元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

小笠原慧「DZ(ディーズィー)」

2006-01-31 19:19:45 | 読書感想文
 横溝正史賞大賞受賞作ということで期待したけど、何とも腑抜けた出来で落胆した。

 通常の人間と異なる染色体を持つ“新しい種”である“犯人”が自己保全と“増殖”のために周りの者を殺しまくるという、ただそれだけの話を、勿体ぶった語り口で並べているだけ。しかも、早熟な天才であるはずの“犯人”が犯行のディテールに凝る割には、一番大事な“目的達成”の困難性に気付いていないというお目出度さには脱力してしまった。

 事件に対峙するヒロインの造型にもあまり魅力がなく、さらに彼女が活躍するのはやっと中盤過ぎてからという構成の拙さにも閉口する。ラスト近くのB級ハリウッド製活劇のような展開も取って付けたようだ。

 対して過剰なのが、医者でもある筆者の、遺伝子工学についての長々としたウンチクの披露。この分野が好きな読者には面白いのかもしれないが、我々シロートにとっては、単なる専門知識の羅列としか思えない。

 全体的に、いかにも理系の人が書いた自己満足のシロモノといった感じだ。文庫の帯に載っていた“賞賛の声”もむなしい。
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「香魂女 湖に生きる」

2006-01-31 06:52:58 | 映画の感想(か行)
 93年製作。舞台は中国・華北省にある香魂湖畔の小さな村。女主人二嫂が切り盛りするゴマ油屋は、品質の良さも手伝って商売繁盛。日本の大企業と資本協力する話まで持ち上がる。ところが、彼女の私生活はみじめなものだった。22歳になる息子は知恵遅れ、飲んだくれで怠け者の夫との関係はとっくに冷めている。独身時代から付き合っている男との不倫だけが生きがいで、利発な長女は愛人との子である。なんとかして息子に嫁をとらせたい二嫂は、金の力にモノを言わせ、隣村にすむ少女と無理矢理結婚させることに成功するのだが・・・・。監督は北京電影学院の教授である謝飛(シエ・フェイ、と読む)で、93年のベルリン映画祭のグランプリ作品。

 うーん、たしかに言いたいことはよくわかるのだ。近代化が進んでいる中国とはいえ、地方はまだこんなに封建的で多くの人々、特に女性が苦しい生活を強いられているという現実。商売熱心で働き者だが、息子のこととなると、とんでもないエゴイストになるという主人公に代表されるような人間の“業”の深さ。優雅な生活を送る日本企業の女社長との対比で地元民の貧困ぶりを強調する。美しい映像、芸達者な俳優たち。ちょっと考えると、いい作品になるような気がする。

 ところが救いようのないタルい演出が、すべてを台無しにする。少ないモチーフを出来る限り引き延ばし、なんとか場を持たせようという意図がみえみえで、2時間近い上映時間がすごく長く感じられる。不必要な場面が多いのは、編集者がさばけてなかったからだろう。1時間半ぐらいにまとめられなかったのだろうか。

 観ている側も退屈な展開にウンザリしている客が多かったようで、終わりそうで終わらないラスト近くになると、場面が変わるたびにタメ息がもれていた。

 それにしても、こういう状況にある中国を“13億人の巨大な市場”と持ち上げる一部財界人はどうにかならないものだろうか。いくら人口が多くても、購買能力がなければそれは“市場”とは言わないのだが・・・・。
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ホリエモンだけが悪いのか?

2006-01-30 19:03:17 | 時事ネタ
 ライブドアをめぐる騒ぎが連日マスコミを賑わせている。でも、ライブドアの所業が、日々大仰に報道されなければならないネタなのか? そんなに一大事なのか? ハッキリ言って、程度の差こそあれ「不正」あるいは「非道義的なこと」が行われている会社も少なくないのでは? ライブドア以外がすべて清廉潔白ならば、税務署も国税庁も要らないはずだ(笑)。

 ライブドアの若造社長を毛嫌いする向きも多いようだが、逮捕される前までは私はそれほどイヤな奴だとは思っていなかった(まあ、それほど好きでもなかったけどね ^^;)。彼が「株転がし」やら何やらで会社を大きくしようと、それは資本主義のルールにのっとってやっただけの話だ。また、彼がいなければプロ野球の「縮小均衡」を阻止出来なかったのも事実。たとえその意図が「名前を売って株価をつり上げる」というものであろうとも、結果的にはチーム数が少なくなってショボくれたプロ野球を見ずに済んだのだ。

 もちろん選挙に出馬したときは「なんだコイツは!」と思ったが、それは政治家候補として不信感を持ったに過ぎず、選挙が終われば「タダの企業人」であり、それ以上でも以下でもない。彼が率いる会社も「単なる一企業体」に過ぎない。しかもライブドアは某豊田商事みたいに一般ピープルのカネをかすめ取るようなこともしていない。この騒ぎで損をした投資家もいるだろうが、言うまでもなくそれは「自己責任」である。

 どう考えても「一企業体の失態ぶり」でしかないライブドア関連のネタに対し、これほど大騒ぎする合理的根拠は存在しない。そんなことより、世の中にはもっと糾弾すべき「不正」はいっぱい存在しているではないか。たとえば、一昨年に政府が「目先の円安」を達成するために為替市場に投じたカネは30兆円を超える。それにより一部の輸出関連大企業は大儲けしたが、日頃やれ「財政赤字が深刻だぁー、増税もやむなしだぁー」と言い募っているマスコミが、この「30兆円以上の無駄遣い」について何も指摘しないのはどういうわけだ。

 気になるのは今回の騒ぎが「単なるガス抜き」になりはしないかって事。ライブドアの若造社長は確かにヘタを打ったが、彼が「諸悪の根元」であるわけもない。彼を批判したいのなら、その前に彼みたいな男がのさばるようになった「背景」を考えるべきだ。言うまでもなくそれは「構造改革マンセー」なる風潮それ自体であるが、各マスコミはその点完全に及び腰だ。責任を全てホリエモンにおっかぶせて自分達は知らぬ振り・・・・なんていう雰囲気は不愉快極まりない。
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「死の棘」

2006-01-30 07:02:26 | 映画の感想(さ行)
 小栗康平監督が90年に撮った作品。映画はオープニングから異様だ。暗い板の間に、壁を見つめて座っている松坂慶子の妻ミホは、画面の外から聞こえる夫トシオ(岸部一徳)の声の方には顔を向けず“「お前」などと言ってほしくありません”と言う。作家である夫は愛人のところに泊まって家をあけることがひんぱんになり、ついに妻は発狂する。狂った妻は夫を徹底的に詰問し、絶対許そうとしない。夫は自殺を図ったり、突然大声を出したり、さらには“十年間おまえを苦しめてしまった。これからの十年間はおまえに奉仕しよう”と、精神病院で二人だけの共同生活に入る。

 原作は島尾敏雄の私小説。小栗が高校生時代から愛読していたという。島尾はクリスチャンだという。この作品ではその宗教的な作者の視点---人間の罪と罰というか---がよくあらわれている。

 時代は昭和20年代後半だと思う。主人公たちが住む家のたたずまい(古びた板塀、暗い台所etc)がいかにも雰囲気があってよい。家の回りにはドブ川が流れており、それがときおり「十字架のように」光る・・・・。

 映像がすばらしい。夫婦の家は灰色がかったモノクロ調である。トシオの故郷である東北の印旛沼あたりの風景をとらえたショットは、観る者をハッとさせるほどに美しい。しかし、なんという冷たい、悲しい光景だろう。それに対し、時折挿入されるミホの故郷の奄美大島(二人はここで知り合った)の目のさめるような原色の風景のショットが、すごい効果をあげている。

 画面の配置も、これは完全に小津安二郎の線を狙っていて、各キャラクターの位置に異常なまでのこだわりを見せる。これがまた登場人物の背負った「業」をシンボリックに表現するのに成功している。

 観ていて楽しい映画では決してない。ただ、多くの日本映画がウヤムヤにしてきた隠された部分を真正面からとらえて、見応え十分である。

 日本よりも海外で評価されそうな作品であると思う。事実、91年のカンヌ国際映画祭でも好評だった。
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「風、スローダウン」

2006-01-29 18:17:25 | 映画の感想(か行)
 91年作品。本格オートバイ・レーサーになる夢を持ちながらも、うだつの上がらないまま23歳になってしまった主人公。大親分になることを目指しているチンピラヤクザ。金回りはいいが目的もなく遊ぶだけの社長の息子。意に添わぬ結婚話にイヤ気がさして故郷を飛び出した娘。大阪を舞台に4人の若者の青春群像を描く。演出を担当したのは島田紳助で、今のところ、彼の唯一の監督作品だ(脚本も担当)。

 自らもレーシング・チームを率いていた紳助のことだから、全篇バイクの爆走シーンを散りばめたスピード感あふれる映画作りをするのではないか、という当初の予想は完全にはずれた。出て来るのは昨今のトレンディ・ドラマとは無縁のカッコ悪い連中で、煮えきらない現状にイライラしながらもそれに埋没してしまいそうな日常が延々と描かれる。

 最初にはっきり言ってしまえばこの映画は甘い。登場人物はダメな奴ばかりだが、それを他人のせいにしている。主人公は場末のバイク屋が経営するチームに長年在籍しているのだが、それに満足しているフシがあるし、社長のドラ息子は親に完全に甘えているが言うことだけはいっちょまえだ。チンピラヤクザは、ただ頭が悪い。縁談を蹴って大阪にやってきた娘は主人公を“あて馬”扱いにするだけで、その身勝手さに最後まで気が付かない。

 この4人が互いに傷をなめ合い、馴れ合っていたところまではいいが、シビアーな周囲の状況がそれを許さず、ツケを払わせられるハメになる、というのが本筋だろうが、そうなったところで彼らはヒイヒイ泣くばかりで、自覚した様子もない。

 大阪という地域性がさらにそれを強調する。大阪の街が主人公たちにとって一種のモラトリアムな空間となり、そこから出ることはない。大阪だから何をやっても許される、ということが、反対の“東京に対するコンプレックス”をも助長する。東京へ帰った娘を追って上京する主人公とチンピラの悲しき三枚目ぶり。仕事で東京と大阪を頻繁に往復している島田紳助が無意識に感じている心情なのだろうか。加えて説明過剰気味なバックに流れるBOROの歌。音楽にストーリーがよりかかり過ぎであると感じた。

 ま、いろいろと苦言を呈してしまったが、素人にしては島田監督、まともな作風だ。どこぞの作家が映画に手を出して無残な結果を残している事例とは大違いである。監修に当たっていたのが井筒和幸なのだが、たぶん井筒が監督するよりもマシな出来だと思われる(爆)。印象的だったのが連発される大阪弁のギャグで、日本映画では珍しく会話が面白い。そして関西芸人らしいキツイ冗談。特に在日ベトナム人に対する差別的なネタを堂々とやって違和感がないのは、さすが吉本興業である(意味不明 ^^;)。

 キャスティングは当時無名の若手が中心だが、納得できる仕上がりだと思った。中でも光っていたのがヒロインを演じる五十嵐いづみで、キャラクターうんぬんは別にしても、実に魅力的だった(この人もいつの間にか消えてしまったが ^^;)。

 島田監督には2作目、3作目と撮ってもらいたいと思ったが、今の彼の多忙ぶりからすればそれも無理な相談か。なお、91年の東京国際映画祭のヤングシネマ部門では日本代表として出品されもている。
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「キング・コング」

2006-01-28 13:49:40 | 映画の感想(か行)
 たとえばエイドリアン・ブロディがナオミ・ワッツを救出するシーンで、二人が巨大コウモリに乗ってそのまま川に落ちたはずが、次の場面ではジャングルの中を走っている。いつ川から上がったのか。

 また、コングをクロロホルムで眠らせたくだりで、次の場面はもうニューヨークに飛んでいる。どうやってあの巨体をボロ船に乗せたのか。

 このように本作は、展開がブツ切れになっている箇所が目立つ。もちろん脚本の詰めが甘いせいもあろう。だが、ピーター・ジャクソン監督のことだから、これはたぶん当初撮られたはずの“完全版”のハイライトでしかないのではないか。あと一年もすれば“ディレクターズ・カット版”と銘打った上映時間4時間ほどのシャシンが短期間公開され、そのままビデオ化されるのであろう。同監督は「ロード・オブ・ザ・リング」でも同じ手口を使ったが、あまりファンをなめるのもいい加減にしてほしい。

 もっとも“これが完全版であり、別バージョンは存在しない”というのなら、こちらは“荒っぽい作りの娯楽編”として軽く片付けるしかないけどね(笑)。

 全体として76年製作のジョン・ギラーミン監督版よりはマシだが、大幅に進歩したSFXと1930年代の時代考証を除けば、大した映画ではないと思う。

 唯一笑ったのがジャック・ブラック扮する監督たちが女優を探すシーンで“フェイ・レイはどうだ? RKOで撮影中か”と言うところ。フェイ・レイは戦前のオリジナル版のヒロインで、RKOはその製作会社だ。
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「トリコロール 赤の愛」

2006-01-27 05:42:47 | 映画の感想(た行)

 94年作品の第3作「赤の愛」(原題:TROIS COULEURS ROUGE)の主演はイレーヌ・ジャコブ。

 ジュネーブに住む女子大生兼モデルのバランティーヌ(ジャコブ)は、ある晩誤って犬を車ではねてしまう。犬の飼い主は退官した元判事(ジャン=ルイ・トランティニャン)。だが彼は“犬などどうでもいい”と冷たい態度を取る。一人暮らしの彼は一日中近所の電話を盗聴するのが趣味の偏屈な老人。でも何か人には言えない悩みを抱えているようで、放っておけない雰囲気だ。バランティーヌは彼の話し相手になるうちに、奇妙な連帯感情が生まれてくる。彼の盗聴リストの中の“対象”に法律家を目指す学生がいる。彼は天気予報サービスのオペレーター・ガールと付き合っているが、元判事は“もうすぐこの二人の仲は終わる”と意味ありげに言う。二組の男女を核として、錯綜する人間関係の不思議さを描く。

 物語の中心になるのはこの変人の元判事であることは言うまでもない。彼は人間を信用しない。普段いいかげんな生活している連中が法廷に出ると御大層な言い分を並べ、自己保身とゴリ押しに終始するのを常時見てきた彼にとっては仕方のないことかもしれない。ただ、電話の盗聴なんかで人間の本音がわかるとは完全に信じてもいない。それでも止めないのは、彼が人間同士の真のコミュニケーションを無意識に求めていることは明白だ。

 元判事には昔愛した女がいた。年上で、偶然に彼女が法律書から司法試験に出る部分を指摘したことから、急速に親密になっていく。このシチュエーションは法学生とオペレーター・ガールとの関係とそっくりだ。はたせるかな、昔の自分たちがそうであったように、この二人も破局を迎える。しかも別れる理由も同じだ。元判事の場合は、それ以来女性と付き合ったことはない。この法学生の場合はどうか・・・・。

 人間関係にある種の諦念を持っていた元判事は、裏切られても他人を信用せずにはいられない性格のバランティーヌとの出会いにより、少しずつ変わっていく。自分から盗聴を自首し、告発されても潔く処分を受ける。ファッションショーが終わった舞台の袖で、バランティーヌに元判事が過去の自分のことを切々と話すシーンはこの映画の中で一番好きな場面だ。

 イレーヌ・ジャコブは当時は世界屈指の美人女優である。上品な顔立ちと吸い込まれそうな輝く瞳。残念ながらモデルには見えないが(身のこなしがイマイチ ^^;)、彼女が被写体となる広告用写真で見せる憂いを含んだ横顔など、ハッとするほどの美しさだ。さらに「ふたりのベロニカ」を観た時も思ったが、この監督が彼女をヒロインに据える場合、生身の女性というより形而上的な物語のシンボル的扱いをするようだ。輪廻のように失われては生まれる愛の不思議、偶然に左右される人生の不思議、拒絶しつつもコミュニケーションを求める人間の心の不思議。それらの中心にはいるが、実体感がなく狂言回し的な役どころ。しかし思わぬ偶然によって、ラストは彼女も意外な転機を迎える。この結末には思わず微笑んでしまった。オマケとして最後には「青の愛」「白の愛」のキャラクターがカーテンコールのように顔を揃える。

 トランティニャンの存在感が凄く、映画に重量感を与えている。そしてタイトル通り赤いイメージが全編を覆う。法学生が乗る赤いジープ、グラビア撮影の際の赤いタイトルバック、バランティーヌの着る赤いセーター、ファッションショーでの赤いスポットライトetc.ズビグニェフ・プレイスネルの音楽はボレロを基調とした実に魅力的なもので、私も思わずサントラ盤を買ってしまった。

 舞台がヨーロッパの中立国スイスで、登場人物が旅立つ場所はイギリスだ。そのせいか前二作のような切迫したポリティカルな匂いはない。でも、観る者をホッとさせる素敵な映画であることは確か。

 1994年カンヌ国際映画祭出品作品ながら、審査委員長クリント・イーストウッドは良さが理解できず無冠に終わっている。
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「トリコロール 白の愛」

2006-01-26 06:49:27 | 映画の感想(た行)

 94年製作の第二作「白の愛」(原題:TROIS COULEURS BLANC)の主演はジュリー・デルピー・・・・と言いたいのだが、彼女は脇役で、主役はポーランドの喜劇俳優ズビグニェフ・ザマホフスキが務める。

 映画はパリの裁判所で離婚訴訟が行なわれている場面から始まる。離婚を求めるのはフランス人の妻ドミニク(デルピー)で、ポーランド人の美容師の夫カロル(ザマホフスキ)が地元で美容師コンテストが開催された際知り合って結婚した二人であった。順調だった夫婦生活もパリに引っ越してからは夫が性的不能に陥り崩壊寸前。フランス語もロクにしゃべれない彼は“愛情は消えていない”と訴えるが、結果は敗訴。家も財産も取り上げられ、路頭に迷うハメに・・・・(なお、ジュリエット・ビノシュが法廷に間違えて入ってくるシーンがあり、これは「青の愛」との連携である。ちなみに「青の愛」の裁判所の場面には、ベンチに腰掛けて開廷を待つジュリー・デルピーがチラッと出てくる)。

 カロルが地下鉄のコンコースで途方に暮れていると、同郷のポーランド人ギャンブラーのニコワイ(ヤヌシュ・ガヨス)が話しかけてくる。“自殺願望の男を知っているので、そいつを殺せば金をやる”ともちかけるニコワイだが、生活に疲れたカロルはポーランドに帰ることしか考えていない。

 パスポートのない彼はニコワイの大きなトランクに身を隠し、帰国することに成功。兄が経営する美容院にたどり着き、そこで働き始めるが、やがて高利貸しの用心棒のアルバイトをするようになる。そこで大きな地上げの話を嗅ぎ着けた彼は、それをネタに大儲け。いっぱしの実業家になるが、別れた妻が忘れられないカロルは、自分の死亡を偽装し、果たして葬式にドミニクが列席するかどうか確かめようとする・・・・。

 「青の愛」とはまるで異なり、ストーリー性豊かな恋愛喜劇である。アメリカ映画でも同じようネタで作られておかしくない。しかしキェシロフスキが手掛けると、かくも一筋縄ではいかない深みのあるドラマになるのかと驚かされる。

 時おり挿入される幸せそうな二人の結婚式の場面から、ポーランドでの蜜月が想像されるが、フランスに転居するだけですぐに破綻する男女関係のあやうさ。“自殺願望のある男”を通して描かれる被圧迫民族としてのポーランド人の悲哀にも胸を打たれる。さらに、堅気の仕事(美容師)よりも高利貸しのバイトの方が収入が良かったり、空港で預けた荷物がすぐにチンピラの手に渡ったりという困った社会状況が容赦なく描かれる。

 そしてカロルの“葬式”のシーンは当作のハイライトだ。この感動的な場面は、要するに“シチュエーションが違えば男女の間なんていくらでも変わる。でも、真実の愛は変わらない”というテーマを示しているが、同時にそれがフランスとポーランドというヨーロッパの旧東西陣営の国々の現在の状況を織り込むことにより、切迫した雰囲気が作品に漂っている。またこの結末は、状況を悲観していない作者のスタンスをあらわしていることは言うまでもない。全編に織り込まれる“東欧風ブラック・ユーモア”(なんじゃそりゃ ^^;)も効果的。

 ザマホフスキは実に味のある好演。デルピーの白痴美(ホメているのだ)も見事だ。題名通り“白い”イメージが全編を覆う。カロルがたどり着くワルシャワ郊外の白い雪原。どんより白く曇った東欧の冬の空。ジュリー・デルピーの白い肌と純白のウェディング・ドレスetc.ズビグニェフ・プレイスネルの音楽はタンゴを基調とした軽快で哀愁のあるメロディで迫る。三部作の中でもっとも“通俗的”な面白さにあふれ、誰にでも勧められる秀作だ。1994年ベルリン国際映画祭にて監督賞受賞。
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「トリコロール 青の愛」

2006-01-25 08:42:49 | 映画の感想(た行)

 93年作品。トリコロール。自由・平等・博愛を象徴するフランス国旗の3色をタイトルに使う三部作を手掛けたのは「殺人に関する短いフィルム」「ふたりのベロニカ」で知られる今は亡きポーランドの異能クシシュトフ・キェシロフスキ監督。また当時人気のフランスの若手女優3人をそれぞれのイメージに合わせて起用している点も話題を集めた。

 第一作「青の愛」(原題:TROIS COULEURS BLEU )の主演はジュリエット・ビノシュ。交通事故で著名な作曲家である夫と幼い子供を一度に奪われたヒロイン。映画は彼女がこの悲しみの淵からいかにして立ち直るかを描くのだが、アメリカ映画のような平易なドラマツルギーなど皆無といっていい。

 予想される“幸せだった家庭生活の回想シーン”は最後までない。そんなヒマはないとばかりに、切迫したヒロインの心の動きを映画はこれ以上にはないぐらいにデリケートかつ大胆に描写する。だが当然ストレートな心情の吐露などあるわけがなく、いくつかのメタファー、シンボルによる暗示が大部分を占める。

 事故直後の彼女の心は、新しい住まいで見つけたネズミによって表現される。名前を旧姓に戻し、男友だちとの情事も経験し、何とか別の生き方を見つけようとするが、しょせん地べたをはいずり回るネズミのように、目先のことしか考えない自分だ。そんな彼女も時おり電撃のような記憶に苛まれる。それは夫と共に作りかけていた曲のフレーズである。

 それは明確な“記憶”というより、深層心理に隠された“魂の刻印”とでも言うべきものだ。人生を左右するのは平易な“記憶”ではなく、それ自体を収斂させる不可解かつ根本的な“衝動”ではないだろうか。いくら表面的に取り繕っても人はそれから逃れられない。彼女は開き直るように未完の曲を完成させようとする。

 面白いのは、当初かなりシンフォニックに書かれていた曲が、作業を進めるうちに贅肉をそぎ落とすようにシンプルかつストイックにアレンジされていく点だ。ヒロインが楽譜を指でなぞると、そのフレーズが大音量で響きわたるという素晴らしい演出と共に、彼女の心が次第に音楽と一緒に高揚していくプロセスを的確に表現するこの映画のハイライトだ。

 また、悲しみに暮れていたヒロインが、少しずつ人生と向き合っていく微妙な心の動きを、断片的なエピソードで綴っていく展開も印象的だ。路上でリコーダーを吹く男の演奏をいつも気にしている彼女が、ある日男が倒れているのに気付き、思わず声をかけてしまう。施設に入れられている母に会いに行くと、すでに母はボケていて、ヒロインが小さかった頃の幸せな思い出も失われている(そばにあるテレビから流れる粗い映像が抜群の効果)。偶然に知り合った娼婦から教えられる夜の世界。彼女が街角で見た腰の曲がった老女が空瓶回収箱の前で四苦八苦する光景。人から人の手へ渡る十字架のペンダント。何気ない描写の積み重ねが、やがて大きなうねりとなって画面を横溢するその演出の巧みさ。

 そしてタイトル通り全編を彩る青いイメージ。彼女が飛び込む誰もいないプールの青。部屋に飾られたモビールの青。黄昏のようなセピア色の画調の中で、その青い色は登場人物の悲しみと純粋さをあらわすように深く美しい。

 「ふたりのベロニカ」が“もうひとりの自分の犠牲によって生かされている自分”という人間の実存に迫った作品なら、この映画は“過去の自分との決別により生きる自分”という普遍的なテーマをドラマティックに提示したと言える。

 そして圧巻は彼女が完成させる曲である。タイトルは“欧州統合のための協奏曲”。ズビグニェフ・プレイスネルによるこの音楽と共に、登場人物の人生模様が描き出されるラストシーンは衝撃的だ。なぜなら、作者はヒロインの魂の救済というミクロ的主題と、混乱の中にあるヨーロッパの状況とその未来というマクロ的なテーマを連動させるこの映画のもうひとつの目的が明らかになるからだ。

 ジュリエット・ビノシュは最高の演技。技巧的にも芸術的にもパーフェクトに近い、深くて野心的な傑作だ。1993年ヴェネツィア国際映画祭グランプリ作品。
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「フォー・ブラザーズ 狼たちの誓い」

2006-01-24 06:53:11 | 映画の感想(は行)
 (原題:Four brothers)デトロイトを舞台に、義理の母親を殺された“義兄弟四人衆”が町のボス相手に大暴れするという活劇編。

 ジョン・ウェイン主演の西部劇「エルダー兄弟」を元にしているとかで、なるほど“警察はアテにならない。俺が掟だ”的なノリが全編を覆っている。西部劇の時代ならともかく、現代でこれをやれば主人公達は復讐を遂げる前に確実に刑務所行きだが、そのへんを“愛嬌”だと割り切れば無理なプロットにも腹は立たないだろう。

 アクションは大味ながら、クライマックスが銃撃戦ではなく殴り合いだというのが微笑ましい。主演のマーク・ウォールバーグも楽しそうに演じている。

 ただ、どう見ても“お気楽B級活劇”でしかない本作を褒め上げている評論家が複数いるのには苦笑する。テレビの洋画劇場で放映するのならともかく、劇場でカネを払って観る価値があるシャシンとは思えない。もうちょっと観客の立場での論評をお願いしたいものだ。

 なお、監督はジョン・シングルトンだが、デビュー作「ボーイズ’ン・ザ・フッド」で切れ味鋭いところを見せたこの演出家も、近年すっかりお手軽監督に落ち着いたようで、少し寂しいものがある(笑)。
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