元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マダム・イン・ニューヨーク」

2014-08-31 07:03:45 | 映画の感想(ま行)

 (原題:ENGLISH VINGLISH)これは面白い。ヒロインの成長物語を、インド製娯楽映画にありがちな“大雑把な作劇”を廃し、観る者の共感を呼べるように丁寧に仕上げている。しかも、ちゃんとインド映画のツボを押さえたエンタテインメント性も確保されており、いたずらに“グローバリズム”だの“芸術性”だのといった次元に走っていない。まさに大人の映画作りだ。

 インドの地方都市で暮らすシャシは、料理が得意で子供達の面倒見も良い“理想の”専業主婦なのだが、家族の中で唯一英語が話せない。そのために肩身の狭い思いをしている。そんな時、ニューヨークに住む姉の娘が結婚するという知らせを受け、シャシは手伝いも兼ねて式の1か月以上前から単身渡米する。案の定、そこでも英語が話せずに思い通りにならないことばかり。

 ところがある日“4週間で英語が話せる”という英会話教室の広告を見つけた彼女は、こっそりと英語をマスターしようと思い立つ。その教室にはさまざまな国から来た老若男女が集まっており、シャシは英語を学ぶと共に彼らと知り合うことによって、自分の世界が広がっていくのを実感する。

 この映画のミソは“英語がしゃべれることがグローバルな人材になる必須条件であり、主人公はそれを達成したから事態は好転した”などというナイーヴすぎる図式を捨象していることである。彼女の願いは、まず家族とより良いコミュニケーションを取ることだ。英会話教室に集う仲間達も、グローバルに活躍して成功したいといった大それた希望は持っていない。ただ周囲の人々と意思疎通を図りたいだけなのだ。

 もちろん、シャシを取り巻いていた環境にはインド社会特有の保守性が影を落としていたことは間違いない。しかし、映画はそれに真っ向から対峙してフェミニズムなんかに舵を切ることは無い。英語をマスターすることで、ささやかながら主婦としての自信を取り戻し、改めて家族と地域文化の素晴らしさを実感するという、極めて良識的で抑制の効いた地点に着地させようとしている。このあたりの作者のスタンスは、実にクレバーだ。

 ウリ・シンディーの演出は理性的でソツがない。大々的な歌と踊りは出てこないが(笑)、ヒロインの内面を照射するような楽曲を数多くバックに流すなど、長い上映時間を飽きさせずに見せきっている。

 そして特筆すべきは、ニューヨークの街が魅力的に捉えられていることだ。ゴミゴミとした裏通りや剣呑な連中がうろつく地域はまったく映さず、観光名所を含めたこの街の美景を効果的に綴っているだけなのだが、観る者にとっては一度は住みたくなるほど、素敵に描かれている。また、ヒロインを取り巻く市井の人々が皆親切であるのも気持ちが良い。

 主演の(国民的女優と言われる)シュリデヴィは50代とは思えぬ若さと美しさ、そして気品を保持しており、特に優雅な身のこなしには見とれるばかり。劇中で年下のフランス男から惚れられるのも当然だろう。披露宴でのヒロインの感動的なスピーチも含めて、鑑賞後の印象は極上と言える。観て損は無い。
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「愛と平成の色男」

2014-08-30 06:56:21 | 映画の感想(あ行)
 89年作品。バブル全盛期に作られたせいか、まさに軽佻浮薄を絵に描いたようシャシンで、内容も評価出来る部分は全く無い。しかしながら、今から思い返すとこういう映画が堂々と拡大公開されていた“時代の空気”みたいなものを感じ、苦笑してしまう。

 主人公の長島道行は35歳の歯科医だ。昼間は妹のルリ子を助手にして患者の治療に当たっているが、夜はジャズクラブでアルトサックスを吹いている。プレイボーイを気取り、常にガールフレンドはキープしているものの、まだ結婚する気はない。今の恋人から結婚を迫られたので、ルリ子に新興宗教にかぶれた妹を演じさせるという荒業を披露して別れることに成功。



 ある日長島はディスコで由加という女をナンパし、同じ頃にゴルフ練習場で婦警の百合とも知り合う。ところが手違いで由加と百合が病院で鉢合わせしてしまい大騒ぎ。這々の体で逃げ出した長島は、避難先の田舎で恵子という純情な娘と出会う。東京まで付いてきた恵子と、由加と百合も交えて事態は混迷の極に。長島はまたしても遁走することばかりを考えるのだった。

 主演は石田純一で、彼の“羽根のように軽い”キャラクターが全面展開。歯の浮くようなセリフ(及びモノローグ)を連発し、ホイホイと世の中を渡っていく様子を見ると、つくづく“いい気なものだ”と思ってしまう(爆)。今でも若者向けの軽量級映画はコンスタントに作られているが、いい大人を主人公にした脱力系シャシンが罷り通ってしまうというのは、やっぱりこの時代ならではだろう。

 加えて、監督が森田芳光だ。彼のフィルモグラフィの中では下から数えた方が早いレベルだが、同じく80年代に撮った「それから」のように“ガチな失敗作”ではないところが御愛敬か。少なくとも、明るさだけは横溢している。

 共演の鈴木保奈美や武田久美子、財前直見などは可も無く不可も無し。なお、恵子役の鈴木京香はこれがデビュー作。この監督の、若い女優を発掘してくる能力だけは評価したい。
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「めぐり逢わせのお弁当」

2014-08-29 06:23:12 | 映画の感想(ま行)

 (原題:THE LUNCHBOX)脚本がダメだ。ラストに至っては話が空中分解している。通常のインド製娯楽映画のルーティンを踏襲していないので上映時間が(インド映画にしては)短いが、それだけ対象をじっくりと扱う手間暇を惜しんだと思われても仕方が無い。

 ムンバイに住む専業主婦のイラ(ニムラト・カウル)の生活は、小学生の娘を送り出した後に取り掛かる夫の弁当作りでほぼ午前中が潰れる。あとは家事をしながら帰りの遅い夫を待つだけだ。その弁当は、ダッバーワーラーと呼ばれる弁当配達人が家から夫の職場まで配達してくれるのだが、何かの手違いによって、保険会社の経理担当者サージャン(イルファン・カーン)に届けられるようになる。

 勤続35年であと1か月で退職することになっているサージャンは、妻を亡くして今は一人暮らし。味気ない毎日を送っていたが、思いがけず美味しい弁当にありついて驚く。イラはすっかり空になった弁当箱が帰ってきたのを見て喜ぶが、やがて腕を振るって作った弁当が赤の他人に届けられていることを知る。サージャンは空の弁当箱に料理の感想や身の回りのことを書いて同封するようになり、イラも返事を書く。こうして見ず知らず同士の“文通”は始まる。

 ダッバーワーラーという制度は興味深いが、誤配がほとんど無いというこのシステムにおいて、どうして間違って弁当が配達されるようになったのか、その背景が全然見えない。原因を暗示するような配慮が欲しいところだ。また主人公2人の境遇は、作為的に過ぎる。イラの父はガン闘病中で、母は父の治療費の工面に四苦八苦。弟は受験に失敗して自殺。唯一気安く話し合えるのがマンションの一つ上の階に住むオバサン(声だけで姿は見せない)だが、このオバサンも夫の介護で苦労している。さらにイラの夫は浮気しているという、まさに絵に描いたような逆境だ。

 サージャンの孤独も作者が頭の中でデッチあげたようなもので、楽しそうな隣家の家族団らんの様子を意味ありげに見つめるあたりは、芸が無い。さらに、実際に会いたいというイラの申し出を、自らの加齢臭に幻滅して固辞してしまうというくだりは最低。オッサンをナメるなと言いたい(爆)。

 サージャンの後任になるシャイク(ナワーズッディーン・シッディーキー)は悪質な経歴詐称をはたらいた挙げ句、仕事で失敗をやらかすが、それをサージャンが安易に庇うのもオカシイ。シャイクは孤児だったという設定がそうさせたのだと思うが、それで通用するほどビジネスの世界は甘くない。

 ドラマが後半に入ると筋書きは混迷の度を増していき、登場人物達は動機も示さないまま突発的な行動を繰り返す。結局、イラは今の生活とどう折り合いを付けるのか、サージャンは退職して故郷に帰るのかどうか、まるで分からないまま唐突にエンドマークを迎える。これでは、ストーリー構成が行き詰まって作劇を放り出したと思われても仕方が無い。この監督(リテーシュ・バトラ)の腕前は三流だ。

 わずかに面白かったのが、彼の国での弁当の有り様である。4段重ねの箱に入れられ、職場の食堂で皿に載せて食べる。しかも、とても美味しそうだ。観終わってインド料理が食べたくなった私である(笑)。
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「クロスロード」

2014-08-25 06:21:17 | 映画の感想(か行)
 (原題:Crossroads)86年作品。音楽にさほど興味の無い観客からすれば、まるで存在価値を見出せない映画。しかも、特定のジャンル(ここではブルース)に精通していないと面白味がなく、単なる“珍品”として片付けられても仕方が無い作品。反面、ツボにハマれば魅力的に映るという、ある意味カルト的な位置を占める異色作だ。

 ジュリアード音楽院でクラシック・ギターを学び、優秀な成績を収めていた少年ユジーンは、実は本当にやりたいのはブルースだった。伝説のブルースマンであるウイリー・ブラウンが近くに滞在していると知った彼は、ウイリーの元に押しかけ、弟子にして欲しいと申し出る。


 ウイリーは“ロバート・ジョンソンが30番目に作った曲”を知っていると言い、故郷のミシシッピー州ヤズーシティに連れて行ってくれるなら、その歌を教えると語る。こうして2人の旅が始まるが、途中でウイリーが昔悪魔と契約した十字路に着くと、スクラッチという悪魔が現れる。ユジーンはウイリーを助けるため、スクラッチの化身であるジャックというギタリストと勝負することになる。

 私は音楽は好きだが、ブルースに関しては疎い。しかも、ギターのテクニック云々といったことにも詳しくないので、本作の内容にはピンと来なかった。「クロスロード」といえば、クリームのナンバーにそんなのがあったことを思い出す程度だ。この映画のハイライトはユジーンとジャックとのギター対決だが、これが何とも珍妙で笑ってしまった。「8 Mile」におけるラップ勝負の方が、まだ分かりやすい。

 しかしながら、主人公の演奏を担当しているのがライ・クーダーで、ジャックに扮しているのがスティーヴ・ヴァイだ。彼らのブルースに対する思い入れが全面展開しているので、その手のファンにとってはたまらないだろう。

 ユジーンを演じているのがラルフ・マッチオだが、「ベスト・キッド」と似たようなパターンだと思ったら裏切られる(笑)。監督のウォルター・ヒルは「ストリート・オブ・ファイヤー」等で音楽の使い方が光っていたが、本作は自分の趣味に走りすぎである。なお、この映画は公開当時は「スタンド・バイ・ミー」との同時上映だった。たぶん多くの観客が“妙な併映作がくっついていた”と思ったことだろう(笑)。
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「なまいきチョルベンと水夫さん」

2014-08-24 06:51:33 | 映画の感想(な行)

 (原題:Tjorven, Batsman och Moses)随分とレトロな作りだと思ったら、1964年製作の映画だった。どうして今頃公開するのか分からない。しかも、丁寧に作られているとはいえ、内容は完全に子供向け。ミニシアターでやるようなシャシンではないだろう。セリフを日本語吹き替えにして、子供相手に市民ホール等で上映するのにふさわしい。

 主人公チョルベン(マリア・ヨハンソン)は、スウェーデンのウミガラス島で暮らす御転婆な女の子。相棒はセントバーナード犬の“水夫さん”だ。ある日彼女は、漁師のヴェステルマンから網に掛かった一頭のアザラシの赤ちゃんを譲り受ける。チョルベンはそのアザラシをモーセと名付け、友達のスティーナ(クリスティーナ・イェムトマルク)やペッレ(ステファン・リンドホルム)と一緒に飼い始める。

 ところが、モーセが研究機関に高く売れることを知ったヴェステルマンは、チョルベンからモーセを取り返そうと、子供達と争奪戦を繰り広げる。さらに、島では家畜が襲われる事件が頻発。犯人は“水夫さん”ではないかという噂が立ち、チョルベンは愛犬を失う危機に直面する。「長くつ下のピッピ」等で知られるスウェーデンの児童文学作家、アストリッド・リンドグレーンの「わたしたちの島で」の映画化である。

 チョルベンは丸々と太っていて、スティーナも歯が欠けている上に悪態ばかりつく女の子だ。しかし、とても可愛く撮れている。犬の“水夫さん”やモーセだけではなく、カラスやウサギなど動物がたくさん出てくるが、どれも愛嬌満点だ。監督のオッレ・ヘルボムはよっぽど子供や動物が好きなのだろう。

 興味深かったのがモーセの生態。アザラシがあんな風に鳴くなんて初めて知ったし、水中と違って陸上では動きが鈍くなるという先入観を覆すように、かなり精力的に動き回る。

 児童映画なので、捻った筋書きやシビアな描写は皆無。ラストはすべてが丸く収まる。とはいえ、大のオトナがマジメに対峙するような作品でもないだろう。安くは無い入場料を払ってまで観る映画なのかというと、疑問が残る。あと魅力的だったのが、北欧の美しい白夜の描写。ベルイマン監督の「ファニーとアレキサンデル」でも神秘的に扱われていたが、白夜は北欧映画にとっての絶好の“小道具”であることを再確認した。
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最近購入したCD(その30)。

2014-08-23 06:51:58 | 音楽ネタ
 71年イタリア生まれのピアニスト、ロベルト・オルサーを中心としたトリオによる新作「ステッピン・アウト」は、実に美しいアルバムだ。ジャズのカテゴリーに入るサウンドなのだが、しっかりとしたクラシックの素養を感じさせ、格調の高い音世界を展開させている。



 収録曲の大半がオルサー自身のオリジナルだが、メロディやハーモニーは磨き上げられたようにクォリティが高い。それでいて難解さや高踏的な部分は捨象されており、誰が聴いてもスンナリと入っていける間口の広さをも併せ持っている。またポリスの「マジック」をカバーしているあたり、ポップな一面もある。ユーリ・ゴロウベフ(ベース)とマウロ・ベッジオ(ドラムス)によるリズム・セクションも強力だ。

 そしてこのアルバムは音質が良い。2013年のジャズオーディオ・ディスク大賞にも選ばれているが、音場の清澄感は素晴らしいものがある。低域・高域とも気持ちよく伸びており、音像のクリアネスは比類が無い。まるでリスニングルームの空気が変わっていくようだ。オーディオ機器のチェック用にも十分使える逸品である。



 イギリス南東部のエセックス出身のインディーバンド、ザ・ホラーズの4枚目のアルバム「ルミナス」は、ロック系では最近私が一番よく聴いているディスクである。正直、このグループのサウンドはこれまでダークなスノッブ臭が鼻について好きになれなかった。だがこの新譜はとても聴きやすい。とにかくダンサブルだ。

 とはいえ、打ち込み主体の脳天気なダンス・ミュージックに仕上げられているわけではない。シューゲイザー系らしい深々としたディストーションを多用し、ノイジーでサイケデリックな印象である。だが、不必要な暗さや取っつきにくさは見当たらず、メロディラインは平易で明朗だ。しかも曲調はスケール感がある。

 ファーストアルバムや2枚目のアルバムを好むリスナーからは敬遠される音作りかもしれないが、広範囲な支持を集めるような路線変更は決して間違ってはいないだろう。スタイルを躊躇なく変えるあたり、プライマル・スクリームとよく比較されるらしいが、今回のザ・ホラーズのやり方は地に足が付いたものであり、軽佻浮薄さとは無縁。ブリティッシュ・ロック好きならば要チェックの一枚である。



 今年(2014年)惜しくもこの世を去った名指揮者のクラウディオ・アバドだが、キャリアが長い分、遺したレコーディングも数多い。もちろん私も彼のディスクは何枚も持っているのだが、今回買ったのは96年に吹き込まれたヴェルディの序曲・前奏曲集である。オーケストラはベルリン・フィルだ。

 やはり地元イタリアの作曲家、しかもオペラ物をやらせると、この指揮者は抜群にうまい。まさに手が付けられないほどだ。スコアを精査して全ての音を網羅しようとする緻密さがありながら、演奏自体は流麗で明るく、しかもエネルギッシュ。歌心溢れる旋律の組み立て方や、ノリの良さは飽きることが無い。

 録音はこのレーベル(独グラモフォン)にしてはイイ線行っており、各音像がボケずに艶やかに拾われている。音場感も悪くない。ヴェルディの序曲・前奏曲集といえば2枚組のカラヤン盤も有名だが、オイシイところをコンパクトに一枚にまとめ、しかもエンタテインメント性豊かに楽みたいのならば、やはりこのアバド盤に指を折りたい。
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「こっぱみじん」

2014-08-22 06:26:55 | 映画の感想(か行)
 若い登場人物達の微妙な内面の動きを巧みに掬い取った演出により、見応えのある映画に仕上がった。このインパクトがあるタイトルは、監督の弁によると相手のちょっとした“裏切り”によって自己の存在を完全否定され、簡単に文字通り“こっぱみじん”な気分になるという、当世の若者気質を表したものらしい。

 もちろん、いつまでも“こっぱみじん”のままでは埒があかないので、そこから何とか立ち直るべく模索するのだが、つまりは若い頃は“こっぱみじん”状態からの復旧の繰り返しであるという、面白い見方に準拠している(ただ考えてみれば、それは若者だけではなく誰でもそうなのだが ^^;)。



 群馬県の桐生市に住む美容師見習い中の楓は、仕事には身が入らず、男友達との交際も惰性で続けている。そんな時、幼馴染で初恋の人・拓也が6年ぶりに街に戻ってくる。楓の兄の隆太とその婚約者の有希も拓也の帰郷を喜び、楓は相変わらず優しい拓也に再び恋心を抱く。

 ところが拓也はゲイで、彼が本当に好きなのは隆太だったのだ。しかも、有希が別の男の子供を妊娠していることが発覚。思いがけず複雑な四角関係に直面した4人は“こっばみじん”になりそうな自分を奮い立たせて、それぞれの解決策を探るのであった。

 快作「OLの愛汁 ラブジュース」(99年)で知られる田尻裕司監督は、ここでも卓越した心理描写を見せる。特に大きな屈託を覆い隠すように笑顔で食卓を囲む登場人物達の描き方は、本音を避けてその場を取り繕うとする小市民の一表現として出色であった。



 波瀾万丈の人生を望む一部の者達を別にすれば、無難で大過なく年を重ねていくことを希望する人間がほとんどだろう。しかし、真剣に生きる以上、必ず他者との軋轢は生じる。自分の思い通りに行かずに、煩悶することも多々ある。そこで自分に正直に振る舞うか、あるいは表面的な平和に縋り付いて事なかれ主義で生きるか、その選択はけっこう重いものがあるが、この映画に出てくる若い衆は否応なく前者をチョイスすることになる。

 逆に言えば、自分の気持ちを第一に考えることが通用するような“環境”にあるかどうか、それが問題なのだ。登場人物達は、かろうじて本音をぶつける相手に恵まれていた・・・・というか、頼れる者達を見つけ出すことができたのである(たとえば、楓だったら母親や職場の仲間など)。4人はこの一件を経て少しだけ成長するのだが、成長出来る“環境”を見出すことも、また大事である。

 楓役の我妻三輪子をはじめ、中村無何有、小林竜樹、今村美乃とキャストは馴染みの無い名前ばかりだが、皆とても上手い。特に我妻の存在感には圧倒させられた。もちろん田尻監督の演技指導の賜物なのだが、ネームヴァリューを無視して実力本位のオーディションで出演者を決めたことも大きいと思う。地方都市の風情と、それを活かす透き通るような映像が印象的。青春映画の佳編である。
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「父、帰る」

2014-08-21 06:28:50 | 映画の感想(た行)
 (原題:Vozrashchenie )2003年作品。第60回ヴェネツィア国際映画祭の大賞を獲得した珠玉のロシア映画。12年ぶりに帰ってきた父親と十代の息子たちとの葛藤を、痺れるほどに美しく、かつ厳しい大自然を背景に描く。

 アンドレイとイワンの兄弟は、ロシア北西部にある小さな村で母親と祖母と共に暮らしている。ある夏の日、二人が小さい頃に家を出て音信不通になっていた父が突然帰ってきた。しかも、それまでどこで何をしていたのか、一切口にしない。当惑する兄弟だが、父親は家長のように振る舞い、家の中を仕切り始める。そして、いきなり息子たちと旅に出ると言い出すのであった。父と兄弟の3人は釣り竿とテントを車に積み、遠い北部の湖に浮かぶ無人島を目指して出発する。



 父親がどういう素性の者なのか、具体的には語らずにドラマは進む。そして唐突な終焉を迎える。ハリウッド映画の方法論に頭が冒されている者からすれば、この映画のラストに不満を抱くだろう。しかし、親子関係なんてものは、何もかもが“解決”してヨシとするような筋書きで総括できるものではない。

 ここで描かれているのは矛盾に満ちていながらも屹立した偉大さを併せ持つ“父性”そのものだ。ここでの12年間もの“不在”により親子関係を最初からやり直さねばならないという設定は、父性の何たるかを再構築させる作者の意図を反映していて見事。

 そして、それぞれが深い意味を持つ象徴的なエピソードをロードムービーの形で絶妙に配置してゆく新鋭アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の手腕には唸った。アンドレイ・タルコフスキーばりに“水”を物語のメタファーとして効果的に扱うあたりも凄い。



 キャストは皆好演で、特に次男に扮した子役イワン・ドブロヌラヴォフの、父親に対する屈折した想いをギリギリにまで出し切った演技には泣けてきた。ミステリアスな父を演じる、コンスタンチン・ラヴロネンコの存在感も見逃せない。21世紀初頭を飾るヨーロッパ映画の秀作であり、少しでも親子関係で悩んだ経験のある観客にとっては、本当にたまらない気分にさせてくれる映画である。

 ひるがえって、今の日本にこのような父は存在するのだろうか? 我々はいまだに江藤淳の言う「恥ずかしい父親」しか持っていないのではないだろうか。
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「革命の子どもたち」

2014-08-20 06:27:08 | 映画の感想(か行)

 (原題:CHILDREN OF THE REVOLUTION)丁寧に作られたドキュメンタリー映画だとは思うが、題材とアプローチ自体が一般ピープルの価値観と相容れないものであり、どう頑張っても高い評価は得られない。あえて言ってしまえば、この素材を現時点でも取り上げる作者(およびそのシンパ)の思想的背景に突っ込んでみた方が面白いのかもしれない。

 連合赤軍を結成した重信房子とドイツ赤軍の主宰者であったウルリケ・マインホフ、共に60年代末から70年代初頭に掛けて過激派組織を立ち上げてテロ行為を繰り返した“女闘士”たちの姿を、それぞれの娘の立場を通じて浮き彫りにしようとする。監督は、ロンドンを拠点に活動するアイルランド人のドキュメンタリー映画作家シェーン・オサリバン。

 観た印象としては“ロクでもない親を持った子は苦労するものだ”という、身も蓋も無いものである。重信房子の娘のメイも、マインホフの娘のベティーナ・ロールも、親がヤクザ者であったばかりに小さい頃から各地を転々とし、普通の子供らしい体験もさせてもらえなかった。今ではメイもベティーナもカタギの仕事(マスコミ関係)に就いてはいるが、親の素性がそれぞれの職業選択について影響を与えているとはいえ、親が筋者ではなくマトモな一般市民であった方がよっぽど幸せな人生を歩んでいたはずだ。

 劇中では映画監督の足立正生や活動家の塩見孝也、弁護士の大谷恭子といった、かつて過激派の活動に参加あるいは賛同した者にも取材しているが、驚いたことに彼らの口から反省の弁が聞けることはない。たぶん自分たちの狼藉を、今でも正しいことだと思っているのだろう。そしてもちろん、映画は彼らに対して批判的なスタンスを取ってはいない。

 正直言って“だからダメなんだ”と思う。革命家を気取っていても、彼らはならず者で反社会的分子に過ぎない。そもそも、当事者でも無いのにヨソの国にまで“出張”して暴れ回るとは、どういう了見か。このネタを扱う上で唯一合理的な姿勢があるとすれば、これら過激派組織とそれに心酔した者達(多くは団塊世代)を徹底して否定することだ。

 彼らには一分の理も無い。同情出来る余地など毫も存在しない。迂闊に連帯感なんかを覚えるべきものではない。そして、これらゴロツキどもをのさばらせた当時の社会的病理について十分検証することだ。それこそが現在に通じる映画作りと言えるものであろう。ただでさえ、この世代が残した“負の遺産”が暗い影を落としている昨今である。
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「とらばいゆ」

2014-08-19 06:27:20 | 映画の感想(た行)
 「avec mon mari」などの大谷健太郎監督が2001年に撮った作品。かなり楽しめる。いわゆる“原作もの”ではなく、オリジナル脚本でこれだけのレベルに持って行った作者の力量にも感心した。

 麻美と里奈の姉妹は共にプロの将棋指しで、同じ名人戦のBリーグに属している。麻美は最近スランプで、それをサラリーマンの夫である一哉のせいにしている。一方里奈と同棲しているミュージシャンの弘樹は風采が上がらないくせに何かと疑り深く、彼女はそんな彼の態度にウンザリしている。ただしそんなマイナス要素を家の外には出さないようにしているおかげで、この姉妹は互いのパートナーは理想的だと思い込んでいる。



 やがて夫の優柔不断な態度に嫌気がさしていた麻美は、このまま負け続けてCリーグに落ちれば、離婚すると言い出す。そして麻美がBリーグに残留出来るかどうかを決定する対局の相手は、何と里奈であった。果たして勝負の行方と、この2組の男女の行く末は・・・・。

 女流棋士姉妹を主人公にしたラブ・コメディという設定が面白い。“2組のカップルがからむ四角関係”という設定は前作「avec mon mari」と同じだが、語り口もキャスティングも遙かにメジャー指向で、誰にでも楽しめる映画になっている。台詞の面白さは相変わらず。長廻しを主体とした静的なシークエンスでも台詞の躍動感が映画そのもののリズムとなって観客を惹き付ける。

 ストーリーは予定調和だが、登場人物に対する作者のポジティヴな視点が感じられて実に心地良い。ディテールも秀逸で、特に将棋の対局シーンの盛り上げ方は出色。ロケ地になった隅田川周辺の風情も捨てがたい。

 キャスト面では塚本晋也や村上淳はもちろん良いのだが、姉役の瀬戸朝香の存在感が圧倒的。正直言って、こんなにうまい女優だとは思っていなかった。妹役の市川美日子も悪くないが、これは“地のまんま”だろう(笑)。大谷監督もこの演出タッチをキープしてセンスの良い作品を手掛けて欲しかったが、今では毒にも薬にもならないお手軽映画ばかり撮っているのは残念だ。
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