元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マイナーブラザース 史上最大の賭け」

2024-06-09 06:26:37 | 映画の感想(ま行)

 (原題:BREWSTER'S MILLIONS )86年作品。まず驚いたのが、このライトなコメディがウォルター・ヒル監督の手によるものであることだ。同監督はそれまで「ザ・ドライバー」(78年)や「48時間」(82年)「ストリート・オブ・ファイヤー」(84年)などのハードなアクション編を次々とモノにしていて、そっち方面での俊英と見られていた。ところが、ここにきてまさかの新境地開拓。何とも器用な作家である。

 マイナーリーグのハッケンサック・ブルズ所属の投手モンティ・ブルースターは、ある晩相棒のスパイク・ノーランと酒場で相手チームの選手たちと大ゲンカし、あっさりクビを言い渡される。失意のモンティの元に、顔さえ知らなかった石油成金の大叔父が3億ドルの遺産を残して逝去したとの連絡が届く。そしてモンティが3億ドルを手にするには条件があり、それは30日間で3千万ドルをすべて使い切れというもの。ただし1ドルでも残したら3億ドルの遺産はすべて白紙になる。しかもこの大乱費のの理由を誰にも打ち明けてはならない。かくして、アホらしくも痛快な“30日間3千万ドル大乱費”がスタートする。

 いくら無駄遣いが大好きな小市民でも(笑)、30日間で日本円にして数十億円を全額溶かすというのは至難の業である。モンティはスパイクを副社長にして破産するための会社を作る。ところが、ロクでもない投資で逆に儲かってしまうのだ。それでもカネの力でメジャーリーグと試合して長年の夢を叶えるが、やがて最大のムダ使いはこれだとばかりに市長選に立候補する。

 W・ヒルの演出はいつもの活劇編と同様にテンポが良く、次から次と舞い込む“逆境”に徒手空拳で立ち向かうモンティの奮闘を面白おかしく見せる。冒頭の、グラウンドを列車が横切って試合中断になるというマイナーリーグを茶化したギャグから、二転三転するラストのオチまで好調だ。

 主演のリチャード・プライヤーは当時売れっ子の喜劇役者で、スパイク役のジョン・キャンディと共にお笑い場面の創出には余念が無い(この2人は若くして世を去ってしまったのが残念だ)。ロネット・マッキーにスティーヴン・コリンズ、ヒューム・クローニンといった脇の面子も申し分ない。

 なお、本作を観て思い出したのが、テレンス・ヒル主演の「Mr.ビリオン」だ。莫大な遺産を総額するために厄介な条件を期限までにクリアする必要があるという基本プロットは同じ。こちらは77年製作だからネタとしては古いのだが、「マイナーブラザーズ」自体が1961年に作られた「おかしなおかしなお金持ち」(日本未公開)のリメイクなので、この題材は昔からあるのかもしれない。
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「正義の行方」

2024-06-08 06:27:50 | 映画の感想(さ行)

 ドキュメンタリー映画としてはかなりの力作であることは分かるが、どこか釈然としないものを感じる。たぶんそれは、重要なことが描かれていないからだろう。もちろんドキュメンタリーとはいえ作者が伝えたいテーマは存在しており、フィクショナルなテイストの介在は避けられない。そこを扱う題材とどう折り合いを付けるかが、作品の成否の要素になる。本作の場合、そのあたりがどうも微妙なのだ。

 1992年に福岡県飯塚市で2人の女児が行方不明となり、同県甘木市(現・朝倉市)の山中で他殺体となって発見されるという、いわゆる飯塚事件が起きる。94年に犯人として逮捕されたのは、被害者と同じ校区に住む久間三千年だ。久間は2006年に死刑判決が確定し、2008年に刑が執行される。しかし、執行の翌年に冤罪を訴える再審が福岡地裁に請求された。2022にNHK-BSで放送され高評価を得た「正義の行方 飯塚事件30年後の迷宮」を、劇場版として再編集したものだ。

 映画はこの事件に関わった弁護士や警察官、新聞記者がそれぞれの立場から語る内容を淡々と綴る。面白いのは、本作にはナレーションが存在しないことだ。観る者を(少なくとも表面上は)なるべくミスリードしないようにする配慮かと思うが、ハードな雰囲気を作品に付与して観る者を引き付けることに貢献していると思う。

 とはいえ作者のスタンスはハッキリしており、死刑判決が出てから執行までが早かったこと、及び当時のDNA鑑定の信用性が万全ではなかったことを引き合いに出し、冤罪の可能性を指摘していく内容になっている。つまりは警察当局と司法、検察の体制の不備を突こうとしているのだ。また、目撃者の証言が全面的に信用出来るものではないらしいことも匂わせる。

 しかし、映画は大事なポイントを見逃している。それは、どうして久間が警察の第一のターゲットに成り得たのかということだ。いくら、警察でも純然たる一般人を突然マークはしない。それなりの背景があるはずだ。にも関わらず映画はそのことについて言及していない。そして、捜査当時の警察庁長官は国松孝次だ。国松といえば“あの事件”を思い出す向きも多いだろうが、映画は少しも触れていない。もちろん飯塚事件とは直接の関係は無いだろうが、取り上げることにより映画に厚みを与えると思われる。監督の木寺一孝はどうしてそうしなかったのか、疑問の残るところだ。

 なお、2024年6月5日に福岡地裁は再審を認めない決定を下した。まあ当然のことかと思う。もしも本件に関して再審が認められると、司法制度の根幹が揺らぐような大騒ぎになる。裁判所側としても受け入れるわけにはいかない。だが、真相がすべて明らかになっていないような隔靴掻痒感は残る。この状態は決定的な新証拠が出てこない限り、今後もずっと続くのだろう。
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「ブルービートル」

2024-06-07 06:25:36 | 映画の感想(は行)
 (原題:BLUE BEETLE )2023年製作のDCコミック系のヒーロー物。日本では劇場公開されず、同年11月からデジタル配信されている。出来としては水準をクリアしていると思うし、宣伝の仕方によっては劇場にある程度客を集められそうなシャシンだと思ったが、昨今のアメコミ映画の国内興行が“斜陽化”していることによりリスクを避けて封切りを見合わせたのだろう。ましてや、馴染みの無いキャラクターが画面の真ん中に居座っているので尚更だ。

 ゴッサム法科大学を卒業した青年ハイメ・レイエスは、故郷であるメキシコ国境近くのパルメラシティ(架空の都市)に戻ってくる。職探しの間にバイト先として出向いたITと軍事の巨大キャリアであるコード社の研究所で、彼は古代の墳墓から発見された異星人の手によるバイオテクノロジーの粋を集めたスカラベに偶然触れてしまう。



 するとスカラベに共生宿主として認知されたハイメは、スーパーパワーを秘めたアーマースーツに身を包んだ超人ブルービートルに変身する。一方、スカラベとの相性が良いハイメの存在を知ったコード社の社長ヴィクトリアは、彼を解剖してスーパーパワーの情報を掴み、自社の軍需産業に転用しようと画策する。

 DCコミックス初のラテン系ヒーローだからというわけでもないだろうが、主人公はやたら明るく楽天的だ。突如として手に入れた能力に戸惑うよりも、面白がることを優先する。そして、ハイメの家族はもっと明るい。皆それなりに屈託はあるのだが、まずはとにかく笑い飛ばしてしまおうという思い切りの良さが痛快だ。

 ブルービートルの前に立ちはだかるのは、高い戦闘能力を持つイグナシオ・カラパックスだ。しかもスカラベのデータを部分的ではあるが取り込んでいるので、容易には倒せない。実はコード社の先代CEOはヴィクトリアの兄で、その娘のジェニーも社内にいるのだが、完全に窓際扱いだ。その彼女とハイメが良い仲になるのは予想通りとして(笑)、主人公の叔父のルディを加えての大々的バトルが展開する後半はけっこう盛り上がる。またカラパックスの出自が伏線になっているという処理も悪くない。

 アンヘル・マヌエル・ソトの演出は決して行儀良くはないが陽性でストレスが無い。主演のショロ・マリデュエニャにヒロイン役のブルーナ・マルケジーニ、そしてアドリアナ・バラッザ、エルピディア・カリーロ、ラオール・マックス・トゥルヒージョ、ジョージ・ロペスというキャストは馴染みが薄いが、皆好調。ヴィクトリアに扮したスーザン・サランドンは楽しそうに悪役を演じている。 例によってエピローグは続編を匂わせるが、ブルービートルが今後のDCユニバースにどう絡んでいくか楽しみではある。
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「人間の境界」

2024-06-03 06:25:25 | 映画の感想(な行)
 (原題:GREEN BORDER)観終わって、目の前が真っ暗になってしまうような印象を受けた。監督はポーランドのアグニエシュカ・ホランドだが、本作は彼女の師匠であるアンジェイ・ワイダが1957年に撮った「地下水道」に通じるものがある。あの映画は徹頭徹尾マイナスのモチーフを繰り出して題材の深刻さを強力に訴えていたが、この「人間の境界」も、そこで扱われている“現実”には慄然とするしかない。

 ベラルーシを経由してポーランドとの国境を突破すれば、そのまま安全にEU圏に入ることが出来るという情報が難民たちの間に広がり、幼い子供を連れて祖国シリアを脱出した家族とその一行。彼らは何とかベラルーシ領内を抜けてポーランド国境の森林地帯にたどり着くが、そこに待ち受けていたのは武装した国境警備隊の非道な振る舞いだった。無理矢理にベラルーシ側に送り返されるものの、そこから再びポーランドへ強制移送されることになる。



 国境を挟んだまま落ち着く土地も見出せない難民たちが味わう地獄のような日々と、支援活動をおこなう人々や警備隊の中にあっても体制に疑問を抱いている者の視点を絡ませて描く。冒頭の、トルコ航空機の客席のシーンから不穏な空気が漂う。その暗い予感は的中するわけだが、そもそも彼らの存在が“人間の兵器”として敵対国を困らせる道具になっている点が悩ましい。

 そんな下衆な策略に翻弄されるばかりの難民には同情を禁じ得ないが、だいたい簡単に安全な国に逃れられるはずもないのだ。冷静に考えれば誰でも分かりそうなものだが、そんな正常な思考が脇に追いやられるほど、紛争当事国の事態は切迫している。これは国境警備隊の連中も同様で、自分たちがやっていることが単なる暴力行為であることを理解していながら、大半がそれ以外の選択肢に思い至らない。

 しかも、本編で描かれていた事情に加えて、昨今ではウクライナからの難民も国境を目指して押し寄せている。世界全体が“地下水道”に押し込められるように暗転し、取り返しの付かない状況になっていく様子をホランド監督は冷徹に描き出す。それでも、身を挺して難民の子供を守ろうとする者や、ある切っ掛けで支援活動に乗り出す市民、そしてリベラルな視点に目覚めてゆく国境警備隊のメンバーなどに言及することにより、暗闇の中に一筋の光を見出すような作者のスタンスが表現されているのは納得してしまう。

 152分という長尺で、しかもシビアな場面の連続ながら、観る者の目を最後まで釘付けにする求心力には感心するしかない。トマシュ・ナウミュクのカメラによるキレの良いモノクロ映像と、フレデリック・ベルシュバルの効果的な音楽。ジャラル・アルタウィルにアマヤ・オスタシェフスカ、トマシュ・ブウォソクといったキャストは皆好演。ホランド監督には今後も時代の前衛を走っていて欲しい。
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「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」

2024-06-02 06:28:11 | 映画の感想(あ行)
 (原題:RAPITO)これが史実であることに驚くしかない。西欧における宗教、あえて言えば一神教が掲げる価値観(教義)と、それがもたらす影響力について思い知らされる一編だ。さらにはその“原理主義”とも言える教えと、一般市民の普遍的な哀歓との確執をも掬い取っているあたりも、映画が平板な出来になることを巧みに防いでいる。観る価値はあると思う。

 1858年、イタリア北部のボローニャのユダヤ人街に居を構えるモルターラ家に、突如として教皇ピウス9世の命を受けた兵士たちが押し入り、7歳になる息子のエドガルドを連れ去ってしまう。何でも、エドガルドは赤ん坊の頃に洗礼を受けたらしく、ユダヤ教徒の家庭で育てることは出来ないので教会側で引き取るとのことだ。納得出来ない両親は世論やユダヤ人社会の後押しを得て教皇庁と対峙するが、申し入れを受ければ教会の権威が失墜すると考える教皇はエドガルドの返還に応じようとしない。やがてイタリア王国が成立し、時代の流れは教会の立場を微妙なものにしていく。



 エドガルドが洗礼を受けることになった原因は、心情的には理解できるものである。もちろん両親の気持ちも分かる。そして幼くして親元から引き離されたエドガルド自身の悩みも映画はカバーしている。しかし、そんな彼らの平易な思いに、宗教は何ら寄り添うことは無い。偏狭な一神教の教義が権威を生み、それが社会全体の硬直化に繋がる。当然ながら作者は宗教そのものを糾弾するつもりは無い。ただ、エドガルドが長じてカトリック側の人間になっていくプロセスや、同時に教皇への複雑な思いが蓄積する様子などが描かれることにより、宗教との板挟みになってしまった者の苦悩を描き出している点は評価して良い。

 もっとも、後半のクーデターによって政変が起きるくだりは効果的に表現されていない。まあ、戦闘シーンを再現するほどの予算規模ではなかったと思われるが、もうちょっと力を入れた方が盛り上がっただろう。撮り方次第で、ある程度の工夫は出来たはずだ。

 監督のマルコ・ベロッキオはドラマ運びは巧みで、登場人物たちの内面も上手くカバーしている。主人公の少年期を演じるエネア・サラと、青年になったエドガルドに扮したレオナルド・マルテーゼは妙演。教皇役のパオロ・ピエロボンも海千山千ぶりを発揮している。そして何といっても、フランチェスコ・ディ・ジャコモのカメラによる奥行きの深い映像が素晴らしい。歴史好きならば要チェックだ。
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「ハート・オブ・ザ・ハンター」

2024-06-01 06:27:02 | 映画の感想(は行)
 (原題:HEART OF THE HUNTER )2024年3月よりNetflixから配信。アクション映画としては凡庸な出来。思い切った仕掛けは無いし、展開もスムーズとは言えない。キャラクター設定が良好とも思えず、そもそも物語の背景が不明確だ。それでも何とか最後まで付き合えたのは、本作が南アフリカ映画だからである。欧米やアジアのシャシンとは明らかに違う得体の知れない空気が全編にわたって漂っており、それがダークな内容に妙にマッチしている。配信される映画の中にはこういうユニークな佇まいのものがあるので、チェックは欠かせない。

 かつては凄腕のヒットマンとして裏社会では知られていたズコ・クマロは、今では足を洗って妻子と共にケープタウンの下町で暮らしていた。そんなある日、彼の“上司”であったジョニー・クラインが突然訪ねてくる。彼は、大統領の座を狙っている副大統領のムティマを“排除”するように依頼する。



 ムティマは横暴でスキャンダルだらけの男であり、そんな奴が国家元首になっては国益を毀損するというのだ。ズコは断るが、その後ムティマが仕向けたPIAという国家情報機関によってジョニーは消されてしまい、スゴも狙われるようになる。ズコは妻子を気遣いつつも、ムティマとその一派に戦いを挑む。

 ズコが手練れの仕事人だったのは分かるが、過去にどういうポジションにいたのか分からない。PIAの幹部が女性ばかりというのは奇妙で、その中にズコの仲間も紛れ込んでいるという設定も無理筋だ。アクション場面は大したことがなく、作劇のテンポもスピード感を欠く。さらには敵方の連中が完全武装しているにも関わらず、ズコは槍一本で戦うというのは脱力ものだ。

 しかし、風光明媚なケープタウンが舞台であっても貧富の差の激しさによる暗い雰囲気は拭いきれず、郊外に出れば荒涼とした大地が広がるばかり。この殺伐としたロケーションが、主人公たちの首尾一貫しない言動に妙なリアリティを与えている。さらには、内陸国家のレソトにズコが一時身を寄せるシークエンスの、異世界のような光景は印象深い。

 マンドラカイセ・W・デューベの演出には特筆できるものは無いが、何とかラストまでドラマを引っ張っている。主演のボンコ・コーザは面構えと体格は活劇向きで、演技も悪くない。コニー・ファーガソンにティム・セロン、マササ・ムバンゲニ、ボレン・モゴッツィ、ワンダ・バンダ、ピーター・バトラーといったキャストは馴染みは無いが、パフォーマンスは及第点に達していると思う。
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