元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

2年ぶりにホークスの優勝パレードを見に行った。

2017-11-27 06:35:32 | その他

 去る11月26日、日本一に輝いた福岡ソフトバンクホークスの優勝パレードを見に行った。沿道には約36万人が詰めかけ、大変な賑わいだ。

 今年(2017年)のペナントレースは序盤こそイーグルスに後れを取ったものの、徐々に地力を発揮。終わってみれば2位のライオンズに13.5ゲームの差を付けて優勝。日本シリーズではベイスターズ相手に少々手こずったが、最後は貫禄勝ちである。豊富な資金力と確かな育成体制で、球界の地位を確立した感があり、当分はホークスの強さは揺るがないだろう。

 それにしても、本来日本シリーズ戦うべき相手は勝率が5割3分弱の横浜DeNAではなく、2位に10ゲームの差を付けて優勝した広島カープであるはずだ。それがクライマックス・シリーズ(CS)の結果で3位のチームが日本シリーズに出てくることになった。これはオカシイのではないか。

 確かにベイスターズは若くて良い選手が目立ち、強いチームであることは分かるが、あくまで今年は3位だ。このCSという仕組みは、早々に見直す必要があると思う。そもそも、レギュラーシーズンが終わった時点で日本シリーズに進出する可能性のある球団が(全球団の半数である)6つもあるということ自体、正常なことだとは思えない。

 そんなにポストシーズンを盛り上げたいのならば、昔パリーグで実施していたようにペナントレースを前期と後期に分けるとか、あるいは両リーグを2つの地区に分けてそれぞれ優勝チームを決めてプレーオフを行うとか、もっと理に適った方法があるはずだ。

 ・・・・それはさておき、やっぱり地元の球団が日本一になったというのは、福岡県民としては素直に喜びたいところだ。関係ないが、パレードの一番後方を走っていたバスには選手は誰も乗っていなかった。何か変だなと思ったら、前の座席にソフトバンクのCMでお馴染みの“お父さん犬”が鎮座していたのには笑った(^_^)。
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「戦場の小さな天使たち」

2017-11-26 06:33:59 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Hope and Glory)87年イギリス作品(日本公開は88年)。面白い。戦争の実相を悲惨さから捉えた作品は数多いが、ここでは別の切り口により、戦争と庶民の関係性の一断面を見せてくれる。間違いなく、ジョン・ブアマン監督の代表作の一つだ。

 1939年、第二次大戦が勃発。イギリスも当事国となり、世相は逼迫する。ロンドンに住む小学生ビルの父親も出征し、母のグレースはビルと妹のスーを疎開させようとする。だが、直前になって子供たちは田舎に行くのを嫌がり、仕方なく母親は兄妹を手許に置くことにする。やがてドイツ軍の爆撃によって町は炎上。ところがビル達にとってその焼跡は恰好の遊び場になった。また、ビルの姉のドーンとカナダ兵のブルースも焼跡で大っぴらに落ち合うようになる。

 ある日、一家がピクニックに行っている間に、家が爆撃で破壊されてしまい、やむを得ず田舎の祖父の家に引越すが、そこでもビル達は釣りやハイキングなどでカントリー・ライフを満喫。ドイツ軍による空襲も一段落して学校に戻らなければならない日がやってくるが、町に帰ってきたビル達の前に“衝撃の(笑撃の?)”事実が突きつけられる。

 本作と似た映画を挙げるとすれば、ズバリ片渕須直監督の「この世界の片隅に」(2016年)だろう。戦場では命のやり取りが日々発生し、銃後の市民にも危険が及ぶ時制ではあっても、庶民の暮らしは厳然として存在している。そこには悲劇ばかりではなく、喜びも笑いもある。戦争は“ただそこにある事実”として捉えられるだけだ。

 もっとも、敗戦国と戦勝国とでは事情が異なり、「この世界の片隅に」が主人公達が味わう艱難辛苦をも挿入されるのに対し、この映画はどこか楽天的だ。しかし、そのことをもって“だから本作は戦争の悲惨さを伝えていない”と断ずるのも早計と言うべきだろう。

 ビル達が戦争を乗り切られたのは、単なる幸運に過ぎなかったのだ。父親やドーンの恋人は戦死していたかもしれないし、一歩間違えば爆撃で家族全員がいなくなってしまうこともあり得る。その紙一重の僥倖を、庶民として楽しむしかないではないか。それが人間としての逞しさではないか。その有り様をポジティヴにうたいあげる本作のスタンスには、本当に共感できる。

 ブアマンの演出は弛緩したところが無く、しっかりとドラマを綴っていく。子役が達者なのはもちろんだが、サラ・マイルズやデイヴィッド・ヘイマン、サミ・デイヴィスといった大人の役者は良い仕事をしている。

 なお、この映画は第2回東京国際映画祭で上映され、その時は原題をアレンジした「希望と栄光の日々」というタイトルが付いていた。対して封切り用のこの邦題はいただけない。いくら原題のままでは意味がよく通じないとはいえ、もっと工夫する余地があったと思う。
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「ザ・サークル」

2017-11-25 06:18:29 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE CIRCLE)つまらない。題材に対する掘り下げがほとんど成されていないばかりか、話の展開が行き当たりばったりで、中盤以降は映画作りそのものを放り出したような惨状だ。しかも、キャスティングおよび演技は最悪。まさに本年度ワーストワンの有力候補であり、(少なくとも個人的には)存在価値はあまり無いと断言できる。

 サンフランシスコ近郊に住む若い女メイは、水道会社のコールセンターで働く派遣社員だ。顧客からのクレームを処理するため、電話口では謝ってばかりという、ストレスが溜まる生活を送っている。それでいて給料は安い。ある日、大手SNS企業“ザ・サークル”に勤める友人アニーから、その会社が新規に社員を募集しているという話を聞く。メイは喜び勇んで面接に臨み、採用されることになる。

 だが、社内の雰囲気は一般社会とは懸け離れた特殊なもので、メイは戸惑うばかり。そんな中、難病を患う父親をフォローするメイの姿がカリスマ経営者のベイリーの目に留まる。同社が開発した超小型カメラのモニターとして抜擢されたメイは、自身の24時間をネット上で公開することに。するとアッという間に一千万人を超えるフォロワーが集まり、社内外で広く知られる存在になってゆくが、そんな状態が彼女のメンタルに影響を与え始める。

 とにかく、主人公メイの底抜けの愚かさに脱力する。思いがけず有名企業に入り込めたことに(最初は面食らうが)舞い上がり、まるで“覗き部屋”みたいなサービスの試験を嬉々として引き受けたかと思うと、周りの人間のプライバシーを平気で曝して炎上させ、果てはSNSアカウントを紐付けして参政権に利用するとかいう妄言を得意気に披露する始末。

 また“ザ・サークル”内の、まるで新興宗教みたいな有り様は、作者の“IT企業なんてロクなもんじゃない”という皮相的な見方を如実に示しているようで閉口した。結局、メイは自らの所業が重大なアクシデントを引き起こしたことを反省もせず、何となく自身で折り合いをつけてしまう。

 ジェームズ・ポンソルトの演出はテンポが悪くてパッとせず、感覚的には20年は遅れていると思われる映像ギミックを堂々と全面展開。考えてみたら主人公に扮するエマ・ワトソンの出演作を今回初めて観たことになるが、彼女には全然魅力を感じない。演技は硬く、大して可愛くもないのだ。トム・ハンクスがベイリー役で出てくるが、全然見せ場が無い。他のキャストに関しては言及する気も起こらない。

 唯一の見どころは、歌手のベックが“ザ・サークル”内のアトラクション(?)に特別出演していること。短いシーンだったが、彼の存在感だけは印象付けられた。
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「妖獣都市」

2017-11-24 06:40:58 | 映画の感想(や行)
 87年作品。「バンパイアハンターD」(2000年)などで知られるアニメーション監督、川尻善昭の実質的なデビュー作。表現方法は少々どぎついが(笑)、なかなか見せるシャシンではある。菊地秀行の同名小説(私は未読)の映画化だ。

 電機メーカーに勤める平凡な若手サラリーマンの滝蓮三郎には、別の顔があった。それは現実世界と魔界とのバランサーとして働く、闇ガードと呼ばれるエージェントだ。2つの世界の戦いは有史以来続いてきたが、ここにきて秘かに不可侵条約が結ばれる。



 その調印式のため、イタリアの伝道士ジュゼッペ・マイヤーが日本に招かれ、その護衛を蓮三郎と魔界側の闇ガードである麻紀絵が受け持つことになる。だが、この調印を阻止するため、魔界の過激分子は次々と刺客の妖獣を送り込み、蓮三郎と麻紀絵は激しいバトルを展開するハメになる。だが、一見好色で軽佻浮薄なジュゼッペ爺の真意は別のところにあった。

 残念ながら、蓮三郎にはあまり“愛嬌”がない。ニヒルなプレイボーイを気取ってはいるが、25歳という設定のせいか、突っ張ってばかりで余裕が感じられないのだ。これが一回り上の年齢ならば、多少のオヤジ臭さを加味しつつも(爆)スマートに振る舞えただろう。

 しかし、相手役の麻紀絵の造型は良く出来ており、セクシーでグラマラスながら、弱さと可愛らしさをも兼ね備えている。スケベなジュゼッペの言動も愉快だし、何より魔界の首魁および妖獣達の扱いには非凡なものを感じる。つまりは、幾分頼りない主人公を周りのキャラクターがしっかりカバーしており、鑑賞に堪えうるレベルに押し上げているのだと思う。

 川尻監督の仕事ぶりは実に達者で、メリハリの利いたスピード感はグロい描写も不快にならない。そして艶笑ギャグもしっかり入っていて、飽きさせない。アクションシーンもソツなくこなしている。終盤のストーリーの扱いはいたずらにカタストロフに陥らず、“前向き”な姿勢を見せているのも悪くない。東海林修の音楽と当山ひとみによる主題歌、そして屋良有作や藤田淑子、永井一郎、横尾まりら声優陣も頑張っている。
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「彼女がその名を知らない鳥たち」

2017-11-20 06:41:40 | 映画の感想(か行)

 沼田まほかるによる原作は数年前に読んでいるが、この映画化作品は小説版のテイストを崩さずに娯楽映画として仕上げた良作だと思う。奇を衒わず平易なストーリー運びに徹した脚色と、ソツのない演出。そしてキャストの頑張りがとても印象的なシャシンである。

 無職で毎日ブラブラしている北原十和子は、下品で貧相で、金も甲斐性も無い15歳も年上の男・陣治と暮らしている。だが十和子は、8年前に別れた黒崎のことを今でも思い出す。黒崎には手酷い暴力を受けて大怪我をしたにも関わらず、彼のことを忘れられないのだ。

 そんな彼女が次に好きになったのは、デパート従業員の水島である。ハンサムだが、中身は黒崎と同程度のゲス野郎だ。陣治は水島と十和子が逢い引きするところをしつこく尾行する。ある日、彼女は黒崎が数年前から行方不明になっていることを警察から知らされる。やかて水島が仕事上で窮地に陥るに及び、十和子はこれらは裏で陣治が“暗躍”しているのためではないかと疑う。

 とにかく、出てくる連中がどいつもこいつもロクな奴じゃないのが、ある意味で天晴れだ。自堕落なヒロインと小汚い中年男、人間のクズみたいな元カレに、薄っぺらな若い男。誰一人として共感できないが、皆それぞれのダメぶりを人のせいにせず、すべて自ら引き受けているというのが良い。変な表現だが、ダメであることに対して“甘えて”いないのだ。それらダメ人間達が開き直ったように向こう見ずな行動に出るという、一種のスペクタクルに昇華させている。この遣り口は侮れない。

 十和子が黒崎との関係の終焉に関し、あまり明確な記憶を持っていないことが重大なプロットになるが、幾分無理筋かと思われるこの設定がリアリティを持つのは、各キャラクターが(後ろ向きのスタンスで)十分掘り下げられているからだろう。小説版では泣かされた最後の一行も、映像的なケレンを配して上手く映像化されている。

 白石和彌の演出は実に落ち着いている。いたずらにテンポに強弱を効かせることなく、地に足が付いた展開に終始。だから話がウソっぽくならない。十和子に扮する蒼井優は、やっぱり有数のパフォーマーだと思う。かなりの熱演なのだが、それを意識させずにサラリと役になりきっているのが凄い。陣治役の阿部サダヲも好演。原作の鬱陶しいキャラクターを見事に実体化している。さらに、みっともなさに隠された純情を自然に出しているのはサスガだ。

 また、黒崎に扮する竹野内豊と水島役の松坂桃李は、実に楽しそうにサイテー野郎を演じている。灰原隆裕のカメラがとらえた大阪の街の風情も捨てがたいし、音楽担当の大間々昂の仕事も認めて良いだろう。
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「殺意の夏」

2017-11-19 06:59:51 | 映画の感想(さ行)

 (原題:L'Ete Meurtrier )83年フランス作品。主演女優のイザベル・アジャーニの魅力を堪能するための映画である。思えば、出世作「アデルの恋の物語」(75年)以来、アジャーニはコンスタントに映画に出ていたにも関わらず出演作の日本での公開は覚束ない状態だった。封切当時においては、少なくなかった彼女のファンは、彼女の主演作を久々に観ることが出来て溜飲を下げたことだろう。

 フランス南部の田舎町に、エルという若い女が両親と共に引っ越してくる。何かと言動が目立つ彼女を、地元の消防士であるパンポンは気に入って交際を申し込む。するとエルは直ちに荷物をまとめてパンポンの家へと移り住み、わがもの顔で振る舞うのだった。ある日、彼女はパンポンの家の納屋で古びた自動ピアノを見かけて驚く。実は、エルはこの町に“ある目的”を持ってやって来たのだ。

 そしてその自動ピアノこそが、彼女の出生に関する忌まわしい出来事の当事者を特定する証拠なのだ。エルは周到に“復讐”の計画を練り、パンポンとの結婚後に“実行”に移そうとするが、思いがけない事実を父親から聞かされてショックを受ける。作家セバスチャン・ジャプリゾが自身の小説を自ら脚色。「タヒチの男」(67年)等のジャン・ベッケルが監督を務めた。

 およそワン・シークエンスごとに衣装を替え、その蠱惑的な表情としなやかな肢体を強く印象付けるアジャーニのパフォーマンスは素晴らしい。しかも、挑発的な身のこなしと同時に、メンタル面での危うさを存分に表現するあたり、まさに彼女の独擅場である。

 サスペンス映画としてのプロットの組み立ては少々無理筋なのだが、画面の真ん中に陣取ってドラマを引っかき回す彼女の振る舞いを見ていると“まあ、これで良いじゃないか”という気分になってくる(笑)。

 ただ、脇のキャラクターの配置は巧みだ。一本気なパンポンはその純粋さ故に事件に巻き込まれ、足が悪くて椅子に座ったきりのエルの父親は曰わくありげだ。エルと意気投合するパンポンの伯母や、エルに気がある同性愛者の女教師デューなど、すべてキャラが濃い。もちろん、いかにも悪そうな連中が抜け目なく周囲に配備されている。

 ベッケルの演出はソツがなく、ラストまで緩みを見せない。アラン・スーションやシュザンヌ・フロン、ジェニー・クレーヴといった他の出演者も達者だ。エティエンヌ・ベッケル&ジャック・ドローのカメラがとらえた陽光がまぶしい南仏の風景、ジョルジュ・ドルリューの音楽も万全だ。
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「女神の見えざる手」

2017-11-18 06:32:10 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MISS SLOANE )面白い映画だ。骨太の演出は最後まで揺るがない。主人公の造型はもとより、題材はタイムリーで、社会の欺瞞を追求するジャーナリスティックなテイストも満載。観る価値は大いにある。

 主人公のエリザベス・スローンは、依頼主の利益のため政治家に働きかけて議会での立法活動に影響を与え、さらにマスコミ工作や世論操作もおこなうロビイストだ。実力は折り紙付きで、ワシントンでもその名は轟いている。彼女が属する大手法人が今回引き受けた仕事は、銃擁護派団体からの依頼により議会で審議中の銃規制法案を葬り去ることだった。

 道義的にそのオファーに承知できない彼女は、数人の仲間と共に退社。銃規制派を支援する小さなロビー会社に移る。当然のことながら元の会社は攻勢を仕掛けてくるが、エリザベスも手段を選ばない。法律の抜け穴も同僚のプライバシーも、利用出来ると思えば行使することをいとわない。だが、彼女の過去の所業が明らかになるに及び、思いがけず窮地に立たされてしまう。

 彼の国には、日本では考えられない職務を行う法人が存在する。「ニューオーリンズ・トライアル」(2003年)で取り上げられた“陪審コンサルタント”なんかその最たるものだが、本作で扱われるロビー会社もその一つだろう。全米にはロビイストは約3万人もいるらしく、顧客の利権のために日々エゲツない稼業に励んでいるとか(笑)。ともあれ、この題材を取り上げただけでも注目度は高くなる(まあ、日本においては官公庁こそが最大のロビイストと言えなくも無い ^^;)。

 しかも、ジェシカ・チャステインが扮するヒロイン像が出色だ。見かけは非情なキャリアウーマンだが、銃規制に賛成の姿勢を崩さないあたり、内に正義感を秘めている。また、孤独で異性関係には及び腰。男娼を買って疑似恋愛を体験するのが精一杯というのも泣かせる。チャステインとしても代表作の一つになるだろう。

 元弁護士のジョナサン・ペレラによる脚本と、ジョン・マッデンの演出による作劇には緩みが無く、観る者をグイグイと引き込んでゆく。終盤近くにはドンデン返しが用意され、興趣は尽きない。マーク・ストロングやググ・バサ=ロー、ジョン・リスゴー、サム・ウォーターストンといった脇の面子も良好だ。

 それにしても、銃器の有用性を女性層にアピールさせようという銃擁護派団体の存在、また悪者を射殺した元軍人がヒーローになってしまう現実を見れば、アメリカは実に“野蛮な国”であるとの認識を新たにする。
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「ワイルド・アット・ハート」

2017-11-17 06:37:08 | 映画の感想(わ行)

 (原題:WILD AT HEART )90年作品。主人公セイラー(ニコラス・ケイジ)は、恋人ルーラ(ローラ・ダーン)の目の前で因縁をつけてきた一人の黒人を殺してしまう。だがそれは、娘に対して偏執狂的な愛情を持っているルーラの母親が、二人の間を引き裂こうとして仕組んだ罠だった。それから22か月と18日後、刑務所を保釈になったセイラーは、ルーラを連れて母親の呪縛から逃れるため、カリフォルニアへと旅立った。ストーリーは以上のように粗野で情熱的なカップルの逃避行を追っていて、文字通りワイルドなタッチのラブ・ストーリーを狙ったデイヴィッド・リンチ監督作である。

 結論から先に言おう。まったくの期待はずれだった。その理由はリンチ監督のこの前の作品「ブルー・ベルベット」(86)と比べればすぐわかる。あの作品の凄さはいわば“日常の裏に潜む非日常”を鋭くえぐったことであった。平和な街で起こる異常な殺人事件。平凡そのものの市民生活に忍び寄る悪夢のごとき不吉な影。その危険なイメージを過激な映像で容赦なく提示していく、リンチ監督のテクニックに終始ゾクゾクしっぱなしだった。

 ところがこの作品はベースとなるリアリティがまるで欠如している。主演の二人は“翔んだ”ままだし、狂態を見せるルーラの母親や、ウィレム・デフォー扮する変質的な殺し屋など、まわりのキャラクターも皆かなり異常だ。普通の人たちが一人も登場しない。そんなキ印だらけの世界をリンチ監督はギラギラの映像と猛烈なスピード感とぶっとんだ音楽で描き出す。

 しかし、観る側が感情移入できるキャラクターがおらず、映像だけが流れて行くだけの映画とも言える。たしかに冒頭の殺人シーンやクライマックスの銀行強盗の場面には圧倒されたが、それが映画自体の面白さにはなっていない。監督自身が自分のフリーク趣味だけを満足させたような作品である。最初から物語をつくることを狙っていない。こういう映画もあっていいとは思うが、私はまったく興味がない。映画はまずリアリティである。

 それにしても、取って付けたようなラストシーンには笑ってしまった。いっそ主役の二人が殺されてしまった方が、映画としてサマになっていたと思う。同年のカンヌ国際映画祭で大賞を獲得しているが、主要アワードを受賞した作品が良作とは限らないのは毎度のことなので、あまり気にならない。
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「ゲット・アウト」

2017-11-13 06:25:21 | 映画の感想(か行)

 (原題:GET OUT )何の変哲もないB級ホラーである。本国アメリカではかなりヒットしたそうだが、その理由があからさまに透けて見える点も、大いに脱力する。まあ、キワ物映画として名高い(?)「パラノーマル・アクティビティ」シリーズなどを手掛けたプロデューサーが一枚噛んでいるらしいので、さもありなんという感じだ。

 主人公クリス・ワシントンはニューヨークで写真家として活動している黒人男性。白人女性ローズ・アーミテージと交際中だが、週末に山奥の片田舎にある彼女の実家に招かれる。歓迎はされるものの、使用人が黒人ばかりであることに彼は違和感を覚える。しかも、彼らの言動がおかしい。翌日、近所の者達を集めたパーティーに出席したクリスは、その中に一人黒人がいるのを見つけ、話しかけて写真を撮る。すると相手は突然鼻血を出しながらクリスに“ここから出て行け!”と言い放つ。尋常ではない雰囲気を感じ取ったクリスは、ローズと一緒にこの村から逃げ出すことを決意する。

 クリスとローズがアーミテージ家に向かおうと田舎道を車で走っていると、急に鹿が飛び出してきて衝突する。何やら思わせぶりなモチーフだが、実はあまり伏線にはなっていないことが分かり呆れた。映画が中盤に差し掛かると、この映画のアウトラインは予想が付く。序盤に、クリスの友人である空港警察官がクローズアップされるのでコイツが終盤にもストーリーに絡んでくるのだろうと思ったら、その通りになるのだからガッカリだ。

 ホラー演出も目新しさは無く、ケレン味たっぶりのカメラワークと効果音で観客を驚かすというパターンの繰り返し。それでも本国の観客の耳目を集めたのは、背景に根強い人種差別問題が横たわっているからだろう。

 ローズの家族および村人達は、黒人なんか人間だとは思っていない。しかしアフリカ系民族の身体能力は買っており、その点だけが“利用価値がある”と決めつけている。ちょうどこれは“黒人は全員足が速くて、歌と踊りが上手い”というレベルの低いステレオタイプの見方と同じで、それを何の考えも無く踏襲しているあたり、いい加減観ていてバカバカしくなってくる。さらに、後半逆襲に転じるクリスが暴力の限りを尽くすのも、“やっぱり黒人は粗暴だ”といった底の浅い認識が全面展開しているようだ。

 監督はジョーダン・ピールなる人物だが、取り立てて才能があるようには思えない。ダニエル・カルーヤにアリソン・ウィリアムズ、ブラッドリー・ウィットフォード、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ、キャサリン・キーナーといったキャストはまったく馴染みが無く、このあたりもB級感が漂う。
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「真実の瞬間」

2017-11-12 06:44:57 | 映画の感想(さ行)

 (原題:GUILTY BY SUSPICION )90年作品。タイトルの“瞬間”は“とき”と読ませる。マッカーシズムに翻弄されたハリウッドの実態を描く野心作。監督のアーウィン・ウィンクラーはプロデューサーとして有名だが、演出家としては彼が60歳ぐらいの時に撮った本作がデビュー作である。おそらくは長年温めていた題材であるためか、かなり重量感のある仕上がりになっており、鑑賞後の満足度も高い。

 1951年、フランスからアメリカに帰国した有名監督のデイヴィッド・メリルは、歓迎パーティーの席上で女優のドロシー・ノーランが脚本家である夫のラリーを罵倒する場面に出くわす。何でも、ラリーは共産主義者を取り締まる非活動委員会に友人を売ったらしいのだ。翌日、今度はデイヴッドが大物プロデューサーのダリル・ザナックから自身がブラックリストに載っていることを告げられる。間もなくFBIの差し金により元妻や息子の立場が危うくなり、デイヴッドは撮影所には出入り禁止になる。

 彼はB級映画の仕事さえ無くなり、求職のためニューヨークへ行くものの、そこでもFBIは妨害してくる。そして委員会の呼び出しを受けた友人のバニーに頼まれて“名前を売る”ことを承知するが、デイヴィッド自身も審問会で喚問される日が来た。彼は欺瞞に満ちた委員会に対して、敢然と立ち向かう。

 マッカーシズムの失態を細かく踏み込んで描写しており、その不条理は息苦しくなるほどリアルだ。主人公はいわゆる“ハリウッド・テン”の面々のようなタフな男としては扱われない。名の売れた監督とはいえ、理不尽な境遇に振り回されるだけの一般人だ。

 しかし、それなりの矜持はある。審問会をうまく切り抜けるには、密告者・内通者になる必要があるが、誰も反米的な活動を行っていないのに他人をスケープゴートに仕立て上げるわけにいかないのだ。

 ウィンクラーの演出はパワフルで、不穏な空気感を伴う前半から、畳み掛けるような後半の展開に繋げる手腕は確かだ。ラストはこの映画の題材から勘案すると、御都合主義的に過ぎるとの指摘もあるだろう。でも、作者の良心を確認するという意味で、大きな瑕疵にはなっていないと思う。

 主演のロバート・デ・ニーロをはじめ、アネット・ベニング、ベン・ピアザ、クリス・クーパー、そしてマーティン・スコセッシと、皆的確な仕事をこなしている。ミハエル・バルハウの撮影とジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽も良い。それにしても、昨今の情勢を見ればマッカーシズムのようなヒステリー現象を“過去の滑稽な出来事”として片付けることは出来ないというのは、何とも釈然としない気分だ。
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