元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マン・オブ・スティール」

2013-09-16 07:04:50 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Man of Steel)実に“分かりやすい”映画で、娯楽編として良く出来ている。何よりエピソードが時系列に沿って展開していくのがよろしい。もっとも主人公クラーク・ケントの養父母に関するくだりは回想シーンに代弁させているが、以前のクリストファー・リーヴ主演のシリーズにおける、第一作で張った伏線を二作目であえて前面に出すような“小細工”に比べればどうということはない。まさに“スーパーマン/エピソード1”としての、シッカリとした骨格を持ち合わせた作品だ。

 滅亡寸前のクリプトン星から始まり、執行官ジョー=エルがどうして生まれたばかりの実子を地球に“避難”させたのか、ゾッド将軍がなぜ敵役になるのか、そして地球人に育てられたクラークがどのようにして世界の平和を守るヒーローとして自覚していくのか、それらが丹念に描かれている。

 だからこの映画は、クラークが普段はクソ真面目な新聞記者でいざという時にスーパーマンに変身するといった、お馴染みのシチュエーションは出てこない。それどころか、これは彼がデイリー・プラネット社に入るまでの話なのだ。

 したがって、本作はスーパーマンのヒーロー的な活動を追うことよりも、地球侵略に乗り出すゾッド将軍とその取り巻きと、それを阻止しようとする地球防衛組織との戦いを描く、いわば「インデペンデンス・デイ」や「世界侵略:ロサンゼルス決戦」等と似たような“宇宙からの侵略もの”としての構図を持つ映画に仕上がった。

 さらに言えば、異分子が突然アタックを仕掛けてくるという図式は、最近の例で言えば「ホワイトハウス崩壊二部作」(?)に近いかもしれない。いずれにしても、ヒーロー物に内在する矛盾点を外堀から埋めていこうという姿勢は、見上げたものだと言える。

 ザック・スナイダーの演出は今までで一番キレがある。スピード感溢れるバトルシーンはやや一本調子ながら、畳みかけるようなショットの積み重ねで飽きさせない。主演のヘンリー・カヴィルは史上初めての“非・アメリカ人のスーパーマン役者”だが、堂々とした体躯と辛口のマスク、しなやかな身のこなしで違和感はない。

 ロイス・レイン役のエイミー・アダムスをはじめ、ラッセル・クロウ、ローレンス・フィッシュバーン、マイケル・シャノンといった他の多彩なキャストも良い仕事をしている。特に養父母を演じるケヴィン・コスナーとダイアン・レインは儲け役だ。たぶん続編は作られるだろうし、そもそもパート2以降が無ければ存在価値がないような映画だ。本作で地球上での確固としたポジションをキープしたスーパーマンは、これからフリーハンドで(レックス・ルーサーをはじめとする)幾多の悪役と渡り合っていくことだろう。

 なお、音楽担当はハンス・ジマーで、前シリーズでのジョン・ウィリアムズによるあの有名なテーマ曲は使われていない。しかしザック・スナイダーは出来ればあのテーマを使いたいと語っているらしく、次の作品では起用されるかもしれない。そのあたりも期待したいものだ。
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SPECの新作アンプを試聴した。

2013-09-15 06:48:02 | プア・オーディオへの招待
 SPEC社の新しいプリメインアンプ、RSA-888を試聴することが出来た。SPECは2010年に発足した国産ニューカマー。PIONEERに在籍していたエンジニアが独立して作り上げたメーカーだ。過去に何回かそのモデルに接したことがあり、いずれも良い印象を受けている。このRSA-888は同社の中では最廉価の製品だ。とはいっても定価は約30万円で、一般世間的な認識からすれば決して安くはない。だが、それでもマニア御用達メーカーと思われがちな同社が、このような価格帯の製品を出してくれたことは有り難いと思う。

 試聴に使われたCDプレーヤーはACCUPHASEDP-550、スピーカーがフィンランドのPENAUDIO社のSARA Sと、イタリアのFRANCO SERBLINAccordoである。SARA Sは今回初めて聴くが、以前共通のユニットを使用した同モデルの下位製品であるCENYAには接したことがあり、音の傾向はだいたい見当が付いている。Accordoは過去に何度も聴いており、そのたびにその美音に感心したものだ。



 さて、実際に聴いてみた。さほど高能率とも言えない両スピーカーを音圧の不足をまったく感じさせずに駆動している。欧米製のアンプで鳴らした時のような色艶やコクこそ抑えめだが、その代わりにスッキリと伸びたレンジ感と、特定帯域での強調感もないバランスの良さ、そして十分に及第点に達しているような解像度と情報量が確保されている。

 ただし、残念ながら他社の同価格帯のアンプと聴き比べることは出来ず、本機がこのセグメントでどういう位置を占めるのか分からなかった。機会があれば改めて聴き直してみたい。

 なお、このRSA-888には外見上、大きな特徴がある。それは横幅が35cmしかないコンパクト・サイズである点だ。私はかねてより単品のオーディオ・コンポーネントの無意味なデカさに疑問を持っていた。スピーカーこそ小振りのものが数多く出回るようになってきたが、アンプ類は十年一日のごとく重厚長大なフルサイズが幅を利かせている。



 昔ながらのマニア連中は“大きいことは良いことだ”という古臭い価値観に固執しているのかもしれないが、世の中のトレンドはとっくの昔に軽薄短小省エネに振られている。その意味でこのRSA-888のエクステリアは、注目に値すると思う。

 さらに面白いのは、このアンプにはいわゆる“足”が付いていないことだ。筐体を支えるための、通常は底板の四隅に配置されているゴム製(あるいは金属製)の部品が、本機には存在しない。ならば何でボディを支えるのかというと、木製のサイドパネルなのだ。このパネルは左右の前方が下に盛り上がっていて、その2点と後方のインシュレーター(これも木製)1点の計3点で接地する。

 今までも3点接地のアンプ類はあったが、底板の中央近くに接地スパイクが配備されているため、安定性に欠けている例が散見されていた。対してRSA-888は、底面をしっかりと隅とサイドでホールドするため、堅牢度は抜群である。アンプ作りの新たな方法論として注目されよう。
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「風立ちぬ」

2013-09-14 06:48:36 | 映画の感想(か行)

 宮崎駿はすでに“終わった”作家であり本作も期待出来なかったが、興行上は夏番組の本命で、また何かとニュースにも取り上げられている映画なので一応はチェックしておこうと思った次第。結果、やっぱりツマラナイ作品であることが分かったが、最初から覚悟していたのであまり腹は立たない(笑)。

 本作の一番の敗因は、キャラクター設定が物凄くいい加減であることだ。主人公の堀越二郎は、零戦の設計者である堀越二郎と小説家の堀辰雄とを勝手に“合体ロボ”させた人物。最初から頭の中だけで考え出したような造形なので、まるで地に足がついていない。

 主人公が無類の飛行機マニアであることは分かる。そして世界一の飛行機を作りたいと熱望していることも分かる。だが、彼が作ろうとしているのは戦争の道具なのだ。しかも、零戦は“防弾装備が必要とされるのは搭乗員のスキルが低いからだ。我が海軍のパイロットには練度の低い者はいない”という人命軽視も甚だしいコンセプトにより、ディフェンス面を疎かにして作られたモデルだった。

 これではベテランの飛行機乗りが数少なくなり、なおかつ敵戦闘機の性能が上がってしまえばたちまち不利になることを意味しており、事実戦争末期にはそれが現実化したのであるが、それに対する言及は全くない。映画では単に“堀越二郎は純粋無垢な飛行機好きだった”という御題目が漫然と垂れ流されるのみ。

 もちろん、一つのことにしか興味を持たず、自分の作る物によって世の中がどうなろうと知ったことではないという、筋金入りのオタク野郎を主人公にするという方法論は十分あり得る。それを突き詰めれば、面白い映画になったかもしれない。ところがこの堀越二郎という奴は、オタクのくせに中途半端に色恋沙汰にうつつを抜かし、中途半端にヒューマニスティックな振る舞いをし、中途半端に職場の和を大切にする、何とも煮え切らない存在なのだ。

 そして、彼から中途半端に“非・オタク的”な対応をされる周囲の連中も、同じように中身のないキャラクターばかりである。つまりはこの映画、中身がカラッポの登場人物達が要領を得ない行動を延々と繰り返すだけの、内容空疎の極みのようなシロモノなのだ。

 加えて二郎の声を担当しているのが庵野秀明というド素人。ヘタウマの線を狙ったのかもしれないが、ちょっと酷すぎる。ヒロイン役をアテる瀧本美織にしても映画のキャラクターになりきっておらず、何をやっても瀧本自身にしか見えないのは辛い。映像面では関東大震災の場面こそ見応えがあるが、あとは凡庸な展開に終始。宮崎得意の飛行シーンにしても、過去の諸作と比べようもないほど低レベルだ。

 そもそも名うての反戦主義者である宮崎にとって、零戦が戦場で活躍する場面を描けないのは自明の理であり、どうしてこのようなネタにしがみついたのか、理解に苦しむ。

 さて、先日宮崎駿は“引退宣言”をしたが、何を今さらという感じだ。製作から完全に手を引くのならば、20年前にやって欲しかった。まあ、あと数年経てば今回の引退を忘れたかのように、いけしゃあしゃあと映画作りに復帰してくるのかもしれないけどね(-_-;)。
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最近購入したCD(その27)。

2013-09-13 06:21:24 | 音楽ネタ
 近頃よく聴いているのが、イギリスの若手女性シンガー・ソング・ライター、ガブリエル・アプリンのデビュー・アルバム「イングリッシュ・レイン」である。アプリンは92年生まれという若さで、容姿はアイドル歌手並みに可愛い(笑)。しかし、シングルカット曲が全英第一位を獲得したように、評価されているのはルックスではなく楽曲の内容の方である。

 向こう受けを狙ったような派手な曲調は見当たらず、クセのない声で基本的にオーソドックスでアコースティックな路線をキープしているが、サラリと聴き流せるほど“軽い”タッチではない。ブルース・スプリングスティーンやケイティ・ペリー等のアメリカのシンガーの曲を聴いて育ったらしいが、出来た曲はどれも陰影が濃く、深みがある。まさに英国のサウンドだ。



 フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのナンバーをカバーした「パワー・オブ・ラヴ」も素晴らしい出来だが、オリジナル曲の質的水準はすべて高いポジションを維持しており、捨て曲がない。清涼な中にもインディ系ロックのパワフルさを感じることもあって、アルバム通して聴いても弛緩したところは見当たらない。女性ヴォーカル好きには買って損のないディスクだと思う。

 2001年にシカゴの郊外ウィルメットで結成された4人組、フォール・アウト・ボーイの5枚目のアルバム「セイヴ・ロックンロール FOBのロックンロール宣言!」は、ポップ・パンクの快打である。



 セールス面では成功したバンドだが、今まで個人的には好きなタイプのサウンドではなかった。曲想にスカスカしたところがあり、これを独特の味として楽しめるファンも大勢いることは分かるが、私にはどうにも受け付けないスタイルであった。ところがこの新譜では、曲の作りがかなりタイトになっており、メロディ展開もポップで幅広い層にアピール出来る仕上がりになっている。

 エルトン・ジョンとの共演曲や、ケレン味たっぷりのアレンジが施してあるナンバーもあり、ヴァラエティがあって飽きさせない。このグループはここ数年活動を休止していたのだが、それが良い意味での“充電期間”になったようで、一皮剥けたような勢いを感じさせる。全米一位になったのも納得だ。しかし、録音はかなり悪い(昨今のJ-POPのディスクと変わらない低音質だ)。そのあたりが改善されていたら、満点の出来である。

 2007年に、惜しまれつつ約30年間の演奏活動に終止符を打ったドイツの古楽器アンサンブル、ムジカ・アンティクヮ・ケルンが77年に独アルヒーフ・レーベルで吹き込んだ「ナポリのブロックフレーテ協奏曲集」は長らくカタログから消えていたが、最近復刻盤がリリースされたので買い求めた。



 題名通り17紀から18世紀にかけてのナポリ出身の作曲家によるナンバーを集めたものだが、馴染みのない曲ばかりながら颯爽とした演奏でなかなかに聴かせてくれる。もちろん、ムジカ・アンティクヮ・ケルンのパフォーマンス能力がハイレベルであり、無名のナンバーでも鑑賞に耐えうるような次元に引き上げていることも大きいと思う。

 特筆すべきは録音だ。ブロックフレーテとは縦笛(リコーダー)のことだが、ソロ楽器がオン気味で捉えられており、同時にバックの演奏との距離感は的確に表現されている。音像は鮮明かつ温度感があり、聴き疲れしない。往年の名オーディオ評論家・長岡鉄男の著書「外盤A級セレクション」の中でも紹介された優秀録音である。タワーレコード・ヴィンテージ・コレクションの一枚として千円で買えるのも有り難い。バロック音楽ファンならば要チェックのCDである。
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「エンド・オブ・ウォッチ」

2013-09-12 07:21:17 | 映画の感想(あ行)

 (原題:End of Watch)アメリカ犯罪事情の現状報告という意味では、とても価値のある作品だ。この映画は純然たるフィクションではなく、実際に起きたいくつかの事件を元に物語が構成されている。アメリカにおける犯罪件数は一頃よりも減ったとも言われているが、本作を観る限りそうは思えない。

 全米屈指の犯罪多発地区であるロスアンジェルスのサウス・セントラル地区で勤務する二人の警官が主人公だ。白人のテイラーとメキシコ系のザヴァラは、人種は違うが強い絆で結ばれた相棒同士だ。彼らは積極果敢な捜査により数々の手柄を立て、時には燃え上がる家の中から子供を救出するなど、警察官の職務を超えた活躍により表彰状までもらっている。

 ある日、警察に“年老いた母親と連絡が付かないので、様子を見てきて欲しい”という要望があり、パトロール中の二人にその役割が振られる。ところが現場に赴いてみると、複数の死体と麻薬がぎっしり詰まった段ボールの山を発見。大掛かりな組織犯罪が明るみに出ることになる。これに対し麻薬を押収され怒り心頭のメキシコ系マフィアは、地元のギャングにテイラーとザヴァラの抹殺を指令。ロスの下町に血で血を洗うバトルが勃発する。

 映画は主人公の自画撮り映像を中心に展開する。これはテイラーがユーチューバー(動画サイト投稿マニア)という設定によるのだが、これが臨場感を高めている。通常、こういう“似非ドキュメンタリー”を狙った作品はキワモノが多いのだが、この映画は題材のリアリティと作者の正攻法のアプローチにより、安っぽさは微塵もない。

 面白いのは、主人公の二人はいわゆる悪徳警官ではなく、それどころか彼らの同僚も上司も揃ってマトモな人間であり、自分達からトラブルを呼び込むタイプではないことだ。

 アメリカの警察官イコール(程度の差はあれ)悪に手を染めている連中という、犯罪ドラマに付き物のフィクショナルな構図は皆無。考えてみれば、最初からよからぬことを考えて警察に入る者がいるとは思えない。本作に描かれた警官の日常こそが現実を再現しているのだ。ギャングどもは相手が警官だろうと何だろうと平気で銃を向けてくる。

 警察官はまさに危険と隣り合わせの日々を送っているのだが、それと対比して二人のオフタイムは屈託のないものだ。テイラーは結婚間近、ザヴァラは大家族に囲まれて幸せそうである。だからこそ、警官はこういった市民の日常を守るために職務に邁進出来るのだ。

 デイヴィッド・エアーの演出はキレ味が鋭く、実際にサウスセントラルでロケしたという事実も相まって、かなりの求心力を発揮。主演のジェイク・ギレンホールとマイケル・ペーニャの役作りは本格的なもので、実際にいそうなキャラクターをうまく表現している。テイラーの恋人に扮するアナ・ケンドリック(意外と巨乳 ^^;)も実に魅力的だ。現実感溢れるポリス・ストーリーとして、一見の価値はある。
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「ワンス・アンド・フォーエバー」

2013-09-11 06:10:37 | 映画の感想(わ行)

 (原題:We Were Soldiers)2002年作品。ベトナム戦争でアメリカ軍が多大な犠牲を出した戦いを描くランダル・ウォレス監督作だが、何とも八方美人的な作りでテーマが絞り込めていない印象を持った。

 65年、米陸軍のハロルド・G・ムーア中佐率いる総勢約400名の部隊は、南ベトナム中央高地にある通称“死の谷”と呼ばれるベトコンの拠点に辿り着く。しかしそこには北ベトナム兵約2千人が待ち構えており、たちまち包囲されて苦戦を強いられる。戦闘は苛烈を極め、たまたま居合わせた特派員までも銃を持って戦うハメに。やがて現地の無差部爆撃によって終焉を迎えるも、ムーア中佐は最後まで奮戦する。

 アメリカ製戦争映画にしては珍しく敵軍の事情などを大々的に織り込んではいるものの、通り一遍の描写であまり観客に迫ってこない。相手軍の言い分を聞くよりも、対象を米軍の最前線に限定し、切迫した戦場の真実をミクロ的に活写すべきではなかったか。

 また、この映画では戦場のシーンより兵士の家族の不安に力点が置かれているが、それを強調するなら最初から戦闘場面を必要最小限に抑えるべきだった。

 しかし、それでも死亡告知を家族が受け取ってゆくシークエンスにはぐっとくる。当局側の段取り不足からか、告知は普通のタクシー運転手が届けてゆくことになってしまう。この何とも配慮の足りない行為に戦争の無常さを象徴させたかったのかもしれない。

 主演のメル・ギブソンは熱演だが、従来のパターンを逸脱するものではない。グレッグ・キニアやサム・エリオットらの脇の面子もイマイチ印象に残らない。そして何より、ロケ地が全然ベトナムらしくない(熱帯ジャングルではない)のが大いに気になった。
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「ホワイトハウス・ダウン」

2013-09-10 06:11:44 | 映画の感想(は行)

 (原題:White House Down)ひょっとすると、ローランド・エメリッヒ監督作では一番出来が良いかもしれない(笑)。もっとも他の作品がいずれも大味でスカスカであるため、一般世間的な比較基準としては低レベルなのだが、それでも彼の過去の諸作よりは観賞に耐えうる出来になっている。少なくとも、本作を観た後に仲間内で“ツッコミ大会”が開催されるような雰囲気ではない(爆)。

 警察官のジョンはホワイトハウスで行われたシークレットサービスの採用試験に臨んだものの、過去の素行が問題になり不合格となってしまう。失意の彼は、気晴らしも兼ねて小学生の娘とホワイトハウスの見学ツアーに参加。だが、そこに謎の武装集団が乱入し、ホワイトハウスは占拠されてしまう。運良く悪者達の監視から逃れたジョンは、官邸内で孤立した大統領と共に徒手空拳で立ち向かう。

 一番の勝因は、主人公達の活躍の舞台をホワイトハウス内に限定していること。過去のエメリッヒ作品は「デイ・アフター・トゥモロー」といい「2012」といい、ワールドワイドな設定で大風呂敷を広げようとして失敗する例が目立っていたが、本作のように狭い世界に押し込んでしまえば、いわば“薄いスープも煮詰まれば濃くなる”という案配でアラが目立たない。

 言うまでもなくこれは「ダイ・ハード」の路線を狙っているが、あの映画ほどの緻密な脚本は用意されてはいない。たとえば犯人グループのハッカーが理由も無く勝手に“自爆”してしまう等の不手際も目立つ。しかし、似たようなネタの「エンド・オブ・ホワイトハウス」みたいな行き当たりばったりの展開は、比較的抑えられていると言える。

 主人公は何度も絶体絶命のピンチに陥るが、行動する前にちゃんと自分の頭で考えている(ように見える)。スティーヴン・セガールのエピゴーネンみたいな「エンド・オブ・ホワイトハウス」の脳天気な元シークレットサービスの“(無意味な)活躍”を延々と見せられることもない。

 また敵役の設定も、過去の戦争で当局側から見捨てられたり身内を失ったりして政府を憎んでいる者達というのは悪くない。映画の前半だけ観れば事件の黒幕は(お馴染みの)軍産複合体であることは誰でも分かるのだが、いたずらに奇を衒った設定よりも“ありがちな御膳立て”を選択したというのは冷静な判断だ。小ネタとしてYouTubeが活用されているのは面白く、主人公の娘が“ブログなんて死語だね”などと言うのも苦笑させられる。

 主役のチャニング・テイタム、大統領に扮したジェイミー・フォックス、共に好調。有能なキャリアウーマンを演じるマギー・ギレンホールも的確な仕事ぶりだ。それにしても、ホワイトハウスがぶっ壊される映画が2本続けて公開されるというのは、(過去にもあったように)似たような天変地異映画が同じ時期に公開されるという事例よりも珍しい。ハリウッド人種達はワシントンに対して何か思うところでもあるのだろうか(笑)。
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「わが心のボルチモア」

2013-09-09 06:12:15 | 映画の感想(わ行)
 (原題:Avalon)90年作品。バリー・レビンソン監督の最良作だ。まずオープニングが素晴らしい。夜空を飾る花火、鮮やかなネオン、はためく星条旗に包まれた独立記念日のボルチモアの夜。賑わう街の中を、東欧からこの地に移住してきた若き日のサム・クリチンスキー(アーミン・ミューラー=スタール)がゆっくりと歩いて行く。そこに彼が劇中で何度もつぶやく“1914年、私はアメリカへ渡った。そこは見たこともないような美しい街だった”というセリフが重なる。

 歳月は流れ、サムの息子であるセールスマンのジュールスとその子供のマイケルが登場する。ボルチモア出身者でもあるレビンソンからすれば、マイケル少年のキャラクターが彼の分身なのだろう。

 時代を表現する小道具としてテレビが実にうまく用いられている。1940年代にはじめてクリチンスキー家にテレビが入り、家族全員がテストパターンも番組だと思い込み、真剣に見入りながら、“これじゃラジオの方が面白いよ”と言い合う場面には笑ってしまった。



 テレビの登場以来、クリチンスキー家の生活に徐々に変化が現れてくる。テレビに夢中になることで、家族同士の会話が減少してしまうのだ。それが遠因になって、以前より仲の悪かった嫁と姑の関係がさらに悪化しジュールス家の両親と息子夫妻は別居することになる。

 しかし、クリチンスキー家に入り込んだテレビは、弊害ばかりをもたらしたわけではない。収容所から奇跡の生還をはたしたマイケル少年の従妹のエルカは、英語が全然理解できなかったが、マイケル少年とともに子供向け番組を見るうちに、ナレーションとセリフを通して自然に英語がしゃべれるようになる。

 さらに、テレビを中心に家電のサービスに乗り出したジュールスは、当時としては珍しいテレビ放送によるコマーシャル・フィルムという“先鋭的”なマーケティングを展開する。その後、ジュールスが選んだ第二の人生は、テレビのCMをメインにした新しいタイプの広告代理業だったのである。

 ジュールスが経営するデパートが開店初日に全焼してしまい、マイケル少年は当日、従弟と地下室で火遊びをしたことが原因ではないかと思い、悩みに悩んだあげく、父親に正直に打ち明けると、実は漏電が原因で火遊びのせいではないことがわかる。叱られると思ったマイケル少年は逆に父親からその正直さを認められる。心暖まるエピソードだが、全然説教臭くなく、素直に感動できる。

 その他たくさんの出来事が描かれるが、どのエピソードもアメリカという異境で自らのアイデンティティを失わず、なおかつアメリカの市民としての地位を得た一族を通して、ひとつの壮大な“アメリカ現代史”を構築しようという作者の意気込みが伝わってくる。

 “こんなに何もかも変わってしまうなら、もっとしっかり記憶に刻みつけておけばよかった”と当時を回想する年老いたサムが見ているテレビには、現在のボルチモアの独立記念日の街の模様の中継が映っている。それはいつしか、あの美しい1914年の7月4日の夜の光景へとオーヴァーラップしていく。そんな見事なシーンで終わるこの作品。公開当時はさほど話題にもならず、アカデミー作品賞の候補にもなれなかったが、よく知られた映画であるレビンソンの前作「レインマン」よりも、こっちの方が断然好きである。
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「パシフィック・リム」

2013-09-08 07:19:48 | 映画の感想(は行)

 (原題:Pacific Rim )観ている間、とても楽しかった。さすが幼い頃から日本製のロボットアニメや特撮怪獣映画に親しんでいたというギレルモ・デル・トロ監督、凡百のハリウッド製巨大モンスター映画とは一線を画する存在感を発揮させている。

 太平洋の海溝から突如として巨大怪獣が現れ、環太平洋地域(パシフィック・リム)の都市群に多大な損害を与える。各国は二足歩行の戦闘用ロボット“イェーガー”を開発して対抗。勝利を収めるが、怪獣は次々と出現し、しかも次第にパワーアップしてくる。イェーガーだけでは対処出来なくなったと考える諸国は、巨大な防壁の建設に着手しようとする。

 そんな中、かつて戦闘中にパートナーを失ったイェーガーの操縦士ローリーは、新しい相棒として日本人女性のマコを紹介される。しかし二人の息はなかなか合わず、イェーガーのパイロットとして出動する許可が下りない。一方で、強力な怪獣が建設中の防壁を破壊して都市に侵入してくる事態が発生し、防衛の主力として再びイェーガーが脚光を浴びる。果たしてローリーとマコは新型イェーガーを操って参戦することが出来るのか。

 まず、怪獣がいかにも“それらしい”造型であるのが嬉しい。もちろんコアな国産特撮映画マニアには物足りなく映るだろうが、怪獣という概念が確立されておらずクリーチャー・デザインが“単なる巨大○○”のルーティンから抜け出せない従来のハリウッド作品と比べれば、格段の“進歩”であろう。

 そしてイェーガーが乗り物操縦になっており、しかも搭乗者の身体動作をトレースし動作するという構造になっているのは、欧米の映画としては“画期的”だと言える。これはまるで「勇者ライディーン」や「ジャンボーグA」ではないか(笑)。さらにはイェーガーは“二人乗り”であり、両者が脳波レベルでシンクロして初めて動くという設定は秀逸。それにより、搭乗者の過去の記憶が蘇るくだりに無理がなくなった。だから回想シーンにも不自然さは見当たらない。

 演出テンポは快調で、戦闘シーンは迫力満点だ。敵がどうして宇宙空間ではなく深海から現れるのかという説明も怠らず、どうやれば相手を駆逐出来るのか、その方法も理にかなっている。

 悪徳商人を演じるロン・パールマンを除けば、ローリー役のチャーリー・ハナムや環太平洋防衛軍の司令官に扮するイドリス・エルバなど馴染みの無いキャストが多い。これはSFXに製作費がかけられて俳優のギャラに回らなかったとも考えられるが(爆)、それぞれ悪くない演技をしているので不満はない。

 マコ役は菊地凛子だが、珍しく“可愛く”撮られており、少なくとも“欧米人が抱くステレオタイプの日本人女性のイメージ”とは異なる、見ようによっては“萌え系”のテイストも感じられ、やっぱりこの監督は分かっていると思わせる。そしてマコの子供時代を演じた芦田愛菜は、「宇宙戦争」でのダコタ・ファニングに匹敵するほどの絶叫演技で大きなインパクトを与える。たぶんこれを機会に海外での仕事も増えるのではないだろうか。
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「モンキー・キッド」

2013-09-07 06:35:39 | 映画の感想(ま行)
 (英題:The Monky Kid )95年作品。1959年生まれの王小燕(ワン・シャオイェン)監督の少女時代をモチーフにし、70年ごろの文化大革命に揺れる北京の下町を舞台に、困難な時代を生きた人々の生活を子供の視点から描く。なお、本作は日本で一般封切りされておらず、私は第8回の東京国際映画祭で観ている。

 陳凱歌や張藝謀ら“中国第五世代”の映像作家のように文革の理不尽さをリアリズムで描破するのではなく、子供時代のノスタルジアをメインに押し出し、ユーモラスな味付けで綴っているのが気持ち良い。何より子供の描写が出色で、まったくの自然体。日本の子役がやるようなクサい小芝居は皆無。

 紹介されるエピソードも笑えるものが多く、「おもひでぽろぽろ」や「ちびまる子ちゃん」の路線に近い。インテリである母親や労働奉仕で農村に駆り出される父親の苦悩、知識階級と労働者層の確執などシビアーな素材も描かれてはいるのだが、徹底的に子供側からカメラを回しているので深刻さは希薄だ。

 ただ、観終わって物足りなさを感じることも確かで、これはあくまでも自然な子供の描写がそれ自体で完結してしまい、イラン映画のようにプラスアルファのスペクタクル性(?)といったものが無いからである。“よくできた子供たちのスケッチ”という次元に留まっているのがもどかしい。もっとドラマティックな展開を用意することも出来たと思うのだが・・・・。

 主に若手監督作品を対象とした東京国際映画祭のヤングシネマ・コンペティション部門に出品された作品だが、どちらかというと小規模な映画祭の児童映画コーナーあたりがふさわしい映画だと思った。
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