元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「東雲楼 女の乱」

2014-02-28 06:31:56 | 映画の感想(さ行)
 94年東映京都作品。この映画が公開された年は、東宝と松竹で“忠臣蔵対決”が展開されており、ファンの間で話題になっていた。一人蚊帳の外に置かれた東映が、とりあえず製作したようなのが本作である。ただし同じ“時代物”といっても題材が明治時代で、チャンバラの要素も無い。興業面でも振るわず、何だか企画面で“ハズしてしまった”ような印象を受けるシャシンだ(笑)。

 明治末、熊本にあった九州随一の遊郭“東雲楼”おける女たちの愛憎を描く。監督はベテランの関本郁夫。脚本は松田寛夫によるオリジナルで、撮影に森田富士郎、音楽に佐藤勝という手練れのスタッフを揃えている。しかしながら、出来としてはあまりよろしくない。

 とにかく登場する女たちがとことん頭が悪いのには呆れる。東雲楼の頭である鶴(かたせ梨乃)はシッカリしているように見えて、ロクでもない相場師(津川雅彦)に貢いでしまうし、お茶子頭の志津(斎藤慶子)は、結ばれないとわかっている男(風間トオル)のために鶴の足を引っ張ってしまう。

 借金の返済を間近に控えた銀龍(鳥越マリ)は、理不尽な母親のためにまた借金を重ねる。その他、東雲楼のメンバー全員が目先のことしか考えず(本人たちもそれは承知しているのだが)、結果として自分の首を締めてしまう。彼女たちに出来るのは、福太郎(及川麻衣)のように、ひたすら元気に歌って踊って“ほれほれ見んしゃい”とケツをまくることだけだ。

 何も考えず、バイタリティだけで生きていく女たちは、哀れには思うが同情できない。それを思い入れたっぷりに“こういう女もいじらしくていいでしょ”と差し出す神経は理解の外にある。

 ただ、面白かったのが斎藤慶子と南野陽子の方言ネイティヴ・スピーカー対決(笑)。東映でしか絶対出来ないエゲツなさ全開の応酬で、東京のモンにはわからない異様な熱気が画面に横溢する。この良さがわかるのは地方出身者の特権かもしれない(意味不明 ^^;)。
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「光にふれる」

2014-02-27 06:36:17 | 映画の感想(は行)

 (原題:逆光飛翔 TOUCH OF THE LIGHT )タイトル通り“光にふれる”ようなきらめく映像美を味わえた。同時に、作者の登場人物達を見つめるポジティヴな視点が心地良い。台湾映画の佳編である。

 主人公ユィシアンは生まれつき視覚障害を抱えているが、音楽的才能に溢れ、小さい頃から数々のピアノコンクールで賞を獲得していた。ところが、参加者の心ない中傷によってトラウマを抱え、コンクールへの出場に腰が引けるようになってしまう。そんな彼が台北の音大に視覚障害者として初めて進学する。周囲の学生と教員達は彼にどう接して良いか分からず、ユィシアンは当初ぎこちない学生生活を送ることになるが、音楽サークルの連中やダンサーを目指す少女シャオジエとの出会いを通して、徐々に自分の居場所を見つけるようになる。

 監督のチャン・ロンジーが製作した短編映画「ジ・エンド・オブ・ザ・トンネル(黒天)」を気に入ったウォン・カーウァイがプロデュースを買って出て、長編として仕上げたものだ。

 全盲の天才ピアニストであるホアン・ユィシアンを本人が演じている。まず、目は見えないが心の目は開いている主人公の描き方に無理がないのに感心する。ことさらに大仰に構えたり、いたずらにお涙頂戴に走る様子など、微塵も見せない。ユィシアンにとってこの世界が、多種多様なサウンドに溢れた一つの宇宙のようなものであるように、晴眼者にとっても“ふれる”ことの出来るほどの光に包まれていることを表現している。

 演技経験がほとんどない人物を起用するというのは危険性が伴うが、誰でも“本人”の役は演じられるわけで、そこに徹した作者の冷静さが光っている。キャストの中では主人公の母を演じたリー・リエが良い。ユィシアンが入学した際に何とか人並みの生活を送れるようにと、陰になり日向になりサポートする様子には心を打たれる。

 ヒロイン役のサンドリーナ・ピンナはフランス人とのハーフだが、よく動く身体と豊かな表情で嫌味無く演じきっている。ダンスシーンも手堅い。ユィシアンの父親や妹、ルームメイトになる気の良い太った学生、シャオジエの足を何かと引っ張る母親(注:本人には悪気は無い)など、脇のキャラクターにも目が行き届いている。

 そして驚いたのはダンス講師役のファンイー・シュウだ。世界的なダンサーでもある彼女は、ここでも神業的なパフォーマンスを披露しており、作品を大いに盛り上げる。

 自らの逆境や、負ってしまった心の傷に拘泥して、斜に構えて人生を送るのはつまらないことなのだろう。周囲を見渡せば、興味の尽きない“音”と“光”が満ちあふれている。それを表現するサウンドデザインと映像が絶妙に構築されている本作の価値は、けっこう高い。
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チャイナ・ミエヴィル「クラーケン」

2014-02-24 06:35:45 | 読書感想文
 正直言って、ワケの分からない小説である。しかし“ワケが分からないから、つまらん”と切り捨てる気にもならない。妙な面白さはある。ただその面白さは、普通の娯楽小説のそれとは趣を異にしている。いわば“読み手を選ぶ”書物だと思う。

 主人公のビリー・ハロウが案内人を務めるロンドンの自然史博物館の目玉展示物は、巨大なダイオウイカの標本である。ある日、ガイドとして客を引率していたビリーは、ダイオウイカの標本が水槽ごと忽然と消え失せているのを発見する。早速警察当局が捜査に乗り出すが、ビリーに接触してきたのは通常の肩書きの刑事ではなく、“原理主義者およびセクト関連犯罪捜査班”なる怪しげなセクションに属する捜査官達だった。



 ロンドンの裏社会に跳梁跋扈する魑魅魍魎どもと関わるハメになってしまった男の冒険談で、作者はヒューゴー賞受賞の実績があるイギリスのファンタジー作家チャイナ・ミエヴィル。当初は標本盗難事件を巡るミステリーかと思わせるが、第1章の終わり付近で突然人間にあらざる異形のモノが登場して、これが幻想怪奇小説であることを認識した。

 ただし、登場人物が多すぎる。ビリーを助ける者、敵対する者、あるいは常人の及びも付かない行動規範で勝手にストーリー上に出入りする者、それらが物語が進むにつれて幾何級数的に増えていくのだからやりきれない。しかも、外国文学の文庫版に添付されていることが多い“登場人物紹介”の欄が無い。だからヘンな奴が出てくるたびに“コイツはどの陣営に属しているのか”ということを確かめるため、前のページを参照することが多くなる。結果として、読むのにえらく時間が掛かってしまった。そのことを“面倒臭い”と思う読者ならば、敬遠しても当然である。

 しかしながら、ロンドンみたいな歴史の古い町には、異世界への入り口がそこかしこに開いているという設定は面白い。これがアメリカの都市だったらサマにならないだろう(笑)。さらに、各キャラクターが“濃い”。“海”だの“タトゥー”だのといった、正体不明ながら何となく雰囲気が掴めるようなクリーチャーが遠慮会釈無く闊歩する様子は、ヴィジュアル的なイメージを刺激される(個人的には魔女めいた女刑事がもっと活躍してほしかったが ^^;)。映画化すれば快作に仕上がるかもしれない。

 ミエヴィルには各アワードを獲得した「都市と都市」という代表作があり、機会があればそっちもチェックしてみたいと思った。
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「エレニの帰郷」

2014-02-23 06:51:04 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Trilogia II:I skoni tou hronou)2012年に不慮の交通事故でこの世を去った、テオ・アンゲロプロス監督の遺作である。上映時間が約2時間で、彼の作品としては短い方なのだが、とてつもなく長く感じられる。映画史上に残る傑作をモノにしたこともあるこの監督の最後の作品としては、何ともつまらないシャシンだ。

 ギリシアにルーツを持つアメリカの映画監督が、ローマのチネチッタ撮影所で新作を撮ろうとしている。戦後史と彼の両親の物語とをシンクロさせて描くというその映画は、彼自身の家庭の問題もあり。遅々として製作は進まない。一方で、彼の両親が辛酸を嘗めた戦後のヨーロッパの情勢も平行して綴られる。やがて母エレニと彼女を思い続けた男ヤコブ、そしてエレニが愛したスピロスの3人は現代のベルリンで再会を果たすが、それは悲しい別れへの序曲でもあった。



 とにかく、全体的にアイデアが不足している。この監督が得意にしてきた、極端な長回しや時空を超越したストーリー構成などが、現時点では新鮮さも必然性も失い、単なる“スタイル”に堕していることに落胆する。

 しかも悪いことに、過去のアンゲロプロス作品における“冷徹な事実を中心としての作劇”が影を潜め、個人的な記憶と空想とが勝手気ままに挿入されているため、ドラマが弛緩しきっている。別にそれらのモチーフを採用してはイケナイということはないのだが、各要素の境界線がボヤケているために物語を力強く引っ張ることはない。さらに、珍妙な寸劇みたいなのが何度も唐突に現れ、なおかつ“オチ”もなく放置されているような状況では、ストーリーに入り込むことも出来ない。

 スターリンの死をはじめ、ウォーターゲート事件やベトナム戦争、ベルリンの壁の崩壊などの20世紀後半の大事件は芸も無く羅列されるのみで、そこには何ら映画的高揚感を見出せない。こんな有様でラストのスピロスと孫娘とのシーンで“明日への希望を持ちましょう”と言われても、そうはいかないのだ。



 この監督の映画には珍しく、主役のウィレム・デフォーをはじめイレーヌ・ジャコブ、ミシェル・ピッコリ、ブルーノ・ガンツといった有名俳優を起用しているのも違和感を拭えない。中には臭い小芝居に走ろうとしている者もいたりして、観ていて閉口するばかりだ。無名に近いキャストを採用して、ドラマツルギーの練り上げに専念した方が良かったかもしれない・・・・とは言っても、技巧的にマンネリに陥った感のあったこの監督に多くを期待するのも筋違いのような気もする。

 なお、上映中には途中退場者や居眠りをしている客も目立った。この監督の作品をわざわざ見に来るのはかなりの映画好きであるはずだが、それでもこの体たらくなのだから、あとは推して知るべしである。
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「愛を弾く女」

2014-02-22 06:12:42 | 映画の感想(あ行)
 (原題:UN COEUR EN HIVER )92年フランス作品。主演のエマニュエル・ベアールがヴァイオリンを弾くシーンが、この映画のハイライトであろう。彼女の美しさがクラシック音楽にジャストフィットしているのだが、それ以上に本人が弾いているとしか思えないサウンド合成と演技の上手さ。「コンペティション」でのエイミー・アーヴィングに匹敵する見せ場である。

 天才的ヴァイオリニスト(ベアール)とヴァイオリンの調整工具技師(ダニエル・オートゥイユ)との愛の物語であるが、正確には“愛”と言えるかどうかわからない。思い込み、または片思いの分野に入るかもしれない。カメラは彼の熱いまなざしを追い、またエマニュエルの見つめる目を追うのみ。愛の語らいは目で追う、と言わんばかりだ。



 彼らはたった一度、ほんの数分、喫茶店で世間話をしただけ。もちろん、愛の告白などはナシである。ところが、彼女はこれが“彼の告白”であると信じ、自分の中で彼の存在が大きくなる。そして、出張に出かける自分の彼氏(アンドレ・デュソリエ)に“別れる”と言い出してしまうのだ。

 彼女は、素晴らしく出来のいい演奏が終わったあと彼を誘い出し、抱いてくれと頼むが、彼は“自分にはその資格はないし、そのつもりもない”と断わる。そして彼が本当に彼女が好きだったのか、それともまったくそんな気がなかったのか、という説明はない。

 監督クロード・ソーテは、そんな(見ようによっては未熟とは紙一重の)セックスを含まない大人のプラトニック・ラヴを、丁寧に描く。ヴァイオリンの名曲(ラヴェルのソナタやピアノ三重奏曲など)が実に素晴らしい効果をあげていた。
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「メイジーの瞳」

2014-02-21 06:33:16 | 映画の感想(ま行)

 (原題:WHAT MAISIE KNEW)小林旭の曲の中で“男もつらいし、女もつらい。男と女はなおつらい”という歌詞が出てくるが、今はそれ以上に“つらい”のは実は子供ではないのかということを思い起こさせる一作。ロクでもない親を持ったために辛酸を舐める幼いヒロインの姿は、観ていて本当に“つらい”。

 ニューヨークに住む6歳のメイジーの父親はアートディーラーで、母親はロックシンガーだ。別々に家を空けることの多いこの二人がどうして結婚したのかよく分からないが、案の定“すれ違い”の生活に耐えきれず、やがて離婚する。メイジーは二人の家を10日ごとに行き来することになるが、間もなく両親はそれぞれ若いパートナーを見つけて再婚。しかし、何かと忙しい父母はメイジーの世話を継母・継父に任せっぱなしだ。ある夜、珍しくメイジーの面倒を見ていたはずの母親は、突然コンサート・ツアーに出てしまう。一人っきりになったメイジーは、朝まで寂しく過ごすことになる。

 常日頃から子供をほったらかしにして、たまに優しい言葉を掛けたりプレゼントをすることが“愛情”だと思い込んでいるこの両親の、底抜けに愚かなところには脱力する。ただ、生まれてからこの父母の言動をずっと見てきたメイジーにとって、生きるというのは他人の身勝手さに耐えることなのだと達観している。その様子は痛々しい。

 彼女の聞き分けの良さや大人しさは、決して好ましい個性などではなく、単なる処世術なのだ。それでも、時々我慢出来なくなって悲しそうな表情をするあたりが、観る者をいたたまれない気持ちにさせる。

 原作者は何とヘンリー・ジェイムズで、映画では設定を現代に置き換えているが、たぶん小説の雰囲気は良く出ているものだと思われる(未読なので確かなことは言えないが ^^;)。幸いにもメイジーはやがて本当の両親ではない者達の間で居場所を見つけることが出来るが、世の中にはそうではない子供もいっぱいいることを忘れてはならない。まさに“オヤジもつらいし、オフクロもつらい。でも、顧みられない子供はなおつらい”のである。

 スコット・マクギーとデイヴィッド・シーゲルの演出は丁寧で、子供の視点を借りた大人社会の点描という構図を上手く組み立てている。キャストの中では母親役のジュリアン・ムーアが光っており、“年齢相応の落ち着き”などとは縁のない(笑)奔放な役柄を伸び伸びと演じていた(出来ればロック歌手らしいパフォーマンスを見せて欲しかったが ^^;)。

 メイジーを演じるのは撮影当時本当に6歳だったオナタ・アプリールだが、実に達者な子役だと思う。義理の父母に扮するアレキサンダー・スカルスガルドとジョアンナ・ヴァンダーハムは好印象だ。映像の切り取り方や登場人物達が着るファッション等にも十分目が行き届いている。観て損はない佳作だと思う。
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「マイ・ライフ」

2014-02-17 06:30:23 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MY LIFE )93年作品。もう、何と言っていいのか。主題に対する謙虚さも配慮もへったくれもない、能天気なアメリカ人の“真髄”(?)を見るようでひたすら疲れた。

 ガンで余命いくばくもないビジネスマン(マイケル・キートン)が、残された妻(ニコール・キッドマン)とまだ生まれぬ息子のために自分の姿を必死になってビデオに残そうとする。で、何を撮影して残すのかというと、ヒゲの剃り方とか女の引っかけ方だとかやってる仕事の内容だとか、どーでもいいことばっかり。もしも私が主人公の立場だったら、弱っていく自分の姿をビデオなんかで家族に残したくないね。万一残すんだったら、もうちょっとマシなこと撮るだろう。



 でも、この主人公ならそういうことやってもおかしくない。だってガンにかかっているはずなのに、全然やつれてないから(笑)。とうとう死ぬまで“見た目は健康”の状態が続いたりする。

 さらにシラケたのは、死の恐怖を克服するためか知らないが、怪しげな東洋人のまじない師のところに行ってヘンな“治療”を受けるところ。闇の中から光が見えたりどうのこうのって、まるでワケわかんない。西洋医学では限界らしいから、ちょっとオリエンタリズムに走ってみました、って感じかな(呆)。

 「ロレンツォのオイル」みたいに強烈な求心力もなく、映画はダラダラと流れてお涙頂戴のラストに突入する。せめて、薬漬けで七転八倒させる病院治療に対するアンチテーゼでもあれば少しは見応えもあったのだが、それもなし。

 本作でのキートンは芸がない。ラストにバットマンに変身するぐらいのギャグを飛ばしてほしかった(←何言ってんだ ^^;)。キッドマンは問題外。まるで演技に集中していない。製作元は「ゴースト/ニューヨークの幻」と同じだが、足もとにも及ばない出来。ブルース・ジョエル・ルービンの演出は冗長で、良かったのはジョン・バリーの音楽だけか。
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「アメリカン・ハッスル」

2014-02-16 08:33:51 | 映画の感想(あ行)

 (原題:American Hustle )ストーリーは大して面白くないが、キャラクターの奇天烈さと各キャストの怪演は存分に楽しめる映画だ。

 79年、大規模なカジノを建設中のニュージャージー州アトランティックシティにおいて、ケチな詐欺師のローゼンフェルドとその愛人のシドニーはFBIに逮捕される。だが、野心的な捜査官のディマーソとしては、しがないペテン師をしょっ引くだけでは満足しなかった。そこで司法取引をローゼンフェルドに持ちかける。彼にニセのアラブの大富豪がアトランティックシティに出資するような設定をセッテイングさせ、カジノ利権を狙っている大物汚職政治家たちを一網打尽にしようという筋書きだ。

 FBIはその代表格として市長のカーマインの検挙を目指しているが、カーマインは人間味溢れた政治家で、市民の人気も高い。ローゼンフェルドも彼と親友となり、やむを得ず承諾したこのおとり捜査に、いよいよ嫌気がさしてくる。果たして彼らの運命は如何に・・・・という話だ。

 70年代に起こった収賄スキャンダル、アブスキャム事件を映画化したものだが、まず実際のところこの事件が映画化するほどのドラマ性を持ち得ているのかという疑問を感じる。私もよく知らないのだが、映画を観る限り、さほど波瀾万丈の筋書きがあったわけでもないようだ。少なくとも「アルゴ」みたいな“事実は小説より奇なり”を地で行くようなネタではない。終盤にはドンデン返しらしきものも挿入されるが、カタルシスは極小である。

 ところが、ストーリー展開から目を転じて、登場人物の造型に注目してみると、俄然映画的興趣が大きくなってくる。まず、ローゼンフェルドに扮するクリスチャン・ベイルが凄い。ハゲで典型的なメタボ体型。口臭と加齢臭がダブルで襲ってきそうな外観は、不愉快を通り越して笑ってしまう。演じるベイルの、「マシニスト」「ザ・ファイター」と続いた“極限的肉体改造シリーズ”の一つの到達点だ。

 シドニー役のエイミー・アダムスも強烈。エロくて気性の激しいこのキャラクターを、下品になる一歩手前で演じきっている。ブラッドリー・クーパーは、情緒不安定で上司にも平気で暴力を振るうイカれた捜査官を賑々しいパフォーマンスで見せるし、カーマイン市長に扮したジェレミー・レナーもどこか世間とズレた政治家を正攻法で(?)演じきっている。

 そして、ローゼンフェルドの妻ロザリンを演じたジェニファー・ローレンスは素晴らしい。ロザリンは頭が弱く、周囲とのコミュニケーションが上手く取れない。そのため、相手の興味を何とか惹かせようと、しゃべってはいけない事でも洗いざらい口に出してしまう。この、自分ではどうにもならない性癖に悩みつつも、何とか居場所を見つけようとする振る舞いには説得力がある。ローレンスはこの若さにして演技の“ひきだし”は多く、ますます目が離せなくなってきた。

 デイヴィッド・O・ラッセルの演出は脂ぎっているが(笑)、題材と時代設定を考えれば許容範囲内。それにしても、70年代のファッションというのは“異形のもの”であったことを痛感した。今から見たら冗談としか思えないが、当時はこれが普通だったのだ。まさに“時代は変わる”である。
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日本フィルのコンサートに行ってきた。

2014-02-15 06:54:45 | 音楽ネタ

 去る2月8日(土)に福岡市中央区天神にある福岡シンフォニーホールで開催された、日本フィルハーモニー交響楽団の公演に足を運んでみた。東京都杉並区の杉並公会堂をフランチャイズとする同楽団が結成されたのは1956年で、元々は放送局の専属だったが、紆余曲折(新日本フィルとの分裂騒ぎ等)を経て、2013年から運営形態が公益財団法人になった。なお、私がこのオーケストラを生で聴くのは20数年ぶりだ。

 指揮はフィンランド出身の若手、ピエタリ・インキネンだ。私としては初めて聞く名前だが(笑)、名匠ネーメ・ヤルヴィに師事していたとのことで、期待は持たせる。曲目はシベリウスの交響詩「フィンランディア」と同交響曲第二番、そしてチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番である。

 客演のピアニストとして清水和音を招いてのチャイコフスキーは、残念ながら上出来とは言い難い。さすがに清水のテクニシャンぶりを見せつけるピアノは聴き応えはあるが、オーケストラとのマッチングが悪い。音色がズレたまま終わってしまい、何とも不完全燃焼のパフォーマンスであった。

 対して、素晴らしかったのがシベリウスだ。指揮者がフィンランド生まれだけあり、この作曲家のナンバーを自家薬籠中のものにしている感がある。まず、日本のオーケストラからこれだけクリアで明るい音をよく出したものだと感心した。曲運びは実に清新でキビキビとしている。筋肉質で弛緩したところがない。

 シベリウスの二番は私も大好きな曲だが、なぜか個人的に満足できるディスクが見当たらない。強いて挙げればカラヤンの旧盤だが、さすがに録音が古くなり今では積極的に聴きたいとは思わない。定番と言われるバーンスタイン盤も悪くはないのだが、あまりに演出過多で胃がもたれる。

 今回のインキネン&日本フィルの颯爽とした演奏は、ひょっとして今まで聴いたこの曲の中でも一番ではないかと思うほどだ。速めのテンポで攻めてくるが、余計なケレンは無く、ストレートアヘッドで旋律美を存分に味合わせてくれる。何より透明な響きが心地良い。“深みが足りない”と言う者もいるかもしれないが、純音楽的には目覚ましい訴求力があると思う。

 日本フィルは年一回九州公演を行っているが、次回のコンサートも曲目が良ければ行ってみたい。
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「ザ・イースト」

2014-02-14 19:12:13 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The East)興味深い題材で、作品自体も及第点に達している。いわゆるエコテロリストの生態を描いているが、劇中で扱われている組織はシーシェパードみたいな札付きの無法者集団ではなく、それぞれが“必然性”を持って行動している点が目新しい。しかも、本作のポイントはこのグループよりもそれを取り巻く環境の方に重きが置かれていて、グローバルな問題意識を観客にアピールしていることも勝因だ。

 民間の警備会社ヒラー・ブルードは、通常の警備業務の域を超えたエゲツない荒仕事も手掛け、大手企業を数多く顧客にして業績を伸ばしている。その主なビジネスは、内々に解決したい脅迫やテロなどを事前に潰すことだ。その会社に転職してきた元FBI捜査官のジェーンが最初に得た仕事は、公害企業相手に恐喝を仕掛けてくる環境テロリストグループ“イースト”への潜入調査だった。上手い具合にグループに潜り込んだ彼女だが、やがてそれなりの“正義”を持って行動するメンバーたちに理解を示すようになっていく。

 大義名分こそ持ち合わせている“イースト”だが、やはり青臭い反社会的集団には違いなく、昔のフラワーチャイルドみたいな幼稚なメンタリティを随所に露呈させている。しかし、彼らと敵対するのが警察などの当局側ではなく、ヒラー・ブルードのような民間組織である点が大きな問題だ。

 こういうセキュリティ会社は実在し、大企業の障害になるものを次々と排除していく。だが逆に言えば、クライアントから依頼されていなことは、履行する義理は全くないのである。たとえそれが重大な違法行為に関することであっても目を瞑り、ひたすら顧客と自社の利益だけを考える。警察さえも民営化された近未来を描いたポール・ヴァーホーヴェン監督の「ロボコップ」みたいな世界は、すぐそこに来ているのだ。

 もちろんその背景には、わずかな数の富裕層が国の資産を独り占めしているアメリカの歪んだ状況があるし、グローバリズムという名の収奪システムは全世界を覆う勢いだ。その構図を娯楽作品の中に織り込んだ本作の作劇は、けっこう巧妙だと言える。

 ザル・バトマングリの演出は弛緩したところが無く、緩急付けた展開で最後まで観客を引きつける。ヒロインを演じるブリット・マーリングが出色。初めて見る女優だが、身体も表情もよく動いてこの役を十分練り上げている。この映画の脚本・製作も担当しており、その美貌も合わせて“第二のジョディ・フォスター”との呼び声も高いらしい。エレン・ペイジ、アレキサンダー・スカルスガイド、パトリシア・クラークソンといった脇の面子も良い仕事をしている。

 果たして主人公はテロリスト側に寝返るのか、あるいは本来の職務を全うするのか。映画はそんな大方の予想とは異なる地点に着地する。それは理想主義的だと言われそうだが、作者のポジティヴな姿勢が感じられて、鑑賞後の印象は良好だ。ロマン・バシャノフのカメラによる映像や、ハリー・グレッグソン=ウィリアムズの音楽も要チェックである。
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