元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「もうひとりの息子」

2013-11-30 06:36:52 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Le fils de l'autre)話が御都合主義的に進むのは、似たようなネタを扱った是枝裕和監督の「そして父になる」と同じだ。そして、それが作品の瑕疵になっていないことも共通している。

 テルアビブに住む18歳のユダヤ人の少年ヨセフは、兵役検査で不合格になる。両親との血液型が一致しないというのだ。調べてみると、同じ病院で同じ日に生まれたヨルダン川西岸に暮らすパレスチナ人の少年ヤシンと、出生の際に取り違えられたことが明らかになる。ヨセフとヤシン、そしてそれぞれの家族は、大きな苦難に直面することになる。

 監督はユダヤ系フランス人のロレーヌ・レヴィ。舞台がイスラエルで、取り違えられたのがユダヤ人とパレスチナ人。しかも18年の月日が流れている。さらには、信教の問題もある。ヨセフはラビ(ユダヤ教の聖職者)に相談するものの、ラビは“改宗するしかないだろう”という言葉しか返せない。なぜなら、ユダヤ教は単なる宗教ではなく、ユダヤ人のアイデンティティだからだ。

 しかし、この映画の設定は主人公達にとって好都合に出来ている。ヨセフの父は軍人で、子供に対する躾は厳しいが、一方で面倒見はとても良い。母親はフランス生まれで、リベラルな考えを持ち合わせている。ヤシンの父は今は不遇な立場だが、元々は腕の良いエンジニアだ。母親も典型的な良妻賢母タイプ。つまりは、どちらの両親もマトモな人物なのだ。

 父親同士がイスラエルの政策を巡って口論になったり、ヤシンの兄が拗ねたりするが、それが後々尾を引くような重大なトラブルに繋がることはない。何より、当の二人がともに気の良い若者であり、打ち解けるまでにそう時間は掛からなかったりする。誰がどう見たってこれは“ラッキーなケース”だと思うだろう。

 ただし“話が出来すぎているから、事の重大さが十分に伝わらない!”と指摘するのも野暮だ。作者は殊更にシビアなタッチを打ち出すことなど、最初から不要であると判断している。これは送り手が、登場人物達を信じ、人間を信じ、そして世の中を信じていることの証である。さらには、混迷するパレスチナ情勢も必ず解決し、必ず平和に暮らせる日が来ると信じている。この徹底したポジティヴ思考が映画のテーマに一本芯を通し、小賢しい批判をも跳ね返す力強さを与えたといえよう。

 キャストは皆好演。特にヨセフの母親を演じるエマニュエル・ドゥヴォスの深い人間性を表現するパフォーマンスには感心した。2012年の東京国際映画祭で大賞と監督賞を受賞。見応えのある佳編である。
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「ジャズ・シンガー」

2013-11-29 06:29:19 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Jazz Singer )80年作品。今年(2013年)に駐日アメリカ大使として着任したキャロライン・ケネディをモチーフにしたナンバー「スイート・キャロライン」を作ったのはニール・ダイアモンドだが、その彼が主演したのが本作。世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」のリメイクである。

 サントラは大ヒットし、おかげで本国では映画の入りも悪くなかったのだが、出来の方は芳しくない。なお、ダイアモンドはこの作品によりゴールデンラズベリー賞にノミネートされた(笑)。



 有り体に言えば歌手の道を目指そうとする青年のサクセス・ストーリーであるが、ドラマ運びが田舎芝居風に大味。終盤なんか安手のメロドラマだ。リチャード・フライシャー及びシドニー・J・フューリーの演出は凡庸に過ぎ、盛り上がるべきところがさっぱり観ている側に届かない。

 しかも、主人公の屈託の原因がユダヤ教先唱者の息子だという宗教ネタである点が気勢を削ぐ。別にそういう題材を取り入れてはイケナイということでもないが、これがまた当事者にしか分からないような範囲で展開するのみ。ほとんどの観客には“関係のない”事柄だ。

 ダイアモンドの演技は絵に描いたような大根で、脇にローレンス・オリヴィエという大御所を配していながら、それに応えるパフォーマンスを見せていない。ただ、テーマ曲の「アメリカ」をはじめ「ラヴ・オン・ザ・ロックス」「ハロー・アゲイン」といったナンバーはさすがに見事だ。レナード・ローゼンマンによる劇中音楽も悪くない。早い話が、主演をダイアモンド以外の“ちゃんとした俳優”に振り、宗教ネタを抑えて演出をリズミカルにすればもっと良い映画になったはずだ。
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LUXMANの管球式アンプを試聴した。

2013-11-26 06:46:07 | プア・オーディオへの招待
 LUXMANの新型プリメインアンプ、LX-32uの試聴会に足を運んでみた。この機種は同社が展開するソリッドステート型のL-500番台のシリーズとは違う、真空管式のアンプだ。エクステリアも木箱に入ったレトロ調。以前リリースされていたSQ-38uの後継モデルと言うべき存在である。

 ただしLX-32uは純粋な管球式ではなく、トランジスタ式とのハイブリッドである。コントロールアンプ部分はソリッドステートで、パワーアンプは真空管が使われている。そのためか、真空管式アンプに対する一般的なイメージである柔らかさやウォームトーンとは少し距離を置いた音作りが成されている。



 低い出力しか得られないEL84型と呼ばれる形式の真空管を使用しており、パワーも15W×2(8Ω)と控えめだ。しかし、米国JBL社のS3900という大型機種を朗々と鳴らしている。このスピーカーが高能率であることを勘案しても、LX-32uの駆動力は不足感が無いことが示される。

 音像自体は管球式アンプのイメージそのままに輪郭がマイルドで艶やかな印象を受けるが、スッと広がる音場の清涼感は、新型のデジタルアンプを思わせる。聴感上のレンジも広い。感心したのは低域の再現性で、L-500番台のモデルで鳴らしたS3900のサウンドよりも、量感が勝っているところもある。

 試聴会では必ずしも幅広い種類のソースを再生してくれるわけではないが、この音色はジャンルを選ぶような感じはない。また今回は一種類のスピーカーしか繋げなかったが、スピーカーの選り好みはしないタイプだと見た。少なくとも、レトロ路線の上位機種であるL-305(こちらはトランジスタ型)よりも汎用性は高いと予想する。

 特筆すべきは外観で、基本コンセプトはSQ-38uと同じながら、ツマミの形状や配置がよく考えられており、SQ-38uよりもずっと上質に見える。アルミ削り出しのノブも高級感を醸し出す。



 さらに同機は価格が27万3千円である。L-305よりも安い。もちろん一般世間的な相場では十分に高価格機なのであるが、この性能を考えると思い切ったプライスだ(ちなみに、れっきとしたメイド・イン・ジャパンである)。

 正直言って欲しくなったが(笑)、長年使っていたACCUPHASEのアンプがオーバーホールでリファインされて戻ってきたため、当分はアンプの買い換えは控えなければならない。ただ心のどこかで“サブ・システム用に一台・・・・”という“悪魔の声”も聞こえているようで、油断出来ない今日この頃である(爆)。

 なお、同社のアナログプレーヤーであるPD-171のデモも行われていた。シッカリと作られており、見た目の質感は高い。モーターもトーンアームも同モデルのために開発されたものだ。しかしながら、定価40万円は容易に手を出せるプライスではない。おそらく、80年代前半で同じような定格を持つ製品がリリースされたとすれば、20万円以下の価格設定だろう。昨今はアナログの復権が取り沙汰されているが、まともに使えるプレーヤーは高価だ。まあ、需給関係を勘案すれば仕方がないのかもしれない。
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「42 世界を変えた男」

2013-11-25 06:31:47 | 映画の感想(英数)

 (原題:42)薄味かつ大味な映画だ。ただ考えてみると、こういう偉人伝を扱ったハリウッド映画において納得できるものに出会ったことはあまりない。ひょっとすると企画前の段階で“この人は実にエラかった”という定説が確定してしまい、映画独自の視点で掘り下げる余地がないのかもしれないが、いずれにしても凡作だ。

 メジャーリーグ初の黒人選手であったジャッキー・ロビンソンの伝記映画。1947年、ドジャースのゼネラル・マネージャーであるブランチ・リッキーは、新戦力を求めて黒人リーグの選手達に目を付けた。その中でガッツ溢れるプレイで人気を博していたジャッキー・ロビンソンを選出し、入団させる。

 しかし当時の人種差別は激しく、ジャッキーにとって苦難の日々が続く。球場の入場口はもちろん、公衆トイレなども黒人と白人とは別。ジャッキーが打席に入ると、聞くに堪えない罵声がスタンドや相手チームから浴びせられる。デッドボールを故意にぶつけられるのも珍しくはない。こんな理不尽なことが、ほんの数十年前まで行われていたとは、何ともアメリカというのは野蛮な国だ。

 今では彼が付けていた背番号“42”は全チーム共通の永久欠番になり、偏見は無くなったような雰囲気ではあるが、表立った差別が見られなくなっただけで実際はエゲツないことが陰で行われているのだろう。

 映画は辛酸を舐めていた主人公が次第に周囲の理解を得て、チームの主力としての地位を得るまでを淡々と描く。観る者のハートを鷲掴みにするような激しいパッションも、登場人物が抱くヒリヒリするような苦悩も、まったく見られない。ただ事実を漫然と羅列していくだけだ。ブライアン・ヘルゲランドの演出は凡庸そのもので、作劇にメリハリを付けるということを知らないかのようだ。

 さらに困ったのは、試合のシーンが面白くないこと。カメラワークもカット割りも落第。ケレン味を効かせて盛り上げるべき箇所が平板な展開に終始してしまうのは、実にやりきれない。

 主演のチャドウィック・ボーズマンは面構えは良いが、それを活かすような演出が不在であるため手持ち無沙汰の感さえある。妻レイチェルを演じるニコール・ベハーリーも可愛いけど大した見せ場を与えられていない。

 唯一目立っていたのがブランチ・リッキーに扮するハリソン・フォードで、この海千山千のキャラクターを貫禄たっぷりに演じている。ただし、内面にまで踏み込んでくるような部分はなく、もっと上手い監督ならば、さらに存在感は増したと思われる。時代考証とマーク・アイシャムの音楽だけは万全だが、全体的にあまり積極的に評価したくなるようなシャシンではない。
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「U2 魂の叫び」

2013-11-24 07:01:57 | 映画の感想(英数)
 (原題:U2 Rattle and Hum )88年作品。アイルランド出身の世界的ロックバンド・U2が87年におこなった全米公演“ヨシュア・トゥリー・ツアー”を追ったドキュメンタリー映画。出来としては中途半端だ。

 メンバーがツアーの合間に見せる素顔を収めたパートが必要以上に長い。もちろん、そこで面白いエピソードが披露されるのならば文句は無いが、これがまあカメラを漫然と回しているだけで、メリハリが感じられないのだ。B・B・キングとの掛け合いや、黒人教会でのゴスペルに参加したりするくだりは盛り上がって然るべきだが、画面に力感が無く退屈な時間が流れるだけである。メンバーへのインタビューにしても、何か興味深い話が聞けるわけでもない。



 監督はフィル・ジョアノーが担当しているが、アメリカ出身でアクション派の彼に合った素材とも思えない。地元アイルランドか、少なくともイギリスの演出家を持ってくるべきではなかったか。

 ただ肝心のライヴ場面だが、これが掛け値無しに凄いと言える。まさに邦題通りの“魂の叫び”が感じられる優れ物。エッジのギターは天を翔け、ボノのヴォーカルはパワフルに響き渡る。全編コンサートのシーンで埋め尽くした方がよっぽど良かった。

 余談だが、今思い返してみれば80年代のロック・シーンはつまらなかった。毒にも薬にもならない“産業ロック”が幅を利かし、U2のような骨太なパフォーマンスを披露してくれるバンドはごくわずか。私も、この頃はロックのレコードやCDはほとんど買わず、クラシックのディスクを集めるのに専念していたことを思い出す(本作のサントラ盤は購入しているが ^^;)。

 なお、私はこの映画を福岡の中洲の映画館で観たのだが、あまりの音の悪さに閉口したことを覚えている。現在ではブルーレイディスクでもリリースされているので、最新のAVシステムで再見してみたい。
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「蠢動 しゅんどう」

2013-11-23 07:04:41 | 映画の感想(さ行)

 本格派時代劇としては物足りない出来だ。少なくとも、監督の三上康雄が心酔するという、小林正樹監督の諸作に比べれば見劣りする。ただし「最後の忠臣蔵」とか「桜田門外ノ変」とかいった昨今の腑抜けた作品群よりはいくらか上だ。しかも、小林正樹の「切腹」と同じく現代に通じる風刺性を獲得していることもポイントが高い。その意味では観る価値はある。

 享保年間。山陰の因幡藩に、剣術指南役として松宮なる男が幕府から派遣されてくる。この太平の世に武術指導者が必要なのかと訝る家老の荒木だが、やがて松宮が藩の内情を探るためにやってきた隠密らしいことを察知する。藩の隠し財産を幕府に知られると、取り潰しの危険がある。荒木は悩んだ末、剣術師範の原田とその弟子の香川の関係性に目を付け、これを利用して松宮の謀殺を図ろうとする。

 武士道とは正反対の私利私欲に満ちた汚い世界に足を取られる主人公達と、彼らを待つ過酷な運命を容赦ないタッチで描く三上の演出は、確かに小林正樹の影響を色濃く受けている。画面は清涼かつストイックで、これ見よがしな映像ギミックもない。静的な芝居が目立つ中盤までの展開と、ラスト近くの斬り合い場面とのコントラストは素晴らしい。

 だが、クライマックスの山中での立ち回りは、積もった雪で足を取られて登場人物達がうまく動けないという設定を勘案しても、あまりにも下手な殺陣である。もっと段取りを詰めるべきであった。

 さて、本作の時代設定は8代将軍の徳川吉宗による享保の改革の実施時期である。吉宗は数々の施策を打ち出した気鋭の政治家として今では人気の高い政治家であるが、実はこの改革は幕府の財政再建政策に過ぎない。彼は年貢の収納方法を従量課金から定額制に移行させ、実質的には増税政策を採用した。

 この映画で描かれる幕府隠密は各藩が隠し持っていた稲作地を調べ上げようとしているが、それを課税対象と見なしてその分を上納金にさせようというのが幕府の狙いだ。理不尽な増税路線が大手を振って罷り通った末、質素倹約が合言葉となり消費が激減。それまで好調だった景気は落ち込み、江戸の街も閑散となったという。まるで橋本政権時の消費税増税による不況到来と一緒ではないか。

 その失敗例があるにもかかわらず、政府はまたも消費税率を上げることを決定した。実業家でもあった三上監督だからこそ、この“改革”とか“財政再建”とかいうスローガンの中身の無さを映画のモチーフとして取り入れたと想像する。

 低予算の映画なので人気俳優などは出てこないが、それでも若林豪に目黒祐樹、中原丈雄、栗塚旭、そして若手の脇崎智史といった地味だが力のあるキャストが集まっている。特筆すべきは原田役の平岳大の快演で、二世俳優として色眼鏡で見られることを跳ね返すほどの存在感を見せている。それから、ほとんどBGMの無い作劇ながらクライマックスで和太鼓の連打が挿入されるあたりの効果は絶大であった。
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耶馬溪に行ってきた。

2013-11-22 06:53:05 | その他
 大分県中津市にある景勝地、耶馬溪に行ってみた。山国川の上流域に展開する渓谷で、耶馬日田英彦山国定公園の中核を成す。耶馬溪は地域によっていくつかの景勝ポイントが存在する。菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で描かれる“青の洞門”が有名な本耶馬渓には以前行ったことがあるが、今回は耶馬溪のなかで最も風光明媚と称される“一目八景”がある深耶馬溪まで足を伸ばしてみた。



 深耶馬溪は山国川の支流である山移川に沿った景勝地で、“一目八景”は、8つの奇岩が一望できることから名付けられたという。この時期に行ってみたのは、もちろん紅葉見物のためである。断崖を彩る楓や銀杏が実に美しい。ちょうど日が傾いた頃に着いたせいか、山肌が夕陽に映えて艶やかな様相を見せる。

 ただ、週末で周囲は大渋滞。駐車場も満杯で行き帰りにかなりの時間を要してしまった。まあ、仕方が無いけど(^^;)。



 本耶馬渓と深耶馬溪の他にも、裏耶馬渓や奥耶馬渓、椎屋耶馬渓など、この地区には数々の絶景がある。機会があれば、それらも訪ねてみたいものだ。なお、土産としてそば饅頭を購入。かなり山イモが練り込まれており、滑らかな食感で大いに満足した。
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「グランド・イリュージョン」

2013-11-18 06:44:53 | 映画の感想(か行)

 (原題:NOW YOU SEE ME)テンポの良い展開とキレのある演出により中盤までは快調に飛ばすのだが、ラストが腰砕け。これだけ大風呂敷を広げたのだから、もっと観る者をアッと言わせるような仕掛けを用意して欲しかった。

 凄腕マジシャン4人からなるイリュージョニスト・グループ“フォー・ホースメン”は、ラスベガスのショーの真っ最中に遠く離れたパリの銀行の金庫に忍び込み、大金を奪うという離れ業を見せる。続くニューオーリンズの公演では、私腹を肥やす大手保険会社の社長から金をくすね取り、本来保険金を受け取るべき人々に分配して喝采を浴びる。

 FBI捜査官のディランと、インターポールから派遣されたフランス人エージェントのアルマは彼らを追うが、シッポを掴むことさえ出来ない。やがて“フォー・ホースメン”は、ニューヨークで最後のステージを敢行すると宣言。当局側とのバトルはクライマックスを迎える。

 4人のイリュージョニストはそれぞれに得意技を持ち、またキャラも立っている。対する捜査陣の面々も良く描けていて、警察内部のしがらみに悩みながらもガムシャラに犯人を追う様子が無理なく示される。さらに、マジックの種明かしを生業にしているというサディアスとその一味も絡み、事態は三つ巴の様相を呈してくる。

 ルイ・レテリエ監督の仕事ぶりは実に歯切れが良く、ケレン味たっぷりのカメラワークを“やり過ぎ”一歩手前で踏み止め、アクション場面は存分に盛り上げる。特にディランと“フォー・ホースメン”の一人がアパート内で組んずほぐれつの格闘を展開し、さらにカーチェイスに雪崩れ込んでいくあたりは、手に汗を握らされた。またサディアスによって明かされる犯人の手口の数々も、思わず“なるほどっ”と膝を打ちたくなる。

 ところが、終盤で“フォー・ホースメン”の目的とその“黒幕”が紹介されるくだりになると、映画的興趣は一気に後退する。彼らはこんなマイナーすぎる理由に荷担するために、派手な犯罪行為を展開していたのかと思うと、脱力するしかない。その程度の動機ならば、もっと違う手っ取り早い方法があるようにも感じるのだが、作者は意に介さないらしい。余計なエピローグにも溜息が出る。

 ジェシー・アイゼンバーグ、マーク・ラファロ、モーガン・フリーマン、ウディ・ハレルソン、マイケル・ケイン、メラニー・ロランとキャストは多彩。各々に見せ場もある。それだけに、脚本の練り上げ不足が気になる。なお“フォー・ホースメン”のメンバーの一人に扮するデイヴ・フランコはジェームズ・フランコの弟らしい。兄に似て、こちらも面構えは良い。今後の活躍が期待出来る。
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「オン・ザ・ロード」

2013-11-17 06:46:20 | 映画の感想(あ行)
 82年作品。製作は独立プロのジョイパックフィルム・ムービー・ブラザーズだが、配給は松竹が担当し、大林宣彦監督の「転校生」との二本立として公開された。

 白バイ警官である哲郎は、飲酒運転の車を追いかけている途中に、若い女の乗っていたスクーターに接触して転倒させる事故を起こしてしまう。哲郎の上司は相手は軽傷で大したことは無いと言うが、後に彼は相手の女性・礼子が実は重傷であり、退院後も歩行障害が残るためにファッションモデルの仕事を辞めざるを得なくなっていたことを知る。

 姉に付き添われて車で故郷に帰る礼子を、哲郎は謝罪するためにバイクで追いかける。ただそれは警察官としては越権行為であり、警察当局は哲郎を職務違反として追跡する。



 低予算映画ではあるが、展開はスピーディで退屈させない。映像面でも見せ場が多く、特に関門橋で検問を突破するあたりのキレ味はかなりのものだ。しかし、残念ながらあまり脚本が練られていない。

 職場を離脱した警察官が勝手に追いかけてきて、しかもそいつは“謝りたい”としか言わないというのは、どう見たってストーカーの一種だろう。映画は後半になると哲郎と礼子の間にロマンスらしきものが漂い始めるのだが、その背景がまったく描かれていない。こんな調子でラストに大立ち回りを演じてもらっても、観る方は納得しないのだ。

 なお、監督はピンク映画出身で本作が一般映画のデビューとなった和泉聖治。現在は「相棒」シリーズなどを手掛けていて、この頃に世に出た映画作家の中では成功した部類だろう。主演もこれが映画初出演だった渡辺裕之で、無骨ながら演技は及第点だ。

 ちなみに、彼が2007年に高速道路上で人命救助を行った際、駆けつけた警官に“「オン・ザ・ロード」を見てました”と言われたという(笑)。ヒロイン役の藤島くみはあまり印象に残らないが、姉に扮した秋川リサが女傑的な存在感を見せつける。
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「熱波」

2013-11-16 07:16:09 | 映画の感想(な行)

 (原題:Tabu)どんなに波瀾万丈の人生であっても、いかにドラマティックな体験をしようと、最後は皆死の床に就く。激しい恋も、大いなる野望も、最期の時を迎えれば全てが過ぎ去った日々だ。それどころか、山あり谷ありの非凡な人生を送った者ほど、人生の終盤が誰からも顧みられないものである場合、その落差に愕然とし逡巡する。人の一生の玄妙さを綴ったミゲル・ゴメス監督による佳編。観る価値はある。

 映画は二つのパートに分かれる。第一部「楽園の喪失」は現在のリスボンが舞台になる。一人暮らしの中年女ピラールのアパートの隣室には、短気でギャンブル好きの老女アウロラが無口なメイドのサンタと住んでいる。アウロラは偏屈で刹那的。とても付き合いきれない人物だ。娘が一人いるらしいが、ロクに面会にも来ない。

 ピラールはそんな彼女の面倒を幾度となく見るのだが、ある日アウロラは病に倒れる。彼女は死ぬ前にある人に会いたいと告げるのだが、それは今では老人ホームに入っているベントゥーラという男だった。アウロラの死後、彼はピラール達に若い頃アフリカで過ごした二人の危険なアバンチュールについて語るのだった。

 第二部の「楽園」はベントゥーラの一人称によって、遠い過去の出来事が綴られる。正直言って、第一部はあまりにもドラマ運びが淡々としていて退屈である(眠気さえ覚えた ^^;)。しかし、それはすべて熱いパッションに満ちた第二部への“伏線”だったのだ。

 アフリカの旧植民地、若きアウロラは実業家の夫と共にこの地にたどり着く。事業は成功し、前途洋々に見えたある日、彼女は流れ者のベントゥーラと知り合う。アウロラが野性的な彼に惹かれたことに端を発する愛憎のドラマが展開。二転三転する筋書きは、思わぬ悲劇で幕を閉じる。

 第二部は音楽とサウンド・エフェクトのみで登場人物のセリフは一切流れない。老いたベントゥーラのナレーションのみだ。もちろんそこで語られるものは彼自身の追想であり、客観的な事実では有り得ない。しかし、アウロラの過去は現在の姿からは想像も出来ない、別世界のものであることは示される。彼女の“心”は、この頃に息絶えてしまったのだ。

 不遇な日々と折り合いを付けながらも何とか生きているピラールやサンタと、遠い時代に“自分”を置いてきてしまったアウロラそしてベントゥーラとは、一体どちらが幸せなのだろうか。そんな想いが充満し、いたたまれない気持ちになった。

 ミゲル・ゴメスの演出は強靱で、盛り上がるべきところでも全く破綻を見せない。テレーザ・マドルーガやアナ・モレイラ、カルロト・コタらキャストの仕事ぶりも申し分なく、何よりモノクロ画面の清冽な美しさが強く印象に残る。
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