元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ライフ・ウィズ・ミュージック」

2022-03-28 06:23:20 | 映画の感想(ら行)
 (原題:MISIC )好き嫌いがハッキリと分かれる映画だが、私は気に入った。ミュージカル仕立てながら、昨今の「ウエスト・サイド・ストーリー」や「シラノ」などより楽曲の訴求力が高い。監督自身がミュージシャンであることも関係していると思うが、作者は音楽がドラマにリンクする手順を知り尽くしているような印象だ。また、ストーリーも味わい深い。

 ニューヨークに住む自閉症の娘ミュージックは祖母と2人暮らしだったが、ある日祖母が急逝してしまう。彼女の唯一の身寄りは、年の離れた姉のズーだけ。しかも姉は長らく妹と疎遠で、おまけにアル中でヤクの売人もやっている。突然に姉妹だけの暮らしを強いられた彼らが上手くいくわけがなく、2人の仲はギクシャクするばかり。そこに優しく手を差し伸べたのが、隣に住む黒人青年エボだった。実はエボも屈託を抱えているのだが、思いがけず知り合った姉妹と何とか生活を立て直そうとする。



 ドラマの中で楽曲が披露されるという通常のミュージカル映画のルーティンは採用されておらず、ドラマの合間にミュージック・ビデオ風の場面が挿入されるという形式だ。ミュージカルとしては邪道だと思えるが、これが結構功を奏している。物語の設定自体がヘヴィであるから、ストーリーの中に無理矢理ナンバーを押し込めると居心地が悪くなる。ミュージカルのシーンが登場人物の心象をあらわす媒体であると割り切っているようで、これはこれで正解だ。

 メンタル面でハンデを持つ妹と、社会のはぐれ者である姉との話はどう見ても暗くなりそうなのだが、エボをはじめ周囲の人々は思いのほか親切で、映画の印象は明るい。それが絵空事になっていないのは、作者のポジティヴなスタンス故だろう。

 監督はオーストラリアの異能シンガーソングライターのSiaで、楽曲は彼女の書き下ろし。メガホンを撮るのも脚本に参加するのも初めてだということだが、展開が破綻することは無く、仕事ぶりは驚くほど達者だ。そしてミュージカルシーンのカラフルな造形には見入ってしまう。ズーを演じるのはケイト・ハドソンだが、最初彼女だと分からなかったほどの異様な外見でびっくりした。気が付けば彼女も中年に達しており、思い切った役柄への挑戦も評価したい。

 エボ役のレスリー・オドム・Jrも良いのだが、驚愕すべきはミュージックに扮したマディ・ジーグラーである。本当にメンタルに問題を抱えているのではないかと、観ていて焦ったほどだ。この演技力とルックスの良さ、そして2002年生まれという若さは、今後の活躍を期待させる。本年度の新人賞の有力候補だ。セバスティアン・ウィンテロによる撮影、ライアン・ハフィントンの振り付け、いずれも言うことなしである。
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「ドリームプラン」

2022-03-27 06:19:47 | 映画の感想(た行)
 (原題:KING RICHARD)これはとても評価できない。早い話が、主演で製作にも関与しているウィル・スミスの“俺様映画”なのだ。スクリーン上でデカい態度を取り、一人悦に入っているものの、作品の内容は低級である。特に脚本の不備は致命的で、昨今のハリウッド映画でこれだけいい加減なシナリオが採用された例は珍しい。アカデミー賞候補になったのも、何かの間違いではないかと思ったほどだ。

 ルイジアナ州出身のリチャード・ウィリアムズは、テレビで優勝したプロテニスプレイヤーが多額の小切手を受け取る姿を見て、自分の子供たちをテニス選手に育てることを決意する。ところが彼はテニスの経験がない。それでも独学でテニスの教育法を研究し、分厚い計画書を作成。カリフォルニア州に家族と共に移り住んだ彼は、コンプトンの公営テニスコートで娘であるビーナスとセリーナを特訓する。そして90年代後半から娘たちをプロツアーに参戦させ、目覚ましい成績を上げる。ウィリアムズ姉妹の父であるリチャードを主人公にした実録映画だ。

 とにかく、リチャードのキャラクターが十分に描きこまれていないのには呆れるばかり。そもそも、どうして娘たちを(バスケットボールや陸上競技等ではなく)テニスの道に進ませたのか分からない。テニスに関して門外漢であった彼が、なぜ綿密なプランを考え出せたのかも不明。

 リチャードの態度は横着で、無理矢理にプロのコーチに指導させたと思ったら、しばらくすると別のコーチにあっさりと鞍替え。練習の現場にも堂々と顔を出し、自身のウンチクを滔々と語った上で、コーチを無視して“独自の”アドバイスを披露する始末。クラブハウスの無料のお菓子を食べているビーナスとセリーナに対し“タダのものには手を出すな!”と怒るくせに、自分は食堂で無料のハンバーガーを食べ放題。とにかく一貫性のない奴だ。

 もちろん、リチャードが2人の娘をプロとして育て上げたのは事実だが、映画の中では説得力の欠片も見い出せない。いわゆる“実話なんだから、細かいところはどうでもいいじゃん”という、私の一番嫌いなパターンに入り込んでいる(笑)。

 レイナルド・マーカス・グリーンの演出には特筆すべきものは無いが、試合のシーンだけは良く撮れている。W・スミスのパフォーマンスはメリハリに欠け、ただ太々しいだけだが、妻のオラシーンに扮するアーンジャニュー・エリスは好演。娘たちを演じるサナイヤ・シドニーとデミ・シングルトンも可愛い。ともあれ、この映画を観るよりも、テレビでテニスの四大大会の試合を眺めている方が、数段マシであるのは事実だ。
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「交渉人」

2022-03-26 06:51:59 | 映画の感想(か行)

 (原題:The Negotiator)98年作品。2人の人質交渉人(ネゴシエーター)が対峙するという映画。公開時の惹句が“IQ180の駆け引き”というものであったが、正直言って“それ、2人合わせてIQ180ではないのか?”と思ってしまった。斯様に本作には頭脳戦の要素は希薄だ。しかしながら主役2人の存在感は光っており、何とか最後まで映画を見せ切っている。

 シカゴ警察の人質交渉人のローマンは、相棒のネイサンから警察の年金基金を何者かが横領しているらしいとの噂を聞く。やがてネイサンは殺害され、あろうことかローマン自身に容疑が掛かっていまう。切羽詰まった彼は、連邦政府ビルの内務局に乗り込み、居合わせたスタッフたちを人質にして立てこもる。真犯人は同じ警察署の内部にいることは確実であるため、ローマンは別地区のトップ交渉人セイビアンを指名するという思い切った策に出る。

 ハッキリ言って、この“別の所轄の交渉人を相手にする”という方法以外に、頭脳戦らしい仕掛けは見当たらない。何やら微温的な展開に終始し、ピリッとしないまま終わる。そもそも、いくら自らは潔白だといっても、人質を取っての大立ち回りをやらかしてはタダでは済まないだろう。この“追われながら犯人を捜す”という筋書きは、ヒッチコック作品をはじめ過去に多くの実例があるのに、どうして交渉人同士のやり取りという、活劇場面が少なくなりそうな設定を起用したのか不明だ。

 とはいえ、主役のサミュエル・L・ジャクソンとケヴィン・スペイシーの濃い面構えを見ていると、それほどケナすようなシャシンではないとも思ってしまう。F・ゲイリー・グレイの演出は堅実ではあるが、2時間20分も引っ張るようなネタではない。あと30分ぐらい削って、タイトに仕上げてほしかった。デヴィッド・モースにロン・リフキン、ジョン・スペンサー、J・T・ウォルシュ、ポール・ジアマッティといった他の面子は悪くない。

 余談だが、人質とローマンが籠城する緊迫した空気の中で、西部劇の名作「シェーン」に関するネタがやり取りされる場面はウケた。あのラストシーンにおいて、シェーンはすでに死んでいたのか否か。少年の呼びかけにまったく応えないし、向かう先は墓場ではないか・・・・etc。そんなことを真剣に話し合うこと自体、けっこう笑えるものがある。
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「RONIN」

2022-03-25 06:10:05 | 映画の感想(英数)
 (原題:RONIN )98年作品。活劇映画の名手ジョン・フランケンハイマーの監督作にしては、大して気勢が上がらない。キャラクター設定や風光明媚なロケ地の選定、そして豪華な配役を達成しただけで送り手が満足してしまったようなシャシンだ。とはいえ、けっこうレトロな雰囲気と、出ている面子の存在感は捨てがたい。

 冷戦終結直後のパリ。謎めいた女ディアドラのもとに、サム、ヴィンセント、スペンス、グレゴール、ラリーといった、いずれも国家や組織から逸脱した一匹狼のプロたちが集められる。任務は、ある男から銀色のケースを奪うことである。南仏ニースに移動した一同は綿密な計画のもとにケースの奪取には成功するが、メンバーの一人が早々に裏切り、ケースを横取りして別のシンジケートに売り飛ばそうとする。サムとヴィンセントはそれを阻止しようとするものの、突如としてIRAのエージェントたちが乱入。何とか逃れた2人だが、事の真相とケースの在り処を求めてパリに舞い戻り、最後の戦いに挑む。



 若干ネタバレするようで恐縮だが、銀色のケースの中身は何なのか、結局何も分からない。5人のメンバーの経歴や、どうして国家や組織から抜け出したのかも説明されていない。ディアドラの正体は判明せず、IRAが関与する理由も不明。要するに、主なプロットが回収されないままエンドマークを迎えるわけで、これではドラマの体を成していない。また、真相が解明されないことによる作劇上の効果も狙っているようには見えない。これでは不出来と評価されても仕方がないだろう。

 ただし、フランスの街並みをバックに展開されるカーチェイスだけは見応えがある。かなり長いシークエンスなのだが、緊張感が途切れずに見せ切っているあたり、かろうじてフランケンハイマー御大の実力が認められる。さらには、昔懐かしいスパイ映画の佇まいを醸し出しているあたりも、手練れの映画ファンにとっては喜ばしい点だ。

 主演はロバート・デ・ニーロとジャン・レノだが、この2人がスクリーンの真ん中に陣取ると、何となく安心できる(笑)。ナターシャ・マケルホーンにステラン・スカルスガルド、ショーン・ビーン、ジョナサン・プライスなど、他の配役も豪華。それから、元フィギュア・スケートの女王であるカタリナ・ヴィットが顔を見せているのも興味深い。
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「白い牛のバラッド」

2022-03-21 06:10:05 | 映画の感想(さ行)
 (英題:BALLAD OF A WHITE COW )これはかなり厳しいイラン製のサスペンス劇だ。全編を通じて作者の切迫した危機感が横溢しており、観る者を圧倒する。しかも、いたずらに扇情的にならず冷静で落ち着いた語り口に終始しているあたり、作り手の聡明な姿勢が感じられる。また、心象風景およびメタファーの多用など、イラン映画が新しい局面に入ったことを示しているのも興味深い。

 シングルマザーのミナは、聴覚障害で口のきけない愛娘ビタを抱えながらテヘランの牛乳工場に勤めている。夫のババクは殺人罪で逮捕されて死刑判決を受け、1年ほど前に刑が執行された。ある日、義弟と共に裁判所に呼び出されたミナは、夫の事件の真犯人が判明し、ババクは無実だったことを知らされる。あまりにも不条理な話に激高したミナだったが、死刑を宣告した担当判事に会って事情を聞くことすら出来ない。



 そんな中、夫の友人だったという中年男レザがミニのもとを訪れる。彼はババクに金を借りていたと言い、多額の返済金をミナに渡す。さらに彼は住処を追われた彼女のために借家を手配したり、ビタの学校への送り迎えを引き受けたりと、何かと世話を焼いてくれる。だが、レザには人に言えない秘密があった。

 レザの正体は前半で予想が付くし、映画もその通りに展開するのだが、本作の主要ポイントはそこではない。冤罪という重大な案件が持ち上がっても、遺族にはわずかな見舞金しか支給されないという現実。そもそも、1人を殺害しただけで死刑になり、判決後に間を置かずに執行されるのは、まさに無茶苦茶だ。映画はこのシビアな状況を容赦なく告発している。

 さらに、見知らぬ男と会ったという理由でアパートを追い出されたり、未亡人には不動産を提供しない等という、理不尽極まりない差別が横行しているイスラム社会の欺瞞をも描き出す。そして、都合が悪くなると“神の御意志だ”という題目で片づけてしまうのだから、市民にとってはたまったものではない。

 監督はミナを演じるマリヤム・モガッダムで(ベタシュ・サナイハと共同演出)、イランの地にあって堂々と社会問題を取り上げる覚悟が画面から滲み出ている。また、サウンドデザインの非凡さや映像構築の巧みさなど、高い映画的技巧が施されているのも評価したい。急展開を見せる終盤と、鮮やかな幕切れは、強いインパクトを残す。

 第71回ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品ながら、自国では3回しか上映されておらず、実質的には公開禁止になっている。モガッダムをはじめアリレザ・サニファル、プーリア・ラヒミサムといったキャストの仕事ぶりも文句なしだ。
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「エメラルド・フォレスト」

2022-03-20 06:55:12 | 映画の感想(あ行)
 (原題:The Emerald Forest)84年作品。数々の異色作を世に問うたジョン・ブアマン監督にしては、いささか軽量級の出来映えだ。しかしながら、映像の美しさと画面処理の非凡さは目覚ましい効果を上げ、そのあたりをチェックするだけでも存在価値はある。また、地球環境保護を訴えるというテーマ設定は普遍性があり、違和感なく観ていられる。

 アマゾンの奥地の熱帯雨林でダム建設に従事しているアメリカ人技師ビル・マーカムは、ある日妻子を仕事場に連れて行った際、少し目を離した隙に7歳の息子トミーの姿を見失ってしまう。どうやら、ある部族に連れ去られたらしい。それから10年、ずっと息子の行方を捜していたビルは、幻の部族がトミーの失踪に関わっていることを知り、再びアマゾンのジャングルの奥深くに向かう。



 そこで原住民の襲撃からビルを救ったのが、成長して今やその部族の戦士となったトミーだった。ビルは息子に一緒に帰るように説得するがトミーは受け入れない。そんな時、悪辣な部族がトミーの部族の女たちを拉致して売春宿に売り飛ばすという事件が発生。トミーは彼女たちを奪還すべく、戦いに身を投じる。

 とにかく、映像の喚起力には圧倒される。ジャングルの風景は、まさに極彩色の世界。緑の洪水という感じである。その中を、エメラルドを粉にして身体に塗り、保護色として森林に溶け込むトミーたちが跳梁跋扈する様子は、なかなか見どころがある。そして、トミーが夢の中で大鷹に変身し、ビル群の上空を飛び回り、マンションの上層階にビルの住居を発見して腰蓑一枚の姿で近代的な町並みを走り抜けるというシーンは圧巻で、さすが力のある監督の仕事ぶりだ。なお、撮影監督はフィリップ・ルースロで、彼の持ち味が存分に活かされている。

 しかし、ダム建設による自然破壊というモチーフはまだ良いとして、ストーリー自体は昔のターザン映画とあまり変わらない。活劇のテンポも万全とは言えない。ただ、トミーを演じるチャーリー・ブアマンは監督の息子であり、彼の主演で一本撮りたかったというのが監督の本音だったのではないか(笑)。

 パワーズ・ブースにメグ・フォスター、そして現地人に扮したルイ・ポロナやジラ・パエスらの演技は申し分ない。そしてジュニア・オムリッチとブライアン・ガスコーンによる音楽は実に効果的で、ロックとエスニック・サウンドのリズムを結合させ、独特の世界を創出している。
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「シラノ」

2022-03-19 06:21:03 | 映画の感想(さ行)
 (原題:CYRANO)原作は1897年に発表された、17世紀のフランスの騎士を主人公にしたエドモン・ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」であるが、今回の映画化は少しも楽しめなかった。まず、音楽と作劇とが全く合っていない。音楽を担当したアーロン・デスナーとブライス・デスナーは、アメリカの先鋭的インディー・ロックバンド“ザ・ナショナル”のメンバーであり、楽曲自体は決して悪いものではない。しかし、このモダンなロックサウンドが古典的な舞台劇にマッチしているかというと、断じてそうではない。そもそも、この有名な話をミュージカルにする必然性があったのか、大いに疑問である。

 そして、出ている面子が時代劇にふさわしくないのも難点だ。この題材は過去に10回以上も映画化されているが、共通しているのは主人公シラノは大きな鼻を持つユニークすぎる御面相をしていること。ただし、顔以外はいたって普通の男であり、それどころか歴戦の騎士でもあるから腕っぷしも強い。



 ところが本作の主役ピーター・ディンクレイジは、顔は申し分ないが体形がいわゆる“ミニサイズ”なのである。別に“ミニサイズ”自体が悪いということではないが、この体格では戦場で何度も修羅場をくぐった強者だという設定は無理がある。それでも、意外な強さを見せるシークエンスがあれば文句は無いのだが、唯一の立ち回りのシーンである劇場内での決闘は、殺陣が決まらず低調に推移する。これでは説得力に欠ける。

 そしてシラノの盟友である新兵クリスチャン・デ・ヌヴィレットに扮するケルヴィン・ハリソン・Jrは黒人だ。もちろんアフリカ系俳優であること自体がイケナイということではないが、彼は線が細くて軍人らしくない。そもそも、この時代のフランスで黒人兵が前線に立つというのは、どうにも違和感は拭えない。

 さらに最大の難点は、シラノが恋心を抱くロクサーヌを演じるヘイリー・ベネットだ。どう見ても歴史劇のヒロインに相応しいルックスではない。誰もが見惚れるような正統派美人女優を起用すべきだった。しかしながら、彼女は演出を務めたジョー・ライトの嫁であり、この監督に仕事をオファーすることは彼女がバーターで付いてくることは十分考えられたはず。これはプロデューサーの責任かもしれない(笑)。

 ライトの演出は今回は特筆すべきものはなく、起伏に欠け平板だ。ラストの愁嘆場も盛り上がらない。アカデミー賞から袖にされたのも当然か(ノミネートは衣装デザイン賞のみ)。
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堤未果「デジタル・ファシズム」

2022-03-18 06:28:15 | 読書感想文

 サブタイトルに「日本の資産と主権が消える」とあるように、本来は生活や仕事の質的向上に貢献するはずの各種デジタルデバイスが、個人情報の不当な集約と悪用に繋がり、最終的には一種のファシズムを喚起することを説く一冊。著者の堤はリベラル系ジャーナリストのばばこういちの娘であり、国際情勢等に関する書物で実績をあげた気鋭のライター。なお、彼女の夫は参議院議員の川田龍平である。

 通常、新書判のノンフィクションは読みやすいが、中身が薄いものが多い。本書も、それほど深い考察が成されているわけではない。しかし、ここで紹介されている事実は十分に衝撃的だし、何より作者の危機感がひしひしと伝わってきて、読みごたえがある。

 昨今、日本におけるデジタル施策の遅れが指摘され、2021年のデジタル庁の発足をはじめ、国を挙げてこの方面のイノベーションが図られている。もちろん、IT技術の導入による業務効率化は望ましいことだ。しかし問題は、その施策にGAFAやBATHをはじめとする大手グローバル企業がしっかりと食い込んでいることである。

 本来は公的機関で扱われる情報や、個人の消費行動などが大手キャリアに筒抜けになり、結果としてデータが営利目的に転用される。さらに、これらの情報を市場ニーズの誘導にまで使うという意図まで透けて見える。また、多額の公的予算が公正な市場原理を経ずに特定企業に流れていくのは言うまでもない。

 当然のことながら、これは大手キャリアだけが悪いのではない。民間の活力とやらを注入すれば効率化が達成されるだろうという、当局側の安易な構造改革志向の表れである。特に作者は教育分野の不用意なデジタル化についてページを割いて批判している。本来、教育は国の公的セクションにおける重要課題であるはずだが、これがデジタル施策推進の名のもとに民間キャリアに対して切り売りされている。そしてコロナ禍によりその傾向は一層顕著になっている。

 これは作者の出身校が自由な校風を持っていたことも関係していると思われるが、その畳みかけるような筆致は読む者を引き付ける。もっとも、本書の内容は問題提起の次元に留まっており、具体的な対策を提示するまでには至っていないが、読む価値がある書物であるのは間違いない。すでに15万部を超える売れ行きを示しているのも頷ける。
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「青い凧」

2022-03-14 06:16:50 | 映画の感想(あ行)
 (原題:藍風箏)93年中国作品。第二次大戦後からいわゆる文化大革命までの中国の体制を批判する映画は少なくないが、本作は最も直裁的な描写を敢行している。そのためか中国では上映禁止となり、田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督は10年間映画撮影を禁じられた。映画の出来としては高いレベルにあり、第6回東京国際映画祭でグランプリを受賞している。

 1950年代初頭、図書館司書の少竜と女性教師の樹娼は質素な結婚式を挙げる。時は新しい共産党政権が始まったばかりで、2人は毛沢東の施政を疑ってはおらず、素直に毛主席の肖像に敬礼する。やがて息子の鉄頭が生まれ、家族3人は貧しいながらも幸せな生活を送っていた。ところが57年、いわゆる整風運動により少竜は僻地へと追放される。



 後に少竜は事故で死亡し、少竜を密告した同僚の李国棟は、自責の念から母子の面倒を見ることを決心する。李と樹娼はやがて桔婚するが、その李も病気で世を去る。困った樹娼は党幹部の老呉と3度目の結婚をしたものの、66年に勃発した文化大革命により、老呉の立場も危うくなる。

 この映画が本国での公開が許可されなかったのは、共産党の幹部が生活苦の女性の立場に付け込んで結婚するという描写があったからだという。それでも映画の中で老呉は樹娼と鉄頭のことを思いやっており、決して悪人として描かれてはいない。だが、当局側はそんなことを関知せずに頭ごなしに否定したのだろう。最近では「ノマドランド」を撮ったクロエ・ジャオ監督に対する中国側の仕打ちも記憶に新しいが、彼の国のメンタリティというのは現在も全く変わっていない。

 激動の時代を生きた樹娼と鉄頭が遭遇する出来事は、実に理不尽なことばかりだ。欺瞞に満ちた整風運動の実態をはじめ、真面目に生きてきた市民が、さしたる理由も無く辛酸を嘗める様子は身を切られるほど辛い。田壮壮の演出はいたずらに扇情的になることはないが、その静かなタッチが事態の深刻さを遺憾なく印象付けている。そして筋書きは十分にドラマティックだ。

 はかない自由への希求を、少竜が鉄頭と一緒にあげた青い凧に象徴させるモチーフも効果的である。樹娟役のリュイ・リーピンは本作で東京国際映画祭で主演女優賞を獲得しており、その評価も頷けるほどの力演だ。プー・ツンシンにリー・シュエチェン、クオ・パオチャン、ツォン・ピンら他の面子も良い仕事をしているし、鉄頭を演じる子役も達者だ。ホウ・ヨンのカメラによる映像は奥行きが深く、そして大友良英が担当した音楽は見事と言うしかない。
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「ウエスト・サイド・ストーリー」

2022-03-13 06:22:12 | 映画の感想(あ行)
 (原題:WEST SIDE STORY )本作の評価の分かれ目は、言うまでもなく現時点で製作された意義である。前回、このミュージカルがジェローム・ロビンズとロバート・ワイズによって映画化されたのは61年だ。そして映画の時代設定は1950年代後半である。当時のアメリカは景気は良かったが、一方では公民権運動が巻き起こって人種問題がクローズアップされてきた時期だ。

 ニューヨークの下町を舞台にしたストリート・キッズたちの派閥争いは、まさしくそんな世相を反映したものであった。原作者はラテン系の若者による暴力事件を目にしたことからインスピレーションを得たという。さらにシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」を下敷きにするという、斬新な発想。まさにその時代の前衛を走るような仕事であったといえる。



 ならば今回のスピルバーグ版はどうなのか。人種やセクトなどに関する格差や対立は、相も変わらず存在している。コロナ禍も加わり、まさに我々は分断の時代を生きている。だから、一見このリメイクはタイムリーであるように思える。しかし、あくまでそれは設定や筋書きをアップ・トゥ・デートに再考した上での話だ。その点、本作が上手くいっているとは言えない。

 この映画におけるマンハッタンのウエスト・サイドは、都市開発により建物が次々と取り壊されている。つまりは、もうすぐ無くなってしまう地域なのだ。そんな先が見えているような状況で、主人公たちは縄張り争いをしている余地があるのか大いに疑問である。そして、前回におけるシェイクスピア作品の翻案という目新しいモチーフは、現在そのまま持ってくるには無理がある。

 トニーとマリアはダンスパーティーで互いに一目惚れ状態になるが、いくら細かいプロットが必須ではないミュージカルとはいえ、これは出来すぎだ。そしてヒロインは、事情はあったにせよ自分の兄を殺害した男と懇ろになる。加えて終盤は、大時代な“すれ違い”による愁嘆場だ。どう考えても、現在に通じる要素は希薄である。

 もちろん、スピルバーグはこのネタに思い入れはあったのだろう。そして丁寧に撮られていて、(長い尺のわりには)作劇もスムーズ。ミュージカル場面は前回に負けないほど訴求力は高い。だが、観る側としては最後まで“どうして今ウエスト・サイド・ストーリーなのか”という疑問を抱かざるを得なかった。

 アンセル・エルゴートにレイチェル・ゼグラー、アリアナ・デボーズ、デイヴィッド・アルヴァレス、マイク・ファイスト、ジョシュ・アンドレス、コリー・ストールといったキャストは特に派手さは無いが堅実である。また、前回に引き続きリタ・モレノが登板しているのは嬉しかった。ヤヌス・カミンスキーによる撮影は万全。お馴染みのナンバーを演奏するのはグスタボ・ドゥダメル指揮のニューヨーク・フィル及びロス・フィルだが、この指揮者のライトな持ち味が活きた妙演である。
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