフであり、果ては四次元キューブの争奪戦がどうのこうのという、あまり興味を覚えないネタが展開される。

 また終盤近くで覚醒したキャプテン・マーベルの能力は“無限大”であり、弱点らしきものが見当たらない上に戦い方も特徴が無い。要するに、主人公に明確なキャラクターが付与されていないのである。演じるブリー・ラーソンは頑張ってはいるが、DC陣営のワンダーウーマンを演じるガル・ガドットに比べれば器量が見劣りするのは否めない(笑)。

 フューリー役のサミュエル・L・ジャクソンは楽しそうに演じてはいるが、フューリーが片目を失った背景が“脱力もの”であったように、何やら悪ノリの感がある。敵役のジュード・ロウの扱いも工夫が無い。監督はアンナ・ボーデンとライアン・フレックの連名だが、才気は感じられない。それにしても、キャプテン・マーベルは次作でどういう働きをするのだろうか。“何でもあり”のオールマイティな強さは、作劇の幅を狭めてしまうと思う。そのあたりを製作側がどう判断するのか、見ものではある。
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「メーキング・ラブ」

2019-04-26 06:29:51 | 映画の感想(ま行)
 (原題:Making Love )82年作品。当時としてはまだ珍しかった“同性愛を題材にしたハリウッド映画”だ。守備範囲の広いアーサー・ヒラー監督の作品としては、有名な「ある愛の詩」(70年)の系列と言うことが出来るだろう。実に滑らかで、かつスタイリッシュに撮られている。だが、時代が時代であるだけに、素材に対してそれほど深く突っ込んでいないのは仕方がないとは思う。

 ロスアンジェルス在住の30歳の医師ザックは、結婚して8年になるTV局プロデューサーの妻クレアと暮らしていた。一見幸せそうな夫婦だったが、実はザックは性的に満たされない思いを抱いていた。ある日、ザックは病院に健康診断に来たバートと懇意になる。バートはゲイだった。自らの性的アイデンティティをバートと知り合うことによって自覚したザックは、クレアと別居する。だが、バートは特定の相手と深く付き合うことを敬遠するタイプの男で、それ以上ザックと懇ろになることは無かった。しかし、元の生活に戻ることが出来ないザックは、訪ねてきたクレアに離婚を申し出るのだった。



 冒頭に“題材に対して深くは突っ込まない”と書いたが、言い換えれば今から考えるとそれが玄妙なのである。現時点でこのネタを扱うと、いきおい“性的マイノリティの権利がどうのこうの”というノリになってしまうのかもしれない。だが本作は、そういう方面とは一線を画す。

 この映画の主眼は都市生活者の孤独であろう。ザックとクレアは、ギルバートとサリヴァンのレコードや、ルパート・ブルックの詩集がお気に入りである。またテレビでケーリー・グラントとデボラ・カーの「めぐり逢い」を見ながら、セリフを掛け合いで諳んじて見せたりもする。いかにも洒落た佇まいの2人だが、それは上っ面だけだ。

 それはバートも同じことで、毎晩相手を変えるような生活で、年を取ったらどうするのだと問われて“凄いビデオのコレクションがあるからいいのさ”と答える。これが私にとって一番印象的なセリフだった。いくらビデオの映画を見て心を和ませても、その感想を共有する相手もいないのは、いかにも寂しい。終盤は各登場人物が自分の道を見付けたように見えるが、いずれもどこか納得していないようだ。

 ヒラーの演出は丁寧で、派手さは無いが淡々と見せてくれる。また映画をクレアとバートへの個別インタビューから始めるという手法は、クールな作劇が強調されて好印象である。主演のマイケル・オントキーンとケイト・ジャクソン、ハリー・ハムリン、いずれも良好なパフォーマンスだ。レナード・ローゼンマンの音楽とバート・バカラック等の既成曲の起用、そしてデイヴィッド・M・ウォルシュのカメラによる清涼な映像は効果的だ。
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「グリーンブック」

2019-04-22 06:31:27 | 映画の感想(か行)

 (原題:GREEN BOOK)観ている間はとても楽しめる。最後までストレス無くスクリーンに対峙出来て、感動的な気分にもなれる。しかし、観た後はあまり残らない。良く言えば“後味がサッパリとしている”という映画。意地悪な言い方をすれば“掘り下げ方が足りない映画”。要するにそういうシャシンだ。

 1962年、腕っ節の良さを買われてニューヨークの高級クラブの用心棒を務めていたトニー・リップは、クラブの改装工事の期間中、著名な黒人ピアニストのドクター・シャーリーの運転手として働くことになる。シャーリーはトニーの運転する車で演奏旅行に出かけるが、行き先は何と黒人に対する偏見が強い南部であった。当然のことながら身分や生き方がまるで異なる2人は、なかなか打ち解けない。それでも黒人用旅行ガイド“グリーンブック”を頼りに、何とか旅は続いていく。実話を基にした人間ドラマだ。

 キャラクターが違う2人の珍道中を追うロードムービーは、昔からさんざん取り上げられた“鉄板”の設定だ。しかも本作では両者の人種や立場を分けているため、時代背景も相まってそこに差別などの社会問題を織り込みやすく、加えて最初は折り合わなかった2人が次第に親密になる過程を淡々と描くことにより、容易くハートウォーミングな雰囲気を醸成することが出来る。

 道中はトラブル満載だが、いずれもそんな深刻な事態にならずに何とかやり過ごす。そして旅の終わりには嬉しいサプライズが待っている・・・・といった、観る側に余計な重圧感を与えない作りになっており、その分幅広い層にアピールすることが可能になり、結果としてアカデミー賞も取ってしまった。製作者としてはまことにオイシイ仕事だったと思われる。

 しかし、この映画にはシリアスな問題提示は存在しない。人種差別の深刻さ、それを裏付ける人間の心の闇や、歪な社会情勢などは描出されない。たとえば、シャーリーはあえて差別の激しい南部をツアー先として選ぶが、その行動を単なるシャーリーの“心意気”の次元で扱っているためか、彼の切迫した内面や当時の南部の状況などはほぼ捨象されている。対するトニーも、単に“見掛けは粗野だが、実は良い奴”といった紋切り型の描かれ方だ。

 そして、肝心の演奏シーンの訴求力の低さは致命的だ。選曲が悪いのか、さほど盛り上がらない。一見賑々しい終盤の酒場でのパフォーマンスもひどく平板だ。もっとも、これは監督ピーター・ファレリーのセンスの問題かもしれない。

 主演のヴィゴ・モーテンセンとマハーシャラ・アリは健闘していると思う。特にモーテンセンは綿密な役作りによってイタリア系にしか見えないのはアッパレだ。しかし、全編を覆う過度に甘い口当たりのストーリーテリングによって、さほど印象に残らないのも事実。なお、ショーン・ポーターによる撮影は良かった。
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「天使」

2019-04-21 06:38:01 | 映画の感想(た行)
 (原題:L'Ange)82年作品。同名の映画は複数あるが、本作はフランス製の実験映画だ。しかしながら、いくら実験的なシャシンとはいえ、映画は映画だ。どれだけ観客にアピールするか、それが大事である。たとえば作者の心象風景か何かを映し出しただけで、娯楽性のカケラもないシロモノなど、評価するに値しない。ならばこの映画はどうか。順を追って感想を書いていこう。

 オムニバス形式の作品だ。まず画面に映し出されるのは、闇の中にストップ・モーションで現れる人影。カメラはとある部屋の入り口に進んでゆく。そこには天井から吊された人形があり、そこに仮面を被った騎士がサーベルでその人形に斬りかかる。なかなか過激なモチーフだが、同じフィルムを早回しや逆回転させているとはいえ、約10分間も繰り返すだけなので、いい加減飽きる。



 次の場面は、召使いの女がミルク壺を持って主人の元に運ぶくだりである。壺はテーブルから落ちて粉々に壊れて床にミルクが飛び散る。これを何回も何回も繰り返す。前のパートに比べると日常的な描写だと言えるが、必要以上に反復されると、そこは非日常と化す。かなり不気味で面白い。

 3番目はケラケラ笑いながら入浴している男が出てくる。浴槽以外は何も無い白い部屋に一人きりだ。ひょうきんな笑い声と水の音をデフォルメしたSEが良い。前章と併せてこの映画のハイライトだろう。次は傾いた部屋の内部。ベッドに横たわっている男は、やがて顔を洗い外出する。行き先である図書館では、同じ顔をした図書館員がせわしなく働く。ただ、それ以降はシュールな場面が出てくるわけではなく、何となく終わってしまう。

 ガラスケースの中に1人の裸女がいる。こん棒や丸太を手にした男達が突進する。ケースは割られ、中から煙や水滴のような物質が出てきてあたりに散乱する。銅版画のような映像が興味深く、退屈させない。そして最後のパートは、長い天国(?)への階段を上っていく人々の一枚のスチール写真にあらゆる角度から光をあてて、それを繋げたものだ。バックには強烈な現代音楽が流れる。なかなかハデだが、映画の締めくくりとしては物足りない。もうちょっと撮り方に変化を付けて欲しかった。

 全体としては不満な点はあるが、観る価値はあると思う。美術的には優れているし、楽しめるシーンもある。監督はフランスを代表する実験映画作家パトリック・ボカノウスキー。なお、当地では映画館では公開されず、私は市民会館の特別上映で観ている。
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「まく子」

2019-04-20 06:27:37 | 映画の感想(ま行)

 家族ドラマかと思って観ていたら、途中からおかしな展開になり、果ては私が最も苦手とするファンタジー映画へと変貌。これでは全く評価出来ない。いったい何のために撮られたのか、どういう観客を対象としたのか、まるで合点がいかぬままエンドロールを迎える。観て損したというのが正直なところだ。

 岐阜県の山あいにある小さな温泉町の旅館の息子サトシは小学5年生。最近は自分の身体の変化に悩んでおり、また浮気ばかりしている父親の光一に対して愉快ならざる気持ちを抱いていた。ある日、サトシのクラスにコズエという女の子が転校してくる。しかも彼女の母親は、サトシの家が経営する旅館で住み込みで働き始めるのだった。コズエはサトシに接近し、その浮き世離れした言動で彼を困惑させる。それでもサトシはやがて彼女を憎からず思うようになるが、あるときコズエは“自分と母親は別の星から来た”と告白するのだった。直木賞作家・西加奈子の同名小説の映画化だ。

 別に、謎の少女がエイリアンだったというモチーフを挿入するのはケシカランと言いたいのではない。困ったのはその必然性が感じられないことだ。コズエはよく楽しそうに枯葉などをあたりにまき散らすが、その意味は一応彼女の口から語られるものの、まるでピン来ない。

 作者は“異星人だから突飛な行動を取るものだ”という御題目で押し切っているように見える。言い換えれば、コズエのおかしな行動をフォローしきれなくなったから、SFファンタジーもどきに走ったということだろう。コズエが地球に来た目的がハッキリと語られないのも、まあ当然か。

 それにしても、サトシが第二次性徴に戸惑うあたりの描写のワザとらしさは目も当てられない。監督が女流の鶴岡慧子だからということは言いたくないが、まるで頭の中で考えただけの無遠慮なモチーフばかりでウンザリする。この町の名物である“サイセイ祭り”というのは、ハッキリ言って珍妙。さらに誰かが旅館に火を付けてどうのこうのというあたりは、作劇が完全に破綻している。

 コズエを演じる新音はとても小学生には見えず(事実、彼女はすでに中学生である)、須藤理彩やつみきみほ、根岸季衣、小倉久寛といった大人のキャストは機能していない。光一役の草なぎ剛はサトシにおにぎりを作ってやるシーンを除けば、まるで精彩が無い。温泉町という設定をほとんど活かしていない平板な映像と、これまた平板な音楽が画面を盛り下げる。つまらない映画だ。
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「赤ちゃん泥棒」

2019-04-19 06:53:02 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Raising Arizona )87年作品。八方破れの筋書きを、空中分解させずにシッカリと着地させる演出と、それに応えるキャストの奮起がある。さらに破天荒な映像は、観る者を瞠目させる。若き日のコーエン兄弟の才気が迸っている快作で、鑑賞後の満足感は大きい。

 前科者のハイと不妊症に悩むその妻のエドは、子供がどうしても欲しくてたまらない。そんな折、無塗装家具で大儲けのアリゾナという男の妻が排卵誘発剤のおかげで一挙に5人も子供を産んで話題になる。あろうことかハイとエドは、そのうち1人を失敬してしまう。赤ん坊が手に入って喜ぶ2人だが、ハイの“一家”に過干渉するハイの上司の家族や、脱獄して間もないムショ仲間の兄弟、そしてハイの悪夢の中から出現するマッドマックス風の賞金稼ぎなどの“濃い”面々が跳梁跋扈し、事態は混迷の度を増してくる。



 自堕落な生活を送っていたハイが、思いがけず子供を持つことになり、父性本能に目覚めて奔走するというメイン・プロットが確立されているからこそ、周りにヘンな連中を配置しても映画はブレない。それどころか主人公の“成長”によって終盤には感動さえ覚えてしまう。

 そして何といってもこの映画の売り物は、全編に渡って縦横無尽に駆け巡る“シェイキーカム”の威力である。たとえば、ハイの夢の中で主人公の視線になったカメラが、猛スピードで母親の家の庭を突き進み、駐車中のクルマを乗り越えて、赤ちゃんの部屋の窓に立てかけられたハシゴを上って室内に侵入し、泣きわめく母親の口の中にまで突進するまでをワン・カットで披露するという荒業には度肝を抜かれる。

 さらには路上の紙おむつのパックをクルマの座席からパッと拾い上げる場面や、道路上に置き去りにされた赤ちゃんを、これまたクルマからすくい取るシーンなど、仰天するような場面の連続だ。

 主演のニコラス・ケイジとホリー・ハンターは絶好調で、特にケイジの突き抜けた演技には呆然とするしかない。トレイ・ウィルソンにジョン・グッドマン、フランシス・マクドーマンド、サム・マクマレイといった脇のキャストも万全だ。カーター・バーウェルの音楽も快調だが、後に監督に転身するバリー・ソネンフェルドによるカメラワークは見上げたものだ。
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「THE GUILTY/ギルティ」

2019-04-15 06:26:00 | 映画の感想(英数)
 (原題:DEN SKYLDIGE)ワン・アイデアの作品ながら、よく考えれば欠点もある。しかし独特の雰囲気は捨てがたく、個人的に思い詰まされる箇所もあるので、印象は悪くない。観る価値のある北欧発の佳作だ。

 デンマークの地方の警察署に勤めるアスガー・ホルムは、業務上で問題を起こし、取り敢えず第一線を退いて緊急通報司令室のオペレーター業務に就いている。そんなある日、前科者の夫に子供と一緒に誘拐されたという女性の通報を受ける。最初は相手の言い分を疑っていたアスガーだが、切迫した様子と理路整然とした状況報告により、これは重大事件であると認識。通話内容と受話器から漏れる音だけを頼りに、アスガーは事件を解決しようとする。



 カメラは狭い司令室の中からほとんど出ず、登場人物も(複数の通話相手を除けば)実質的にアスガーだけだ。それでも事件の展開はドラマティックで、二転三転する様相にアスガーの引きつった表情が大写しになる。限定された状況でサスペンスを盛り上げようという狙いは、成功しているようだ。

 それでも、後半の筋書きが御都合主義だったり、主なプロットが会話に準拠していて、音の方はあまりクローズアップされていないのは不満だ。しかし決して飽きさせないのは、観ている私にも似たような経験があるからだ。・・・・といっても、何もヤバい事件に関与したわけではない(笑)。

 私は若い頃、顧客からの注文を電話で受け付ける仕事を一時期やっていたことがあり、厄介な案件にブチ当たってしまうこともあった。その場合、周囲を見渡しても同僚や上司は自身の業務で手一杯だし、アドバイスを得ようと関係部署に電話しても木で鼻を括ったような返事しか貰えない。そんな時に限って相手の話は終わらずに、こちらの終業時刻を過ぎても電話を切らない。映画を観ている間にその際に味わった焦燥感が蘇ってきて、思わず苦笑してしまった。

 グスタフ・モーラーの演出は粘り強く、最後まで弛緩することはない。ヤコブ・セーダーグレンの演技はなかなかのもので、正義感はあるが自らも脛に傷を持っている複雑な人物像を上手く表現していた。ジャスパー・スパニングのカメラによる寒色系の映像も印象的だ。第34回サンダンス映画祭で観客賞を受賞するなど、評価が高いのも頷ける。
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ラックが変われば、音も変わる。

2019-04-14 06:31:33 | プア・オーディオへの招待
 転居したのを切っ掛けに、オーディオラックを買い換えた。とはいっても、以前使っていたものは見かけは大きくて立派だったが、側板は中はがらんどうのベニヤ仕立てで、表面は塩化ビニールシートを貼っただけの、極めて安っぽいものだった。しかも前面には大きなガラス扉があり、これが使い勝手に難があっただけではなく、音にも悪影響を与えていたと思う。つまりは本来の意味でのオーディオラックではなく、単に“オーディオ機器が置ける整理棚”に過ぎなかったのだ。

 今回導入したのは、ちゃんとした専門メーカーの“オーディオ機器専用のラック”で、厚めの集成材を使った重量級のモデルだ。もちろんガラス扉なんか付いていない。決して安価ではなかったが、見た目の安心感は数段アップした。

 また、予想していた通り、音にも好影響を与えている。低域がスッキリと整理され、音場の見通しが良くなった。音像も滑らかになり、変にエッジが立っていない。特にアナログレコード再生時には不要な振動をキャンセルしているせいか、安定感の向上は目覚ましいものがある。

 さて、私がオーディオに興味を持ち始めて数十年が経過している。当然その間、オーディオラックは何回か購入しているが、いずれもオーディオメーカーのブランドマークが付いていた。つまり、昔はオーディオメーカーが“システムの別売り品”みたいな扱いでラックも販売していたのだ。もちろんその中にはYAMAHAのGTラックみたいに堅牢に作られたものは存在したが、多くは安普請だった。

 主なオーディオソースがアナログレコードだった時代には、レコードケースを兼ねたラックもけっこう存在した。レコード収納部分にガラス扉が取り付けられた製品も多かったが、透明なアクリル板で代用していたものもあり、実にチープだったことを覚えている。要するに、ラックは“機器(およびレコード)が入れば良い”という認識が罷り通っていたのだと思う。

 対して現在はオーディオファイルの間でもラックも重要なアクセサリーという扱いになり、隔世の感があるが、ちゃんとしたモデルは値が張るようになった。これが本来の在り方だという見方も出来るが、高価なラックを導入するのに二の足を踏んでいるためか、機器を無造作に置いているユーザーも少なくないと聞く。その意味では、昔のように(たとえ簡易なものでも)メーカーがオプションでラックまで用意してくれた方が良かったのかもしれない。
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