元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ヒート」

2007-02-28 06:47:46 | 映画の感想(は行)
 (原題:Heat)96年作品。音楽でも演劇でもそうなのだが、大物2人が競演したとして、それが単純に1+1=2になるとは限らないのが世の常なのだ。ヘタすると1+1がマイナスなる場合も少なくない。この映画、ロバート・デ・ニーロとアル・パチーノとの初の共演(「ゴッドファーザーPART2」では出番が違っていた)で封切り当時は話題を振りまいたクライム・アクションだが、2人の大物を動かす演出家は彼ら以上のキレ者でなければならないことは言うまでもない。しかし・・・・。

 マイケル・マンは一流の監督ではない。「ラスト・オブ・モヒカン」などという駄作もあるが、しょせん“ちょっとクセのあるTV出身の映画屋”だ。大物2人に対して何ができるというのだ。

 この映画のダメな点は、意味もないのに長いことだ。主人公2人の私生活などの状況説明が不必要に多い。デ・ニーロの恋人をめぐるエピソードとか、パチーノの娘(ナタリー・ポートマン)の自殺未遂騒動なんてカットしてよろしい。パチーノ刑事が、デ・ニーロ一味を尾行捜査する場面も不要。ラストの飛行場での追っかけシーンは緊張感もないのにやたら長い。

 そして話題になった喫茶店で2人が対峙する場面。公開当時に某週刊誌が、実は2人は“共演”していない、と指摘した点だけど、ワザとらしい画面合成でそれも事実かもしれないと思った。しかしそれ以上に、高揚感も迫力もない凡庸なカット割りの連続にアクビさえ出てしまう。セリフ廻しも最悪で、何のための共演か全然わかっていない。

 要するにこの監督、2人に遠慮してしまったのだ。無難な素材と演出で出演者と余計な摩擦を起こさないように振る舞っただけなのだ。加えてこの監督の唯一の持ち味である“意味もなく暗いタッチ”が全篇を覆い、結果として死ぬほど長い3時間に観客を付き合わせることになる。これじゃダメだ。

 対してヴァル・キルマー扮するデ・ニーロの子分のエピソードや、銀行強盗に急遽加わった前科者の黒人の描き方にはちょっと突っ込めば面白くなった可能性もある。でも今から何言っても無駄だ。

 2人と大喧嘩してでも自分の映像に固執するような作家を持って来るべきだった。さらに、興行のためには無駄なシーンを容赦なく切り捨てる冷徹なプロデューサーを起用するべきだった(製作もM・マンが担当)。今どき“映画史上最長の壮絶な銃撃戦シーン”なんてキャッチフレーズの範疇にも入らないぞ。“退屈な凡作”として片付けてしまおう。
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「長い散歩」

2007-02-27 06:43:51 | 映画の感想(な行)

 作劇面での欠点が多い作品だ。定年まで高校の校長を務めた主人公は、妻を亡くしてひとり娘からは愛想を尽かされており、安アパートで孤独な余生を送るしかなかった。そんな彼が隣室に住む5歳の娘が母やその愛人から虐待を受けていることに気付き、誘拐犯になることを覚悟して彼女をアパートから連れ出してしまい・・・・という話。

 彼を追いかける警察の無策ぶり、特に終盤近くに事情を知って“手加減”するつもりが、まんまと張り込みを出し抜かれてしまうくだりなど、もうちょっと脚本を詰めて欲しかった。道中で主人公達と同行する若い男(松田翔太)の扱いは、まるで取って付けたようなわざとらしさ。若者が帰国子女で同じように周囲から阻害されていた・・・・という設定も図式的に過ぎる。

 さらに主人公が入れ込んでいる“一家が平穏だった頃の思い出の場所”なるモチーフも“えっ、これがそうなの?”と言いたくなるほど平板。そこで展開される“幻想シーン”なんて気恥ずかしくて見ていられない。さらに致命的なのは、女の子を演じる子役がヘタであること。オーディションの仕方を見直した方が良い。監督を兼ねる奥田瑛二をはじめ、高岡早紀、原田貴和子など、脇のキャストは皆凡庸だ。

 しかしそれでも本作から目が離せないのは、主演の緒形拳が素晴らしいことだ。そもそも緒形のために奥田が用意した企画だから、気合いの入り方が違うのだろう。家族とコミュニケーションできなかった自責の念と、こんな“誘拐もどき”の所業に及ばさるを得なかった切迫感。特に終盤の、幼女に向かって独白するシーンは、彼の長いキャリアの中にあって屈指のパフォーマンスとして記憶されるだろう。

 そしてもちろん、深刻なテーマを扱っていることも見逃せない。児童虐待は今までホラー映画のネタとして取り上げられることが目立っていたが、骨太なドラマの主題としては「愛を乞うひと」以来だと思う。高岡早紀演じる母親は通り一遍の描写で物足りないものの、それでも“自分はかつて母親からされたことを娘に対してやっているだけだ”というセリフには胸を突かれた。虐待の連鎖、その無惨さを目の当たりにする思いだ。

 モントリオール映画祭でグランプリを取っているが、正直それほどの映画とは思わないまでも、観る価値はある。稲本響による音楽と石井浩一の撮影も万全の仕事ぶりだ。
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「スウィングガールズ」

2007-02-26 06:44:59 | 映画の感想(さ行)

 先日テレビでも放映していた2004年作品。文化庁が協賛しているためか、矢口監督得意の“お下品ギャグ”はかなり控え目だが、それが逆に同監督のスキル向上を示していると思う。

 自意識過剰で斜に構えたような彼のお笑いは、まっとうなスポ根ドラマであった「ウォーターボーイズ」でも前面に出すぎることがあり少し鼻についたものだが、この作品ではそれを必要最小限に抑え“本編を盛り上げるための適度なスパイス”として機能させている。娯楽路線の中に巧みに作家性を取り入れるという、映画監督としての“王道路線”に踏み出した彼の成長ぶりは大いに認めたい。

 本作の内容は痛快そのもので、ジャズに打ち込む女子高生たちのいじましい奮闘には泣けてきた。ラストの大盛況の演奏にも泣ける。そして最後まで主役級3人の楽器が新品ではなくボロボロのままであることはもっと泣ける(楽器への愛着を見事に表現している)。さらに、素人同然の出演者達に特訓させて実際に弾けるようにしたことも、本物志向と話題作りの点で納得できる。

 上野樹里はじめとするキャストは皆好演。舞台となる米沢市の風情と方言も効果的だ。主役級3人(上野、貫地谷しほり、本仮屋ユイカ)がその後、テレビドラマや映画などで本作で受け持った楽器の演奏を披露してくれないのはちょっと残念だが(^^;)。
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「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」

2007-02-25 07:43:43 | 映画の感想(は行)

 これは企画の勝利だ。タイトルのロゴが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に似ているが、あの作品がタイムトラベルものとしては当時“穴場的題材”であった(主人公の両親が関わる)数十年前への時間旅行を扱っていたのと同様に、この映画は17年前のバブル時代へのタイムリープといった、そんなに大昔ではないけどあまり振り返られない時代をネタにした、この手のシャシンにしては非常に“ニッチ”な線(もちろん、観客は40代以上限定)を狙っているのが天晴れである。

 カネが余って仕方が無く、夜な夜なディスコではボディコンファッションで扇振りながら踊るねーちゃん達と、DCブランドに身を包んだ野郎どもで溢れかえり、地価も株価も際限なく上がる、誰もが酩酊状態だった時代。そこに行方不明の母を捜すために送り込まれた娘を演じるのが広末涼子だというのが面白い。広末自身が地に足が付いていない泡沫的な存在感のタレントであることが効果的。これが演技力に定評のある若手女優が演じていたら嘘臭くなっていたところだ(笑)。

 当時の風俗と現在とのギャップも笑える素材が満載。阿部寛と薬師丸ひろ子も乗りまくって演じている。アクション場面はショボく、演出テンポも悪いが、それがどうした。このテーマに目を付けた馬場康夫監督&ホイチョイ・プロダクションは偉い。

 さらに興味深いのは、バブルがはじけた原因を理詰めに考察していることだ。経済マクロと金融政策の関係性も明確に示される。そのへんの経済雑誌よりは数段分かりやすい。考えてみれば、バブルが終焉して17年、それ以後日本経済はずっと低空飛行を続けており、今の若い者は我が国が景気が良かった時代のことをまったく知らないのである。これはある意味コワいことだ。

 マスコミは景気が回復したと囃し立てるが、一般庶民にはほとんど実感がない。若い者が認識する“好景気”というのは大企業経営者とその取り巻きがトクをしていることであり、その経営者連中は中長期的ヴィジョンなど眼中になく、目先の儲けにしか興味がない。“公”を忘れた私利私欲の追求こそが真の“社会的成功”であるという風潮が蔓延してしまった。グローバル・スタンダードとやらを無批判に受け入れたツケだろうか。先に見えるのがジリ貧の縮小均衡だけなら、世の中が殺伐となっていくのは当然のことである。
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「濡れる美人妻 ハメられた女」

2007-02-24 07:49:27 | 映画の感想(な行)
 2001年製作の新東宝配給によるピンク映画。生きることに疲れたホームレスの主人公(松原正隆)が焼身自殺を図るが失敗。あてどなく街をさまよう彼が遭遇したのは、排気ガスを車内に引き込んで自殺しているサラリーマンだった。しかも、その男は彼と瓜二つ。彼は男に成り済まし、男の妻(沢木まゆみ)が待つ家に戻る。

 死んだ男は鬱病気味で、治療のため長い間家を出ていたという。突然の夫の帰宅に喜ぶ妻だが、彼は次第に周囲を騙している自責の念にかられるようになる。監督はピンク映画の俊英の一人と言われる今岡信治で、彼の作品を観るのはこれが初めてだった。

 何となく江戸川乱歩原作・塚本晋也監督の「双生児」を思わせる設定だが、話はサスペンス方面へは行かない。ここで描かれるのは、心の隙間を埋められず悶々と苦しむ登場人物たちの内面である。

 ひょんなことから家庭を持つことになったが、後ろめたさと自らの羊頭狗肉ぶりに悩む主人公の孤独。心の病のために愛する妻から身を引き、自己嫌悪に落ち込んでいった男の孤独。夫が去ったのは自分のせいではないかと悩み、人生に半ば諦念を抱くようになる妻の孤独。それぞれの苦悩を決して声高にならず抑制された語り口で静かに(それでいて容赦なく)綴る今岡監督の力量には非凡なものを感じる。

 ディテールが秀逸で、特に弁当屋で働く妻の生活感がリアル。寒色系の画調と繊細な音楽も効果的だ。また、救いのあるラストは作者が登場人物たちを信じている証だろう。今岡監督には一般映画も撮って欲しい。
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「守護神」

2007-02-23 06:45:20 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The Guardian)これは「海猿」と「愛と青春の旅立ち」を足して2で割ったようなシャシンである・・・・などと評せば、何やら凡庸なスポ根映画みたいに思えるが、これはこれで良く出来た作品だ。

 沿岸警備隊の鬼教官に鍛えられる若き訓練生の日々が描かれ、恋あり友情あり、主人公の内的鬱屈も紹介され、冒頭と終盤にはスペクタキュラーな見せ場もある。

 注意したいのは、訓練場面のネタなど「海猿」とあまり変わらないのに、切迫度はこちらの方が上であること。なぜかと考えると、それは「海猿」の題材が海上保安庁という“海の警察官”であり、つまりは刑事ものかあるいは消防署を舞台にしたドラマのヴァリエーション(?)みたいな図式であるのに対し、米国の沿岸警備隊は“軍”に属しているからではないかと思う(「第一艦隊」との位置づけ)。海軍の外敵と常に向き合うセクションなどと絶えず接触し(事実、一悶着起こすシーンもある ^^;)、治安維持や人命救助といった本来の役目のバックグラウンドには“国を守る”という意識が刷り込まれているのだろう(注:我が国の海保も当然国を背負っているのだが、映画としては本作の方がその構図を表現しやすい)。

 ケヴィン・コスナーは久々の好演。多少風貌が中年臭くなり身体の締まりもなくなってきたが、救命士としてのプライドを持ちつつ、それでも家庭人としては不器用なキャラクターに上手く扮している。生意気な訓練生を演じるアシュトン・カッチャーは、ヘタすると夜郎自大な面が出てしまう役柄ながら、持ち前のサワヤカさで乗りきっている。元水泳選手という設定も納得のガタイの良さも見所か(笑)。

 話は完全な予定調和ながら、ラスト近くがくどいところを除けば誰にでも楽しめる作品だ。それにしても、邦題を原題通りの「ザ・ガーディアン」としなかったのは配給会社の手柄かもしれない。何しろ「守護神」という意味が最後に分かるのだから・・・・。
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「ストレンジ・デイズ」

2007-02-21 06:48:56 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Strange Days)95年作品。1999年12月31日。人間の五感をもカバーする究極のバーチャル・リアリティ装置SQUIDが闇で取引される時代、そのソフトをめぐって殺人が起きる。売人のレニー(レイフ・ファインズ)の元に送られたディスクの中にその現場の映像が入っていたことから、彼は友人のメイス(アンジェラ・バセット)とともに事件の解明に乗り出すハメになる。

 観終わって、とにかく疲れた。“女性監督にしては・・・”という接頭語を毛嫌いするフェミニストのキャスリン・ビグロー監督には悪いのだが、やはり言いたくなる。この映画、とても女性演出家の手によるものとは思えない。何から何まで過剰で、ガンガンと押しまくる。ウェットな感触は皆無。“これでもか、これでもか”というド派手な映像とノイジーな音楽と物量投入作戦。“こいつら、いつ休むんだ”と言いたくなるような血管キレた演技の連続でスクリーン上をバタバタ動き回らせ、ラストの数万人のエキストラ動員のクライマックスになだれこんでいく。まさに肉食人種の映画だ。日本人には絶対作れない次元にあるシャシンだろう。

 そして、SQUIDは“悪魔のマシーン”で、これがいかに世の中をひっくり返すパワーがあるか頭ではわかっているものの、作者としては活劇のネタのひとつぐらいにしか考えていないのではないか。テーマの重要性への理解が足りず、結果として大味な作品になったとも言えるのでは?

 SQUID自体はお粗末なもので、簡便な外見、しかもメディアがMDだ(!)。五感すべてのデータがMDに記録できるとは思わないし、なぜMDかの説明もなし。またこういうメカにからんだ犯罪が個人的怨恨の内ゲバにすぎないとは、少し芸がなさすぎるのではないだろうか。

 困ったことに上映時間2時間半(長すぎる!)のうち最初の1時間がメカの説明と登場人物の紹介に費やされている。内容がないのに外見をギンギンに飾りたてるものだから、これだけで観る意欲が失せてしまった。要するに、主題の絞り込みが足りない。

 それにしても、出てくる男はみな長髪で小汚いカッコ。対して女はボディコン(笑)で力強い。何かコンプレックスの現れとも思えるが、単純すぎて観ていてあまり気分のいい対比ではない。
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「世界最速のインディアン」

2007-02-20 06:45:39 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The World's Fastest Indian)スピード記録競技会が行われているアメリカ・ユタ州のボンヌヴィル・ソルトフラットにおいて、二輪部門で世界最高速度を出した還暦過ぎのオートバイ野郎、バート・マンローの伝記映画。

 これはなかなか痛快な作品だ。映画の面白さが三本立てになっているところが良い。まずは地元ニュージーランドでの破天荒な暮らしぶり、そしてアメリカに渡ってから目的地までの珍道中を描くロードムービー、もちろん最後は迫力のレース場面と、一時たりとも観客を退屈させない構成だ。

 監督・脚本・製作は「ダンテズ・ピーク」や「13デイズ」のロジャー・ドナルドソンだが、娯楽編の職人監督としての腕と、生前のマンローに出会って心酔した自らの思い入れが、いい感じで両立している。通常作家が入れ込んだネタで勝負する際、肩に力が入りすぎて失敗することが少なくないのだが、本作はさすが26年間も構想を練っていただけはあり、シナリオ作成には細心の注意を払ったことが窺われる。

 主演のアンソニー・ホプキンスは絶好調と言っても良く、いつものケレン味を廃して悠然と構えており、観る者誰しも大好きになってしまうこのやんちゃなジジイを余裕たっぷりに演じている。周りのキャラクターも粒ぞろい。最初は無手勝流なマンローに気圧されるが、いつの間にか友人になってしまう、またそれを納得させるだけの善良さを的確に表現できる演技を十二分に発揮できるように仕向ける演出には脱帽だ。

 たぶん作者自身、マンローに通じる個性の持ち主か、あるいはマンローのように成りたいと心から願っているのだろう。そんな前向きな姿勢が良い具合に結実したと言える。

 60年代の時代考証も万全で、ヨソの国の話なのに、どこか懐かしく甘酸っぱい気分にさせられる。競技会のシーンは活劇が得意なドナルドソンの面目躍如だが、マンローの記録が今も破られていないという事実がラストに示されると、思わず快哉を叫びたくなった。とにかく、誰にでも奨められる爽快かつハートウォーミングな一編で、観賞後の気分は格別である。
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権威皆無の日本アカデミー賞

2007-02-18 08:39:46 | 映画周辺のネタ
 先日、日本アカデミー賞の授賞式の模様が放映されていたが、相変わらず盛り上がりに欠ける雰囲気だ。今年で30回にもなるのだが、正直言ってこういう賞が30回も続いていること自体驚きである。

 昔、黒澤明がこの賞を辞退したことに対し、その年の司会者の山城新伍が「これから映画人が育てていこうとしている賞を『権威が無いからいらない』とは何たることだ」とか何とか批判していたが、あれから20年以上たった今でも、相変わらずこの賞は権威がないままだ(だいたい、今回キムタクにさえ事務所の意向という理由でソッポを向かれたぐらいだから ^^;)。

 賞を選出する日本アカデミー賞協会の中では松竹、東宝、東映、角川といった邦画メジャー関係者が幅をきかせている。だから、これらの会社が関わった作品以外の映画は、どんなに評判が良くても、いくら国外の賞を獲得しようと、完全無視される。独立系の映画会社による作品が受賞したのは、今回の「フラガール」以外では「午後の遺言状」「ツィゴイネルワイゼン」の2回しかない。本家の米アカデミー賞がマイナーな作品にもちゃんと注意を払っているのに比べると、いかにも閉鎖的だ。

 しかも、日本テレビが授賞式の放映権を持っているためか、同社の手による作品が優先される傾向がある。もちろん、そのあたりの構図も視聴者に見透かされてしまっている。これでは権威を感じろという方が無理だ。

 要するに、本家から拝借した「アカデミー」という呼称で、何とか話題性をキープしているに過ぎないのである。

 しかし、これに代わる“真に権威のある賞”を創出できない我が国の映画人の体たらくの方がもっと批判されてしかるべきだろう。日本アカデミー賞以外の映画賞にはキネマ旬報賞とか毎日映画コンクールなどがあるが、一般ピープルには知られていない。フランスのセザール賞や香港の金像奨のように、国内発のポピュラーな賞がとっくの昔に出来ていて当然だと思うのだが・・・・。

 いずれにせよ、“邦画バブル”と言われるほど興行成績が回復した昨今でも、映画の“権威”を高めようとする賞も作れない状況を見れば、いかに我が国では映画が軽んじられているか分かろうというものだ。
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「墨攻」

2007-02-17 06:58:19 | 映画の感想(は行)

 (英題:A Battle of Wits)春秋戦国時代に実在した思想集団にして戦闘のプロフェッショナル・墨家のメンバーの一人である革離をめぐる謀略戦を描くジェイコブ・チャン監督作品。

 これと似た作品といえば、リドリー・スコット監督の「キングダム・オブ・ヘブン」であろう。同じように単純な戦闘スペクタクル史劇ではなく、戦争を“善悪の彼岸の事象”として捉えているあたり、作者の冷静なスタンスが感じられると共に、現代に通じるメッセージ性を獲得している。

 しかも構造としては「キングダム~」より一歩進めて、善悪どころか敵味方までもが利害関係やイデオロギーの違いでコロコロと入れ替わり、いったい何が本当のことなのかまったくわからない混沌状態を描出している。これと同じようなことは今でも世界のあちこちで起きており、人間は数千年前から同じ過ちを繰り返して犯してきたという諦念と無常観、それでも墨家のような理想主義を捨てきれず現状にプロテストする作り手の真摯な心情が無理なく伝わってくる。なかなか骨太な主題を持つ映画なのである。

 戦闘場面は安易にCGに頼らず、徹底したリアル路線で観る者を圧倒。しかし作劇面では上手くいっていない箇所も多い。城と周りの地理関係がハッキリせず、包囲されているかと思ったら簡単に外に出られたりして、そのへんのディテールの積み重ねが甘い。中盤以降はシークエンスの繋ぎ方が荒っぽくなり、辻褄が合わない場面が散見される。

 そして最大の難点は主人公と女性騎馬隊長との甘ったるいアバンチュールだ。大して上手くもないラブシーンが物語の流れを中断し、しかもこれが終盤の冗長な展開の“伏線”になっているのだから呆れる。それでもアンディ・ラウとアン・ソンギとという存在感たっぷりのキャストは映画を支えるに足る力量を見せる。テーマの重要度と併せて、鑑賞する価値は大いにあるだろう。

 なお、原作は日本製の漫画で日本も製作費を拠出、撮影の阪本善尚や音楽の川井憲次が高評価の仕事をこなしている。しかし、日本人キャストは皆無。韓国人のアン・ソンギは出ているのに、これはちょっと残念だ。
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