元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「シティ・スリッカーズ」

2011-02-19 06:51:14 | 映画の感想(さ行)

 (原題:City Slickers )91年作品。実に楽しい映画だ。封切り当時のアメリカでの夏興行では「ロビン・フッド」(ケヴィン・コスナー版)や「ターミネーター2」と並んで大ヒットした。しかも有名スターが出演せず、シリーズ物でもない。内容の面白さだけで大量の観客を動員したという注目作である。

 主人公ミッチ(ビリー・クリスタル)は39歳。ニューヨークのラジオ局で営業をやっているが、最近人生にむなしさを感じていて、後退した額を見るたびに“オレの人生、これでいいのだろうか”と悩む毎日だ。そんな彼が同世代の親友2人(ダニエル・スターン、ブルーノ・カービー)にニューメキシコでの“カウボーイ体験ツアー”に誘われる。2週間かけて牛の群れをコロラドまで移動させるというちょっとした冒険旅行だ。しかし、単なる骨休めのはずが、思わぬハプニングの続出で大変なアドベンチャーになる。

 都会のシニカルな生き方が身に付いてしまった3人の中年男性が、古き良きアメリカ西部の雰囲気と厳しい大自然に接することによって自分を見つめ直し、人生の再出発をはかる。描きようによってはシリアスになりそうな題材を「トレマーズ」(90年)に続いての第二作目となるロン・アンダーウッド監督は徹底的にユーモラスに、楽天的にみせきってしまう。

 冒頭タイトルの愉快なアニメーションから始まって、「ダンス・ウイズ・ウルブズ」のバッファローの爆走の向こうをはるような牛の暴走シーン。子牛を助けるために3人が濁流に飛び込む場面のスペクタクル、さらに3人を助ける老カウボーイ役に「シェーン」(53年)の悪役だったジャック・パランスを登場させるというサービスぶりで、アメリカ映画好き、特に西部劇ファンにとってはこたえられない作品だろう。

 私はこの映画を92年の東京国際映画祭で観ている。その時に舞台挨拶に出てきたアンダーウッド監督は小柄ながら映画の雰囲気そっくりのネアカな人物で、“もしこの映画を気に入ってくれたら、上映後に「イーハー!」(劇中で主人公たちが出発するときに叫ぶかけ声)と叫んでネ”などと言っていた。実際そう叫ぶ人はいなかったが、終映後の大きな拍手はこの作品の成功を十分物語っていたと思う。
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「ザ・タウン」

2011-02-18 06:32:19 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE TOWN)見所の多いクライム・アクションである。特に舞台の地域性に着目したあたりがポイントが高い。ハーバードなどの有名大学が軒を連ねるボストンは垢抜けた学園都市だと思われているが、その北東部に位置するチャールズタウンは、アメリカ有数の犯罪多発地帯だ。金融機関が多いこの地区は、銀行強盗の発生件数が全米一でもある。しかも血の気が多いアイルランド系の居住区でもあるチャールズタウンは、マフィアが街の顔役であり、強盗がファミリー・ビジネスになっている者も少なくないという。

 主人公ダグは強盗団のリーダーであり、父親もまた終身刑で服役中という、まさに“犯罪者のサラブレッド”だ。その手口は鮮やかで、誰も殺傷せずに証拠は一切残さず、次々と銀行や現金輸送車を襲う。

 ところがある日、押し入った銀行で思わぬ窮地に立たされた彼は、女支店長のクレアを人質に取って逃走するハメになる。彼女はその道中で解放されるものの、クレアが近所に住んでいることを知った彼は、警察に密告しないように監視することにするが、次第に彼女に惹かれてゆく。

 まさに“血は水よりも濃い”というフレーズ通り、生まれた時から犯罪者になることを運命付けられた者の苦悩がヴィヴィッドに描かれていて圧巻だ。アメリカは自由の国だというのは建前に過ぎず、因習や経済的理由によって街から一歩も出られない者も数多くいるのである。

 監督も兼ねる主役のベン・アフレックは、何とか環境を打破したいが父親をはじめとする“しがらみ”に絡め取られて身動きが出来ない男を力強く演じている。凶暴な性格の親友のジェムに扮するジェレミー・レナーも好演で、「ハート・ロッカー」に続いて新たな魅力を醸し出している。街の花屋で実は組織の黒幕であるファーギー役のピート・ポスルスウェイトはサスガの存在感。鬼籍に入ってしまったのは実に惜しまれる。

 ただし、レベッカ・ホール演じるクレアはキャラクターの掘り下げが浅い。そもそもこの若さで銀行の支店長にまでなったキャリアウーマンが、身体にタトゥーを入れたヤクザな風体のダグといい仲になることは考えられない(笑)。

 活劇の演出家としてのアフレックの腕前はかなりのもので、時折挿入されるアクションシーンはキレがある。クライマックスはフェンウェイ・パークの売上金を強奪しようとするダグ一味と警官隊との攻防戦だ。段取りの積み上げは非凡なもので、他のハリウッド大作のような物量は投入していないが、テンポの良い展開でグイグイ引き込まれていく。ほんの少し明るさを漂わせたラストの処理も出色だし、アフレックには今後も監督として仕事をして欲しいものだ。
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「鬼が来た!」

2011-02-17 06:38:57 | 映画の感想(あ行)
 (原題:鬼子來了)2000年作品。第二次大戦末期の中国・華北のとある村を舞台に、捕虜になった日本兵と村人達との際どい関係を描く。監督は主演も兼ねるチアン・ウェンで、同年のカンヌ国際映画祭でも高く評価された。

 中国本国では“日本兵を人間らしく描いているから”という理由で上映禁止になった映画だが、観た印象では日本兵は全然人間らしく捉えられていない。それどころか、描写する時間が長い分、その異常性が際立っているようにも思える。

 ならば中国人の方は人間らしく描かれているのかというと、まったくそうではない。皆おかしな行動を取り、終盤の大混乱は中国側にも責任がある。要するに、戦争によってどこか常軌を逸してしまった人間模様を描いているのだろう。

 上映禁止の理由だが、日本兵の扱いよりもラスト近くの中国軍司令官のエキセントリックな描き方が主な理由ではないだろうか。なにせ田壮壮監督の「青い凧」では共産党幹部の不祥事を匂わせた部分があるだけで即上映禁止にした国である。部外者(日本人)の狼藉よりも身内の恥部の方が気になるのかもしれない。

 映画の出来は、決して後味が良いとは言えないまでも、なかなかの力作である。ユーモアを交えつつ骨太なドラマ運びに腐心しているところがポイント高い。香川照之をはじめとする日本側のキャストも的確な仕事をしている。ただし、全編モノクロでラストだけカラーという展開にそれほど意味があるとは思えない。
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「洋菓子店コアンドル」

2011-02-16 06:36:10 | 映画の感想(や行)

 主人公のキャラクター設定が出色だ。観る者にとって良くも悪くも“共感”できる人物像を創造しており、ここを押さえておけば映画も八割方は成功したようなものだ。多少ドラマ運びにモタつきがあってもほとんど気にならない。

 本作のヒロインである臼場なつめは、ケーキの修業をすると言って東京へ向かった恋人を追い、鹿児島から上京。しかし彼氏は働いているはずだった都内で評判の洋菓子店「パティスリー・コアンドル」をあっさりと辞め、別の店に行ってしまったらしい。途方に暮れたなつめは、コアンドルで働かせて欲しいと頼み込む。

 実は彼女はケーキ屋の娘であり、少しは腕に覚えがある・・・・はずだったが、試作品をコアンドルの店長からボロクソにケナされる。ところが帰り際に店長から勧められたコアンドルのケーキを味わい、その美味しさに感動した彼女は、ゴリ押し的に見習いとしてコアンドルに居着いてしまう。

 ハッキリ言ってなつめはどうしようもない人間だ。幼馴染みの彼氏を勝手に“恋人”だと思い込むのをはじめ、コアンドルに勤務するのを“当然の権利”だと決めつけ、果ては同僚を“彼氏をいじめて追い出した奴だ!”と断定する。また、店の食材を自分の練習用に流用することなど屁とも思わない。

 しかし、彼女は決して不快な人物として扱われないし、観ている側もネガティヴな印象は受けない。それは、誰もが持っている自分勝手さや了見の狭さをリアルに表現しているからだ。さらに、映画はそのマイナスイメージをプラスに転化させる“処方箋”をも提示してくれる。それは底抜けにポジティヴな物の見方と、呆れるほどの活力だ。イヤなことがあっても絶対に逃げない。どんどん目標に向かっていって、それが結果的に相手の内面を開かせてしまう。そこで初めて彼女は“他人の立場”というものを知っていくことになるのだ。

 なつめを演じる蒼井優はさすがの演技力で、この猪突猛進型のヒロインを実体化させている。ちょっとした表情や仕草などで、主人公の心の動きをヴィヴィッドに表現しているのには舌を巻くしかない。

 それに比べれば江口洋介扮する“伝説のパティシエ”の造型は在り来たりだ。クライマックスも晩餐会の献立ではなく、件の“彼氏”とのケーキ作り対決にでもしておいた方が盛り上がっただろう。しかし、なつめの絶妙なキャラクター設定と蒼井の達者なパフォーマンスを目の当たりにすれば、どうでもいい気になってくる。

 深川栄洋の演出は愚作「白夜行」とは打って変わった手堅いものだ。ラストシーンの扱いなどは見事。どちらがこの作家の持ち味なのか、しばらくは静観したい(笑)。そして劇中に出てくるケーキ類は実に美味しそうで、甘党の私にとってはそれだけで入場料の元は取れたような感じがした。また、入場する際にもらったクッキーの詰め合わせも悪くない(^^)。
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「ロード・トゥ・パーディション」

2011-02-15 06:36:51 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Road to Perdition )2002年作品。妻子を殺された殺し屋の復讐と逃避行を描いたアクション編。公開当時は評判が良かったが、その世評とは裏腹に、それほどの映画とは思えない。

 確かに時代設定の1930年代の時代背景描写と映像、および舞台装置の素晴らしさは認めるが、要するにこれは「子連れ狼」のアメリカ版でしかない。その意味ではストーリーも完全に予定調和。トム・ハンクス、ポール・ニューマン、ジュード・ロウといった豪華キャストを揃えていながら“予想通り”の演技しかさせていないのには大いに不満。

 活劇場面に特筆できる個所もない。そして何より「アメリカン・ビューティー」で一躍脚光を浴びたサム・メンデス監督の個性がまったく出ていないことに愕然とした。「アメリカン~」での屈折したシニカルさはどこにもなく、ある程度の技量を持つ演出家なら誰でも撮れるシャシンに終わっている。

 メンデスのような突出した個性を持つ外様(イギリス人)の作家も、よほどしっかりしないとハリウッドではお為ごかしの仕事を押しつけられた挙げ句に才能を消費されてしまうことを如実に示している。それにしても原題そのまんまの邦題は勘弁してほしい。
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「ウォール・ストリート」

2011-02-14 06:27:11 | 映画の感想(あ行)

 (原題:WALL STREET MONEY NEVER SLEEPS)87年に撮られた前作「ウォール街」と比べると、インパクトが弱い。それは“敵”の存在が曖昧であるからだ。おそらくは“敵とは何か”ということを作者自身も分かっていないのではないか。それだけ状況の見極めが難しい時代になったとも言える。

 前作の首魁であったマイケル・ダグラス扮するカリスマ投資家ゲッコー・ゴードンが刑期を終えて出所するところから始まるが、前科者になってもタダでは起きない彼は、バブル期の裏側を描いた書物を著してヒットさせ、第一線に復帰する。ただ以前と状況が違うのは、無謀な投資の担い手がゲッコーのような一部の“相場師”に限定されていた昔と違い、今は幅広く時にはそれがリスクの高い行為だとも知らずに、誰もが投資もどきの片棒を担がされているという点だ。

 今回ゲッコーと対峙するのは、彼の娘の婚約者である投資銀行の従業員ジェイコブだ。ジェイコブは、次世代の成長産業と見込んだ新エネルギーの開発元への投資者を募るために奔走している。大口顧客の経営者が阿漕なハゲタカどもの餌食になって自殺に追い込まれたりもするが、かえってこの仕事への使命感は高まる一方だ。

 しかし、その新エネルギー事業にしても、バブルの一種であることに彼は気付いていない。民主党支持のオリヴァー・ストーン監督にすれば、オバマ大統領が提唱していたグリーン・ニューディール政策への思い入れは強いのだと思うが、経済原則から言えばああいうのは徒花に過ぎない。

 成功するかどうか分からず、たとえ上手くいっても採算に乗るかどうも未知数で、さらにそのサービスを“消費”する需要サイドへの配慮はまったくない。百歩譲って事業が大々的に採用されたとしても、その需要が他の既存の需要を横に押しやる形でしか存在できないのならば(その可能性は高い)、マクロ面では何も変わらない。要するにサプライサイド一辺倒のスキームでは早々に行き詰まってしまうのだ。

 かつてのエゲツないバブル商法が、今では“新エネルギー”などの口当たりの良い響きを伴って提示されてくる。事態は何も変わっていない。ゲッコーはそれを理解しているのかもしれないが、映画の中では昔のパターンから一歩も抜け出ていないように見える。

 深く突っ込めないまま中盤以降は“親子の情愛”なんぞを絡めた作劇になってくるあたり、何ともやりきれない。大向こうを唸らせようとして、結局上手くいかなかったような感じで、マイケル・ムーアの諸作のようにネタを限定して一点突破を図るような方法には完全に遅れを取っている。

 ジェイコブ役のシャイア・ラブーフとその恋人のキャリー・マリガンは、M・ダグラスと張り合うには線が細すぎる。ストーン監督は今回映像ギミックも使いすぎで、これもあまり愉快になれない。ただ、前作の“あの人”がチラッと登場するあたりは御愛敬だ。彼も今はパッとしないが、大丈夫なのだろうか。
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「ジャック・サマースビー」

2011-02-13 06:18:19 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Sommersby )93年作品。キャストはそこそこ客を呼べそうだし、スタッフもまあ、破綻を見せないような面子を揃えているだけあって、いちおうは退屈しないで最後まで観ていられた。でも、魅力ある作品とは言い難く、観たあと2、3日もすればストーリーさえ忘れてしまうような、凡庸な出来である。

 南北戦争後、帰還したジャック(リチャード・ギア)のあまりの変わりように妻のローレル(ジョディ・フォスター)は当惑する。戦前の、いかにも南部の農場経営者らしい粗野で残忍な性格から、思いやりがあって皆に好かれる優しい男になっていたからだ。彼は痩せた土地をタバコ畑に変え、黒人を差別せず、人々の協力を得て理想の村作りに邁進する。別人ではと疑うローレルだったが、いつしか本気で愛し始め、幼い息子も彼になついていく。ところが、ジャックが過去の殺人罪で逮捕され、幸福な生活が一転して危機にさらされる。彼の正体を明かさなければ死刑が確定するかもしれない。はたして判決の行方は・・・・。



 設定としては面白い。しかし、小悪党だった主人公が、名誉のために命まで捨てようとする誇り高い男に変貌した過程がまったく省かれており、納得させるだけの演出もない。だいたい主役のリチャード・ギアが完全なミスキャスト。ぼーっとした善人面のギアに凄惨な過去のある男を演じさせるのがそもそもの間違いだ。

 “農地改革”以前の当時の小作農の厳しい生活や、迫害される黒人たち、KKK団の暗躍、ジャックを怪しむかつての友人(ビル・プルマン)、とまあ、いちおうドラマになりそうな素材を並べてはいるのだが、監督のジョン・アミエルはそれを“記号”として羅列するだけで、工夫して見せようという姿勢がない(出てくる黒人たちが全員“いい人”なのもシラけた)。

 人間のアイデンティティを問う重大なテーマを持つこの映画、突っ込みがまるで足りない。もっと登場人物の内面を掘り下げ、もっとサスペンスを盛り上げ、目を見張る緊張感で観客を引っ張ってほしかった。ジョディ・フォスターひとりで頑張ってもたかが知れているというものだ。

 実はこの映画には原典があるらしい。フランス映画「マーティン・ゲールの帰還」(82年、日本未公開)がそれだ。最近仏映画のアメリカ版リメイクが目立つが、成功したためしがない。ひょっとしたら原典版はもっといい映画なのかもしれない。機会があれば観てみたいものだ。
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「冷たい熱帯魚」

2011-02-12 06:58:30 | 映画の感想(た行)

 誰にでも奨められる映画では決してないが(爆)、かなりの密度の高さを持つ問題作であることは確かだ。とにかく、人の道を外れることの禍々しさと、一度外れた後に遭遇するある種“自由”で“清々しい”異世界の不気味な美しさを、これほどまでに活写した映画は今まで無かっただろう。

 静岡県の地方都市で小さな熱帯魚店を経営する社本は妻の死後に若い嫁をもらうが、娘と後妻との仲は最悪で家庭にはいつも重苦しい空気が立ちこめている。ある日、彼は万引きをした娘を助けてもらった縁で、同業大手の村田と知り合う。

 娘の身元引受人になったり新しいビジネスを持ち掛けたりして、村田は社本一家と仲良くなるが、実は彼は出資したパートナーを次々に始末してカネを奪う連続殺人犯だった。社本は豹変した村田に引きずられ、共犯者にされてしまう。

 93年に埼玉県で起きた愛犬家連続殺人事件をベースにしており、村田が口にする“証拠があるなら出してみろ。俺に勝てる奴はどこにもいない!”というセリフや“ボディ(死体)を透明にすることが一番大事だ”という決まり文句は、実際の犯人と同じものだ。

 村田に扮するでんでんの演技が凄い。一見、豪放磊落な人当たりの良いオヤジのようで、一皮剥けば怪物のような本性を現す。そのギャップおよび変貌するタイミングが絶妙で、ただの悪人ではない底知れぬ闇を抱えたクリーチャーを実体化させて圧巻だ。

 その村田が死体遺棄を押しつけられた社本に向かって言い放つ口上とパフォーマンスが、本作のハイライトであろう。お前はしっかりと二本の足で立っているような人生の充実感を味わったことがあるか!・・・・という断定めいた口調は、たとえそれが残忍な事件への関与を持ち掛けるものであっても、日々を無為に過ごしている小市民にとっては琴線に触れるものなのだ。そしてうっかりその誘いに乗った後に待ち受けるものは、地獄のような日々である。

 しかし村田及びその共犯者である妻は、そこが地獄だとは思わない。まるで天国のような自由で闊達とした空間に変貌する。ある種の“解脱”であり、宗教にも似ているだろう。事実、村田が“ボディを透明にする”ために使っている隠れ家には、十字架やマリア像が所狭しと並べられている。

 本人達が自覚している神の国にいるような愉悦感とは裏腹に、端から見ればそれは神の不在に他ならない。一線を越えて“非・人間”になることの妖しい魅力。このインモラルな価値観こそが本作の強烈な求心力に結び付いている。

 園子温の演出は相変わらずパワフルで、最初から終わりまで見せ場を並べ立てる足腰の強さには、今回も感服せざるを得ない。でんでん以外にも社本に扮する吹越満のヘタレな中年男ぶりは堂に入っているし、黒沢あすかや神楽坂恵といった女優陣も開き直ったエロさ満載で大いに楽しませてくれる。

 もちろん、肉体損壊シーンのスプラッタ度は並のホラー映画を蹴散らすヴォルテージの高さ。残虐でいて、突き抜けたようなユーモアをも感じさせるのはサスガと言うしかない。

 とにかく、ドス黒いエンタテインメントであり、狂気のファンタジーであるこの映画は、少しでも映画を観て刺激を受けたいと思っている観客にとっては必見である。好き嫌いは別にしても、その屹立した存在感には瞠目すること必至である。
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「アザーズ」

2011-02-11 06:41:07 | 映画の感想(あ行)
 (原題:The Others)2001年作品。公開当時は全米でロングランヒットを記録したというゴシック・ホラー。第二次大戦末期の英国、チャネル諸島のジャージー島にある古い屋敷に入居した母親と子供が怪異現象に遭遇するという話だ。

 寒色系の画面と、いかにもそれらしい舞台&時代設定。青白い顔が映える主演のニコール・キッドマンの立ち振る舞いなど、正統派ゴシック・ホラーのエクステリアを再現しているところは認めるものの、映画としてはさっぱり面白くない。

 「オープン・ユア・アイズ」のアレハンドロ・アメナバール監督とも思えぬモタモタした演出が目立ち、開巻10分間で退屈になってくる。さらに30分も経たないうちにネタが割れてしまった。

 肝心の恐怖描写も、大きな音をたてて観客を驚かすパターンの繰り返しでいいかげん飽きてくる(安易にCGを使っていないところは良いのだが)、何やら脚本・ドラマ運びがほとんど練られていないまま見切り発車で製作したような印象だ。まさか撮影当時にプロデュース担当のトム・クルーズとキッドマンの仲が冷え込んだからというわけでもないだろうけど(笑)。とにかく凡作である。
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「ソーシャル・ネットワーク」

2011-02-10 06:31:41 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE SOCIAL NETWORK)ネット社会に対する作者の真摯なスタンスが印象的だが、それがまた作品世界の“限界”をも示している。巨大SNS「フェイスブック」の創設者マーク・ザッカーバーグの半生(とは言っても彼はまだ二十代半ばの若さだが ^^;)を描く本作、中年世代のデイヴィッド・フィンチャー監督の価値観が、良くも悪くも映画全体を覆っていると言えよう。

 ハーバード大に在籍していたザッカーバーグは最初から常軌を逸した人間として描かれる。かなりの早口で、しかも話す内容がコロコロ変わる。好奇心旺盛だが、目の前にいる他人が自分をどう見ているかに関しては無頓着だ。そのため交際相手には呆気なく振られる。その腹いせに学内の各クラブの名簿をハッキングし、個人情報垂れ流しの“女の子の品定めサイト”を開設してしまうヒネクレ野郎。他人が開発したシステムを無断拝借しても何とも思わない。

 やがて彼は音楽ファイル共有ソフト及びサービスの「ナップスター」の提唱者ショーン・パーカーと知り合うが、夜郎自大なパーカーの態度に“自分と似たもの”を感じ取ったザッカーバーグは、思わず意気投合してしまう。そんな独断専行を進めた挙げ句に、創業時の共同経営者で唯一の友エドゥアルドから訴訟を起こされる。

 オンラインでは5億人の友人を手に入れたのかもしれないが、一番繋がって欲しい人間からは無視されるばかり。要するに、ネットにハマり込んだ主人公は人間関係を蔑ろにしていた(これではイケナイ)という、ネガティヴな視点が垣間見えるのだ。

 ただしこれは映画の作者の“真っ当な”意見に過ぎない。実際にはどうなのだろうか。私はネット歴はけっこう長いが、それでもネットワーキングを始めたときにはすでに社会人だった。そのせいかオンラインおよびそれに派生した人間関係なんて、オフラインの従来からのコミュニケーションに比べて密度が数段低いことを早々に見抜く分別だけはあったと思う。

 しかし、ザッカーバーグのように子供の頃からネット環境が整備されている世代はどうなのだろうか。彼らにとってオンラインとオフラインとの違いは無いに等しいのではないか。古い世代には分からない、新しい価値観と新しいコミュニケーション。たとえそれが浅いものであったとしても、ザッカーバーグ達の視点に立ったテーマの描出に挑戦して欲しかったというのが、正直な感想である。

 フィンチャーの演出はいつもの余計なケレンを極力廃し、彼にしては健闘している。主演のジェシー・アイゼンバーグのパフォーマンスは見事だ。またパーカー役のジャスティン・ティンバーレイクも(劇中では一曲も歌わないが ^^;)カリスマ性を発揮していた。そしてトレント・レズナー(ナイン・インチ・ネイルズ)の音楽は本年度屈指のスコアになるだろう。
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