元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」

2024-06-02 06:28:11 | 映画の感想(あ行)
 (原題:RAPITO)これが史実であることに驚くしかない。西欧における宗教、あえて言えば一神教が掲げる価値観(教義)と、それがもたらす影響力について思い知らされる一編だ。さらにはその“原理主義”とも言える教えと、一般市民の普遍的な哀歓との確執をも掬い取っているあたりも、映画が平板な出来になることを巧みに防いでいる。観る価値はあると思う。

 1858年、イタリア北部のボローニャのユダヤ人街に居を構えるモルターラ家に、突如として教皇ピウス9世の命を受けた兵士たちが押し入り、7歳になる息子のエドガルドを連れ去ってしまう。何でも、エドガルドは赤ん坊の頃に洗礼を受けたらしく、ユダヤ教徒の家庭で育てることは出来ないので教会側で引き取るとのことだ。納得出来ない両親は世論やユダヤ人社会の後押しを得て教皇庁と対峙するが、申し入れを受ければ教会の権威が失墜すると考える教皇はエドガルドの返還に応じようとしない。やがてイタリア王国が成立し、時代の流れは教会の立場を微妙なものにしていく。



 エドガルドが洗礼を受けることになった原因は、心情的には理解できるものである。もちろん両親の気持ちも分かる。そして幼くして親元から引き離されたエドガルド自身の悩みも映画はカバーしている。しかし、そんな彼らの平易な思いに、宗教は何ら寄り添うことは無い。偏狭な一神教の教義が権威を生み、それが社会全体の硬直化に繋がる。当然ながら作者は宗教そのものを糾弾するつもりは無い。ただ、エドガルドが長じてカトリック側の人間になっていくプロセスや、同時に教皇への複雑な思いが蓄積する様子などが描かれることにより、宗教との板挟みになってしまった者の苦悩を描き出している点は評価して良い。

 もっとも、後半のクーデターによって政変が起きるくだりは効果的に表現されていない。まあ、戦闘シーンを再現するほどの予算規模ではなかったと思われるが、もうちょっと力を入れた方が盛り上がっただろう。撮り方次第で、ある程度の工夫は出来たはずだ。

 監督のマルコ・ベロッキオはドラマ運びは巧みで、登場人物たちの内面も上手くカバーしている。主人公の少年期を演じるエネア・サラと、青年になったエドガルドに扮したレオナルド・マルテーゼは妙演。教皇役のパオロ・ピエロボンも海千山千ぶりを発揮している。そして何といっても、フランチェスコ・ディ・ジャコモのカメラによる奥行きの深い映像が素晴らしい。歴史好きならば要チェックだ。
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「悪は存在しない」

2024-05-31 06:28:55 | 映画の感想(あ行)
 国際的には高く評価される濱口竜介監督だが、私は彼の作品を良いと思ったことは一度も無い。とはいえ本作は上映時間が106分と、前作「ドライブ・マイ・カー」(2021年)みたいな犯罪的な長さではなく、社会派っぽい題材を扱っている点をも勘案して鑑賞することにしたのだ。しかし、やっぱり結果は“空振り”である。何のために撮られた映画なのか、その意図すら判然としない。

 長野県水挽町は自然豊かな高原に位置しており、しかも首都圏から近いために移住者は増えつつある。昔からこの地に住んでいる巧は、小学生の娘である花と共に自給自足に近い生活を送っていた。そんな中、水挽町にグランピング場の設営計画が持ち上がる。デベロッパーは政府からの補助金を得た芸能事務所だ。しかし、将来的に水源が汚染される危険性が発覚し、町内に動揺が広がる。



 冒頭、鬱蒼と茂る林を仰角で捉えたショットが延々と続く。そして次に巧が薪割りをするシーンが映し出される。正直、この時点で鑑賞意欲が減退した。別に映像は美しくないし、何のメタファーにもなっていない。弛緩した時間が流れるだけだ。巧の生活パターン自体が面白いものではなく、花を下校時に迎えに行く日課も(これが終盤の伏線のつもりかもしれないが)だから何だと言わざるを得ない。

 そもそも、開発業者による住民たちへの説明会のくだりが噴飯物だ。通常、こういうプロジェクトの発表会は自治体の担当責任者と、開発側の幹部が列席するのが常識だ。ところがこの映画の中では、事務所からは現場担当者2人しか来ないし、町役場の人間もいない。開発業者の社長も発案者の経営コンサルタントも顔を見せない。一体これは何の茶番なのだろうか。

 それから先は開発業者の社員2人と巧との、微温的でどうでも良いやり取りが延々と続く。ディベロッパーの幹部の悪辣さや経営コンサルタントのいい加減さが殊更クローズアップされるわけでもなく、ストーリーが迷走したままラスト近くには意味不明の“トラブルらしきもの”が差し出され、唐突に終わる。こんな建て付けのドラマに「悪は存在しない」なる思わせぶりなタイトルを付けて、作者はいったい何をしたかったのだろうか。そもそも、グランピング場の建設に伴う環境アセスメントの精査さえ具体的に成されていない有様だ。

 巧に扮する大美賀均をはじめ、西川玲に小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月など、キャストは無名の者ばかり。もちろんそれが上手く機能していれば良いのだが、どう見てもサマになっていない。濱口監督がインスピレーションを受けたという石橋英子の音楽にしても、あまり印象に残らず。
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「あまろっく」

2024-05-25 06:07:58 | 映画の感想(あ行)
 こういう映画は嫌いだ。日本映画のダメな面を如実に示しているのは、アニメーションの氾濫でも人気漫画の安易な映画化でもなく、はたまた若年層向けのラブコメ壁ドン作品の乱造でもない。本作のようなシャシンの存在と、それが悪くない評価を得てしまう現状だと思う。まあ、この手の映画は二本立て興行が普通だった昔の時代の“メインじゃない方の番組”だったら笑って許せたのだろう。だが、普通料金を取っての単独公開でこのレベルだと、まさに“カネ返せ!”と文句の一つも言いたくなる。

 東京の一流企業で腕を振るっていた30歳代後半の近松優子は、理不尽なリストラに遭い実家がある兵庫県尼崎市に戻ってきた。直ちに定職に就くことなく日々を過ごしていた彼女だったが、ある日、町工場を経営している父親の竜太郎が再婚相手として20歳の早希を連れてくる。優子は戸惑うばかりで早希との仲も上手くいかない。そんな中、竜太郎が急逝してしまい、優子はいよいよ難しい立場に置かれることになる。



 まず、設定自体がデタラメだ。仕事が出来て社内表彰も受けている優子を、会社が簡単に手放すはずが無い。たとえ実家に帰っても凄腕のキャリアウーマンの彼女ならば、関西圏で仕事はすぐに見つかるはずだ。竜太郎はロクに仕事もせず、業務は部下に任せきり。しかも、重要な工程は超ベテランの社員一人が担当していて、彼の後継者も育成していない。

 そして最大の難点が、60歳をとうに過ぎたオッサンが20歳の若い女子からプロポーズされて結婚するという、有り得ない展開だ。こんな観る者をバカにしたような筋書きの果てに、終盤ではかつての阪神淡路大震災のエピソードを無理矢理挿入して“泣かせ”に走る始末。安手のテレビドラマでも採用しないような与太話である。

 ところが、世評は良かったりするのだ。こんな軽量級で中身の無い人情話が受け入れられている現実。映画に大それたものを期待しておらず、肩の凝らない微温的なシロモノであればそれで良いという風潮こそが、邦画が低空飛行を続けている原因の一つではないのか。中村和宏の演出は凡庸で特筆すべきものは無し。優子に扮する江口のりこは奮闘はしているが、映画自体がこの程度では気の毒になってくる。竜太郎役の笑福亭鶴瓶は論外で、テレビでよく見る鶴瓶のまんまだ。映画に出ている意味が無い(若い頃の竜太郎に扮する松尾諭がずっと演じた方が良かった)。

 早希を演じる中条あやみは悪くないパフォーマンスだが、彼女はすでに(現時点で)27歳で、しかも見た目が大人っぽいので、20歳というのは無理がある。中村ゆりに浜村淳、高畑淳子ら脇のキャストは印象に残らず、佐川満男はこんな映画が遺作になってしまったのは何ともやりきれない。あと、鶴瓶の身内である駿河太郎が出ているのも愉快ならざる印象を受けた。
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「アイアンクロー」

2024-05-06 06:09:30 | 映画の感想(あ行)
 (原題:THE IRON CLAW )本作を観て、評論家の下重暁子による著書「家族という病」を思い出した。断っておくが、私はこの本を読んでいない。どういう中身であるのか、ネット上に紹介されているアウトラインしか知らない。だが、このタイトルが妙に“刺さる”鑑賞後の感触ではある。ともあれスポーツを題材とした映画としては、かなりの異色作として記憶に残る内容だ。

 70年代までは強豪プロレスラーとして知られたフリッツ・フォン・エリックは、80年代になるとケヴィンとケリー、デイヴィッド、マイクら息子たちを跡継ぎとして育て上げようとしていた。父親の期待に応えて兄弟は次々とプロデビューするが、世界ヘビー級王座戦への指名を受けた三男のデイヴィッドが日本遠征中に急死したのを皮切りに、フォン・エリック家には次々と悲劇が降りかかる。そしていつしか、彼らは“呪われた一家”と呼ばれるようになっていく。



 私が子供の頃は、テレビのゴールデンタイムにプロレスの中継が放映されていた。そこでジャイアント馬場やアントニオ猪木らを苦しめていた外人レスラーの一人が、フリッツ・フォン・エリックだった。その必殺技“アイアンクロー”は見るからに相手にダメージを与えそうで、強烈な印象を受けたものだ。しかし、彼の家族が不幸に見舞われていたことは、この映画を観るまで知らなかった。

 フリッツは確かにカリスマ性を持ったレスラーだったが、何も息子たちに過度なスパルタ教育を施したわけではなく、理不尽な家庭内暴力が罷り通っていたわけでもない。単に父親が有名レスラーだったから、そんな父親の背中を見て育ったから、自分たちもレスラーになるのが当然だと思って精進していただけなのだ。

 そういう、既成事実化した家父長制の元では無意識的に不幸を呼び込むことがあるのだろう。もしも、フリッツが別の生き方を知っていたなら、そしてそれを息子たちに提示していたなら、事態は大きく変わっていたかもしれない。そういう“家族の肖像”を平易なタッチで描いたショーン・ダーキン(脚本も担当)の演出は、大いに納得出来るものがある。

 テキサスの田舎町にあるフォン・エリック家の佇まいは、素朴で野趣に富んではいるが、やはり一般世間からは隔絶した感がある。あえて35ミリフィルムで撮り上げた荒いタッチの映像(撮影監督はエルデーイ・マーチャーシュ)が抜群の効果だ。

 ケヴィン役のザック・エフロンの肉体改造ぶりには驚いた。ジェレミー・アレン・ホワイトにハリス・ディキンソン、スタンリー・シモンズら兄弟に扮した面々の偉丈夫にも感心した。フリッツを演じるホルト・マッキャラニー、実質的なヒロイン役のリリー・ジェームズもイイ味を出している。もちろん試合のシーンもよく練られていて、プロレス好きにもアピールできるだろう。
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「稲妻」

2024-05-04 06:07:26 | 映画の感想(あ行)
 1952年大映作品。往年の名監督、成瀬巳喜男の代表作と呼ばれている映画だが、今回私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”での特集上映にて、初めてスクリーンで観ることが出来た。登場人物たちの設定は随分と無理筋だとは思うものの、この時代ならあり得そうだし、タイトルの“稲妻”が鳴り響くタイミングも秀逸。異色のホームドラマとして記憶に残る作品だ。

 はとバスのガイドをしている小森清子には光子と縫子という二人の姉、そして兄の嘉助がいるが、実はそれぞれ父親が違う。姉たちは結婚しており、清子は独身。嘉助は甲斐性無しのプータローだ。縫子が清子に両国のパン屋の綱吉との縁談を持って来るが、それは遣り手の綱吉の財力をアテにした政略結婚みたいなもので、清子は話に乗る気はまったく無い。さらに光子の夫の呂平が急死し、その後に呂平には妾のリツと子供が残されていたことが分かる。いよいよ嫌気がさした清子は、家を出る決心をする。林芙美子の同名小説の映画化だ。



 昭和初期には(戦役などで)相方に次々と先立たれて再婚を重ねた結果、父親の違う子供を複数持つことになった女性がけっこういたことは想像に難くない。だからこの映画の御膳立ても違和感は少ないと言える。それよりも、複雑な家庭の事情にもめげずに自分たちで人生を切り開こうとした姉妹たちのバイタリティを賞賛すべきであろう。

 そんな状況にあって“自分だけは違う!”とばかりに独り暮らしを始めた清子は、隣家に住む垢抜けた兄妹に憧れるものの、波瀾万丈の人生を送った母親の影響から逃れることが出来ず、改めて自身の生き方を問い直す。その筋書きには無理はなく観る者の共感を呼ぶ。成瀬の演出は達者なもので、登場人物たちの微妙な屈託を巧みに掬い上げる。

 清子役の高峰秀子の魅力は圧倒的で、彼女一人でこの混迷した世の中を引き受けてしまうようなスケールの大きさを感じさせる。母親役の浦辺粂子の存在感も特筆もの。他にも三浦光子に村田知栄子、丸山修、小沢栄太郎、根上淳、香川京子などの手練れが顔を揃える。峰重義のカメラがとらえた高度成長時代前夜の東京の風景は、ゴミゴミとしていながらノスタルジアに溢れていて、(私が生まれるずっと前の話ながら)観るほどに心にしみてくる。
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「オッペンハイマー」

2024-04-29 06:08:01 | 映画の感想(あ行)
 (原題:OPPENHEIMER )第96回米アカデミー賞では作品賞をはじめ7部門を獲得した注目作ながら、私はまったく期待していなかった。実際に観ても、やはり大したシャシンではないとの思いを強くする。ではなぜ劇場鑑賞する気になったのかというと、話題作であるのはもちろん、この映画がどうして本国で高く評価されているのか、それを確かめたかったからだ。

 原子爆弾の開発に成功したことで“原爆の父”と呼ばれた、アメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーを題材に描いているが、このネタでまず思い出したのが、同じく第二次大戦下を描いた宮崎駿監督の「風立ちぬ」(2013年)である。あの映画の主人公の堀越二郎は、零式艦上戦闘機の設計者として有名。ただし、彼は政治家でも思想家でもなく、はたまた一般の市井の人間でもない。ただ、こと航空工学にかけては他の追随を許さない才能を持っていた。



 こういう“特定分野のみに突出した(理系の)人間”を通して歴史を描こうというのは、どだい無理な注文だ。何せ本人の興味の対象は、主に自身の学術的探求とその成果物である。それが世の中にどういう影響を与えるかなんてのは、さほど関知していない。しかるに「風立ちぬ」は凡作に終わっているのだが、この「オッペンハイマー」も同様だ。

 主人公は核兵器の開発に対しては自らの研究の延長線上にあると思っている。それが結果的にどんな災禍を招くかということなど、意識の外にあるのだろう。まあ、後年彼は水爆の開発には反対したということが申し訳程度に挿入されてはいるものの、全編を通して描かれるキャラクターは“物理学のオタク”でしかない。

 ところが映画は後半に思いがけない展開を見せる。戦後、ジョセフ・マッカーシー上院議員が主導した“赤狩り”により、オッペンハイマーの家族および大学時代の恋人までもが共産党員であったことが明らかになり、ロバート自身も共産党系の集会に参加したことが暴露されてしまう。言うまでもなく、この赤狩りはアメリカ映画にとって大きなテーマであり、いわゆる“ハリウッド・テン”をはじめとして、当時の業界関係者が辛酸を嘗めたことは、過去いくつもの映画で取り上げられている。

 この“赤狩り”を科学者を対象に描くという今までに例を見ない着眼点が、本国では大いにアピールした理由かと思われる。もちろん、原爆投下による広島や長崎の悲劇はクローズアップされていないし、終戦時の各国の政治的駆け引きも強調されていない。何が映画の主眼になっているかを考えれば、まあ当然のことだ。

 それにしても、この映画の作劇はホメられたものではない。登場人物が無駄に多く、それぞれの背景が描かれずにスクリーン上を行き来するため、観ていて面倒くさくなってしまう。かと思えば、主人公と愛人ジーン・タトロックとのくだりはえらく冗長だ。何より、盛り上がりを欠いたままの3時間という尺は苦痛だった。クリストファー・ノーラン監督は今回オスカーを手にしたものの、近年腕が落ちていることは否めない。

 主演のキリアン・マーフィをはじめ、エミリー・ブラント、マット・デイモン、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナーなど顔ぶれは多彩だが、大した演技をしていない。印象に残ったキャストはゴーマンさが光るロバート・ダウニー・Jr.ぐらいだろう。
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「雨月物語」

2024-04-27 06:07:35 | 映画の感想(あ行)
 1953年大映作品。日本映画史上にその名を刻む巨匠である溝口健二の代表作と呼ばれているシャシンだが、今回私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”での特集上映にて、初めてスクリーンで観ることが出来た。正直な感想としては、やっぱり“古い”と思う。画質が荒いのは製作年度を考えれば仕方が無いとは思うが、展開自体が悠長というか、じっくり描こうとして時制面で納得出来ない点が出てきている。では観る価値はあまり無いのかというと断じてそうではなく、美術やキャストの存在感には目覚ましいものがある。

 戦国時代、琵琶湖北岸の村に住む陶工の源十郎は、商売のために対岸の都へ義弟の藤兵衛と共に渡る。そこで源十郎は若狭と名乗る美女から陶器の注文を受け、彼女の屋敷を訪れる。思わぬ歓待と追加注文を受けた彼は、やがて若狭にゾッコンになってゆく。一方、侍として立身出世を夢見る藤兵衛は、策を弄して羽柴勢に紛れ込んでいた。



 上田秋成の読本に収録された数編の物語を元に、川口松太郎と依田義賢が脚色したものだが、あまり上手くいっているとは思えない。源十郎と若狭とのエピソードは数日あるいは長くて数週間の物語という印象しかないのに対し、藤兵衛が侍として成り上がり、やがて手柄を立てて小隊長みたいな身分になるまでには数か月は要するのではないか。

 しかもこの間に藤兵衛の妻の阿浜は野武士に乱暴された挙げ句、売春婦に成り果てるが遊郭では売れっ子の一人になるという、短いスパンでは描ききれないドラマも“同時進行”しているのだ。これらを平行して並べるのは無理筋だ。

 しかしながら、宮川一夫のカメラワークは万全で、琵琶湖を渡るシーンや若狭の屋敷の佇まいには感心するしかない。キャストでは何と言っても若狭に扮する京マチ子が最高だ。この妖艶さとヤバさは只事ではなく、観ているこちらも引き込まれた。源十郎を演じる森雅之をはじめ、小沢栄太郎に水戸光子、青山杉作など面子は粒ぞろい。

 そして、源十郎の妻の宮木に扮した田中絹代がもたらす柔らかい空気感が場を盛り上げている。終盤は若狭ではなく宮木を中心としたシークエンスで締めたというのは、溝口健二が狙っていたテーマを如実に示すものであろう。視点が常に高い次元を指向していた黒澤明とは、一線を画していると思う。
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「戦雲(いくさふむ)」

2024-04-22 06:07:50 | 映画の感想(あ行)
 題材だけで判断すると、これは左傾イデオロギーが横溢したプロパガンダ映画なのかという印象を受けるかもしれない。しかし、実際に接してみると右だの左だのという小賢しい“神学論争”とは一線を画した、真に地に足が付いたドキュメンタリー映画の力作であることが分かる。その意味では観る価値は大いにある。

 日米両政府の主導のもと、沖縄は重要な軍事拠点と位置付けられ、自衛隊ミサイル部隊の配備や弾薬庫の大増設などが断行されてきた。2022年には“キーン・ソード23”なる日米共同統合演習までも実施され、南西諸島を主戦場に想定した防衛計画が練られていることが明らかになった。しかし、この動きは沖縄県民のコンセンサスを得たものではないのだ。日本の安全保障という建前ながら、住民たちの利益には必ずしも繋がっていない。



 映画は地元住民らの日常や、豊かな自然を丹念に写し取る。特に、与那国島のハーリー船のレースの盛り上がりや、カジキとの格闘に命を賭ける老漁師の生き方などはインパクトが大きい。だが、なし崩し的に実行される島々の軍事要塞化の波が、住民たちの生活に暗い影を落としている。

 断っておくが、私は“安保ハンターイ!”などという小児的な左巻きシュプレヒコールに与するものではない。アメリカと共同しての安全保障体制の確立は重要かと思う。しかし、問題はその拠点がどうして沖縄なのかだ。右巻きの連中はよく“沖縄は軍事的に重要な地点であるから、基地が集中するのは当然だ”みたいな物言いをするようだが、ならば他の地域は軍事拠点ではないのか。

 たとえば冷戦期に、アメリカは北海道や福岡から基地を撤収しているが、これをどう説明するのだろうか。要するに、基地のロケーション選定なんてのは日米の政治的決着によるものであり、真っ当な軍事的必然性とは距離を置いたものなのだ。もちろん、現地住民のことを顧みる余地は無い。

 監督の三上智恵はこのような現実を冷徹に提示する。しかも、沖縄とは関係の無い所謂“左傾活動家”を登場させることもせず、地元取材の立場から逸脱して“作家性”を強調することもない。極めて賢明なスタンスを取っている。それにしても、台湾有事を持ち出せば異論を許さない風潮が創出され、同時に負担を沖縄に押し付ける事なかれ主義が罷り通ってしまう、安全保障の何たるかを考慮しない空気が蔓延している現実は憂うべきことだ。たとえば辺野古をめぐる状況などを見てみると、そのことを痛感する。
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「ウィスキー」

2024-04-19 06:08:01 | 映画の感想(あ行)

 (原題:WHISKY)2004年ウルグアイ=アルゼンチン=ドイツ=スペイン合作。監督のフアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールは“南米のアキ・カウリスマキ”と言われているそうで、冴えない中年男女を主人公にしている点や徹底的にストイックな作劇には共通点がある。だが、北欧の巨匠の作品群よりも上映時間は若干長く、それだけに登場人物の追い詰め方は堂に入っている。同年の東京国際映画祭でコンペティション部門のグランプリと主演女優賞を受賞。第57回カンヌ国際映画祭でも“ある視点”部門のオリジナル視点賞を獲得している。

 ウルグアイの下町で零細な靴下工場を経営するユダヤ人の主人公ハコポは、控え目だが忠実な中年女性マルタを工場で雇い入れている。ハコポとマルタが一緒に仕事をするようになってから長い年月が経っているのだが、2人は必要最小限の会話しか交さない。そんな中、ブラジルで成功したハコポの弟エルマンから訪ねてくることになる。

 ハコボは長らく疎遠になっていた弟が滞在する間、マルタに夫婦のフリをして欲しいと頼み込み、了承を得る。早速2人は偽装夫婦の準備を始め、結婚指輪をはめて一緒に写真を撮りに行く。こうしてエルマンを迎えることになるのだが、事態は思わぬ方向に転がり出す。

 結局、人間は見かけはどうあれ中身は千差万別なのだ。ハコポとマルタは単調な日常を送るだけの退屈な人物に見えるが、エルマンの滞在を切っ掛けに、2人は実は正反対の性格だったことが明らかになるという、その玄妙さ。

 陽気で如才ない弟から仕事を手伝いたいとの申し出を受け、それが自分の利益になることを分かっていながら、今までの単調な生活を崩したくないため断ってしまう主人公の被虐的なキャラクターと、チャンスさえあればどんどん外の世界に出て行きたいという欲求を抑えたまま生きてきたヒロインとの対比は、残酷なまでに鮮烈だ。

 これがハリウッド映画ならば、二人は夫婦の真似事をするうちに相思相愛になるという手垢にまみれたハッピーエンドに持って行くところだろうが、本作はストーリーが進むほどにそんな予定調和から遠ざかってゆく。フィルムが断ち切られたようなラストも秀逸だ。ウルグアイとブラジルとの国情の違いや、ユダヤ人の“法事”みたいな風習が紹介されるのも興味深い。

 アンドレス・パソスにミレージャ・パスクアル、ホルヘ・ボラーニといったキャストはもちろん馴染みが無いが、皆良い演技をしている。なおタイトルの意味は、日本では写真を撮影するときに被写体の人の笑顔を撮るため“チーズ”と言わせるが、南米ではそれが“ウィスキー”になるところに由来している。
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「アフター すべての先に」

2024-02-18 06:08:53 | 映画の感想(あ行)
 (原題:AFTER EVERYTHING)2024年2月よりNetflixより配信。各登場人物の関係性がいまひとつ掴めないと思って眺めていたが、実はこれシリーズ物の一作で、本作の前に数本の“前日談”が存在しているということを鑑賞後に知った(笑)。それはともかく、アナ・トッドによる(若者向け)恋愛小説の連作の映画化なので、実にライトな建て付けでそれほどの深みは無い。では全然面白くなかったのかという、そうでもない。含蓄のあるセリフは挿入されているし、何より映像が素晴らしくキレイだ。その意味では観て損したという気はしない。

 英国の若手作家のハーディン・スコットは、デビュー作「アフター」が好評を博したものの2作目が書けず酒に溺れる毎日だ。1年以上のスランプ状態のまま、彼は気分転換を兼ねて過去に付き合いのあったナタリーの住むリスボンに向かう。ハーディンには「アフター」執筆時にテッサ・ヤングという恋人がいて、小説の内容が彼女との関係性を赤裸々に綴っていたものらしく、そのためテッサは彼の元を去って行った。だがハーディンは彼女のことを忘れられず、それがスランプの原因の一つでもあったのだ。リスボンでも新作の構想は浮かばず鬱屈した日々を送るハーディンだが、あるトラブルを切っ掛けに再起を図ることになる。



 どう見てもハーディンは文才のあるような男とは思えないし、彼の仲間たちにしてもチャラチャラした軽量級の奴らばかり。加えて前作までに語られていたらしい人物関係がハッキリしないので、序盤は(個人的には)盛り上がらないままだ。しかし、舞台がリスボンに移ってからはイッキに目が覚める。

 ミュージック・ビデオを数多く手掛けたジョシュア・リースのカメラによるポルトガルの風景は、ため息が出るほど美しい。赤い屋根の住宅が続き、市電が走るリスボンの市街地。そして陽光がきらめく海岸の景観など、観光用フィルムも顔負けの仕上がりだ。この映像だけでも本作に接する価値はある。

 荒んでいたハーディンの内面が、ナタリーをはじめとする周囲の人間によって徐々に改善していく様子は、型通りとはいえ悪くはない。そして、父親が彼に言う“たとえ結果として上手くいかなくても、真心を込めて全力でやれれば、それで「成功」なのだ”というセリフは、けっこう刺さった。カスティル・ランドンの演出は可も無く不可も無し。ハーディン役のヒーロー・ファインズ・ティフィンをはじめ、ジョセフィン・ラングフォード、ミミ・キーン、ベンジャミン・マスコロといった若手キャストは馴染みは無いものの、良くやっていると思う。
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