元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「フリーター」

2017-04-30 06:51:07 | 映画の感想(は行)
 87年作品。よく“映画は時代を映す鏡である”という説を見聞きするが、この作品なんか、最たるものだろう。現在ならば絶対に取り上げられない題材ながら、当時はこんな企画が堂々と採用されていたのだ。まさに隔世の感がある。

 大学浪人中の石巻健次は勉強もせず、アルバイトに精を出す日々だ。彼はまた友人の志水隆が主宰する“フリーター・ネットワーク”という人材派遣サークルにも参加していた。ある日、キャッチ・セールスのアルバイトをしていた健次は、逆にキャッチ・セールスの女の子に引っ掛かってしまう。向日葵と名乗る彼女の色香にヤラれて、うっかり商品購入のサインまでしてしまったのだ。しかも、隆が見破るまでだまされたのも気付かない始末。

 そんなトラブルに見舞われながらも気楽なフリーター稼業に勤しむ彼らだが、メンバーの一人である香織の父親の経営する店が怪しげな仕事師の相沢に乗っ取られたことを切っ掛けに、ひとつ大きなビジネスをブチ上げることを思い付く。

 監督は「純」(80年)や「卍(まんじ)」(83年)などで実績を積んでいた横山博人だが、明らかに本作では気分が乗っていない。単なる“やっつけ仕事”だろう。この頃の日本はバブルの絶頂期に向けて、全体が浮かれていた。フリーターは若者の新しい働き方だ何だと持て囃されたらしいが、結局それは好景気があっての話だ。現時点でフリーターを扱うと、ワーキングプアだ何だと暗い話になるのは確実。結局、世のトレンドなんてのはカネ回りの善し悪しで決まってしまうのである。

 さて、本作に出てくる連中は揃いも揃って脳天気。主人公達が仕掛ける事業とは中古LSIの横流しなのだが、これも現時点では成り立たない。ラストでは“フリーター万歳!”みたいなシュプレヒコールが上げられるものの、今観たら苦笑するしかないだろう。健次役の金山一彦をはじめ、洞口依子に鷲尾いさ子、石橋蓮司や三浦友和に至るまで、みんな軽佻浮薄なテイストに染め上げられている。極めつけは隆を演じる羽賀研二。もう見事なほどのライト感覚だ。何やらバブル崩壊から現在までの彼の運命を暗示しているようで、複雑な気分になる。
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「午後8時の訪問者」

2017-04-29 06:25:55 | 映画の感想(か行)

 (原題:La fille inconnu)明らかに、監督の作風に合っていない題材だ。ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌは国際映画祭の常連で、各種アワードを獲得している俊英だが、その特徴はドキュメンタリー映画の製作で培われた深い人間洞察にある。ストーリーよりもシチュエーションや語り口で登場人物の内面をあぶり出し、観客の共感を得ようとするタイプだ。しかし本作は、サスペンス映画としてのプロットと明確な起承転結が要求される作品構成になっている。案の定、慣れていないことをやると全体的に空回りしている印象は拭えず、とても評価は出来ない。

 ベルギー東部のリエージュの郊外で診療所に勤務する若き女医ジェニーは、ある晩診療時間を過ぎて鳴ったドアベルに応じなかった。その翌日、近所で身元不明の黒人少女の遺体が見つかる。被害者は前日に診療所のモニターカメラに映っていた少女だった。彼女はどういう事情を抱えていたのか。誰かに追われていたのか。あの時、ドアを開けていれば彼女は死なずに済んだかもしれない。悔恨の情に駆られたジェニーは、亡くなる直前の少女の足取りを独自に探っていく。しかし思わぬ妨害に遭い、彼女は事件の闇の深さを思い知ることになる。

 曰くありげな設定ながら、終わってみれば大したことは無い。もちろん被害者の置かれた状況はシビアで、社会問題としては重いものがあるが、そこをクローズアップするならば別の筋立てが考えられたはずだ。

 監督自身は“これはサスペンス映画だ”と言っているらしいが、そっち方面での盛り上がりはほとんど見られない。そもそも、ヒロインが捜査に乗り出す必然性も感じられない。警察に任せておけば良い事案であり、彼女が何か新しい事実を見出して解決に繋がるような話も無い。かと思うと、ジェニーが直面している仕事上の課題が掘り下げられているわけでもない。

 ジェニーは脳疾患により半身不随になった所長の後を継ぐのかどうか、無愛想な研修医との関係はどう修復していくのか、いずれも明確な答えは出ていない。御膳立てだけがサスペンスで、その実サスペンスに成り切れていない及び腰の展開が続くうちに、こちらは退屈を覚えてしまった。

 主演のアデル・エネルは良い女優であることは分かるが、この映画では真価が発揮されていないように思う。ジェレミー・レニエやオリビエ・グルメといった他の出演者にも特筆すべきものは無し。通常ならばダルデンヌ兄弟の作品は大きな賞にノミネートされるものだが、本作に限ってはそうではないのは、観ていて何となく理由が分かるような気もする。
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「ディアブリィ・悪魔」

2017-04-28 06:37:56 | 映画の感想(た行)
 (原題:DIABLY, DIABLY)91年ポーランド作品。それまで短編ドキュメンタリーを多く手掛けてきたドロタ・ケンジェルザヴスカ監督の長編デビュー作で、これ以降「僕がいない場所」(2005年)や「木洩れ日の家で」(2007年)などでを手掛け、広く知られるようになる。なお、この映画は日本では劇場公開されていない(私は第4回の東京国際映画祭で観ている)。

 60年代初頭のポーランドの小さな村に流浪の旅を続けるジプシーの一団がやって来た。村人は、ジプシー達の存在に恐怖と不安を覚えたが、少女マーラだけはこの不思議な訪問者に魅了される。だが、そのために彼女は村人から迫害されるようになる。封建的な村を舞台に、人種偏見の厚い壁を描きながら、大人になることに憧れるひとりの少女の体験と心の成長を綴った作品。



 とにかく映像の美しさに圧倒される。ショットのひとつひとつが一枚の絵画を思わせる様式美と透明感に満ちていて、約1時間半の間、魅了されっぱなしだった。まさしく映画とは映像の芸術であることを立証している。セリフが必要最小限に抑えられ、登場人物の内面は繊細な映像(極端なクローズアップと自然の風景をとらえる引きのショットとの対比が見事)、そして効果的に挿入される民族音楽のみで語られる。

 舞台挨拶に出てきたケンジェルザヴスカ監督は実に寡黙な人で、“私は饒舌ではないので、映画自体も静かな雰囲気を持ったのでしょう”と語っていたが、監督のキャラクターが作品に反映しているのは面白い。

 マーラ役のエスティーナ・シェムニーは美少女には違いないが、題名通りどこか悪魔的な風貌で強烈な印象を受けた。ところが、監督の話によると素顔の彼女はごくフツーのどこにでもいる女の子だそうで、あらためて映画の持つ魔術を思い知らされた。
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「ゴースト・イン・ザ・シェル」

2017-04-24 06:34:55 | 映画の感想(か行)

 (原題:GHOST IN THE SHELL)そこそこ面白かった。もとより押井守監督によるアニメーション版(95年)に迫るほどの出来の良さは期待していない。しょせんハリウッド映画だ。最後まで目立つような破綻が見られなければ御の字だろう。その意味では、本作は水準はクリアしていると思う。

 近未来、サイバーテロ阻止を専門とする部署である公安9課に所属する女性捜査官ミラ・キリアン少佐は、かつて凄惨な事故に遭い、脳以外は全て義体(機械)となりサイボーグとしてよみがえった。その実力は折り紙付きで、猪突猛進的に事件を追う姿勢は上官の荒巻大輔も彼女には手を焼きながらも、大いに評価している。

 今回の公安9課のターゲットは、テロ事件を企てる謎めいた男クゼだ。だが、クゼの足取りを調べるうちに、少佐は自分の記憶が何者かによって操作されていたことに気付く。そしてそれは、サイバー技術の大手であるハンカ・ロボティックス社の大きな陰謀に繋がっていることが明らかになる。

 押井作品が“人間とは何か”という重いテーマを大上段に振りかぶって扱い、しかも成果を上げていたことに比べると、本作の佇まいは“小さい”と言える。要するにヒロインの“自分探し”がストーリーの中心になっているのだ。しかしながら、分かりやすく万人にアピールできるような内容にするという作品の狙いにおいては、正解であろう。いたずらに哲学的なテイストを前面に出してしまうのは、ハリウッドの娯楽編としては相応しくないということだろう。

 ルパート・サンダースの演出は取り立てて才気走ったところはないが、ソツのない仕事ぶりだ。活劇場面も無難にこなしている。主演のスカーレット・ヨハンソンは健闘していると思う。ボディスーツが垢抜けないという声もあるようだが(笑)、よく身体は動いているし表情なども魅力的に撮られている。

 荒巻役のビートたけしも楽しそうに演じているが、セリフ回しや仕草がお笑い芸人っぽいのは御愛敬か。この2人に比べると公安9課の他のメンバーは大きくクローズアップされていないが、上映時間の都合で仕方が無いのかもしれない。その分、ジュリエット・ビノシュや桃井かおりなど、主人公を取り巻く人物達を演じる面々が印象深く扱われている。

 未来世界の有り様は「ブレードランナー」の類似品みたいだが、たぶんこういう方法論以外に思い付くものが無かったのだろう。なお、クリント・マンセルとローン・バルフェによる音楽よりも、ラストクレジットで流れる押井版の川井憲次の手によるスコアが効果的だった。
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「課長 島耕作」

2017-04-23 06:55:21 | 映画の感想(か行)
 92年作品。弘兼憲史によるコミックの映画化だが、あれだけ原作が人気があったにも関わらず、映画になったのは(今のところ)これ一回きりだ。たぶん、連載されていた80年代から90年代初頭に比べ、それ以降は世の中が原作世界と乖離してしまったせいだろう。そして初の映画化である本作のレベルの低さが尾を引いているのかもしれない(苦笑)。

 主演は田原俊彦である。観る前からちょっとイヤな予感がしていたが、根岸吉太郎が監督で脚本は野沢尚なのでヘンなものは作るまいと思っていたのが大間違いだった。島耕作は(実在の企業をモデルにした)大手電器会社に勤めているが、そんな大企業において、30歳そこそこで本社の課長になれるのだろうか。しかも部署は宣伝課で、入社以来広報・宣伝の仕事一筋だという。はっきり言って、こういう奴はいないと思う。



 百歩譲ってフィクションだからこういった例もあるとしよう。ところが、この映画の田原は当時テレビでよく見かけたトシちゃんのまんまである。課長どころか勤め人にさえ見えない。管理職になったのも上役の口ききで、全然仕事が出来るようには全然見えず、やってることは専務の使い走りだ。それでいて、口を開けば“オレはどの派閥にも属したくはない”だとぉ。何眠たいこと言ってるんだか(脱力)。

 別に原作がそうだからと、その通りにする必要はない。原作は漫画だからこそ成り立っている部分が多いのであって、そのまま映画化しても失敗する可能性は少なくない(まして主演があれでは ^^;)。思い切って設定を変えてもよかったのではないか?

 中小企業の課長にするとか、大企業でも本社じゃなく支社・支店を舞台にするとか、話を派閥抗争ではなくって仕事上のちょっとしたトラブルにするとかetc.話を絵空事にしないための工夫が欲しかった。豊川悦司や麻生祐未、津川雅彦、佐藤慶、原田大二郎といった脇のキャストも精彩が無い。
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「キングコング:髑髏島の巨神」

2017-04-22 06:25:47 | 映画の感想(か行)

 (原題:KONG:SKULL ISLAND )とても楽しい時間を過ごすことが出来た。キングコングが登場する作品は(日本版も含めて)けっこうあるが、1933年の第一作を除けば大した作品は無かったように思う。しかし、ついに“本命”がここに登場した。怪獣映画のツボを押さえた、わくわくするようなセンス・オブ・ワンダーに溢れた快作である。

 ベトナム戦争が終わろうとしていた1973年、帰国間近だったパッカード大佐の部隊に最後のミッションが与えられる。それは、ランドサットが発見した未知の島・髑髏島へ赴く特務研究機関モナークのメンバー達の護衛だった。周りの海は一年中嵐が吹き荒れ、外界から孤絶したこの島は、生物も独自の進化を遂げていた。未知生命体の存在を確認しようと、ヘリコプターに乗ったパッカード隊と学者やカメラマン等からなる一行が遭遇したのは、巨大な猿だった。キングコングと呼ばれるそのモンスターによって部下の大半を失った大佐は、復讐に燃えて追撃を開始する。

 一方、別の場所に不時着した元特殊空挺部隊隊員のコンラッド達は、この島の原住民と、第二次大戦中に漂着した米軍パイロットのマーロウに出会う。話によるとキングコングは島の“守護神”で、今回はコングを怒らせたため襲ってきたのだという。彼らは島を脱出するために船との合流地点である島北部に向かうが、この島のモンスターはコングだけではなかった。調査隊の面々は究極のサバイバルを強いられる。

 キングコングがその威容を放つ姿を見せるのは、一行が島に到着した直後。通常、脅威を小出しにしてサスペンスを盛り上げるものだが、ここは潔い。さらに、次々と現れる怪獣達とのバトルは、それぞれが段取りとアイデアが非凡で飽きさせない。

 キャストではパッカードに扮するサミュエル・L・ジャクソンが最高だ。戦争が終わって虚脱状態に陥っていた根っからの軍人が、思わぬ強敵と遭遇して溌剌とした表情に早変わり。嬉々としてジャングルの奥地に進軍する勇姿は、あの「地獄の黙示録」のカーツ大佐を彷彿とさせるヴォルテージの高さだ。コンラッドを演じるトム・ヒドルストンやブリー・ラーソン、ジョン・グッドマン、ジョン・C・ライリーといった他の面子も悪くないのだが、サミュエル御大のアクの強さには敵わない。

 監督は新鋭ジョーダン・ボート=ロバーツだが、ストーリーテリングにおける水準は楽々クリアしているばかりか、大の日本びいきという個人的趣味が横溢しているのが嬉しい。マーロウがかつての“戦友”であった日本人将校の形見である日本刀を大切にして実戦にも使うあたりもアッパレだが、本作のハイライトはエンド・クレジット後のシークエンスだろう。日本の怪獣映画を愛してやまないこの監督の特質が見て取れる。大々的にフィーチャーされる60年代から70年代初頭にかけてのヒット曲も抜群の効果だ。
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「死んでもいい」

2017-04-21 06:36:08 | 映画の感想(さ行)
 92年作品。石井隆監督による、初の一般映画である。結果から先に言うと、イマイチ物足りない出来だ。何より、石井の本分である漫画家としての素養が表に出すぎているため、映画本来のメソッドがトレースされていない。そのため、ストーリーが盛り上がっていかないのだ。プロデューサー(伊地智啓)が上手く機能していない結果であるとも言える。

 山梨県の田舎町で風来坊の青年・信は名美という女に出会う。彼女には不動産屋を営む英樹という夫がいたが、信は名美にゾッコンになる。彼は英樹の会社の従業員となって当地で暮らすようになるが、事あるごとに名美との逢瀬を重ね、いつしか英樹を殺害して彼女と一緒になろうと考えるようになる。ある雨の夜、信はそれを実行に移そうとする。



 序盤の、信と名美とが出会うシークエンスで、必要以上の多数のアングルから対象を捉えるという意味の無い所業を目の当たりにした時点で、鑑賞する気が失せてきた。そういう“カッコつけた”演出は最後まで続く。たぶん漫画ならばスタイリッシュな描き方として評価されるのだろうが、映画において手法ばかりが先行すると、観ていて鼻白むばかりである。

 原作は「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を下敷きにした西村望の「火の蛾」だから、筋書きは始まる前からだいたい分かる。その一直線のストーリーを訴求力のある作品として仕上げるには、キャラクターの内面描写と粘りのある演出が必要だが、それがあまり見当たらない。小手先のテクニックで乗り切ろうという、そんな意図ばかりが窺える。

 そもそも、名美役に大竹しのぶを起用したのが間違い。彼女の“腹の中では何を考えているかわからない”ような雰囲気は、それだけでネタが割れてしまう。ここは逆に“性格に裏表が無さそう”に見える女優を起用した方が、スリリングな展開になったと思われる。

 信に扮する永瀬正敏はいつも通りの仕事ぶりで、特筆すべきものはない。英樹を演じる室田日出男は頑張ってはいるが、役柄自体が救われないので、影が薄くなるのは仕方が無い。ただ、妙なところで登場する竹中直人だけは面白かったが・・・・。撮影は佐々木原保志で、音楽は安川午朗という、いつもの“石井組”のスタッフだが、何やら気合いが入っていない印象だ。
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「ムーンライト」

2017-04-17 06:31:38 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MOONLIGHT )胸を締め付けられるほどの切なさと、甘やかな感慨が横溢する、まさに珠玉のような映画だ。オスカー受賞作がすべて優れた映画だとは言えないが、この低予算映画に大賞を与えた映画芸術科学アカデミーの会員達に、今回ばかりは敬意を払いたい。

 マイアミの貧困地域で暮らす小学生のシャロンは、内気なイジメられっ子だ。家庭ではジャンキーで売春している母親ポーラから迷惑がられるばかりで、居場所が無い。そんな彼に優しく接してくれたのは、近所に住む麻薬ディーラーのフアンとその妻テレサ、そして唯一の友達であるケヴィンだけだった。時が流れてシャロンは高校生になるが、フアンはすでに亡く、学校でも孤立していた。ケヴィンには友情以上のものを抱くようになるが、極悪な不良どもがそんな思いを踏みにじる。ついに堪忍袋の緒が切れたシャロンは、思い切った行動に出る。

 30代になった彼はアトランタに引っ越し、あれだけ嫌っていた麻薬の売人になっていた。ある日、長らく音信不通だったケヴィンから電話が掛かってくる。シャロンはマイアミに戻り、再会を果たす。

 出てくるのは黒人ばかりで、いずれも恵まれない生活を送っている。当然のことながら、白人や富裕層からは蔑まれる対象だ。しかも主人公はゲイである。本作はマイノリティの、そのまた少数派に属する人間の屈託に満ちた日々を追うが、かなり高次元での普遍性を獲得している。もちろんそれは、作者の内面描写が卓越しているからに他ならない。

 おそらく、順風満帆に人生を渡ってきた者にはこの映画の良さは十分理解できないだろう。しかし、人に言えない悩みを抱え、周囲との軋轢によって幾度もアイデンティティが危機に曝され、もがき苦しみながら生きてきた人間(程度の差こそあれ、我々の多くがそうだ)にとって、本作は胸に迫るものがある。

 劣悪な環境に抗いつつも、結局はそれを乗り越えることが出来ない凡夫であり、孤独に押しつぶされそうになりそうな主人公の最後の拠り所は、いくらかでも心を通わせることが出来た何人かの者達である。言い換えれば、たった一人でもいいから理解してくれる者を見つけること、あるいはそういう者がどこかに存在していると信じること、それさえ出来れば人生は無駄ではないのだ。ネガティヴなモチーフを積み重ねつつも、実は底抜けにポジティヴな視点を確保しているという、本作の巧妙な仕掛けには感服するしかない。

 バリー・ジェンキンスの演出力は強靱で、登場人物の動かし方はもとより、3部構成の仕切りの巧みさ等に非凡なものを感じる。シャロンを演じる3人の俳優(トレバンテ・ローズ、アシュトン・サンダース、ジャハール・ジェローム)をはじめ、アカデミー助演男優賞を獲得したマハーシャラ・アリ、ナオミ・ハリス、ジャネール・モネイ等、キャストは皆素晴らしい。そしてジェームズ・ラクストンのカメラによる映像は見事のひとことだ。また音楽の使い方は突出して優れている。本年度を代表する米国の秀作だ。
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東芝と音楽事業。

2017-04-16 06:28:51 | 音楽ネタ
 日本を代表する大手電機メーカーだった東芝も、放漫経営により今や存亡の危機にある。原発という先の見えない事業に大枚を叩いてしまった幹部連中は糾弾されて然るべきだが、減給とリストラを強いられる従業員こそいい迷惑だ。もしも倒産ということになると、膨大な数の社員が路頭に迷い、日本経済にも悪影響を及ぼす。まことに困ったものである。

 そういえば、私が子供の頃から東芝の製品は家に数多く置かれていた。白物家電やテレビ、掃除機もすべて東芝製。実家の近くに“東芝ショップ”があり、とにかく“東芝のものを買っておけば間違いはない”というのが我が家の不文律みたいなものだった(笑)。昔は一社提供のテレビ番組もけっこうあって、その頃はまさかこの会社が現在のようになろうとは、誰も想像していなかったと思う。

 かつて東芝はレコード会社も保有していた。米国のキャピトルEMIの出資を経て、73年に発足した東芝EMIである。当時EMIは世界有数のレコード・メーカーであり、ザ・ビートルズをはじめとして所属しているミュージシャンも大物揃い。クラシックの分野でも名盤が目白押しだった。国内のミュージシャンも粒揃いで、ヒット作が出るとビルが建つほどだったらしい。



 東芝はソフトを供給するだけではなく、レコードの製造も手掛けていた。その品質は国内盤では随一だったと思う。またCD時代になってからもディスクは83年から自社工場で製造。当時はCDの製造元は世界に数社しか存在しなかったが、その中でも1,2を争う品質を誇っていたのではないだろうか。

 また、東芝はピュア・オーディオも展開していた。ブランド名はAurex(オーレックス)で、確か70年代半ばに発足したと思う。オーディオ製品自体はそれ以前からリリースしていたが、松下電器(現Panasonic)のTechnics等に対抗するためか、本格的な取り組みをアピールしていた。高評価のモデルも多数あったが、80年代半ばには撤退してしまったのは惜しまれる(現在は別会社の安価なシステムにおいてブランド名だけは復活している)。

 さて、東芝は2006年に音楽事業からの撤退を決め、翌年に東芝EMIをEMIミュージックに売却した。皮肉にも、東芝がウエスチングハウス社を買収したのが、ちょうどこの頃である。

 その後のEMIはデジタル音楽配信の出遅れもあり、経営が傾いた。そしてついに2012年、音楽出版事業はソニーに、レコード部門についてはユニバーサルによって買収されてしまう。その後音楽ソフトの権利は(一部を除いて)ワーナーに売却された。かつてのEMIの名盤の数々が、ライバルだったはずのワーナー・ミュージックのロゴが入ったパッケージで店頭に並んでいるのを見ると、何とも複雑な気分になる。

 乱暴な言い方をすれば、東芝は音楽事業という(逓減傾向にはあったが)手堅い仕事を捨て、同時に原発という危なっかしい稼業にのめり込んだという見方もできる。もちろん音楽関係のビジネスとエネルギー事業とは違うが、印象としては“実業と虚業”ほどの差異があると思う。

 あのまま東芝が音楽事業を見捨てずに、地道にビジネスを展開していたら、少しはこの業界も賑わっていたかもしれない。いずれにしろ、いくら伝統のある企業でも、それをうまく維持して発展させるかどうかは、トップの見識次第だということだろう。
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「SING シング」

2017-04-15 06:31:57 | 映画の感想(英数)
 (原題:SING)イルミネーション・エンターテインメントによるアニメーションだが、困ったことにキャラクターデザインがあまり可愛くない。このあたりはディズニーに一日の長がある。しかも、可愛さが足りないだけではなく、愛嬌も無い。感情移入できる登場人物を最後まで見つけることが出来ず、不満を抱えたまま劇場を後にすることになった。

 人間世界とよく似た、動物だけが暮らす別世界。コアラのバスター・ムーン(声:マシュー・マコノヒー)が支配人を務める劇場は、昔は繁盛していたが今や客足は途絶え、銀行から差し押さえられていた。バスターは起死回生の策として、歌のオーディションを開催する。ところが手違いにより賞金が実際よりはるか上の額のまま周知されてしまい、大量の応募者が押しかけるハメに。



 バスターは今さら間違いだったとは言えないまま、出演者を選出する。しかしオーディションに合格した面々も一筋縄ではいかず、それぞれに大きな問題を抱えていた。やがてこれが新たなトラブルを引き起こすことになる。

 いくら動物ばかりの架空の世界とはいえ、話が雑なのではないか。バスターが経営する劇場が左前になった理由がよく分からないし、その立て直し策に(いくら上手いとはいえ)素人の“のど自慢大会”を持ち出す道理は無いと思う。バスターの友人の祖母が往年の大スターだったという設定も、都合が良すぎる。そもそもこの劇場主は、隣のビルから盗電したり水道管を勝手に引っ張ったりと、阿漕なことを平気でやるので同情できない。

 雇い入れた“歌手”たちもそれぞれ事情を抱えているが、面白いエピソードには繋がらない。父親が泥棒やっているゴリラなんか、無理筋のシチュエーションだし、ネズミは生意気でゾウは煮え切らない。ブタは所帯じみていてヤマアラシはふて腐れている。



 結局この映画のセールスポイントは、挿入される楽曲に尽きるのであろう。ほとんどが知っているナンバーで、それを芸達者な声の出演陣が朗々と歌ってくれるのだから、その点は満足度が高い。リース・ウィザースプーンやセス・マクファーレン、ジョン・C・ライリーにタロン・エガートン、トリー・ケリー、ニック・クロールと、面子は揃っている。特にスカーレット・ヨハンソンの意外な歌のうまさには驚いた。

 ガース・ジェニングスの演出は平板。とはいえ続編が製作決定とかで、このシャシンを評価する向きも少なくないのだろう(まあ、個人的にはパート2は観るのを遠慮したいけどね)。
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