元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マーラー」

2020-01-31 06:07:18 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MAHLER)74年イギリス作品。ケン・ラッセル監督の“異常感覚”とも言うべきユニークすぎるタッチと、本来的な伝記映画のルーティンが良い按配にミックスされ、普遍性と作家性が両立する得難い作品に仕上げられている。また、視点を当事者ではなく傍らにいる者(この場合はマーラーの妻)に合わせている点も、素材をいたずらに高踏的に持ち上げない点で的確であったと言えよう。

 1911年、ニューヨークでの指揮活動を終えた作曲家グスタフ・マーラーは、ウィーンに帰るために列車に乗っていた。懸案の第十交響曲の完成に向けての構想を練っている間、彼の脳裏には過去の出来事が去来する。ボヘミア地区で生を受けた彼は、貧しい子供時代を送っていた。それでも祖父はグスタフにピアノを習わせ、そこで彼は音楽に傾倒する。



 長じてかなり年下の妻アルマと結婚するものの、軍人マックスがアルマに言い寄っていることを知るに及び、気が気ではない。列車に同乗しているアルマも過去を回想していた。実は彼女は元々作曲家志望だった。ところがグスタフの友人である歌手に習作を酷評され、夢を断念したのだった。2人の想いを乗せながら、やがて列車はウィーンに到着する。

 冒頭、マーラーの第三交響曲の第一楽章をバックに繭の中からアルマが出てくるというシーンが映し出される。もちろんこれはマーラーの夢の話なのだが、彼が妻を失うことを恐れている心理状態の暗喩だ。対してアルマは、夫の仕事のために大きな犠牲を強いられており、根深い不満を抱いている。さらには自らの作品をバカにされ、ショックでその楽譜を森の中に埋めてしまう。両者の格差は埋めようがないと思われるが、それでもグスタフが製作を続けてこられたのは、アルマの存在があってこそなのだ。

 列車の中での時間内に作劇を限定しながら、登場人物の内面を最大限広げるという意欲的な構成が功を奏している。また、ラッセル監督らしい独特の映像処理もフィーチャーされており、少年マーラーが夜の森の中で、突如姿をあらわした白馬に乗るシーンや、マックスが突然ナチスの親衛隊となるくだりなどは大いに盛り上がる。

 主演のロバート・パウエルは好演。アルマに扮したジョージナ・ヘイルも健闘している。楽曲の演奏はベルナルド・ハイティンク指揮のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団によるもので、ケレン味のないパフォーマンスが映画の雰囲気とマッチしていた。ディック・ブッシュによる撮影、シャーリー・ラッセルの衣装デザインも申し分ない。ラスト、列車から降りて家路に向かうマーラー達の“その後の運命”を考えると、感慨深いものがある。
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「ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け」

2020-01-27 06:36:53 | 映画の感想(は行)

 86年作品。途轍もなくいい加減な設定と、人を食ったストーリー、そしてデタラメなキャラクターの跳梁跋扈と、普通に考えれば駄作あるいは失敗作にしかならないエクステリアを持つ映画ながら、実際観たら面白い。思い付きのような絵空事をエンタテインメントとして昇華してしまう才能と、それを支える優秀スタッフとキャストが揃えば、単なる“怪作”も“快作”へと変化してしまうものなのだ。

 モニュメントバレーで馬に逃げられたビリィ・ザ・キッドは、当て所なく歩いていた。すると、いつの間にか居酒屋“スローターハウス”にたどり着く。マスターの一人娘テイタムに一目惚れした彼は、そこでウェイターとしてしばらく働くことになった。

 彼のほかに“スローターハウス”には剣豪の宮本武蔵をはじめ、サンダース軍曹、詩人の中島みゆき、エスパーの104、合体人間マルクス・エンゲルスといったプロフェッショナルが従業員として勤務していた。彼らはギャングたちから店を守る用心棒でもあったのだ。ギャングは客に成りすまして入店するらしい。ロックバンド、ゼルダのライヴコンサートが始まった日、ギャングどもは一斉に正体をあらわし、ビリィたちと大々的なバトルを展開する。原案は小説家の高橋源一郎。

 冒頭および最後のモニュメントバレーのシーンは現地ロケだが、それ以外はすべてスタジオ内のワンセットで展開される。そのため演劇的色彩が強くなり、あり得ないキャラクター設定も気にならない。

 監督は早稲田大シネ研出身で自主映画界の俊英と呼ばれた山川直人だが、彼の演出スタイルは良い意味で“ゆるい”。オフビートな御膳立てを糊塗するために矢継ぎ早にシークエンスを繰り出すというマネはしておらず、まさに泰然自若でマイペース。それがサマになっているだけではなく、終盤の活劇場面とのコントラストを引き立たせる。過去の諸作品からの引用が散りばめられており、特に「七人の侍」のパロディが印象的。

 ビリィ役は三上博史だが、他に真行寺君枝や室井滋、石橋蓮司、内藤剛志、原田芳雄、細川俊之、小倉久寛、徳井優、有薗芳記などが顔を揃え、キャストは場違いなほど豪華。さらに原作者の高橋をはじめ日比野克彦や鮎川誠、栗本慎一郎といったサブカル枠(のようなもの)も設けられている。

 高間賢治のカメラによる映像美も冴えわたり、少なくとも“異世界の酒場”(?)を舞台にしたシャシンとしては先日観た「Diner ダイナー」よりも楽しめた。千野秀一による音楽は悪くないが、それよりもゼルダによるエンディング・テーマ曲「黄金の時間」が目覚ましい効果を上げている。
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Nmodeのアンプ、X-PM7MKIIを購入した(その2)。

2020-01-26 06:37:39 | プア・オーディオへの招待
 先日購入した新しいアンプ、NmodeのX-PM7MKIIは、音質は優秀ながら機能は絞り込まれている。フロントパネルにあるツマミ類は電源スイッチを別にすれば、ボリュームと入力切替のみだ。トーンコントロールはもちろん、ヘッドフォン端子も無い。アナログプレーヤーを繋ぐためのフォノ端子も省かれている。だから、多機能を求めるユーザーはお呼びではない。

 重量は10.5kgで、前に使用していたACCUPHASEのアンプの半分以下だ。しかし、体積あたりの重さはこちらの方が大きい。そして、筐体の前部に電源トランスが設置されており、当然のことながら後方よりも前方がずっしりと重くなる。持ち上げる際には注意が必要かもしれない。



 スピーカー端子は、最も気を付けなければならない点だ。ハッキリ言って、芯線の太いケーブルはそのまま装着出来ない。どうしても太めのケーブルを繋げたい場合は、Yラグかバナナプラグを介することになる。接点が増えることによる音質劣化を気にするユーザーは、チェックが不可欠だ。

 電源効率が良いデジタルアンプ方式のおかげで、消費電力はとても少ない。そして発熱もほとんど無い。その点は有り難いのだが、熱量の大きさと放熱口の多さが何となく見栄えが良いと思っているらしい一部のマニアには、まるで合わないモデルだろう(苦笑)。デザインは素っ気ないが、エクステリアの質感は決して悪くない。特にボリュームに安っぽい樹脂製を採用していないのが高ポイントだ。

 前作のX-PM7に比べて使い勝手で大きく改善されたのが、リモコンの付属だろう。リモコン自体はとても簡易で高級感は無いが、リモコンはあった方が良いに決まっている。あと、電源を入れるとインプットが“XLR1”にデフォルトで設定される。その意味では、バランス出力を備えたCDプレーヤーやDAC類を常用しているユーザーの方が使い易いかもしれない。



 フロントパネルにLED表示される数字はクロック周波数をあらわしている。外部クロックの追加により音質のアップが見込めるということだが、これは将来検討したい。それよりも問題は、フォノ端子が無いのでフォノ・イコライザーアンプを追加しないとアナログレコードが聴けないことだ。早急に対処する必要がある(笑)。

 今のところ、本機種はオーディオ雑誌はもちろん、オーディオ関係の総合サイトにもほとんど取り上げられていない。また限られた専門店でしか扱わないため、家電量販店には置かれていない。そのためあまり人目に付かないモデルではあるのだが、多機能を望まなければ買って損は無い製品かと思う。今後とも使い込んでいきたい。

(この項おわり)
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Nmodeのアンプ、X-PM7MKIIを購入した(その1)。

2020-01-25 06:55:10 | プア・オーディオへの招待
 長年使っていたACCUPHASEのアンプがさすがに古くなったので、思い切って買い換えた。当初は同じACCUPHASE製で良いかと思っていたのだが、現行モデルは昔に比べて軒並み高くなっており、予算内で手に入る機種はそれまで使っていたモデルに比べて定格の面で見劣りしたため、他のメーカー品を探してみた。その結果導入したのがNmodeのX-PM7MKIIである。定価は税抜きで30万円だ。

 以前のアーティクルでこのモデルの試聴リポートをアップしたことがあったが、その時点からずっと気になっていた機種だ。決め手はやはり聴感上のクォリティ(情報量・解像度)の高さを店頭で確認したことである。価格はそんなに高くはないが、おそらく他メーカーのワンランク上の価格帯に匹敵する質感を持ち合わせており、コストパフォーマンス(←あまり好きな言葉ではないが ^^;)は上々だと思われる。



 早速自室のプレーヤーやスピーカーと結線して音を出してみると、オーディオマニアが好みそうなハイファイ度を前面に押し出した展開ではないので、ある意味拍子抜けした。フラットで、ケレン味の無い素直なサウンドだ。楽しく聴かせるという点では、前に使用していたACCUPHASE製品の方に分があると感じる。だが、購入して一週間ほど経ってみると、その端倪すべからざる実力を徐々に思い知らされることになる。

 パッと聴いた感じでは素っ気なく思えるのは、音像や音場から余計な“不純物”が取り除かれたからだと合点した。ちょうど十数年前にMARANTZのアンプからSOULNOTEの製品に更改した際と同じような印象を受けたのだ。よく聴けば、音場の広さや音像の粒立ちに関しては、前に使用していたACCUPHASEのアンプよりも上である。聴感上の周波数帯域の広さもかなりのもので、特に低域の伸びは試聴時と同様に目覚ましい。

 ただし、斯様に色付けが少ない聴感上の特性を持っているため、音源の善し悪しは出てくるサウンドにストレートに反映される。つまり、優秀録音は冴え冴えと心地良く鳴り響いてくれるが、録音の悪いソースはクォリティの低さがより一層強調されるのだ。低水準の音源でも何とか体裁を整えて鳴らしてくれることを望むユーザーには、不向きだと言える。



 また、本機は20W×2(8Ω)と、同社のアンプの中では最も高出力だが、100Wクラスのアンプと比べると音圧の面で物足りなく感じるリスナーもいるかもしれない。もっとも、その分ボリュームを上げれば良い話なので、マイナス要因にはならないだろう。なお、デジタルアンプに付き物のノイズは前作のX-PM7よりも遙かに低く抑えられており、普通に聴く分には全く気にならない。とにかく、音質重視のユーザーにとってこのクラスのベストバイになると思う。

 そして、使い勝手に関してはいくつか留意点がある。そのあたりに関しては、次のアーティクルで述べたい。

(この項つづく)
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「エクストリーム・ジョブ」

2020-01-24 06:26:10 | 映画の感想(あ行)

 (原題:極限職業)設定はすこぶる面白いのだが、演出と脚本のレベルがあまり高くないため、終わってみればB級活劇の域を出ていない。ギャグの繰り出し方も泥臭く、全編通してあまり笑えず。とにかく、こういうネタではもっと盛り上がって然るべきだ。

 コ班長率いる警察署の麻薬捜査班は、エネルギッシュに立ち回っているわりには検挙率は最低で、手柄を立てなければ解散させられるというピンチに陥る。班長は国際麻薬シンジケートの構成員が広域暴力団の事務所に出入りしているという情報をキャッチし、事務所前で張り込みを開始。24時間体制で任務を遂行するため、アジトの前にある唐揚げ屋を引き継いで偽装営業をすることになる。

 ところが人一倍鋭敏な舌を持つマ刑事の作るチキンが大評判になり、店は連日多くの客が詰めかける。いつしか班員は店を切り盛りすることに手を取られ、捜査は後回しになり、犯人逮捕の絶好の機会も逃してしまう。本国の韓国では空前のヒットを記録したらしい。

 冒頭の犯人追跡劇の緊張感のなさに悪い予感がしたが、映画が進むとそれは的中した。描写にキレが無く、ドラマが弾まない。ファンサービスのつもりかどうか知らないが、クサいお笑い場面が多数挿入され、それがまた物語の進行を阻害する。それでもチキン店をオープンさせるまでの前半は題材の面白さで何とか引っ張っているが、犯人と対峙しなければならない中盤以降の展開が弱体気味だ。

 畳みかけるような筆致で一気に押し切らなければならないところを、コ班長の家庭事情とか、班長と対立するやり手の捜査チームとか(粋がっているわりには腕っぷしが弱いのも脱力する ^^;)、署長のボケぶりとか、余計なモチーフが盛り込まれており作劇に芯が通っていない。ラスト近くには大々的な乱闘場面もあるのだが、立ち回りの段取りがよくない上に各人の格闘スキルがさほど高くないので、観ていてシラけてしまった。

 これは、たとえば日本で大ヒットした「踊る大捜査線」シリーズを外国に持って行ってもあまりウケないと思われるように、彼の国で観客を大量動員した作品が我が国で通用するとは限らないということだろう。イ・ビョンホンの演出はライト感覚だがどうにも垢抜けない(有り体に言えば、テレビ的だ)。

 主演のリュ・スンリョンをはじめ、オ・ジョンセ、イ・ハニ、シン・ハギュンといったキャストは皆良いキャラクターは持っているとは思うが、この製作陣では活かしきれているとは思えない。ハリウッドでのリメイクが決定しているという話もあるが、ヨソの国の映画を再映画化して成功した例は無いとはいえ、今回の場合はシッカリしたスタッフを集めれば“本家”を上回ることが出来るかもしれない。
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「パラサイト 半地下の家族」

2020-01-20 06:43:27 | 映画の感想(は行)

 (英題:PARASITE)評判通りの面白さだ。もっとも、万全の出来ではなく脚本にはけっこう瑕疵がある。また、過去の諸作との類似性も見逃せない。それでも、全編にみなぎる作劇の求心力と、高い問題意識が観る者をとらえて放さない。第72回カンヌ国際映画祭にて大賞を獲得しているが、久々に納得ずくの選出であったと思う。

 陽があまり当たらず電波もロクに入らない半地下住宅で暮らすキム・ギテクは、過去にあれこれ事業に手を出したが全て上手くいかず、今ではこの体たらく。妻のチュンスクは元ハンマー投げの名選手だが、ギテクと一緒になったばかりに貧乏暮らしに甘んじている。息子のギウは大学受験に落ち続け、娘のギジョンは美大を目指すが予備校に通う金もない。ある日、ギウの友人で一流大学に通うミニョクが、留学する間、ギウに家庭教師の代打を依頼する。引き受けたギウが向かったのは大手IT企業の社長宅で、高台に建つ豪邸だった。

 早速ギウは社長の娘の勉強を手伝うが、これが評判になって彼は一家の心を掴む。次に彼は末息子のしつけ役にギジョンを、運転手としてギテクを、家政婦としてチュンスクを、それぞれ身分を偽って社長の家に送り込むことに成功。こうしてキム一家の暮らしぶりは格段に楽になるのだが、実はこの邸宅には誰も知らなかった秘密があり、そのことが彼らを思わぬ事件に巻き込んでゆく。

 後半の、キム一家の正体が社長たちに見破られるか否かというドタバタは、段取りが上手くいっていない。クライマックスの大立ち回りも無理筋だし、終盤の処理は明らかに既視感がある(具体的にどの映画に似ているかを明かすとネタばれになるので、やめておこう ^^;)。だが見終わってしまえばそれらの欠点に目を瞑りたくなるほど、本作のヴォルテージは高い。

 キム一家は各人特技を持っていて、これで貧困に喘いでいるのはおかしいとの指摘もあろうが、言い換えればそんな彼らでも学歴と出自に恵まれなければ決して這い上がれないという社会の不条理を示しているのだ。

 極めつけは、社長一家がキムたちに共通の“臭い”を感じる取るとこだろう。別に悪臭を放っているわけではなく、ちゃんと入浴はしている。それでも、富裕層は自分たちとは違う下流の者どもに愉快ならざるモノを覚えてしまうのだ(有り体に言えば、それは“貧乏臭さ”である)。しかも、社長一家には自覚が無いだけに、余計に始末が悪い。そして、全編を覆う“北からの脅威”めいたものが、韓国社会に漂う暗鬱な空気を象徴している。

 ポン・ジュノ監督の作品をこれまで全て観たわけではないが、本作では最良の仕事をしていると思う。前半のスラップスティック風味から、中盤以降のホラーやバイオレンス満載のパートに移行する呼吸は鮮やかだし、演出のテンポも良い。ギテク役のソン・ガンホは相変わらずの横綱相撲で安定感があるし、チャン・ヘジンやパク・ソダム、チェ・ウシク、イ・ソンギュン、チョン・ジソ等々、皆芸達者だ。ホン・ギョンピョによる撮影やチョン・ジェイルの音楽も言うこと無し。好き嫌いが分かれる内容かもしれないが、見応えはあると言えよう。
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「コットンクラブ」

2020-01-19 06:35:50 | 映画の感想(あ行)
 (原題:The Cotton Club )84年作品。フランシス・フォード・コッポラ監督によるギャング物という鉄板の御膳立てにもかかわらず、出来の方は大したことがない。しかし、贅を尽くしたセットと念の入った時代考証、そして煌びやかなショーを観ているだけで、何となく入場料のモトは取れたような気になってしまう。当時は酷評されたものの、今から考えるとそれなりの見応えはあったと思う。

 1920年代、禁酒法時代のニューヨークのハーレムにそそり立つコットンクラブは、超豪華なキャバレーとしてセレブたち御用達のスポットになっていた。しかし、この店を仕切っていたのは大物ギャングで、その利権をめぐっての他組織との抗争が後を絶えなかった。ある日、コルネット奏者兼ピアニストのディキシーはギャングのボスであるダッチを爆弾騒ぎの際に救う。そのおかげでダッチから一目置かれるようになったディキシーだが、一緒に救ったダッチの情婦の女性歌手ヴェラとも仲良くなる。



 一方、プロのタップダンサーになるのを夢見るウィリアムズは、兄のクレイと組んでコットンクラブのオーディションを受けて合格する。早くも人気を獲得した彼は、そこの専属歌手であるリラを好きになる。実在のナイトクラブを舞台にした愛憎劇だ。

 いろいろなキャラクターが出てくるが、どれも魅力に乏しい。コッポラが得意にしているはずのギャング同士の諍いも、かなり薄味だ。ジャズ、ギャング、恋愛沙汰、業界の裏話など、多数の要素が未消化のまま盛り込まれており、全体的に散漫な印象を受ける。ラストの処理は賑々しくはあるが、ドラマを放り出したような感じも受ける。

 しかしながら、映画の“外観”はかなり作りこまれている。スティーヴン・ゴールドブラットのカメラがとらえた、クラブ内部の妖しい美しさ。ミレーナ・カノネロによる見事な衣装デザイン。ジョン・バリーの流麗な音楽。主演のリチャード・ギアとダイアン・レインの存在感はもとより、見事なタップを披露するグレゴリー・ハインズや、ボブ・ホスキンス、ニコラス・ケイジ、ジェームズ・レマーと、役者は揃っている。さらにトム・ウェイツまで顔を出しているのだから嬉しい。あの「地獄の黙示録」(79年)を撮ったコッポラの映画だと身構えてしまうと肩透かしを食わされるが、これはこれで存在価値はあるとは思う。
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「フォードvsフェラーリ」

2020-01-18 06:44:25 | 映画の感想(あ行)
 (原題:FORD V FERRARI)主要キャストは好演だが、ドラマ自体はさほど盛り上がらない。原因は、物語が文字通り“盛り上がらない方向”から進められていること、そして重要なモチーフが欠落していることだ。特にこのような映画は題材の細部にまで切り込むことが不可欠であるはずだが、そのあたりがどうも心許ない。

 1963年、フォード自動車はモータースポーツに本格参入するため、イタリアのフェラーリに買収を持ちかけるが失敗。社長のヘンリー・フォード2世は激怒し、当時最強と言われたフェラーリチームを打ち負かすため、レース部門を設立して膨大な資金を投入するが、なかなか結果が出ない。そこでレース経験が豊富なキャロル・シェルビー率いるチームに協力を要請。キャロルはその条件として天才肌のイギリス人レーサーであるケン・マイルズの参加を提案する。だが、フォード首脳部は難色を示し、それ以来キャロルと会社幹部との摩擦は頻発するようになる。



 要するに、当時世界有数の大企業であったフォードが、金の力にモノを言わせて並み居るライバルをねじ伏せたという話だ。もちろん、ただ金を積むだけではこの世界での成功は覚束ない。しかし、資金力は無いよりあった方が断然良い。これはどう考えてもフォードの側の事情を取り上げるよりも、倒産寸前になりながらもレースへの情熱を持ち続けたフェラーリと、それをあえて傘下に置いたフィアットをメインに描いた方が訴求力が高くなったと思うのだが、アメリカ映画である以上、仕方が無いだろう。

 ストーリーはキャロル達とフォードのお偉方との確執を前面に出しているが、レースを題材にするからにはもっと別に描き込むことがあったのではないか。それは、どうしてフォードはフェラーリと拮抗し得たのかを理詰めに提示することだ。つまり、メカに対する言及がまるで足りていない。確かに、技術的なウンチクばかりを並べてしまうと観客は置いて行かれる。だが、観る者をドン引きさせない程度にメカニズムの説明を適当に織り込むことは出来たはずだ。それをやっていないから、話自体が(実録物なのに)絵空事になってしまう。

 ジェームズ・マンゴールドの演出は可も無く不可も無し。ただし、レース場面は迫力が足りない。少なくとも「ラッシュ プライドと友情」や「ミシェル・ヴァイヨン」などには完全に負けている。主演のマット・デイモンとクリスチャン・ベールのパフォーマンスは良好で、キャロルの妻を演じるカトリーナ・バルフも魅力的なのだが、映画自体が要領を得ない出来であるため、彼らの奮闘もあまり報われないものになっている。
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J-POPよりも歌謡曲が好きである。

2020-01-17 06:46:22 | 音楽ネタ
 先日、仲間内で定期的に(年2回程度)催されているカラオケ大会に行ってきた。時によっては曲目選定に注意しなければならない(笑)職場関係のカラオケ会と違い、気の置けない連中が集まるので、どんな曲を歌おうが自由だ。しかし、どういうわけかこの会には“原則として、以前歌った曲を、再び歌ってはならない”という不文律めいたものが存在し、参加者は毎回新しいレパートリーを用意する必要がある(爆)。けっこうハードルが高いが、それもまた楽しい。

 当然私も今まで一度も歌ったことのない曲にチャレンジするのだが、オッサンの私としては自然と懐メロ中心になる。また、参加メンバーの平均年齢も高いので、古い曲のオンパレードだ。しかし、それではあまりにも芸がないので、一曲だけその年にかなり流行った若い衆向けのナンバーを取り上げることにした。だが、事前に練習しているうちに途方に暮れてしまった。なぜなら、その曲があまりにもつまらないからだ(かといって、他に気に入ったナンバーも見つからない)。

 とにかく、メロディが陳腐。歌詞も陳腐。アレンジが陳腐。面白くも何ともない。今の若い者は(←いやはや、年寄り臭い言い回しだが ^^;)こんなものを聴いて喜んでいるのかと思うと、暗澹とした気分になる。

 それに比べて、昔ヒットした歌謡曲や演歌の、何と素晴らしいことか。そして、何と歌いやすいことか。昨今のヒットしているJ-POPと昔のナンバーとの一番大きな差はどこにあるのかと考えると、第一義的には“作り手の(プロとしての)意識の高さ”ではないかと思う。ではその“プロ意識”とは何なのかというと、幅広い層に向けた平易な展開の楽曲を、精緻な技巧により提供することだと考える。

 特にこの“幅広い層に”という方向性が重要ポイントだ。歌謡曲は、老若男女にアピール出来るような(誰でも口ずさめるような)普遍性を持ち合わせていなければヒットは覚束なかった。そのために作詞家や作曲家およびアレンジャーは、プロとしての高い技量を要求されていたのだ。しかしJ-POPの作り手は“大衆”を視野に入れていない。限られた聴き手と、当事者だけの狭い世界観の中で、何の捻りもなく心情を吐露したような歌詞を並べればそれで採算が取れるという図式が出来上がっていると思う。

 そして、J-POPが“大衆”に対する普遍性を欠いていることは、音楽自体の方法論の範囲も狭められてゆく。早い話が、J-POPおよびその各ミュージシャンの支持者以外の層には、その楽曲が受け容れられないようになっているのだ。若い者の好む音楽の、どこが良いのか分からないといった認識は、何も世代の違いだけに収斂される話ではない。

 もちろん、J-POPの担い手の中には玄人筋を唸らせるような仕事をしている者たちもいるのだろう。だが、その楽曲がテレビのゴールデンタイムに流れることは無いし、ラジオのヘビーローテーションに採用されることも無い。

 さて、くだんのカラオケ大会にて取り敢えずは練習してきたその“新しめのJ-POPナンバー”を披露した私であったが、原曲のキーが思いのほか高く、ほとんど声が出ずに自爆した(大笑)。やっぱり、慣れないことはやるものではない。
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「ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋」

2020-01-13 06:39:59 | 映画の感想(ら行)
 (原題:LONG SHOT )まるで面白くない。政治ネタと恋愛沙汰をコメディ風味でミックスさせようという意図は良いが、困ったことにこの映画の作り手は政治も恋愛も分かっていないらしい。何やら本国での評判は良いらしいが、そのあたりはどうも理解出来ない。

 シャーロット・フィールドは、史上最年少の米国務長官として忙しい日々を送っていた。一期目のチェンバーズ大統領は次回の選挙には出馬せず、後継者としてシャーロットを指名する意向を示す。彼女は大統領選へ向けて、選挙スピーチの原稿作成を外部のスタッフに依頼することになるが、そこで選ばれたのが失職中のジャーナリストのフレッド・フラスキーだった。



 フレッドは有能だったが、意固地な面が強くて周囲との摩擦が絶えなかった。それでもシャーロットが彼を指名したのは、フレッドは幼馴染みであり気心が知れていたからである。2人は行動を共にするうちに惹かれ合っていくが、もとより立場が違うこともあり、思いがけない邪魔が次々と入るのであった。

 まず、シャーロットはどういう政治的ヴィジョンを持ち、具体的に何をしたいのか、さっぱり分からないのが難点だ。どうやら環境問題に関心があるようだが、政策面での言及は無い。そして、現大統領やマスコミ界の大物を嫌っている理由も明確ではない。そもそも、国務長官としてのポリシーも実績も示されていないのだ。対するフレッドは、身体を張った突撃取材で名を馳せるものの、その考え方は偏狭で幅広い共感を呼べるものではない。

 この地に足が付いていないような2人が、たとえ久々に再会して旧交を温めたとしても、そのまま懇ろな関係になる必然性が見えないし、納得出来るようなプロセスも踏んでいない。その描写不足を糊塗するかのように繰り出されるギャグは、徹底して下ネタ優先。ただし、タイミングと展開が生ぬるいのでほとんど笑えず。同じくお下品コメディの快作であるロバート・ルケティック監督の「男と女の不都合な真実」(2009年)と比べると、随分と落ちる。

 ジョナサン・レビンの演出は冗長で、盛り上がる箇所はほとんど無い。シャーロットに扮するシャーリーズ・セロンは、残念ながら色気はあるが知性は感じられず、とても政治家には見えない。フレッド役のセス・ローゲンも単なるむさ苦しい男で、愛嬌に欠ける。カナダ首相を演じるアレクサンダー・スカルスガルドに至っては、イロモノ扱いだ。それにしてもこのカナダの首相の扱いをはじめとして、ヒロインが訪れる世界各国の描き方はかなり杜撰である。作者の見識の浅さか、あるいは“その程度”の観客を相手にするということで見切っているのか分からないが、いずれにしても愉快ならざる気分になる。
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