元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ゼロ・グラビティ」

2014-01-29 06:28:33 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Gravity )アトラクションとしては楽しめるのかもしれないが、真面目に対峙して観るとあまり上等ではない劇映画だ。とにかく突っ込みどころが多すぎる。レベルとしてはローランド・エメリッヒ監督による一連の“大味ディザスター映画”と良い勝負だろう。

 ハッブル宇宙望遠鏡のメンテナンスのため船外作業をしていたストーン博士と宇宙飛行士のマットは、突然スペースデブリ(宇宙ゴミ)の急襲を受ける。宇宙空間に放り出され、たった一本のロープで繋がっているだけの2人。空気の残量はわずかでヒューストンとの交信も断たれてしまう。果たして、この絶望的な状況の中から生還出来るのか・・・・という筋書きだ。

 人工衛星の爆発事故が起こっても、かくも簡単に衛星破壊の連鎖が発生するとは考えにくい。だいたい、各人工衛星は軌道傾斜角がそれぞれ異なるのではなかったか。宇宙望遠鏡の隣に国際宇宙ステーション(ISS)があり、そのまた隣に中国の宇宙ステーションがあるという位置関係は納得出来ない。ハッブル望遠鏡は赤道付近にあるらしく、対してISSはロシア上空にあるという。どう考えてもジェットパックでひょいと行ける距離ではないし、それ以前に、この設定は御都合主義的な臭いがプンプンする。

 やっとのことでISSにたどり着いたストーンが、いきなり宇宙服を脱いで半裸になるシーンには仰天した。ぶつかれば致命傷になりそうな浮遊物が大量に存在している環境で、この行動は有り得ない。しかも、船外活動には必需品であるはずのオムツをしていた気配も無い。そもそもISSの他の乗組員はどこに行った。全員が船外に出ていたために全滅したとは考えにくい。かといってISS自体は全壊していないし、脱出用のカプセルもそのままだ。

 そして、なぜか中国の宇宙ステーションにも誰もいない。無人ステーションではないことは生活日常品が浮いていることで分かるのだが、彼らの消息については何も説明されていない。また消火器が噴射剤に使われる場面で失笑し、計器類が中国語で書かれた操縦席を前にしたヒロインが“何とかうまくやってしまう”くだりで脱力した。極めつけは、長らく宇宙空間にいて足腰が弱っているとはとても思えないラストの主人公の行動。大風呂敷を広げるなら、もうちょっと上手くやってほしいものだ。

 考えてみれば、リアル系SF映画の注目作とされているわりには、新しいモチーフはほとんどない。宇宙空間での“遭難”なんか、今までいくつもの映像作品で取り上げられていたし、大金を掛けて作られたはずの映像も、3D画面における効果以外には造型が凡庸だ。

 キャストはサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーの2人しかおらず、それぞれ頑張ってはいるのだが、どうもこの底の浅い作劇では評価しかねる。監督は「トゥモロー・ワールド」などのアルフォンソ・キュアロンで、本作に限ればさほどの“作家性”は見出せず。個人的には、観なくても良い映画だった。
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「ジェルミナル」

2014-01-28 06:25:00 | 映画の感想(さ行)
 (原題:GERMINAL)93年フランス作品。1880年、北フランスの炭鉱を舞台に繰り広げられる貧しい炭鉱夫たちと資本家の戦い。街に流れてきた青年労働者(ルノー)を狂言廻し的存在にし、反骨精神あふれた工事主任(ジェラール・ドパルデュー)とその妻(ミウ=ミウ)と娘(ジュディット・アンリ)、高圧的な資本家と優柔不断な組合長(ジャン・カルメ)など、様々な人間模様が展開される。エミール・ゾラの同名小説の3回目の映画化で、監督は「愛と宿命の泉」(88年)で知られるクロード・ベリ。

 フランス映画には珍しく金のかかった大作だ。炭鉱町のセットはほとんど本物で、エキストラの数もすごい。季節感を出すために野草の種をまいて成長するのを待っているうちにまる一年以上撮影にかかったという。

 ベリ監督は群衆シーンに非凡なものを見せ、労働者がほう起する場面のダイナミズムや、炭坑爆発のクライマックスで地下道を逃げ回る炭坑夫たちの描写はなかなかのもの。イヴ・アンジェロによるカメラは、モノクロームの炭坑、寒々とした町、灰色の冬景色を幻想的な雰囲気で映し出す。3時間近い上映時間は緊張の連続だ。



 しかし、観終わって残るのは感動ではなく、疲労感の方だった。題材が少々アナクロなのは誰しも指摘できるが、仕方がないところもある。原作が書かれた19世紀末は、社会主義が最先端のトレンドであり、労働者運動を展開していけば輝く未来があると信じられてきた。

 ただ、社会主義国家は西欧には誕生せず、20世紀後半には世界全体が資本主義の方向に進み、やがてイデオロギーの時代は終焉を告げることを作者は予想もしていなかったのだ。もっとも映画の作り手はそれを十分承知の上で、ドラマの視点をを社会情勢よりも無名の人々にシフトさせている。それは正解だがしかし・・・・。

 全体に“救いがない”という一言に尽きると思う。ほとんどの登場人物は破滅し惨めな最期を迎える。結局、人間なんてエゴとヒステリーだけで生きているのだと言わんばかりだ。

 家族を失い、それでも生活のために炭坑に入っていく工事主任の妻の表情から受け取れるのは絶望だけだ。尊厳も愛情も消え失せた労働者たちに“万国の労働者よ立ち上がれ!”と叫んでも、芯からダメな人間はどうしようもないと・・・・。

 ヴィスコンティの名作「揺れる大地」(48年)の展開と似てまるで異なる点は、人間性に対する作者の共感があるかないかだ。私は最後までそれを見つけることはできなかった。気が滅入るような“文芸映画”。力作だが、私はあまり勧めない。
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「ジャッジ!」

2014-01-27 06:37:22 | 映画の感想(さ行)

 面白い。練りに練ったオリジナル脚本と、ライトな演出。ただ笑わせるだけではなく、浮き世の世知辛さをスパイスとして挿入するバランス感覚。的確なキャラクター配置と、それに応えるキャスティング。娯楽編としては合格点を付けたい。

 大手広告代理店の電通・・・・じゃなかった、現通に勤める若手CMプランナーの太田喜一郎は、横柄な上司から“何かと忙しいオレの身代わりとして、サンタモニカで開かれる国際広告祭の審査員を担当してこい”という無茶苦茶な命令を受ける。理由は上司の名前が大滝一郎であり、太田喜一郎と発音表記が一緒だからだ。さらに男一人で行くとゲイと間違われるということで、仕事は出来るが酒と賭け事が大好きな同僚社員の大田ひかりをニセ妻として連れて行くことにする(もちろん理由は名字の読み方が一緒だからである)。

 ところが、その広告祭には大口のクライアントである竹輪メーカーの“箸にも棒にもかからない低劣なCM”が出品されており、それを入選させなければ喜一郎はクビになるという。当然のことながら各エントリー作のレベルは高く、さらにライバル会社の博報堂・・・・じゃなかった、白風堂の手によるトヨタのハイレベルなCMも参加しており、竹輪云々が取り沙汰される余地は無い。果たして彼に打つ手はあるのか。

 何より、本作のシナリオは伏線の張り方が上手い。映画の冒頭で出てくる、喜一郎が手掛けて酷評されるエースコックのきつねうどんのCMをはじめ、謎の窓際族であるベテラン社員からのワケの分からんアドバイス、ひかりの特異な(?)行動形態、果ては喜一郎が未練がましく持ち歩いている元カノからのプレゼントに至るまで、前半に散りばめられた各モチーフがすべて終盤の展開に絡んでくるという巧みさだ。使われているギャグの数々も秀逸で、いずれも長引かせて嫌味になる寸前で切り上げているのがアッパレ。

 公式な広告祭とはいえ不平等がはびこり主人公達は四苦八苦するのだが、そんな中でも“CMで人を幸せにしたい”というモットーを崩さずに奮闘する喜一郎の姿勢には共感を覚える。監督の永井聡も脚本の澤本嘉光もCM畑の出身だからこそ、そこで働く者達の哀歓を掬い上げることに長けているのだろう。

 主演の妻夫木聡は絶好調で、今のところ“ヘナチョコ青年”を演じさせれば彼の右に出る者はいない(爆)。ヒロインに扮する北川景子も“ゴーマンのようで実はカワイイ”というオイシイ役どころを楽しそうに演じている。リリー・フランキーや鈴木京香、豊川悦司、荒川良々といった脇の面子もそれぞれ得意分野での見せ場を与えられていて納得出来る。個人的には、一発ギャグのためにワンポイントで出演した松本伊代がウケた。外国人のキャストも大挙して出てくるのだが、それらの扱いにもボロは出していない。

 それにしても、豊川が演じる大滝一郎の“無茶と書いてチャンスと読む”という決めゼリフは奥深いものがある。私も機会があれば使ってみたい(苦笑)。
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雑誌付録のアンプを鳴らしてみた。

2014-01-26 06:45:57 | プア・オーディオへの招待
 音楽之友社が発行している雑誌に「stereo」というオーディオ専門の月刊誌がある。創刊は1963年と古く、私もオーディオに興味を持ち始めた若い頃にはよく購読していたものだ。しかし、バブル崩壊後のオーディオ不況に加え、インターネットの普及により製品情報がいくらでも入手出来るようになり、オーディオ雑誌に書かれた評論家の意見も“(個別の事情による)主観的な意見”に過ぎないということが丸分かりになってしまった昨今、買ってまで読む価値は見出せない。立ち読みで十分だと思う。

 ところが、そんな状況の中で少しでも売り上げを伸ばすべく、今では出版社側で雑誌に付加価値を設定するようになった。以前から良くあったのがオーディオチェック用のCD付録だが、最近はケーブル等のオーディオアクセサリーがセットになっている例がある。ところが2014年1月号のstereo誌の付録は、何とアンプだ。この号だけが3,700円と値が張るが、それでもその価格でアンプが手に入るとは、面白い時代になったものである。私も思わず買ってしまった。



 このアンプの型番はLXA-OT3というもので、音楽之友社が監修して製造はLUXMAN社が担当している。手の平に載るようなコンパクトサイズで、筐体も無く基板が剥き出しである。だが、出力が12W×2(8Ω)もあり、たいていのパッシヴ型スピーカーは接続可能だ。

 さて、実際に接続してスイッチを入れると、驚くことにちゃんと音が出る(当たり前だ ^^;)。しかも、十分な音圧が確保されている。もちろん、普段使っている単体のプリメインアンプと比べれば、情報量・解像度共に差を付けられてしまう。レンジ感もイマイチだ。しかし、どちらかと言えばクールな音調のリファレンスのアンプとは異なり、この小型アンプは積極的な鳴り方をする。つまりは独自の“色”を持っているという意味で、いつも聴いているスピーカーから少し違う音が出てくるのはけっこう楽しい。

 別売りで筐体も用意されているらしい。また、電気工作に関して腕に覚えのある向きは改造に乗り出すことだろう。まあ、根っからの文系で手先も物凄く不器用な私には縁の無い話だが(苦笑)、それでもこのような付録には興味を惹かれる。今後もしもアンプを修理に出すことがあれば、その間は予備機として使いたい。



 このような小型アンプの製造が可能になったのは、高効率、低発熱、小消費電力であるデジタルアンプの技術がモノを言っているのは確かだ。当然のことながら“デジタルアンプだから(従来機よりも)音は良い”ということもなく、それどころかオーディオの音自体が昔に比べて大きなイノベーションを達成しているとも思えない。でも、省エネがトレンドの時代にはこういうテクノロジーは不可欠のものだろう。いつまでも図体がデカくて電気代ばかり食う機器が大手を振って罷り通るわけでもないと思う。

 あと、製造元のLUXMANもこういう製品を作れるのならば、昔のように安価なモデルもリリースして欲しい。オーディオが退潮傾向になってアンプの入門機の選択幅が狭くなって久しい。伝統ある老舗がここらで奮起してもいいと思う。高級ブランドとしてのLUXMANにそれが似合わないのであれば、別の銘柄で発売しても良いかもしれない。
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「少女は自転車にのって」

2014-01-25 06:59:16 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Wadjda)珍しいサウジアラビアの映画、しかも子供を主人公にしている作品だが、観ていてさっぱり面白くないのは、映画作りの基本スタンスが子供の視線に寄り添っていないためだ。比べるのはアンフェアながら、同じイスラム圏であるイラン映画の“子供の扱い方”の上手さとはかなりの差がある。

 リヤドに住む10歳のワジダ(ワアド・ムハンマド)は、その御転婆な言動で学校では問題児扱いされている。外出時にヒジャブ(スカーフ)を被らないし、制服の下にジーンズとスニーカーを身に着け、相手が誰であろうとタメ口で、男の子相手に平気でケンカし、何より授業態度が不真面目だ。

 ある日彼女は、下校時に新品の自転車が雑貨店に入荷するのを目撃する。友達の男の子を見返すためにも自転車が欲しくなったワジダは母親(リーム・アブドゥラ)にねだるが、あえなく断られる。ならば自分で購入費を調達しようと手作りのミサンガを学校で売ったり、上級生のボーイフレンドとの密会の連絡係を買って出たりと小刻みにお金を貯めるが、目標額にはとても届かない。そんな中、コーラン暗唱大会で優勝すると多額の賞金が与えられることを知った彼女は、さっそくその準備に取り掛かるのだった。

 一番の欠点は、ヒロインの“どうしても自転車が欲しい!”という切迫した想いが伝わってこないことだ。確かに男友達の自転車を持っていることによるアドバンテージは目の当たりにするものの、それが果たして無茶をしてでも手に入れたいアイテムなのか、そのあたりの説明が不十分。

 自転車に乗って疾走しているところを夢想するシーンの一つでも挿入していれば随分と違ってくると思うのだが、セリフによるフォローさえ無いのだから閉口してしまう。たとえばイラン映画の「運動靴と赤い金魚」や「駆ける少年」等における、観る者を圧倒させる主人公の(狂気にも似た)執着心には遠く及ばない。

 そして困ったことに、肝心のコーラン暗唱大会の場面が盛り上がらない。監督のハイファ・アル=マンスールは、もうちょっと娯楽映画としての(良い意味での)外連味を勉強すべきであろう。

 代わりに何が描かれているかというと、一夫多妻制の理不尽さや、長時間かけて男が運転する車で仕事に通わなければならない母親の屈託である。なるほど、この国の前近代的なシステムに振り回されている女性達の境遇を告発するという意味では、存在価値はある映画かもしれない。ならばいっそのこと、母親を主人公にしてドラマを作り上げた方が良かったのではないか。

 子供を主に描くべき設定ながら、内実は時事ネタ(女性の地位等に関する問題)を振りかざそうとするから、作劇がチグハグになってしまう。リヤドの風景や人々の暮らしを紹介しているあたりは興味深いし、サウジアラビアにおける女流監督の作品である点は貴重だが、それだけでは個人的には評価は出来ない。
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「どこまでもいこう」

2014-01-24 06:32:21 | 映画の感想(た行)
 99年作品。これまでいくつかのヒット作を手掛けてきた塩田明彦監督の、初期作品にして最良作。とにかく、観ている側をアッという間に子供時代にタイムスリップさせてしまう映像の喚起力と巧妙なディテールに瞠目させられる佳篇である。

 郊外のマンモス団地に住む小学校5年生のアキラと光一は、低学年の頃からの悪友同士。ところが新しい学年になって二人は別々のクラスになり、それが彼らの関係に微妙な影を落としていく。アキラは母子家庭で育つ少年と仲良くなるが、些細な行き違いから悲しい別れを経験。一方で光一は、素行の悪い転校生とつるむようになる。



 いわゆる“子供の世界を大人側から見下す態度”がほとんど感じられない、子供の視点に徹底的に特化したスタンスには好感が持てる。勉強とか塾とかいった鬱陶しい素材を巧妙に廃しているのも正解だ。

 アキラと光一はやがて仲直りをするものの、それまでの自分たちとは違う見方で互いを認識せざるを得なくなる。それがいわゆる“成長”というもので、このあたりを違和感なく提示しているのは納得できる。作品の冒頭から流れるマーチング・バンド風のドラム独奏が、中盤で「史上最大の作戦」のテーマ曲のピアニカ合奏に繋がっていくプロセスは最高。

 出てくる子供が皆(日本映画には珍しく)良い味を出しているし、舞台となる多摩ニュータウンの風景の切り取り方も申し分なし。個々のエピソードには少々話をいじり過ぎた部分もないではないが、後味は良い。塩田監督も本作のような感性を取り戻して新作に臨んでほしいものだ。
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「セッションズ」

2014-01-20 06:31:22 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The Sessions)とても感銘を受けた。重いテーマを扱っていながら作品には大らかなユーモアが感じられ、印象は実に軽やかだ。もちろん、観客への問題提起も忘れてはいない。こういうのを“プロの仕事”と呼ぶべきなのだろう。

 時代設定は80年代後半、主人公マーク・オブライエン(実在していた人物である)は幼い頃に患った小児麻痺のため、首から下の体を動かせない。しかも肺を動かす筋肉も衰弱しており、“鉄の肺”と称するカプセル型の呼吸器の中で一日の大半を過ごさねばならず、そこから出てしまえば数時間しか活動出来ない。そんなハンデを抱えながらも大学を卒業し、詩人兼ジャーナリストとして自活している。しかも、昼間は介護人の助けを借りているとはいえ、基本的には一人暮らしだ。

 38歳になった彼の一番の悩みは“性”であった。首から下の皮膚感覚は常人と変わらないが、手足を動かせないのでセックスには縁遠い。思い切って若い女性ヘルパーに告白してみたが、あっさりとフラれてしまう。そこでセックス・サロゲート(代理人)と呼ばれる、心や体に障害を負った者を異性と関係を持てるように導くカウンセラーの助力を請うことになるが、そのサロゲートのシェリルとの出会いにより、彼の人生は新たな展開を迎える。

 本作の素晴らしさは、まずセックスの何たるかを描いている点にある。マークは他人の身体に触れることが出来ない。だがシェリルの助けを得て初めてそれを経験する。マークが味わうセンス・オブ・ワンダーを想像すると思わず笑みがこぼれてしまうが、肌と肌とを合わせて“素”の相手に(対等の立場で)近付くという、いわば理想型から入った彼はラッキーだと言えるだろう。セックスとはただ快感を味わうだけの行為ではなく、相手を認め合うことだ・・・・という作者の真っ直ぐなポリシーが垣間見られて感心した。

 また、まだ見ぬ明日への扉をこじ開けようとするマークをはじめ、マークを支えるブレンダン神父やヘルパー達に至るまで、登場人物すべてが前向きであるのが素晴らしい。もちろんそれは出来合いのスローガンとしてのポジティヴネスではなく、彼らがそれまでの人生の中で培った肯定的な物の見方の蓄積が、言葉や態度に表れていると言える。

 主演のジョン・ホークスのパフォーマンスは極上だ。首から上だけの演技で、深みのあるドラマを演出するその実力には舌を巻くばかり。シェリルに扮するヘレン・ハントも名演だ。こんなに実力があって魅力的な女優だったとは、ついぞ知らなかった。実年齢を感じさせない引き締まったボディにも目が釘付けになる。また、神父役のウィリアム・H・メイシーの絶妙のサポートは言うまでも無い。監督ベン・リューインも子供の頃に罹ったポリオで足に障害を負っているが、それだけ主人公に対する思い入れも格別であっただろう。
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真空管式アンプの使いこなし。

2014-01-19 06:54:08 | プア・オーディオへの招待
 少し前に、TRIODE社の真空管式アンプの試聴会に足を運んだことがある。私はオーディオ歴だけは無駄に長いが(笑)、管球式のアンプは一度も使ったことがない。確かに“真空管式アンプこそが最高。トランジスタ式はロクな音が出ない”などと言うマニアは今も昔も少なくないのだが、だからといって発熱量がやたら大きく真空管そのものにも“寿命”がある管球式を使うのは、どうも二の足を踏んでしまう。

 ただ今回の試聴会で興味深かったのは、真空管の“付け替え”をやってくれた点だ。なお、使用したアンプは同社製品としては安い部類に入るTRV-A300SERで、スピーカーはオーストリアのVIENNA ACOUSTICS社のモデルである。



 真空管は役割によって種類が異なるが、まずはノーマル仕様での音を聴いた後、ドライバー段と呼ばれる前方にある小型の真空管を市販品に取り替えてみた。なるほど、これは確かに音は変わる。解像度がアップして音場の見通しが良くなる。例えて言えば、CDプレーヤーに付属していたRCAケーブルをサードパーティーのものに換装したぐらいの差が感じられた。

 次に出力管である後方の大きめの真空管を付け替えてみる。これは大きく変わった。音場が縦方向に伸び、音像にも艶が出てくる。さらに、米国WESTERN ELECTRIC社の出力管に換装すると、音像の密度が上がり、力強さが出てきた。

 真空管アンプ自体の音質面での優位性というものにはイマイチ納得していないが、真空管の換装によって音の変化が楽しめるというのは、実に面白い。これもオーディオの醍醐味の一つであろう(まあ、マニアからは“今までそんなことも体験していなかったのか!”と言われそうだが ^^;)。



 また、真空管式アンプは見た目が面白いと思う。オーディオに興味が無い人でも、このエクステリアには惹かれるものがあるのかもしれない。このあたりをアピールすれば幅広い支持が得られる可能性がある。

 ついでに、TRV-A300SERと同価格帯であるTRV-88SERも聴いてみた。TRV-A300SERとの違いは、使用されている真空管が高出力型である点だ。当然ながら音圧感はTRV-88SERの方が上であるが、音の質はTRV-A300SERに軍配が上がる。使っているスピーカーが低能率型ではない限り、TRV-A300SERの方にアドバンテージが認められた。
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「メリー・ポピンズ」

2014-01-18 06:50:57 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Mary Poppins)64年作品。昔から断片的にはテレビ画面で見ているが、東宝系で展開されている“午前十時の映画祭”において今回初めてスクリーン上で全編通して観ることが出来た。ウォルト・ディズニー・プロによるミュージカルの代表作とされており、実際にとても楽しい時間を過ごせた。

 1910年。ロンドンの高級住宅地に住むバンクス氏はキレ者の銀行員だが、家庭では気むずかし屋で妻子との関係は上手くいっていない。その妻も婦人参政権運動に没頭していて、子供は放任状態だ。ある日、子供たちの腕白ぶりに手を焼いていたメイドがとうとう辞めてしまう。バンクス氏が替わりのメイドを募集すると、ベテランの厳格な人材を望んでいたはずが、それとは懸け離れた若くてキレイで陽気な女がやってくる。彼女はメリー・ポピンズと名乗り、不思議な力で家事をさっさと片付け、アッという間に子供たちをも手懐けてしまうのだった。

 異分子が入り込んで家長の頑なな心を解きほぐし、皆がハッピーになるという、言うなれば楽天的で予定調和の話だ。しかしながら、ロバート・スティーヴンソン監督による語り口はすこぶる面白い。

 メリーは妖精的な存在で、同じく半妖精(?)みたいな大道芸人のバートと一緒に子供たちを夢の世界に連れて行く。皆で絵の中に入って“冒険”を繰り広げる有名なシークエンスは噂通りの素晴らしさだ。実写とアニメーションとのコラボであるが、まずはCGもない時代によくこれだけのものが作れたものだと感心するが、両者の“呼吸”がピッタリと合ってミュージカルの楽しさを演出している点には脱帽である。

 後半、子供たちの思わぬ行動により父親の勤務先の銀行が取り付け騒ぎに見舞われるくだりは、なかなかのスペクタクル(笑)。それと平行して、煙突屋たちによる大々的なダンスショーが展開し、映画的興趣は高まるばかりだ。

 メリー役のジュリー・アンドリュースは本作でオスカーを手にしたが、正直言って「サウンド・オブ・ミュージック」や後年の「ビクター/ビクトリア」などの方がアカデミー賞に相応しいパフォーマンスだったと思う。だが、悪くない演技であることは確かだ。バートに扮するディック・ヴァン・ダイクはさすがの芸達者ぶりを見せ、銀行オーナーとの一人二役までやってのけるのだから嬉しくなる。

 ちょっと上映時間が長いこと、そして子供たちが全然可愛くないことが難点かもしれないが(笑)、良質の娯楽映画であることは疑いようがない。「2ペンスを鳩に」や「チム・チム・チェリー」といったお馴染みのナンバーをはじめとするシャーマン兄弟のスコアも言うこと無し。
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“ポエム”という名のカルト宗教。

2014-01-17 06:37:07 | 時事ネタ
 去る1月14日(火)に放映されたNHKの「クローズアップ現代」は実に興味深かった。タイトルは「あふれる“ポエム”?! 不透明な社会を覆うやさしいコトバ」というもので、実態をひた隠しにして口当たりの良い謳い文句で誤魔化そうとする“ポエム化”なる風潮を切ってみせる内容である。なお出演者は司会の国谷裕子のほか、コメンテーターとして大学教員の阿部真大(社会学)とコラムニストの小田嶋隆が顔を揃えていた。

 番組はまず、熊本県人吉市が制定した条例について紹介する。その名は「子どもたちのポケットに夢がいっぱい、そんな笑顔を忘れない古都人吉応援団条例」という気色悪いものだが、内実は“ふるさと納税をよろしくお願いしまーす”という勧誘スローガンに過ぎない。人吉市では極度に老朽化した市庁舎も建て直せないほど財政が逼迫しているという。ならば率直にその旨を訴えてふるさと納税をPRすればいいのに、無駄に“子どもたち”だの“笑顔”だのといったフレーズをくっつけてイメージ戦略を打ち出そうとしている。その考えが浅ましい。

 次に、千葉県習志野市で、震災後マンション開発業者から“売れ行きに支障が出る”とかいう陳情が出たため、地名を昔からある“谷津”から“奏(かなで)の杜”に変更したことが取り上げられていた。この“谷津”という地名は文字通り地勢を示すものでそれ自体に立派な意味があるのだが、それを民間業者の損得勘定によって簡単にポエティックな名称に変えてしまう市当局の無節操さが浮き彫りにされる。

 だが、以上二つのポイントは単なる“ダメな自治体に対する批判”に過ぎず、殊更強く興味を抱かせるようなものではない。本番組のハイライトは、この後だ。

 某NPOが主催する居酒屋甲子園という全国規模のイベントがある。2006年から始まり、年一回開かれているらしい。毎回5,000人規模の集客があるという、けっこう大きな催し物だ。この居酒屋甲子園という名称を聞けば、誰だって“ああ、全国の居酒屋が自慢のメニューを出し合い、一番美味しい店を観客の投票で決めるといった大会なのだな”と思うだろう。ところが実態はまるで違う。

 全国から選抜された居酒屋のスタッフが、ステージで自店への想いや取組みを発表するというのがこのイベントの“中身”なのだ。ならばよくある(QC大会みたいな)業務改善のプレゼンテーションの場なのかというと、それとも全く異なる。若い店員達が舞台に上がり、いかに自分たちが居酒屋で働くことによって幸せになれたか、いかに居酒屋で掛け替えのない“仲間”を得られたか、そういうことを絶叫パフォーマンスと共に延々と訴えるのだ。

 テレビ画面に映し出される彼らの表情は陶酔感で溢れ、涙を流す者も大勢いる。“居酒屋から日本を元気にする”とかいう意味不明のスローガンを盲信したかのように、ひたすら前向きでポエティックなフレーズ繰り返す。その有様は、まるでカルト宗教だ。

 ならばその大会で優勝した居酒屋の実状はどういうものかというと、実にお寒い限り。従業員は毎日大声で内容空疎なシュプレヒコールをブチあげると、激務で疲れ果てた身体に鞭打って、夜遅くまで働く。二十歳代後半の店長は目の下に隈を作りながら、極度に長い労働時間(一日16時間にも及ぶこともある)をこなしているという。おそらく、休みはほとんどないだろう。それでいながら、彼の年収は大手企業の新入社員にも及ばないのだ。

 しかし、そんな彼らには絶望の影はなく、それどころか毎月給与明細に同封される上司からの自筆の“激励の手紙”を読んで素直に喜んでいる。なお、この居酒屋チェーンではこの“ポエムなカリキュラム”を導入することにより離職率を押さえ込むことに成功したという。

 何のことはない、これはポエムを隠れ蓑にしたブラック企業である。コメンテーターの指摘の通り、ブラック企業が強要する“同調”は“連帯”とは違い、排除と表裏なのだ。ただ、そんな劣悪な職場環境においてもポエティックなスローガンを前面に掲げられれば“やり甲斐”(らしきもの)を感じてしまう若者達が哀れだ。彼らがいくら“やり甲斐”を持とうが、こんな企業はそれに報いることはない。

 いわゆる“振り込め詐欺”が手を変え品を変え、一般ピープルのなけなしの金を虎視眈々と狙っているように、ブラック企業も強制一辺倒から今回のような“ポエム作戦”に装いを変えて、従業員の労働力を買い叩こうとしているのだろう。そして当然の事ながら、ブラック企業がはびこる状況を作り出した景気の悪さが背後にはある。

 口当たりの良い“ポエム”な言葉の氾濫の裏にある深刻な現実。カルト化するブラック企業の労務管理。世の中の風潮にケンカを売ったような、本当に見応えのある内容だった。この番組は毎回見ているわけではなく、月に2,3回チャンネルを合わせる程度だが、偶然こういうヴォルテージの高い回に当たったことはラッキーだったと思う。

 それにしても、ポエティックな名の条例のことを取材され、当然番組の中では好意的な扱いを受けるだろうと思い込んでいた人吉市役所の面々は、今頃顔色を無くしていることだろう(爆)。
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