元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「チョコレート」

2006-10-31 06:48:34 | 映画の感想(た行)
 (原題:Monster's Ball)2001年作品。後半の、ビリー・ボブ・ソーントンとハル・ベリーのやり取りよりも、ヒース・レジャー扮するソーントンの息子が自殺するまでの顛末に胸が締め付けられた。

 本来彼は子供好きの、心優しい男なのだ。しかし、偏屈な人種差別主義者でマッチョイズム一辺倒の祖父と、それを嫌いながらも結局同じ価値観に絡め取られてしまった主人公からのプレッシャーにより、刑務所看守という父や祖父と同じ職業、しかも本人の資質とは最も合わない因果な稼業に就くハメになる。そして時折見せる気弱さをすべて“亡き母親や祖母から受け継いだ悪い点”と決めつけられて叱責される理不尽さ。そうした重荷を背負いながらも父親を愛してやまず、そのディレンマが臨界点に達した時、自ら命を断ってしまう。昨今のアメリカ映画でこういう切迫した“親子の業”を真正面から捉えた例は記憶がなく、その意味でこの映画の存在感は屹立していると言える。

 ハル・ベリー演ずる黒人女性は、息子の死による主人公の内面の変化を強調するためにドラマに付与された、いわば“都合の良いキャラクター”である。その点がリアリズムに徹した前半の息子を巡るドラマからは、存在自体が幾分浮いていると言えるかもしれない。ただし、それが作劇上の欠点としてまったく気にならないのは、ベリーの目を見張る力演のためだろう(本作で黒人女優初のオスカー主演賞を獲得)。

 マーク・フォスターの演出は最後まで抑制の効いたトーンで貫かれており、ラストシーンのような“お涙頂戴”に走りそうな場面でも、描写がほとんど大仰にならない。しかしこれが登場人物の苦悩をより鮮明に浮き立たせることに貢献している。気怠い南部の雰囲気も捨て難く、これは近年のアメリカ映画の収穫のひとつだ。
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「夜のピクニック」

2006-10-30 06:42:20 | 映画の感想(や行)

 全校生徒が徹夜で80キロを歩ききるという茨城県の某高校でのイベントをネタにした映画だが、かなり昔に似たような学校行事をテーマにしたNHKのドキュメンタリー番組を見たことがある。最初から優勝を目指して飛ばす者、ウケを狙ってビリの座を手中に収めようという者(ビリといっても、制限時間内の最終走者なので、けっこう難しい ^^;)、嫌々ながら参加する者etc.いろいろな人間模様が交錯してなかなか面白く見た。

 私も高校時代、80キロにはとても及ばないが、体育授業の一環として25キロを歩かされた経験がある。最初は全員ふざけたような雰囲気があったが、10キロ過ぎたあたりから皆表情が引きつってくる。特に給水ポイントが遠い区間になると、頭が少々ハイになったのか、おかしな行動に出る者が続出(笑)、教師も生徒も誰もそれを注意するでもなし、ただボーッと眺めるだけだった。

 目的地の駅に着くと、皆人目もはばからずホームに大の字になって寝転がるばかり。もう二度とやるものかと思った。でも、その時の田園地帯を照らす夕陽の美しさは今でもハッキリと覚えている(しかし、その日から間をおかず15キロのロードレース大会も開催されている。まったくサドみたいな学校だった ^^;)。

 さて、私のことはこれぐらいにして、映画の感想を述べることにしよう・・・・と思ったが、この作品については、具体的にどこがどうというコメントはしたくない。高校生のじゃれ合いを漫然と映しただけの、ほとんど観る者をバカにしたシャシンである。テレビドラマでもこれよりマシなものが出来るだろう。こんなクズみたいなものをカネ取って劇場で見せようなんて、ふてえ了見だ。なお、観客は日曜日だというのに私を入れてわずか5人だった(爆)。
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「太陽」

2006-10-27 06:46:54 | 映画の感想(た行)

 (原題:Solntse )ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督が、終戦前後の昭和天皇を描いた問題作・・・・という触れ込みだが、どうもパッとしない映画だ。

 一番の敗因はイッセー尾形が主演していること。彼の場合、何をどうやっても“イッセー尾形そのもの”なのである。いわばイッセー尾形が昭和天皇のマネを延々とやっている“演芸大会”みたいなシャシンだ。たぶんこのネタを日本映画が扱う場合、タブー云々は別としても、絶対に彼のようなタイプを主役には据えないだろう。芸人としての“顔”が正面に出てきてしまうキャラクターでは、歴史上の重要人物を実体化できるはずもない。

 本作でイッセー尾形が主役を張っている理由は、作者が外国人であるに他ならないと思う。イッセー尾形の我が国の芸能界での立ち位置も知らず、単に昭和天皇に似せるのが上手いということだけで起用してしまった迂闊さ。それでも観るのが外国人ならば“こういう人物もいたのか”といった素朴な感情に訴えることもできるが、日本人には通用しない。

 ならば史実を丹念に積み上げているかと言えばそうでもなく、ここには“玉音放送”もなければ“御聖断”も出てこない。有名なマッカーサーとのツーショット写真に関するエピソードもない。ましてや戦争責任についての見解など皆無だ。あるのは“人間宣言”ぐらいだが、ひょっとして同じ“現人神”としてのキリストとの対比あたりを狙っているのかもしれない。しかし、それもあくまで西洋人のメンタリティでしかなく、観ているこちらにとっては“関係のない話”である。

 映像派のソクーロフ監督らしく、セピア調の画面は美しくVFXの仕上がりも的確だ。特に魚群と空襲のシーンとがシンクロする場面はアイデア賞もの。しかし、起伏のない展開と素材の捉え方の甘さは、観る者を“眠りの世界”に誘うに十分である。正直、どうでもいいシャシンだ。
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「エルミタージュ幻想」

2006-10-26 06:47:19 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Russian Ark)「太陽」の監督アレクサンドル・ソクーロフが2002年に撮った作品で、エルミタージュ美術館を舞台にした時間と空間を超越した“映像詩”とでも言うべきもの。NHKの技術協力によるハイビジョン・キャメラの使用により、映画史上前代未聞の“90分ワンカット撮影”を実現している点も要チェック。

 映画は、ソクーロフの視点とも言える“カメラ”と、元外交官のキュースチンという名の男を狂言回し的役として展開する。最初に19世紀風の衣装を身にまとった将校や貴族たちが馬車でやってくる。ではストーリーはその時代をベースにしているかというと、さにあらず。宮殿の別室では、18世紀初めに在位していたピョートル大帝の姿も見える。さらには、絵画を見る人々は現代の装いだ。

 ならばこれはロシアの近代史のページェントなのか・・・・それも違う。ロシア革命以降は完全にネグレクトされ、映画の意匠はソ連崩壊後の現代に飛んでいる。つまり作者が選び抜いたロシア史の真髄に対するオマージュを切々と綴っているのだ。人工国家に過ぎないソ連など、ソクーロフの眼中にはない。

 ラスト近くのダンスパーティで演奏するのはワレリー・ゲルギエフが指揮する“現代の”楽団だ。“ブラボー!”の声があがった後、映画はまた19世紀に移行する。そして会場を後にする多くの男女のその先には、“エミルタージュの外部”が映し出される。この超現実的な“外部”の描写は、文字通りの“時代の荒波”に流されてゆくロシアの姿をヴィヴィッドに象徴していて衝撃的だ。

 舞台が美術館だということもあり、映像は絢爛豪華の粋を極めている。そして数々の名画。レンブラントの「ダナエ」やエル・グレコの「使徒聖ペトロと聖パウロ」などを前に、歴史の真実を語る作者の姿は感動的。含蓄に満ちた秀作であり、技術面から見ても必見の映画だと言える。
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「イルマーレ」

2006-10-25 06:45:40 | 映画の感想(あ行)

 (原題:The Lake House)ハリウッドがヨソの国の映画をリメイクする例は過去にも多数あったが、元ネタを上回ることはほとんどない。あるとすれば、元の作品があまり出来が良くなく、相対的にハリウッド版がマシに見えたというケースのみだろう。本作は韓国映画の再映画化だが、やっぱり元ネタに負けている。

 そもそもひとつの郵便ポストを介して、2年の時を越えて男女が文通するという設定自体に無理がある。ファンタジーとしては大風呂敷の広げ具合が足りず、単なる作者の“思いつき”の次元に留まっている。

 それでも韓国版はイ・ジョンジェとチョン・ジヒョンというフレッシュなカップルの魅力や、舞台装置となる海辺に建てられた一軒家の造型の素晴らしさ等で肌触りの良い恋愛劇に仕立て上げられていた。ところが本作の主演はキアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックであり、元ネタよりも年齢層がかなりアップしている。これでは元ネタのアドバンテージである青春映画としての爽やかさが失われ、明らかに不利。

 それでも監督のアレハンドロ・アグレスティは落ち着いたタッチで大人の恋を描こうと腐心している。舞台になるシカゴの街を美しい色調でとらえ、カメラの動きを最小限度に抑えると共に、ハリウッド映画では珍しい長回しを多用する。

 しかし、そんな具合に素材をじっくりと描こうとすればするほど、映画のテンポが失われると同時に、この“郵便ポストを通じてのタイム・スリップ”というモチーフが安っぽくなってしまう。しかも、二人が“文通”を始める前にも会っていて、けっこう良い雰囲気になったこともある・・・・などという、語るに落ちるような展開もあったりして、愉快ならざる気分になってくる。何よりヒロインが冒頭近くで遭遇する交通事故のシーンにより、勘の良い観客にはオチが分かってしまうのが辛い。

 結論を言えば、まずは脚本の不備、そしてそれ以前に作品のコンセプトの吟味不足がある。これでは、とても評価できない。
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「“アイデンティティー”」

2006-10-24 06:41:52 | 映画の感想(あ行)
 (原題:IDENTITY)2003年作品。悪天候の中、電話も通じない僻地のモーテルに閉じ込められた人々が次々に死んでいくというスリラー篇。よくある設定の映画かと思ったら、途中から通常のサスペンス劇とは全く異なる展開になってゆく。

 「17歳のカルテ」のジェームズ・マンゴールド監督による異色のミステリーで、かなり楽しめた。少なくとも「閉ざされた森」なんかよりも良くできている。ジョン・キューザックやレイ・リオッタ、レベッカ・デモーネイといった顔を知っている俳優も出演しているが、多くのキャストが無名。しかし、それぞれのキャラクターはきっちりと描き分けられており、見ていて混同することはないのは、脚本と演出が上手くいっている証拠だ。

 実を言うと「アイデンティティー」というタイトル及び精神科医の登場で勘の鋭い観客なら読めないネタではないのだが、その“まさか、そこまではしないだろう”という予想を裏切って、ほとんど反則とも言えるラストに強引に連れて行く力業というか思い切りの良さというか、そのあたりの覚悟のほどが実に頼もしい。

 個人的には警官役で登場したリオッタが中盤以降“ああ、やっぱりね”という役柄になっていくのには笑ってしまった。
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「紙屋悦子の青春」

2006-10-23 06:51:21 | 映画の感想(か行)

 自らの母親の体験談を元に劇作家の松田正隆が書いた戯曲が原作となっているためか、場面展開が少なくカメラも長回し主体で、ほとんどがセット撮影というように、演劇的なテイストがかなり多い。しかしそれは、登場人物の性格と想いを誇張なく伝えるための賢明な手段であることが、観ているうちに分かってくる。

 昭和20年の鹿児島を舞台に、海軍航空隊の明石少尉と彼の親友である永与少尉の間で揺れ動く紙屋悦子の姿を描くこの作品、何より登場人物の佇まいの美しさに感動する。

 決して声高に自分の主義主張を押しつけず、しかし確固とした矜持を持って暗い世相と境遇に対峙する彼ら。今の日本が遠い過去に置き忘れてきた、大切な物をひとつひとつスクリーン上で提示されるようで、観ていて胸が一杯になってくる。そしてそんな理想的な市井の人々の生活を押し潰してゆく戦争の理不尽さも、また無理なく伝わってくるのである。

 とは言っても決して高踏的な作品ではない。誰が観ても楽しめるシャシンであり、特に会話の面白さは昨今の日本映画の中ではダントツだ。笑えるシーンも満載で、見ようによってはベテラン芸人達のネタ披露大会にさえ思えてくるほど。

 ヒロイン役の原田知世の演技に感心したのはほぼ20年ぶりか(爆)。明石役の松岡俊介、永与役の永瀬正敏、兄に扮する小林薫、みな持ち味を遺憾なく発揮した好演だ。驚いたのは兄嫁役の本上まなみで、天然ボケが入った絶妙のコメディ・リリーフで画面を盛り上げる。こんな演技が出来る人とは思っていなかった。

 とにかく、冒頭の現代のシーンが長すぎることを除けば完璧な出来映えで、黒木和雄監督にとっても会心作だ。これが遺作になってしまったのが残念でたまらない。
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最近購入したCD(その4)。

2006-10-22 07:36:36 | 音楽ネタ
 最近買ったディスクを懲りずに紹介します(^^;)。



 まずは、ニューヨークの地下鉄駅で4年前からストリートライヴをおこない、口コミで評判が伝わった結果、今回めでたくメジャーよりデビューした女性シンガーソングライター、スーザン・ケイグルのファースト・アルバム「ザ・サブウェイ・レコーディングズ」。

 CDショップの試聴コーナーでは“アヴリル・ラヴィーンの黒人版”みたいな惹句が踊っていたが、まあ確かに似ていないこともない。ただし楽曲の(表面的な)出来自体は、手練れのプロデューサーを従えたラヴィーンに分がある。もっとも、ケイグルの歌声はふっくらとソウルフルで聴きやすく、メロディも素直で、これはこれで悪くない。

 それよりも本アルバムの最大のセールスポイントは、地下鉄駅でのライヴ収録であるところだろう。ラッシュアワーのタイムズ・スクエアと深夜のグランド・セントラル駅にてレコーディングされているが、これが実に臨場感豊かなのだ。見物人の拍手はもちろん、雑踏や行き交う電車の音も捉えられており、それにヴォーカルと伴奏との距離感をもしっかりと再現する。オーディオ的にかなり面白い素材であり、これだけで一聴の価値は十分にある。



 次に紹介するのは、チョン・ミュンフンがフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団を振ったラヴェルの「ダフニスとクロエ」全曲版だ。

 ラヴェルの名盤といえば、アンドレ・クリュイタンス指揮の往年の録音を思い出す音楽ファンも多かろう。演奏だけならこれを凌ぐディスクはいまだ存在しないかもしれない。ただし、さすがに録音は古くなってきた。デジタル録音での代表盤としては、シャルル・デュトワ&モントリオール響の一連の作品が有名だが、このチョン・ミュンフン盤はどうだろうか。

 極めて精緻な演奏だと思う。色気は不足しているが、そんなことよりまずはスコアを微分的に解析して明快に音楽を形作っていこうという意思が感じられる。その意味では成功だろう。ただし、クリュイタンス盤などと比べて聴いて面白いかというと、意見は分かれると思う。

 残念なのはあまり録音が良くないこと。音場が埃っぽく、帯域によってはヘンな強調感がある。約20年前のデュトワ盤にも及ばない。要するに、聴き疲れのする音だ。エンジニアの奮起を促したい。



 最後は、誰でも知っているジャズの名盤、マイルス・デイヴィスの「カインド・オブ・ブルー」。何を今さらと言われそうだが、ジャズ初心者の私が購入したのはつい最近だ。

 ハードバップから「モード」に移行する時期の、新時代のジャズとして持て囃されたディスクらしいが、私はそんな難しいことは分からない。ただ言えるのは、演奏が実に美しいことだ。各プレーヤー(凄い豪華メンバーである)が奏でるしなやかな音色、スリル満点の掛け合い。緊張感の中にある微妙なリラックス感。噂通りの素晴らしさだ。

 さらに驚くべき事は、録音の優秀さ。1959年のレコーディングなのに、ついこのあいだ録られたような鮮度である。40年以上前のディスクがこれだけのクォリティを示してるということは、最近のジャズの新譜なんか聴く価値があるのだろうかと、不遜なことを思ってしまった。とにかく音楽ファンなら必携の一枚であろう。
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「ローズ・イン・タイドランド」

2006-10-21 07:23:41 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Tideland)久々にテリー・ギリアム監督の“外道モード”が全開になった怪作で、大いに楽しめた。前作「ブラザーズ・グリム」の不甲斐なさは忘れてしまおう(笑)。

 ミッチ・カリンの小説「タイドランド」の映画化。子供が主人公の、明らかに「不思議の国のアリス」をベースにした話なのに、なぜかR指定になったのは映画を観ればその理由がすぐ分かる。10歳のジェライザ=ローズの両親は共にヤク中で、母親(ジェニファー・ティリー)は怪しげなガスを吸飲して死亡。父親(ジェフ・ブリッジス)は彼女と共に今は亡き祖母の家に引っ越すが、クスリのやり過ぎで彼も死去。その父親にヘロインを打つ“お手伝い”をしていたのがローズなのだから、これはR指定どころか18禁も当然の反・公序良俗ぶりだ(爆)。

 さらに天晴れなのは、小賢しい道徳律だの何だのは全て捨象され、徹底して映画は彼女の視点から見た一人称世界として描かれている点である。彼女の目からすれば荒涼とした原野は大海になり、頭のおかしな隣人は逞しい船乗りとなり、首だけのバービー人形たちはかけがえのない仲間となる。童心とグロテスクさが入り混じったワンダーワールドを何のてらいもなく全面展開させる思い切りの良さには、感服あるのみだ。

 そして、この自由奔放な世界を一人で引き受けるローズを演じるカナダの子役女優ジョデル・フェルランドの存在感には圧倒させられる。わずか10歳でアブナいシーンも難なくこなし、4体のバービー人形の“声”まで担当する芸達者。アメリカの有名子役ダコタ・ファニングがいかにも“演技してますっ!”という押しつけがましさを周囲に振りまいているのに対し、フェルランドは役そのものに完全に成りきっているのが凄い。まさに天才子役。しかもファニングよりもはるかに整った顔立ちをしているため、10年後・20年後が楽しみだといえる(^^;)。

 通常の娯楽映画を期待する向きには絶対オススメできないが、変化球もOKのコアな映画ファンには楽しめる腐臭漂うダーク・ファンタジーである。
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「やわらかい生活」

2006-10-20 06:47:43 | 映画の感想(や行)

 廣木隆一監督で主演が寺島しのぶだから、観る前は「ヴァイブレータ」の続編みたいな鬱陶しいシャシンではと思ったが少し違った。やはり絲山秋子の原作が大きくモノを言っているのだろう。本作の元ネタ「イッツ・オンリー・トーク」は読んでいないが、芥川賞を受賞した「沖で待つ」の読後感と同様、無理のない落ち着いた雰囲気が感じられる一本だ。

 寺島演じるヒロインは両親の死をきっかけに躁鬱病になり、一流企業を退社。両親の死亡保険金で細々と暮らしている。そんな彼女は出会い系サイトで知り合った中年男と“お下劣プレイ”に励んだり、大学時代の男友達(今は街の政治家)から性的不能を告白されたり、引っ越し先の下町の風景をブログに載せたことにより、鬱病の若いヤクザと知り合ったりと、何やかやとあるようで、実は何もない“からっぽの日々”を送っている。

 だが、同じく“ゆるゆるの生活”に明け暮れる「かもめ食堂」の登場人物達と決定的に違うのは、すぐ近くに“マトモな生活”がいくらでも存在していること、そして主人公が完全に逃げていないことだ。

 カミさんに愛想を尽かされた従兄(豊川悦司)もヒロインと同類で、人生を投げているように見えて他者との関係を再構築しようと藻掻いている。“自分探しの過程を描いている”との評もあるようだが、それは違う。彼女はとっくの昔に“自分”をつかんでいて、それが心の病でいったんバラバラになっただけだ。映画はそれをひとつひとつ拾い集める様子を丹念に描く。ひどく後ろ向きのようで、実は前向きという玄妙なタッチを荒井晴彦の脚本はうまく表現している。

 ただし、ラスト近くの展開は不満。作者の悪い意味でのケレンが感じられて愉快になれない。もっと素直に終わって欲しかった。あと、トヨエツの博多弁は気合いが入っていない。カッコつけないで精進すべきだったね(爆)。
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