元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

上の空で選んでしまった2019年映画ベストテン。

2019-12-30 06:28:22 | 映画周辺のネタ
 毎度のことだが、ここで2019年の個人的な映画ベストテンを発表したいと思う(^^;)。

日本映画の部

第一位 デイアンドナイト
第二位 メランコリック
第三位 愛がなんだ
第四位 よこがお
第五位 チワワちゃん
第六位 楽園
第七位 アルキメデスの大戦
第八位 さよならくちびる
第九位 最初の晩餐
第十位 半世界



外国映画の部

第一位 2人のローマ教皇
第二位 アベンジャーズ エンドゲーム
第三位 マリッジ・ストーリー
第四位 アイリッシュマン
第五位 存在のない子供たち
第六位 工作 黒金星(ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男
第七位 天才作家の妻 40年目の真実
第八位 アクアマン
第九位 家族を想うとき
第十位 スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム



 邦画に関しては、やっと10本揃ったという感じだ。言い換えれば、このうち一本でも欠ければベストテンは選べなかった。それだけ日本映画は低調であった。何より、現実を直視するような題材を取り上げた作品が少ないのが痛い。周囲を見渡せば、いくらでもアップ・トゥ・デイトで掘り下げる価値のあるネタが転がっているにも関わらず、作り手の多くはそれらを無視して毒にも薬にもならないシャシンを垂れ流している。

 対して、隣の韓国では切迫した社会派作品を次々と繰りだし、またそれがヒットしているという。彼の国に対してはいろいろと思うところがあるが、こと映画作家の意識の高さについては大差をつけられた感じだ。

 アメリカ映画では何といってもNetflixの台頭が印象的だった。既存の映画会社が手を出しにくい、あるいは興行に乗せるのを躊躇するような企画をあえて引き受け、大きな成果を上げている。劇場公開はどうしても限定的になるが、無理してでもチェックする必要性を強く感じる。今後の展開に注目したい。

 なお、以下の通り各賞も選んでみた。まずは邦画の部。

監督:藤井道人(デイアンドナイト)
脚本:澤井香織、今泉力哉(愛がなんだ)
主演男優:山崎努(長いお別れ)
主演女優:筒井真理子(よこがお)
助演男優:成田凌(愛がなんだ)
助演女優:市川実日子(よこがお)
音楽:ユップ・ベヴィン(楽園)
撮影:相馬大輔(チワワちゃん)
新人:玉城ティナ(惡の華)、田中征爾監督(メランコリック)、常盤司郎監督(最初の晩餐)

 次は洋画の部。

監督:フェルナンド・メイレレス(2人のローマ教皇)
脚本:クリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリー(アベンジャーズ エンドゲーム)
主演男優:ジョナサン・プライス(2人のローマ教皇)
主演女優:グレン・クローズ(天才作家の妻 40年目の真実)
助演男優:ジョー・ペシ(アイリッシュマン)
助演女優:ローラ・ダーン(マリッジ・ストーリー)
音楽:タチアナ・リソフスカヤ(永遠の門 ゴッホの見た未来)
撮影:ディック・ポープ(ピータールー マンチェスターの悲劇)
新人:チャーリー・プラマー(荒野にて)、ジュリア・バターズ(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド)

 ついでに、ワーストテンも選んでみた(笑)。

邦画ワースト

1.新聞記者
 もはや日本映画は、かくも低レベルの“社会派”作品しか提示出来ないのかと思い、落胆するばかりだ。
2.天気の子
3.カツベン!
4.蜜蜂と遠雷
 音楽を理解していない者たちが音楽映画を手掛ける不思議。
5.宮本から君へ
6.台風家族
7.ひとよ
8.轢き逃げ 最高の最悪な日
9.居眠り磐音
10.まく子

洋画ワースト

1.主戦場
 イデオロギー先行の題材に目がくらみ、映画の出来自体に言及しない風潮に、危ういものを感じた。
2.女王陛下のお気に入り
 それにしても、2019年度の米アカデミー賞は(前回に続いて)低調だった。
3.ファースト・マン
4.ターミネーター:ニュー・フェイト
5.トイ・ストーリー4
6.ゴールデン・リバー
7.バーニング 劇場版
8.キャプテン・マーベル
9.サスペリア
10.メリー・ポピンズ リターンズ

 ローカルな話題としては、TOHOシネマズ天神本館が2017年に閉館して以来、福岡エリアのスクリーンの絶対数が足りない状況が続いてきた。だが、2020年にはそれが幾分解消できるような話を聞いている。期待したい。
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「カントリー」

2019-12-29 06:33:37 | 映画の感想(か行)
 (原題:COUNTRY )84年作品。派手な見せ場はなく、展開も抑揚に乏しいと思われるのだが、題材は興味深い。30年以上前の映画ながら、現在のアメリカの状況を暗示しているような内容だ。また各キャストも持ち味を発揮している。

 アイオワで農家を営むギルとその妻ジュエルは、小麦を収穫中に竜巻に襲われる。危うく難を逃れた2人だったが、収穫は激減してしまう。更生局はそんな彼らを助けるどころか、収穫代金を差し押さえる。地方管理官のフォーダイスからは、家や土地を手放して負債の精算をすすめられる始末だ。隣家の夫婦は自己破産に追い込まれ、ギルの助力もむなしく一家の主であるアーロンは自ら命を絶ってしまう。



 更生局は容赦なく収穫減額分の督促状をギルに送り付けるが、ギルはヤケを起こして家出。残されたジュエルは、父親のオーティスに励まされ、理不尽に競売を断行しようとする更正局と戦うことを決心する。彼女は同じ窮乏に喘ぐ農家を一人一人説得し、当局側と対抗すべく結束する。

 20世紀に入ってフロンティアの時代はとうに過ぎ、農民たちは目の前に広大な土地を見せつけられても、自身では開拓はできない。事業を始めるには資金がいる。当局側や金融機関は気前よく貸し付けているように思えたが、天災などで上手くいかなくなると全責任を農民たちに押し付け、資金の回収に走る。

 そんな理不尽な図式は現在も尾を引き、今や大規模化や機械化・省人化投資ができる大資本でなければ、この地域では農業は採算が取れないらしい。当然、一般ピープルの不満は募る。そんな中西部ラストベルトの状況に付け込んで票を掘り起こしたのがトランプの一派なのだろう。

 映画ではジュエルの奮闘により事態は好転する兆しを見せる。だが、それはあくまでも“局地的”なもので、全体を覆う抑圧的な空気はそのままだ。トランプ政権がこの状態をどれほど改善したのかはハッキリと分からないが、基本的な図式は変わらないと思われる。

 リチャード・ピアースの演出は地味だが、ドラマ運びに破綻は見られない。主演のジェシカ・ラングとサム・シェパードは力演で、当時2人は私生活でもパートナーだった。デイヴィッド・M・ウォルシュのカメラがとらえた中西部の風景は素晴らしく、チャールズ・グロスの音楽も効果的。特にサントラ盤は、当時トレンディ(?)だったウインダム・ヒルレーベルのミュージシャンを多数動員していたことを思い出す。
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「2人のローマ教皇」

2019-12-28 06:30:27 | 映画の感想(英数)

 (原題:THE TWO POPES )見事な出来栄えで、感服した。新旧ローマ教皇の対話劇という、キリスト教には縁のない多くの観客にとって興趣に乏しい題材と思えるが、実際に接してみるとドラマの深みと厚みに圧倒される。しかも、適度なユーモアが挿入され、作劇のテンポも良く、幅広い層にアピールするだけの仕掛けも持ち合わせている。まさに映画のプロの仕事だ。

 2012年。バチカンでは教皇宛の告発文書がリークされる事件(バチリークス・スキャンダル)や長年疑惑が持たれていたマネーロンダリング、さらには頻発するカトリック教会の性的虐待事件などの責任を取り、教皇ベネディクト16世は退位する決心を固めていた。彼が後任候補に選んだのは、アルゼンチンのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿である。だが、ホルヘはカトリック教会の方針に不満を抱いており、枢機卿の座までも降りようとしていた。ベネディクト16世はホルヘをバチカンに呼び寄せ、説得を試みる。719年ぶりに起こった、ローマ教皇の生前退任と禅譲の経緯を描く。

 現時点で現教皇はもちろん前教皇も健在で、2人の実際の映像が挿入される箇所もある。だから余計な忖度めいたものが介入するのかと思ったが、それは杞憂に終わった。主人公の2人のプロフィール、特にホルヘの激動の半生を描くパートは実にドラマティックであり、映画的興趣にあふれている。

 76年にアルゼンチンの軍事クーデター時に、ホルヘは結果的に同胞を裏切る行為に走ってしまう。軍政が終了した後は長らく“左遷”扱いになり、やっと国内のカトリック勢力の中央に復帰したのも束の間、理不尽なバッシングにさらされる。彼は恋人との仲を諦めてまで聖職に身を投じ、真に世のため人のためと思ってやったことが裏目に出たという苦悩。バチカンからのオファーを最初は断ったのも、当然だと思わせる。

 対するベネディクト16世にしても、ドイツ出身であることで時にファシスト扱いされ、度重なる教会の不祥事に有効な手段を講じることができなかったディレンマがある。そんな脛に傷を持つ2人が対峙し、教会のあるべき姿とは何なのか、教皇はどういう役割を果たすべきか、とことん話し合って合意に至る。そのプロセスが平易に綴られると共に、宗教の果たす役割という深いテーマまでもが浮き彫りになる。

 とはいえ、本作には晦渋な展開は皆無だ。2人はピアノ演奏やピザの昼食を共に楽しみ、ポジティヴな姿勢を崩さない。そして、絶対に事態は好転すると信じている。この2人が教皇であったことが幸運と思えるほどだ。

 フェルナンド・メイレレスの演出は格調が高く、しかも柔軟な語り口を伴っている。ホルヘ役のジョナサン・プライス、ベネディクト16世に扮するアンソニー・ホプキンス、共に名演。そして若い頃のホルヘを演じたフアン・ミヌヒンのパフォーマンスも素晴らしい。なお、この作品もNetflix扱い。今後はこの配信サービスの重要性がますますピックアップされるだろうが、劇場公開のプロセスも踏んで欲しいと思っているのは私だけではないだろう。
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「カツベン!」

2019-12-27 06:52:00 | 映画の感想(か行)
 まったく面白くない。それどころか、神経を逆撫でされて愉快ならざる気分になる。いくら周防正行監督がここ約10年間不調だったとはいえ、今回は題材が映画そのものであり、映画人としてはまさかこのネタでスベるはずがないと予想していたのだが、甘かった。もはやこの監督に多くを期待するのは、無理な注文であると確信した次第。

 大正初期。関西の小さな町に住む俊太郎は、子供の頃から活動弁士になることを夢見ていたが、大人になってやっていることといえば、映画興行の一座を装った窃盗団のニセ弁士だった。警察に追われた際に一味が奪った大金と共に逃げ出した俊太郎だが、彼が流れ着いた先は隣町のライバル映画館に押されて閑古鳥が鳴いている青木館だった。そこで住み込みで雑用を任される彼に、専任弁士のピンチヒッターとして観客の前に立つチャンスがめぐってくる。



 けっこうな額の金を手にしていながら、主人公は高飛びすることもなく、この地域をウロウロしているのがまず納得出来ない。一味のボスをはじめ、それを追う警部も近くにいるにも関わらずである。しかも青木館には伝説の名弁士がいて、若手女優は専任弁士と交際しており、映画監督も当地に滞在しているという、この超御都合主義には呆れるばかりだ。

 後半は金をめぐる追っかけ劇になるが、これが緊張感のカケラも無い。繰り出されるギャグも、滑ったの転んだのという低レベルなものばかりで、弛緩した段取りも相まってクスリとも笑えない。だいたい、弁士に憧れていながら長じて平然と泥棒の片棒を担いでいた俊太郎に、感情移入出来る余地などありはしない。

 そして最大の不満点は、活動弁士というシステムに対するハッキリとした批判精神が見当たらないことだ。劇中で弁士が“駄作でもカツベン次第で傑作になるのさ”とか“映画はそれ自体で完成されたもので、カツベンは余計なものだ”とかいう意味のセリフを吐くことでも分かる通り、活動弁士を擁した上映は本来の映画興行とは違う“演芸”なのだ。事実、主人公も嬉々として映画の本筋とは関係ない解説を客の前で敢行する。ある意味、これは映画をバカにしていると思う。

 その不遜な姿勢は中盤に悪者によってバラバラにされたフィルムを繋ぎ合わせ、支離滅裂な内容の“映画もどき”を堂々と劇場で公開するくだりで最高潮に達する。いったいこれは何の茶番なのだろうか。ズタズタにされた映画を上映してウケを狙うという、映画作家として最もやってはいけないことを堂々と実行した時点で、本作のワーストテン入りは決定したようなものだ。

 主演の成田凌をはじめ、井上真央に渡辺えり、黒島結菜、小日向文世、永瀬正敏、竹野内豊、高良健吾、竹中直人と悪くない面子揃えていながら、いずれも精彩を欠く。それにしても、劇中で登場人物達がフィルムのことを“ふいるむ”と発音していたのが気になった。当時はそう読んでいたのかもしれないが、いずれにしても気分が悪い。
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「マリッジ・ストーリー」

2019-12-23 06:25:58 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MARRIAGE STORY)これは“21世紀の「クレイマー、クレイマー」か。あるいは米国版の「ある結婚の風景」か”と思わせるほど、ヴォルテージが高い映画である。題名通り、題材は主人公2人の結婚生活の顛末だが、曖昧に終わらせず両者の確執を徹底的に描く。しかも、恋愛感情の推移や子供の有無、または社会的要因といった従来からの離婚劇のポイントをあえて重視せず、それどころか“結婚とは何か”という根源的な命題を追求する。

 ハリウッドで活動していた女優のニコールは、舞台監督兼脚本家のチャーリーとの結婚を機に、住まいをニューヨークに移す。ところが、一人息子のヘンリーが8歳になった頃からすれ違いにより結婚生活が上手くいかなくなってしまう。そこで円満に協議離婚をしようとするが、それまで互いに我慢して言えなかった相手への不満が爆発。ついにはそれぞれ弁護士を雇って家庭裁判所で争うことになる。やり手の弁護人を立てて周到に裁判の準備を進めるニコールに対し、対処が後手に回ったチャーリーは苦戦。果たして結末は・・・・という話だ。

 つまりは、結婚生活を成り立たせているものは、子供の存在ではないのだ。そして社会的慣習やしきたり(または世間体)とも違う。それどころか、両者の愛情が持続しているか否かでもない。では一体何かというと、互いの立場・価値観を認め合うことなのだ。

 当初、2人は夫婦の確執を解決するために弁護士に支援を仰ぐ。しかし、弁護人は法律の範囲内でしか仕事が出来ない。そこでニコールとチャーリーは改めて対峙し、互いに心の中をさらけ出す。かなりの時間を割いて描かれるこのシークエンスは、何とか自身のアイデンティティを理解させようと身悶えする生身の人間性が横溢し、観る者を圧倒させる。そして2人は“制度としての結婚”を超越して“本物の結婚”という次元へと到達するのだ。

 このくだりは説得力があり、大いに共感してしまう。ノア・バームバックの演出は以前観た「ヤング・アダルト・ニューヨーク」(2014年)より大幅に進歩しており、全編息つく暇も無い濃密なドラマを展開させている。また、ロスアンジェルスとニューヨークという主人公2人のホームグラウンドにそれぞれのキャラクターを反映させている点も面白い。

 主役のスカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーの演技は素晴らしく、特にヨハンソンはどこにこんな実力を秘めていたのかと驚くばかりだ。ローラ・ダーンにアラン・アルダ、レイ・リオッタと、脇の面子も充実している。また、ランディ・ニューマンの音楽は短い時間に効果的に流れていて感心した。本作はNetflix製作だが、映画界におけるこのメディアの注目度は高くなっていくことだろう。
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「家族を想うとき」

2019-12-22 06:59:02 | 映画の感想(か行)

 (原題:SORRY WE MISSED YOU )引退宣言を撤回したケン・ローチ監督が「わたしは、ダニエル・ブレイク」(2016年)に続いて撮った本作は、前作よりも切迫度が増している。もはやダニエル・ブレイクのようなヒーロー的な振る舞いをする者はおらず、一般の小市民が窮地に陥ってゆく様子を定点観測するのみだ。それだけに、インパクトが高い。

 ニューカッスルに住む中年男リッキーは、マイホーム購入の夢を叶えるために、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立することを決める。しかし、自営業者とは名ばかりで、実際は本部からコキ使われる毎日だ。

 介護福祉士である妻アビーの車を売り払って輸送用バンを買うが、それがアビーの仕事を圧迫することになり、働き詰めのまま高校生の長男セブと小学生の長女ライザ・ジェーンと話をする時間も無くなってしまう。やがてセブが学校で問題を起こすが、リッキーとアビーは多忙のためその対応も出来ない。ある日、リッキーが仕事中にトラブルに遭遇。しかし、本部はそんなことにお構いなしに彼に新たなノルマを課すのだった。

 観る者によっては、この家庭の有様は“甘い”あるいは“恵まれている”と感じるかもしれない。夫婦仲は良いし、長男は不祥事を起こすものの、子供たちは親思いだ。それどころか、リッキーはセブに対して今まで手を上げたことさえ無い。これが少しでも問題のある家庭だったら悲劇性はさらに大きくなるところだが、作者としては善良な庶民と理不尽な搾取のシステムとを対比する意味でこういう設定にしたのであろう。また、それは成功していると思う。

 グローバリズムが幅を利かせ、全てが効率一辺倒。しわ寄せはリッキーのような労働者に来るのだ。冷血に見える本部のスタッフだって、根っからの悪人ではない。彼らも職務に忠実に従っているだけだ。しかし、社会の根幹が人間性を阻害する構造に移行しているため、皆頑張れば頑張るほどスパイラル式に事態は悪化する。

 儲けているのは一部の“上級国民”だけで、落ちこぼれた者たちを“自己責任”という御題目で切り捨てるのみ。この構図はイギリスだけではなく、世界中を覆っている。特に我が国は酷いと思うのだが、映画作家たちはそんな事態に対し見て見ぬ振りを決め込んでいるようだ。

 ローチの演出は堅牢そのもので、一分の隙も無い。主役のクリス・ヒッチェンズとデビー・ハニーウッドは地味ながら、優れた演技を見せる。ジョージ・フェントンの音楽も効果的だ。そして、劇中ではこの原題の意味するところが示されるが、それが何とも切ない。観る価値十分の、英国の秀作だ。
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「ブルックリン最終出口」

2019-12-21 06:20:22 | 映画の感想(は行)
 (原題:LAST EXIT TO BROOKLYN )89年作品。感情移入出来る登場人物が一人もおらず、どいつもこいつもクズばかりだ。しかし、それでも映画は面白くなることもある。作者の覚悟と開き直りが、徹底した悪の跳梁跋扈を一種のスペクタクルとして見せている。また、殺伐とした時代背景の描出も見逃せない。

 1952年、ブルックリン85番街に住むハリー・ブラックは、鉄鋼所の労働組合の現場責任者として周囲の若者たちのボス的存在であることを自称していた。折しも職場はストに突入し、無制限に経費を使えることを自慢していたハリーだが、実は妻子との仲は冷え切っていた。そんな彼が興味を持ったのが、ゲイのジョージェットが主催したパーティーだった。そこで彼はゲイのレジーナに惹かれてゆく。やがて警官隊が組合側のピケに放水するなど、事態は紛糾。そんな中、ハリーは経費の使い込みがバレてクビになってしまう。そして失意の彼をさらなる不幸が襲うのだった。



 原作者のヒューバート・セルビー・ジュニアはアメリカ人だが、監督は「クリスチーネ・F」(80年)のドイツ人ウリ・エデルである。一見ミスマッチに思えるが、セルビーは十代の頃に西ドイツに滞在し、そこで病気が元で随分と荒れた生活を送っていたらしい。故郷のブルックリンに帰ったセルビーだったが、ホームレスに身を落とす等、相変わらず後ろ向きの日々を送っていたとか。その時の体験をを元に書いたのがこの小説である。だから、まったく両者に共通点が無いわけでもないようだ。

 ハリーはとことんイヤな野郎で、周りの若造共もロクなもんじゃない。そんな“人間、一皮剥けば全員が悪人”と言わんばかりのネガティヴなスタンスを、エデル監督はまったく隠そうとしない。その退廃ぶりは、まさに“ドイツ表現主義”から派生したとも思われる暗さと絶望に彩られている。

 しかしながら、アンディ・ウォーホールとケネス・アンガーに傾倒していたエデルは、そんな悪の巣窟を禍々しい“美”を伴って描出する。官能的な色彩と、クレーンを多用したケレン味たっぷりのカメラ移動が、その意図をバックアップしている。さらには、第二次大戦が終わったと思ったら、次は朝鮮戦争の泥沼が待っていたという、やりきれない時代の空気の扱い方も達者なものだ。

 主役のスティーヴン・ラングは怪演で、最後まで目が離せない。ジェニファー・ジェイソン・リーやバート・ヤングも持ち味を発揮している。そして音楽は何とダイアー・ストレイツのリーダーであったマーク・ノップラーで、効果的なスコアを提供している。
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「ゴーストマスター」

2019-12-20 06:56:47 | 映画の感想(か行)

 お手軽なB級ホラー映画であり、脚本も演出も大したことはない。しかしながら、映画ファンおよび映画関係者にとってはちょっと無視出来ないネタを取り上げており、その点は評価したい。ブリュッセル・ファンタスティック国際映画祭をはじめ多数の海外映画祭に正式出品されたのも、何となく分かるような気がする。

 主人公の黒沢明は、その大それた名前とは裏腹に軽佻浮薄なラブコメ映画の製作現場で助監督としてこき使われる日々を送っている。しかし、彼は一途なホラー映画のファンでもあり、いつの日にか自分で監督しようと執筆中の脚本「ゴーストマスター」をいつも持ち歩いていた。山奥の廃校で「僕に今日、天使の君が舞い降りた」なるお子様向けラブコメ映画の撮影中、主演の勇也が製作側との“意見の相違”でドロップアウト。何とか仲を取りなそうとする黒沢だが、ひょんなことから自分には才能が無く、また映画を撮る機会など巡ってこないことを知る。

 絶望と悔しさで泣きながら走り出して転倒した黒沢だが、その際の血のしずくが「ゴーストマスター」の脚本に垂れると、なぜか悪霊が召喚されてしまう。その魔物は勇也に取り憑き、映画のスタッフとキャストを次々と血祭りに上げるのであった。

 どうして冴えない主人公の書いたシナリオに悪霊が降臨してくるのか分からないし、その後の展開も支離滅裂。似たような設定の中田秀夫監督「女優霊」(96年)のような、不条理な恐怖をジワジワと描き出そうという能動的な姿勢は見られず、他の映画からの(あまり効果的とは思えない)引用やら、笑えないギャグやらが目白押しで、観ていて脱力する。この手の映画に付き物の特殊効果はチープで、その見せ方にも工夫が足りない。

 だが、ドラマの前提を通じて、あろうことか現在の日本映画の問題点を焙り出しているあたりはアッパレだと思う。黒沢たちが関わっているのは、毒にも薬にもならない“壁ドン映画”だ。ウェルメイドに仕上げる必要は微塵も無く、人気若手タレントを並べて観る者に“胸をキュンキュン(?)”させればヨシという、きわめていい加減な姿勢が槍玉に挙げられている。

 しかも、予算は最低レベルでスタッフの疲弊度はブラック企業と同等。プロデューサーは黒沢みたいな(少なくとも)やる気はある者の努力を認めない。カメラマンに至っては、映画一筋に生きてきた自らのキャリアを後悔する有様だ。多少の誇張はあるとしても、これが映画製作の現状報告であることは間違いないだろう。冒頭に思いっ切り“壁ドン映画”をバカにするシークエンスを挿入させるなど、ヤケクソとも思える作者の開き直りが感じられる。

 監督はこれが長編デビュー作になるヤング・ポールだが、第一作目で堂々と内部告発に走るとは、ある意味爽快だ。主演の三浦貴大は頑張っている。ヒロイン役の成海璃子も(久々にお目にかかるような気がするが)魅力的。川瀬陽太や柴本幸、手塚とおる、麿赤兒といった脇の面子も悪くない。面白いと思ったのは勇也に扮する板垣瑞生で、見かけは“ラブコメ要員”そのものながら、頑張ってイロモノに徹しているあたり、なかなか見どころがある。
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「国家が破産する日」

2019-12-16 06:32:45 | 映画の感想(か行)

 (英題:DEFAULT )力作ぞろいの昨今の韓国製社会派ドラマの中では幾分軽量級に思われるが、それでも題材の取り上げ方やキャラクター設定、そして重大な問題提起など、見逃せない点が多い。特にアジアの経済情勢に対して少しでも関心のある向きは、絶対にチェックすべき作品だと思う。

 97年秋、韓国中央銀行の通貨政策チームのリーダーであるハン・シヒョンは、一見好調である韓国経済が実はバブルでしかなく、近いうちに破綻することを突き止める。シヒョンは早急に国民にこの危機を知らせるべきだと関係省庁に主張するが、財務官僚は激しく反対し、大統領府も耳を貸さない。一方、持ち前の“野生のカン”で危機を見抜いた若手銀行員のユン・ジョンハクは、早々に職を辞し独自に投資ファンドを立ち上げる。

 同じ頃、町工場の社長ガプスは大手百貨店から大量の発注を受けるが、決済が手形だと聞いて躊躇する。しかし、話を早めに進めたい共同経営者の要請により、うっかり契約してしまう。やがてムーディーズの韓国の格付けがA1からA3に下落。主要企業が次々に倒産し、不況の波が国中を覆う。97年に発生したアジア通貨危機を描いたチェ・グクヒ監督作。

 予算があまり掛けられていないのか、シヒョンが立ち回る場所は中央銀行の執務室や官公庁とは思えないほどチープだ。参加しているエキストラの数も少なく、大作感には欠ける。しかしながら、取り扱っているネタはすこぶる興味深い。

 シヒョンたちが必死になって訴えても、当局側はもちろんマスコミも黙殺する。それどころか、国家的危機が迫っていながら“これで構造改革の口実が出来た”と嘯く官僚や政治家もいる始末で、ついにはIMFの介入を招いて資本市場の全面開放を強要される。つまりはマネー資本主義とグローバリズムの暴走が一国の経済を侵食してゆく過程を容赦なく描いているわけで、素材の現実味は究極レベルである。

 そして主人公を女性に設定しているのもポイントが高い。シヒョンがいくら有能でも、女は軽く扱われてしまうのだ。対する財務次官はグローバル化による貧富の差の拡大を平然と受け入れる。こういう“非国民”の存在こそが諸悪の根源であるという作者の怒りが全編に漲っている。また、3つのエピソードがバラバラに展開しているように見えて、実は微妙なところで繋がっているという作劇も面白い。

 主役のキム・ヘスは本国では有名女優らしいが、スクリーン上でお目にかかるのは初めて。評判通りの達者な演技を見せる。ユ・アインやチョ・ウジン、そしてIMF専務理事に扮したヴァンサン・カッセルなど、他のキャストも万全だ。時制が現代に移る終盤はこの問題がいまだに尾を引いていることが如実に示されるが、翻って日本の状況はいったいどうなのか。政界も財界もマスコミ業界も、内実は“非国民”のオンパレードだ。映画界はそんな事実から目をそらし、毒にも薬にもならないシャシンを数多く垂れ流すのみ。こと社会派映画のレベルに関しては、韓国に大きく水をあけられてしまった。
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「ニューヨークの恋人」

2019-12-15 06:58:33 | 映画の感想(な行)
 (原題:Hero at Large )79年作品。いかにも軟派なラブコメみたいな邦題だが、実際はそうではない。とても他愛がなくて楽しく善意に溢れた、アメリカ映画らしいヒューマン・コメディの佳作だ。公開当時は地方では二本立ての“メインではない方”という扱いだったが、思わぬ拾いもので、得した気分になったものだ。

 主人公スティーヴは、プロードウェイを目指してはいるが今は部屋代も滞りがちな貧乏舞台俳優だ。向かいの部屋に住むCM製作関係のキャリアウーマンであるマーシュに心惹かれている。彼はとても気が良く、ありついた仕事も友だちに譲ってしまい、アルバイトとして封切りを控えたヒーロー映画「キャプテン・アベンジャー」の宣伝に駆り出される。



 コスプレのまま彼がスーパーで買い物をしていると、チンピラ強盗が現れるが、彼の姿を見て驚いて退散する。これがマスコミに取り上げられて評判になり、ご機嫌のスティーヴはキャプテン・アベンジャーとして仕事を探す。一方、広告会社の社長ウォルターは、次回のニューヨーク市長選挙の市長側の選挙参謀カルヴィンに、支持率が落ちている現市長に新しいイメージを提供するため、街の話題になっているアベンジャーと市長選を結び付けることを持ちかける。

 善意の主人公が試練に耐え、やがて恋と名誉を獲得するという、つまりは予定調和の話なのだが、語り口の上手さで観る者をエンディングまで惹き付ける。監督のマーティン・デヴィッドソンは往年のフランク・キャプラ監督の作風をトレースしているようで、たとえば名誉市民に選ばれたスティーヴが皆の前で真心のこもった演説をぶつあたり、それが顕著に見て取れる。

 政治家と広告屋のたくらみが明るみになり、その巻き添えでニューヨークから姿を消すハメになった主人公が、その前にヒーローとして最後の見せ場に向かい合うくだりは盛り上がる。主演のジョン・リッターは往年の西部劇役者テックス・リッターの息子だが、ここでは好青年を嫌味なく演じていてポイントが高い。残念ながら彼は若くして世を去ってしまったが、今から思うと良い役者だったとつくづく思う。ヒロイン役のアン・アーチャーは魅力的だし、バート・コンビーとケヴィン・マッカーシーの悪役2人組も好調だ。
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