元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「舞妓はレディ」

2014-10-31 06:25:27 | 映画の感想(ま行)
 今年(2014年)観た日本映画の中では一番くだらない。何のために撮ったのか、少なくとも観客サイドではさっぱり分からない映画で、存在価値は皆無と言って良い。こんな低級なシロモノを漫然と提示しているあたり、周防正行監督は“終わった”と見られても仕方がないだろう。

 京都の小さなお茶屋・万寿楽には、舞妓は年かさの百春一人しかおらず、存亡の危機に瀕していた。そこにある日、どうしても舞妓になりたいという少女・春子が押しかけてくる。万寿楽の支配人である千春は最初は断るが、常連客の語学学者の京野は鹿児島弁と津軽弁とがミックスされた独特の言葉をしゃべる春子に興味を示し、彼女を“研究対象”にすることで万寿楽に置いてもらえるように交渉する。こうして万寿楽に住み込みで働くことになった春子は花街の風習に慣れずに苦労するが、実は彼女には、万寿楽にも関係する出生の秘密があったのだ。

 一応はミュージカル映画なので、緻密なストーリー展開なんかは期待しないが、この映画の筋書きは論外だ。そもそも、ヒロインがどうして舞妓になりたいと思ったのか、そのあたりが全然描かれていない。物語の根幹がスッ飛ばされたままいくら話を進めても、絵空事にしかならないのだ。

 しかも、どう見たって“主人公が苦労を重ねた末に成長する”という構成にしなければ成り立たないような作品の体裁でありながら、春子は大した苦労も血の滲むような努力もせずに、何となくスキルを積んで御座敷に上がることができるという、つまらない段取りが用意されるのみである。こんな状態で、人間ドラマなんか描けるはずがない。

 春子と京野との恋愛沙汰や、京野の助手である学生の屈託や、千春ら万寿楽の面々のプロフィールなど、作劇上で重要だと思われるモチーフも全くクローズアップされない(ただセリフで漫然と説明されるのみ)。京野以外の客や万寿楽取り巻く連中の扱いも、手抜き以外の何物でもない。

 そして肝心のミュージカル場面だが、これがもう救いようがないほどヒドい。楽曲の出来は凄まじく悪く、振り付けがそれに輪をかけて低レベル(幼稚園のお遊戯以下だ)。それに、照明やカメラワークの杜撰さを見ても、作者がミュージカルに対して何の思い入れも無いか、あるいはトンでもなく音楽センスが欠落しているのか、そのいずれかとしか思えない体たらくだ。

 舞台セットも最低。加えて、草刈民代の怪しげな京都弁や長谷川博己のウサン臭い鹿児島弁が横溢するにおよび、ひょっとしたら監督自身が題材に対し、最初から全く興味を持っていなかったのではないかという危惧すら抱いてしまった。

 主演の新人・上白石萌音も魅力なし。この監督は新しい俳優を発掘してくる能力がゼロに等しいことが分かる。とにかく、これほど徹頭徹尾アタマの悪い映画は珍しいだろう。“観る価値なし”どころか“観てはいけない映画”の代表だ。本年度のワーストワンはこの映画に決定である。
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ハイレゾ音源はオーディオ復活の起爆剤になるか?

2014-10-30 06:29:43 | プア・オーディオへの招待

 最近、オーディオ関連の雑誌やサイトにおいて頻繁に取り上げられる用語に“ハイレゾ音源”がある。前にも書いたが、このハイレゾ(ハイレゾリューション)音源というのは、従来型CDを上回る定格を持つ音楽用ソフトのことで、インターネットからダウンロードすることによって入手出来る。

 このハイレゾ音源がオーディオファン以外にも少しばかり知られるようになったのは、今年(2014年)9月に業績不振に悩むSONYが復活の切り札として大々的に取り上げてからだろう。同社はハイレゾ音源を“救世主”と位置付け、それに合わせた機器も順次投入していくらしい。また久々にTechnicsブランドで新製品をリリースする予定のPanasonicも、ハイレゾ音源の将来性を重視しているという話だ。

 ここでは、ハイレゾ音源が従来型CDに比べてどの程度高音質であるのかに関してはあえて言及せず、ハイレゾ音源がSONY及びオーディオ業界全体の復活に貢献する目玉商品に成り得るのかどうかについて考えてみる。

 結論から先に言えば、ハイレゾ音源はオーディオ復活の起爆剤にはならない。その理由は簡単だ。ハイレゾ音源に関するマーケティングが“古臭い”からである。

 オーディオの歴史を振り返ってみても分かるように、高品質のソフトが広範囲に普及するとは限らない。オープンリールデッキ用のソフトは一部の好事家が使用したに過ぎなかったし、DAT(デジタル・オーディオ・テープ)やエルカセットなどはミュージックテープの製造さえほとんど行われなかった。

 いくらモノ自体のクォリティが高くても、市場にそれを受け入れる余地が無ければ売れないのだ。そんな当たり前のことを、SONYをはじめとする各メーカーは分かっていないらしい。ハイレゾ音源に関して言えば、高音質を必要とする層どころか、現在は高音質のオーディオシステムに接した経験も無い者が世の中の大半を占めているのだ。そんな中で“音が良いですよ”という決まり文句だけで普及すると思っている、その感覚が古い。

 この景気低迷期に新しいアイテムを(業界全体まで立て直そうかというスローガンの元に)大々的に売り出すには、市場自体の底上げから着手しなければならない。だが、今はどう見ても、オーディオの市場は小さい。その小さいマーケットの中でいくら新規格をブチ上げようとも、成功は見込めない。送り手の独善に終わるのが関の山だ。

 そもそも、ハイレゾ音源の絶対数は話にならないほど小さい。アルバムタイトルで言えば、1万枚にも満たないのではないか。斯様にソフトの選択肢の少ないメディアを、一般ピープルが支持するはずがない。ちなみに従来型CDは約60万種類が市場に出回っているという。

 SONYが本気でハイレゾ音源に社運を賭けているのならば、少なくともまずは自分のところで発売している音楽ソフトをすべてハイレゾ音源としてネット上に乗せるべきだろう。さらには価格をグッと抑えて当初は採算性を度外視してでも普及を図らなければ、社会的な認知は覚束ない。今のままでは、登場してから十数年経っているにも関わらず、いまだにマニア御用達のアイテムでしかないSACDの二の舞だろう。

 要するにハイレゾ音源なんてものは、現時点ではオーディオという“斜陽化した趣味”に関わっている少数の者達を対象に、さらにその中のニッチな市場に向けての訴求力しか持ち得ないのだ。メーカー側がマーケットそのものを立ち上げるような努力をせず、漫然と“スペックが良い物を作ったから売れて当然”みたいな古色蒼然としたスタンスを取り続ける限り、絶対に普及しない。ましてやSONYみたいな大手企業が命運を託すようなものでもない。

 業界主導によるこの“ハイレゾ祭り”(?)を見て思い出すのは、80年代前半におけるCDの登場と、それに続く物量投入型コンポーネントの隆盛である。メーカーがブームを煽れば勝手にユーザーも追随するという、送り手側にとって応えられないような構図の再現を狙っているようにしか思えない。しかしながら、景気が良かったあの頃と現在とでは、状況が全然違う。新しい規格をリリースすれば需要は勝手に湧いてくるような図式は、最早期待できない。

 ハイレゾ云々を持て囃すよりも先に(このブログでは何度も言っていることだが)良い音の何たるかも知らない大部分の消費者に向けて思い切ったPRを仕掛けることが重要だ。いくら音源のクォリティが上がっても、それを鳴らすスピーカーやアンプが低レベルなものならば何もならない。とにかく、趣味のオーディオの復権のための、手っ取り早い起爆剤など存在しない。地道に市場を広げる努力なしには、この分野における現状からのブレイクスルーはあり得ないのだ。
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「パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト」

2014-10-29 06:36:08 | 映画の感想(は行)

 (原題:Paganini:The Devil's Violinist)つまらない映画だ。邦題に謳っている“狂気”も、原題にある“悪魔”も、劇中どこにも見当たらない。それらしい演じ手が、パガニーニの音楽をそれらしく奏でているだけという、安手のミュージック・ビデオ並のアピール性しか持ち得ていない。

 19世紀、イタリアで活動するヴァイオリニスト兼作曲家のニコロ・パガニーニは、超絶技巧を持ち合わせているにも関わらず人気はいまひとつ。日々不満が募るばかりだった。だがある時、彼の才能を見抜いたプロモーターのウルバーニが、マネージャー業を申し出る。多彩なマーケティングでパガニーニをブレイクさせることに成功したウルバーニは、やがてイギリス進出を目論む。ロンドンにやってきたパガニーニは、持ち前の奔放さがここでも炸裂し、スキャンダルの連続。だが、指揮者の娘のシャーロットと出会い、思いがけず恋に落ちてしまう。

 本作の目玉は、パガニーニを演じているのが高名なヴァイオリニストであるデイヴィッド・ギャレットである点だろう。確かに劇中での彼のパフォーマンスは凄い。愛用のヴァイオリンを賭けてバクチに興じたとか、弦が切れて1本になっても演奏し続けたとか、そういう逸話も違和感なく再現されている。

 しかし、あくまでも凄いのはギャレット自身であって、主に描かれるはずのパガニーニ像ではないところが、この映画の欠点だ。つまりは、キャストの存在感に全てを丸投げしていて、映画としては何も表現出来ていないのである。

 さらに困ったことに、ギャレットは演技者としては素人だ。天才音楽家としての矜持や、それと表裏一体になる苦悩など、大事な部分が全然提示されていない。もちろんシャーロットとの色恋沙汰も描写に深みが無く、取って付けたようだ。

 監督バーナード・ローズは以前「不滅の恋 ベートーヴェン」という凡作を撮って音楽ファンを大いに落胆させたものだが、本作も音楽の使い方がどうしようもなく下手で、音楽の持つパッションがまるで伝わってこない。何より、クライマックスのコンサート場面に代表されるように、楽曲が無造作にブチ切られている箇所が目立つのはいただけない。

 もうちょっと素材を大事にしたらどうなのか。「アマデウス」や「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」といった、このジャンルの傑作群と比べるのは酷ではあるが、少なくとも映画を観たらパガニーニの音楽(注:ギャレットの演奏ではなく)を無性に聴きたくなるような訴求力を発揮してくれないと困る。

 脇のキャストはクセ者ぶりを見せるヘルムート・バーガー以外、特筆できるような面子はいない。美術も映像も凡庸。とにかく天才を描くには、撮る方も天才あるいはそれに近いレベルの力量が必要だということだろう。
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「大災難P.T.A.」

2014-10-28 06:25:17 | 映画の感想(た行)

 (原題:Planes, Trains and Automobiles)87年作品。コメディの快打「フェリスはある朝突然に」に続いてジョン・ヒューズ監督が手掛けたロードムービー。変化球を駆使した「フェリス・・・」とは異なり、正攻法の喜劇に仕上げられているが、実に良く出来ていて最後まで楽しませてくれる。

 ニューヨークに出張中の広告会社の重役ニールは、感謝祭を家族と共に過ごすため、仕事を早々に切り上げて自宅のあるシカゴヘ向かう。大渋滞に巻き込まれて閉口しつつも何とか空港にたどり着くが、飛行機は大雪のために出発が遅れていた。憤懣やるかたない表情で機に乗り込んだものの、隣に座ったのはデルという傍若無人な男。それでも我慢して目的地に着くのを待つニールだが、何と飛行機は天候悪化のためにカンザス州ウイチタに緊急着陸。乗客は全員降ろされてしまう。ニールはそこからシカゴへの道を必死に探るが、行く先々でデルが付きまとい、彼のストレスは極限状態に達する。

 焦りまくるニールと、それを疫病神のごとく付け回すデルとの珍妙なやり取りが笑いを誘う。スマートな出で立ちのスティーヴ・マーティンと、でっぷりと太ったジョン・キャンディが演じるこの二人は絵に描いたような凸凹コンビで、まさにコメディの主人公としての“王道”を歩んでいるかのようだ。

 そして何より脚本が良く出来ている。事態を打開しようとニールがあらゆる手段を講じるが、そのすべてが失敗に終わり、またデルと一緒になるというパターンの繰り返しながら、その段取りが手を替え品を替え繰り出されるので飽きることは無い。

 終盤にはいつしか二人が心を通わせていくという筋書きは予想通りだが、ワザとらしい演出も余計なシークエンスも無くスムーズに見せてくれるのは、さすがヒューズ流だ。そして、デルが抱え込んでいる屈託が明らかになるラストの処理は見事で、ちょっとした感動も味合わせてくれる。

 それにしても、こういう設定が許されるのはアメリカ映画ならではだろう。狭い日本で同じような境遇に陥ったりしても、1回か2回対策を講じればスグに解決してしまって話が続かなくなる(爆)。
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