元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「忠臣蔵外伝 四谷怪談」

2010-01-30 20:06:46 | 映画の感想(た行)
 94年作品。気合いの入った国産娯楽映画の快作である。鶴屋南北による「四谷怪談」の原作では主人公の民谷伊右衛門は赤穂の浪人という設定で、歌舞伎でも「忠臣蔵」と「四谷怪談」は交互に上演されていたという。

 松の廊下での刃傷沙汰の一件で赤穂藩は取り潰され、藩士は浪人となって仇討ちの機会をうかがっていたが、彼らの中には自暴自棄と無力感が渦巻いていたのは間違いないようで、その代表として伊右衛門を登場させている。少年時代に辻斬りで生計を立てていた彼にとって、忠義のために人を殺すことは何でもないが、元主君の仇を取っても破滅は目に見えている武士の在り方に馴染めない。対して日々平和に生きる庶民を代表するのが高岡早紀扮するお岩である(原作では武家の娘であったお岩を気のいいソープ嬢にした設定は正解だ)。

 悶々とした生活を送っていた伊右衛門は屈託のない彼女との平穏な暮らしに安らぎを得るが、仇討ちを控えた自分の立場と浮き世への未練とに板鋏みになり、半ばヤケ気味に吉良の家臣の娘お梅の誘いに乗ってしまう。この伊右衛門の屈折したニヒリズムと自虐性がこの作品での「四谷怪談」の真骨頂と言えるが、「忠臣蔵」の部分にもそれが大きく照射されているところが面白い。

 仇討ちは美徳でも何でもない。津川雅彦演ずる大石内蔵助は着々と討ち入りの計画を立てながらも、夜ごと刹那的な豪遊にふける。彼も仇討ちは集団自殺に過ぎないことを知っている。それでも武士である以上、そうせざるを得ないジレンマが彼を悩ます。破滅に向かってひた走る47人の悲劇性が浮き彫りになる。「忠臣蔵」の本質を突いたのは、同時期に公開された仇討ちをシミュレーション・ゲームのように描いた(結果は大失敗)“本伝”たる市川崑監督の「四十七人の刺客」ではなく、この“外伝”の方であった。

 それにしても監督・深作欣二のおそるべき演出力。突風吹きすさぶ浅野匠(真田広之)の葬儀シーンにオルフの「カルミラ・ブラーナ」がかぶさるトップ・シーンから、テンポのいいカット割りと、登場人物たちをしなやかな動きで画面せましと疾走させる躍動感に圧倒されてしまう。

 圧巻は討ち入りの景気づけに赤穂浪士たちが舞う“曽我兄弟の仇討ち”と伊右衛門を誘惑するお梅の乱舞、そしてだまされて毒をあおり顔が崩れていくお岩のカットの3つの場面が、伊右衛門の弾く琵琶の音をバックに同時進行でクライマックスになだれこんでいくシークエンスである。浮遊するように動くカメラ、耳をつんざく音響、横溢するパッション。この部分だけでこの映画を観る価値は十分すぎるほどある。

 暗いアナーキーさを抱えた伊右衛門を演ずる佐藤浩市の存在感。「トカレフ」(93年)以来悪役が実に板に付いてきた。お梅の荻野目慶子は前代未聞の怪演だ。口のきけない狂女で、厚いメイクに加え脇の石橋蓮次と渡辺えり子とトリオで人形浄瑠璃みたいな奇矯な造形を見せる。高岡早紀(凄い巨乳!)の大熱演は言うまでもない。各々のキャラクターが実に“立って”いるし、余計な登場人物もいない。そして1時間40分という娯楽映画のニーズにぴったりの上映時間。まさに言うことなしだ。

 現世とあの世が表裏一体になった(!)変則の討ち入りシーンのあとに訪れるのは、琵琶の音がレクイエムのように登場人物たちを退場させていく静寂のラストだ。“生きてる人は死んでいて、死んだ人は生きている”とは鈴木清順が「陽炎座」の中でヒロインに言わせたセリフだが、それを地で行く無常感の中にそれでもなお彼らを必死で生きた愛すべき存在として肯定する作者の優しい視点が感じられ、感動さえ覚える。エンタテインメント性と形而上的な深みを両立させた、間違いなく、深作監督の後期を代表するヴォルテージの高い作品だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「サロゲート」

2010-01-29 06:24:24 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SURROGATES)有り体に言って“ヒマ潰しに観るには丁度良い映画”でしかないのだが、多少なりとも興味を引かれる箇所もある。劇中に描かれる未来世界は、全人類の約98%が“サロゲート”と呼ばれる分身ロボットを自宅から遠隔操作することで生活している。外でどんなに無茶なことをやっても、本人は傷つくことはない。それどころか“本体”とは全く違う外見のサロゲートを操り、異なる人生を垣間見ることも出来る。

 当然こんな(ユートピアとは紙一重の)ディストピアな世界は、現状に疑問を抱いた主人公およびその仲間によって打ち破られるのが常であり、事実本作もそうなるのだが、その過程は型通りであってさほど面白くはない。サロゲートが破壊されると同時に、安全なはずの“本体”も死んでしまうという殺人事件が発生し、事件の捜査に当たる刑事を主人公に据えているが、この設定もありふれている。

 さらに劇中ではサロゲートを敵視するグループも出てくるのだが、過激なカルト集団としての扱いしか受けておらず、そのリーダーの“正体”とやらも途中で予想が付く始末。同時に、勘の良い観客ならば真犯人も中盤あたりで分かってしまうだろう。ジョナサン・モストウの演出は可もなく不可も無し。さすがにカネをかけたアクション場面は盛り上がるが、ハデなわりには段取りが凡庸で、観た後はすぐに忘れてしまうレベルである。

 ただし、冒頭にも述べたように面白いと思った部分が一つだけある。それは、サロゲートを戦地に派遣させてヴァーチャルなバトルを延々展開させるシークエンスだ。人類の大半がサロゲート化しているのだから、敵も味方も戦場で死ぬことも怪我することもない。純粋な物理的“戦果”だけを求めて、機械人形の残骸を戦場に積み上げるわけだ。

 たぶん作者としては軽いノリで挿入したパートなのだと思うが、最前線で戦う兵士達を消耗品のロボットのように扱う、今も昔も変わらない戦争の真実が、図らずも映し出されている。現実には為政者にとってのサロゲートが生身の人間なのである。

 主演のブルース・ウィリスは、まあまあの仕事ぶり。ただ、他のキャストがあまり名も知らない連中ばかりで、しかも演技面で特筆すべきところもないようだ。活劇場面以外の映像はあまり深みが無く、サロゲートの個性の乏しい顔と同様に、プラスティックのような感触である。そういえば本作のシチュエーションは「アバター」と似ている。もっとも映像の喚起力は段違いだが、ストーリーの起伏の無さでは“いい勝負”なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「わたしのグランパ」

2010-01-28 06:20:27 | 映画の感想(わ行)
 2003年作品。13年ぶりに出所した極道者と中学生の孫娘がヤクザ相手に立ち回りを演じる・・・・という筋立てで、しかも原作が筒井康隆なのだから、ハチャメチャの痛快作になってもおかしくないはずなのだが、どうにも煮え切らない出来だ。

 やはり脚色と演出を担当した東陽一の個性なのだろうか。ヒロイン役の石原さとみをはじめ、浅野忠信、平田満、宮崎美子などの脇のキャストにもリアリズムに徹して芝居をさせているのを見てもわかるように、かなり物語を抑制的に進めようとしている。しかし、主演の菅原文太と悪役の伊武雅刀(およびその仲間)の造形がヘンに非日常的で、彼らが画面に出ている時とその他のシーンの落差が甚だしい。

 たぶん東監督は真っ当に“非日常を描くには日常をしっかり押さえないといけない”と思ったのだろうが、両者の連携や関係性を明確につかんでおかなければ、そんな正論も宙に浮いたものにならず、取って付けたような終盤のファンタジー場面も違和感しか残らない。舞台を栃木県の田舎町に置いたのも疑問。落ち着いた街の佇まいに荒唐無稽な活劇は似合わない。

 久々の映画出演になる菅原は貫禄たっぷりだが、逆に言えばあまり能動的な演技は行っていないのだ。唯一の見所が本作がデビュー作だった石原。清潔な存在感はこの頃から際立っており、現在の活躍ぶりも納得できる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「Dr.パルナサスの鏡」

2010-01-27 06:23:09 | 映画の感想(英数)

 (原題:The Imaginarium of Doctor Parnassus)テリー・ギリアム監督の映像センスが大好きな人にとっては堪えられない映画だが、それ以外の観客にはオススメできない。舞台は現代のロンドンだが、パルナサス博士(クリストファー・プラマー)をリーダーとする旅芸人一座の出で立ちは中世モード。要するに完全に場違いなのである。この設定を笑って済ませられるかそうでないかで、作品の評価が決まってくるだろう。

 パルナサス博士は実は“神”であり、太古の昔に悪魔にハメられて、こんな姿に身をやつしているのだ。しかし、当然のことながら“そんなケチなペテンに、神ともあろう者がどうして引っ掛かるのか”という疑問が出てくる。さらに、これがどうして旅芸人稼業に繋がり、なぜ人間の深層心理を具現化させる“鏡”が存在するのか、さっぱり分からない。

 一座はある日、危うく殺されそうになっていた青年トニーを助けるが、この男に扮するのがヒース・レジャー。この映画は彼の遺作になる。だが、鏡世界の部分は未撮影だったので、鏡の中ではトニーの姿が変化するという設定にして、残りの場面はジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルの3人が演じている。

 だが、顔は変わっても身に付けているものは同じであり、しかも3人とも似たような体格なので、有名俳優が次々と入れ替わる“顔見世興行”的な妙味は希薄だ。どうせならばレジャーとは全く似ても似つかない、年齢も体型も(ついでに性別も)違う俳優を複数連れてきて、七変化を賑々しく見せてくれた方がずっと楽しめただろう。

 トニーは慈善団体の運営で不正をはたらいてマフィアや債権者に追われる立場なのだが、そのへんの事情がほとんど解決せずに終盤に移行してしまうのは愉快になれない。そしてラストに描かれる旅芸人の面々の“その後”にしても、何やら釈然としない。要するに、ストーリーラインは作者が独りよがりの与太話をデッチあげたようなシロモノである。これを“ギリアムらしい”と納得すればいいのだが、大半の観客にとってはそうはいかないだろう。

 鏡の中の幻想シーンは素晴らしい。よくもまあこんなイメージが次々と浮かぶものだと思う。ただし、あくまでそれは“並の映画と比較して”の話。ギリアムの代表作である「バロン」には及ばない。

 その他のキャストでは、悪魔に扮したトム・ウェイツが儲け役。不貞不貞しく、カリスマ性たっぷりだ(一曲歌ってくれればもっと良かった ^^;)。ヒロイン役のリリー・コールも魅力的。売れっ子の若手モデルでもあり、イギリス人にしては(失礼)とても可愛いと思う。今後の活躍が期待出来る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ペイチェック 消された記憶」

2010-01-26 06:26:46 | 映画の感想(は行)
 (原題:Paycheck)2003年作品。近未来を舞台に、3年分の記憶を消された男の決死の逃避行をスリリングに描く活劇編だ。「マイノリティ・リポート」といい「クローン」といいフィリップ・K・ディックの小説はSFの意匠を取りながら、古典的なサスペンス劇としての映像化が実にしっくり来る。

 記憶を無くした男が19個のガラクタ・アイテムを元に謎を解き、絵に描いたような“追われながら事件を解決する話”が展開する本作はヒッチコック・タッチそのものであり、ジョン・ウー監督のヒッチコックへの傾倒ぶりを如実に示した一編である。「めまい」や「北北西に進路を取れ」「鳥」などの作品にオマージュを捧げつつも、同時にそんな個人的趣味をお気楽なハリウッド製活劇の中で違和感なく全面展開させる「狡猾さ」にも感服。

 しかも、従来よりの“ジョン・ウー印”も健在で、男同士の友情と裏切りはあるし、ガン&カーアクション場面は優雅だし、意味もなく白い鳩がスローモーションで羽ばたくし、互いに銃を突きつけるお馴染みのポーズの後は武器を捨てて格闘戦に移行する(笑)。

 身体のキレが良いとは思えないベン・アフレックも今回に限っては頑張っているし、ユマ・サーマンは「キル・ビル」に続いての大暴れ。「フェイス/オフ」や「男たちの挽歌」ほどの深みはないが、十分楽しめるシャシンだ。ラストのオチも気が効いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「秘密結社 鷹の爪 THE MOVIE3 http://鷹の爪.jp は永遠に」

2010-01-25 06:44:55 | 映画の感想(は行)
 けっこう笑える映画である。本作はパート3ということになっているが、前二作は私は未見。それでもこの登場人物達はTOHOシネマズの“上映前のマナー周知画像”で頻繁にお目に掛かっているので、初めての映画版鑑賞でも違和感なく付き合えた。もちろんギャグのパターンも承知済で、上映中に置いて行かれることが無かったのは有り難い(笑)。

 世界征服を企む秘密結社・鷹の爪団のメンバーが休暇を終えてアジトに戻ってみると、何者かに事務所内は荒らされていて、しかも組織のメカ製造担当であるレオナルド博士が行方不明。折しもアメリカのオババ大統領が突如核兵器の放棄を宣言。軍需産業の大手「サドルストーン・コーポレーション」はこの方針に激しく反対し、勝手に独自で新型兵器の開発に着手してしまうのだが・・・・。この国際陰謀めいた大きなネタと、鷹の爪団の侘びしい四畳半的世界が巧みに絡み合うところが脚本の妙であろう。演出はもちろん製作やキャラクターデザイン、声の演出なども一手に引き受けるFROGMANの実力は侮れないと思う。



 前作から取り入れられて好評だというバジェットゲージ(予算増減メーター)が画面の右端に挿入されるのが笑える。このバジェットゲージは映画が進むにつれ低下していくが、スポンサーの露骨な宣伝行為を行うと一気に上昇するのだ。さらに映画の途中で眠ってしまった観客のために、それまでの“あらすじ”が中盤に出てくる。しかし、当然ながらそれは何のフォローにもなっておらず、ただのおちゃらけだというのが(観る前から分かっていても)面白い。

 個々のギャグの切れ味は鋭く、特に作者の出身地である島根県をおちょくったネタの数々には“ここまでやるか!”とばかりに呆れて笑ってしまう。鷹の爪団以外にも、アメリカの特殊部隊TTTT(何の略かは言わぬが花 ^^;)のエージェントのジョン・ジョロリンや、敵の首魁など、かなり濃いキャラクターが揃っている。



 ただし、いくら練られているといっても所詮はお手軽なFLASHアニメ。劇場でカネ取って見せるのはちょっと辛いと思われるのだが、今回は大きな仕掛けが用意されている。何と山崎貴率いるSFXユニット“白組”が全面協力。敵のメカのデザインと活劇シーンを担当しているのだ。FLASHアニメとの落差が凄まじいハイ・クォリティな画面だが、これ自体をもギャグに昇華してしまうのは天晴れである。

 それにしても、終盤近くの展開はいかにも“ありそうな話”で、時事ネタをしっかり押さえた求心力の高さが印象付けられる。たぶんこういう事態になっても、劇中で描かれたように日本の政治家達はボーッとしているだけなのだろう。政権が変わっても、外交のイニシアティヴが取れない我が国の状況には、考えただけで暗い気分になってしまう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ヘヴン」

2010-01-24 20:01:48 | 映画の感想(は行)
 (原題:Heaven)2001年作品。失敗作である。殺された夫と生徒の復讐に失敗し無関係な人を殺して捕まった女教師と若い刑務官の逃避行という、まるで絵空事みたいなストーリーは、脚本を書いた故クシシュトフ・キェシロフスキのような天才肌の作家が手掛けてこそ意味があるのだ。彼が生きていたら、ドラマツルギーの不備など超越した文字通り天国的に神々しい作品に仕上げていたのだろう。

 ところが、彼の遺稿を引き継いだトム・ティクバは、映像的ケレンだけは得意な“並の監督”でしかなかった。「ラン・ローラ・ラン」のような気の利いた娯楽編はモノに出来ても、こういうアート系の作品は完全な畑違い。おかげで“珍妙な追跡劇”にしか仕上がらず、観賞後の雰囲気は最悪だ。

 ケイト・ブランシェットは熱演ながら、フェミニンなキェシロフスキ作品のヒロインたち(主にフランス系)とは正反対。共演のジョヴァンニ・リビージも精彩を欠く。アルヴォ・ペルトの流麗な音楽とトスカーナの美しい風景も上滑りで、作品を企画したプロデューサーは猛省すべきであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「張込み」

2010-01-23 07:19:35 | 映画の感想(は行)
 昭和32年作品。野村芳太郎監督の初期の代表作と呼ばれている映画で、原作は松本清張。今回は“清張生誕百年”を記念した特集上映にて鑑賞した。なお、私は本作を観るのは初めてだ。感想だが、どうにも要領を得ない作品だと思った。清張の原作は未読ながら、脚色の際に随分と無理をしているような印象を受ける。

 都内で起こった質屋殺しの共犯を追って、警視庁捜査一課の刑事二人が佐賀市に住んでいる犯人の昔の恋人(今は人妻)の家を張り込む。目標とする家の真ん前に木賃宿があるという御都合主義には苦笑するが、それよりも愉快になれないのが、主人公である若い刑事の過剰なモノローグである。



 張り込み対象となる人妻は20歳も年の離れた中年男に嫁ぎ、しかもその夫というのがケチな銀行員で、必要最小限の金しか家庭に入れない。前妻との間に出来た子供達は新しい母親に懐いてはいるのだが、彼女としてはいま一つ馴染めない。一目で覇気のない生活を送っていると分かるのだが、くだんの刑事は“それにしても、あまりにも生気がない。全然生き生きしたところのない女だが、この女がまさか・・・・”などと御丁寧に説明してくれる。中盤以降の追跡戦のパートにしても、見たら誰でも理解出来るシチュエーションをこれまた延々と内面的モノローグで“解説”するその度を超したサービス精神には辟易してしまった。

 また、短編である原作を無理矢理に約2時間もの映画にしているためか、余計なエピソードも目立つ。主人公の恋人とその家族を描くパートなどはその最たる物で、長いわりには何も語っていない。丹念に紹介されるベテラン刑事の日常風景も、さほど重要とは思えない。何より、張り込みという単調なモチーフをドラマに持ち込むには作劇にメリハリが必要であるはずだが、前半までは刑事達の地味な仕事ぶりと同様に退屈だ。もっと話を刈り込んであと30分は削って欲しかった。野村芳太郎の演出にも、後年の作品に見られるキレが感じられない。



 では、観る価値がなかったかというと、そうでもないのだ。大木実、宮口精二、田村高廣、高峰秀子といった出演陣はやはり存在感がある。特に、高峰の“女の二面性”を上手く表現した演技には感心させられた。そして炎天下での捜査という過酷な雰囲気はよく出ている。冒頭、冷房もない満員の列車で横浜から佐賀まで旅をする刑事達の苦闘から、画面一杯に熱気が漂っている。佐賀でのロケによる市街地や田園地帯の風景も魅力的だ。

 しかし、終盤の舞台が宝泉寺温泉だというのは納得できない。宝泉寺温泉は佐賀県ではなく大分県にあり、私のような九州人はかなりの違和感を抱いてしまうのだ。いくら原作の川上峡温泉が映画の雰囲気と合わなかったとはいえ、もうちょっと工夫すべきであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「3-4x10月」

2010-01-22 06:46:36 | 映画の感想(英数)
 90年作品。北野武監督作第二弾。その前の「その男、凶暴につき」は観ておらず、たけしの映画に接したのはこれが初めてだった。ある草野球チームに属している雅樹(柳ユーレイ)は万年補欠のさえない選手。今日も大事なところで代打に選ばれたものの、見事に三振して、皆のひんしゅくを買っている。彼はガソリンスタンドの店員である。ひょんなことから彼は店に来たヤクザとトラブルを起こしてしまい、野球チームの監督でスナック経営者の隆志(ガダルカナル・タカ)に相談する。実は隆志は元ヤクザだった。

 話をつけようと事務所に乗り込んだ隆志だが、事態はこじれる一方。ヤクザとの全面戦争を覚悟した雅樹は、ケガして動けない隆志のかわりに仲間の和男(ダンカン)と沖縄へ拳銃を買付けに行くことになる。沖縄での取引の相手は上原(ビートたけし)という三下ヤクザだ。組の金を使い込んだ上原と雅樹たちとの奇妙な道中が始まる・・・・。

 本作を観て“この作者はあまり他人を信用しないタイプだ”と思ったものだ。きれいごとばかり言うヤツにかぎってウラじゃ何やってるかわかったもんじゃねえ、そこのアンタ、本当は自分のことしか考えてないだろっ、本当は人の欠点見つけて笑いたいんだろっ、気に入らない野郎はぶん殴ってやりたいんだろっ、無理すんなよ・・・・・・という監督の挑発が見えてくる映画である。

 ぼーっとして何考えているか分からない柳ユーレイはじめ、この映画の登場人物はあんまりかかわりになりたくない人間ばかりだ。しかし、どの人物も身近にいそうでイヤになる。小市民の持つ意地悪で礼儀知らずな面を、これでもかこれでもかと暴きたてる。冒頭のヤクザの描写は出色で、相手の弱みにつけこんで因縁を付けるあたり、実際仕事上でヤクザ屋と応対したことのある私の経験から言っても、実物に近い。

 ただ、脚本を持たず、その日その日の気分で撮影をすすめた、という北野監督のやり方のせいか、話にまとまりがない。沖縄で主人公たちがヤクザの抗争に巻こまれるあたりからは、映画はどんどん現実離れしていって、監督にもそのへんのコントロール能力に欠けているみたいである。あっと驚くドンデン返し、というふれこみのラストにしても、話がどうしようもなくなったので、逃げた、と私は思ったりする(^^;)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カティンの森」

2010-01-21 06:23:08 | 映画の感想(か行)

 (原題:Katyn )監督のアンジェイ・ワイダが長い間構想を練って撮った、力の入った作品であることは分かるのだが、残念ながら少しも面白くない。早い話、焦点が絞り切れていないのだ。第二次大戦下のポーランドで起きた虐殺事件を題材として取り上げるのならば、当然それに対してドラマ自体のヴォルテージの大半を使い切らなければならないはずだが、不必要に他のモチーフを大きく混在させてしまっている。

 1939年のポーランドは、西からナチスドイツが迫り東からはソ連が圧力を掛けてくるという、まさに逃げ場のない状況だった。ドイツ軍から逃げようとして東へと進むアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)とその娘ヴェロニカは、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)と野戦病院で再会する。一緒に逃げようと言う妻の説得を振り切って、苦楽を共にしてきた仲間と共に、ソ連軍によって収容所に連行されてゆく。観る側としては、当然この一家を軸にドラマは進むと思うだろう。しかし、実際はそうならないのだ。

 アンジェイが属していたポーランドの部隊を率いる大将の妻がクローズアップされるところまでは、まあ許せる。ところが話が戦後に移ってからは、アンナ達とあまり接点のない人物が次々と現れては、自分勝手な(?)エピソードを展開していく。表面的にはロバート・アルトマンなどが得意とした“集団劇”とも似ていなくもないが、多彩な人物像が融合して大きなうねりとなるダイナミズムはまったく感じられず、それぞれが単発的な展開に終始する。

 映画の終盤になってようやくカティンの森の悲劇が映し出されるのだが、話があちこちに飛んだ後に見せられるのでは、正直あまりインパクトは感じられない。これをクライマックスに持ってくるのならば、ポーランド将校の苦悩と、ソ連とナチスとのイニシアティヴ争いや、もちろんアンナ達の行動などを、その前の段階までに粘り強い演出と凝縮させた作劇でサスペンスを盛り上げるべきである。

 また戦後の話に重点を置くならば、人物配置に細心の注意を払い、鬱屈したポーランドの社会に影を落とすカティンの森の事件を物語の背後から描出するという手もあったはずだ。作者自身が言いたいことが多すぎて、あれもこれもと盛り込むうちに収拾が付かなくなったのだろう。

 数十回も脚本を書き直しても、それがプラスに働くとは限らないのだ。このまとまりの無さが、いくつかの映画祭(および米アカデミー賞外国語映画部門)にエントリーされながら、大賞受賞には至らなかった原因だと思われる。なお、クシシュトフ・ペンデレツキの音楽(既成曲)だけは見事であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする