元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「月に囚われた男」

2010-04-30 06:31:32 | 映画の感想(た行)

 (原題:MOON)SFとしては良くあるモチーフだが、現代社会の問題点を効果的に照射させることにより、屹立した存在感を獲得している。特に、主人公の境遇に我が身を投影させて切ない気分になる観客も多いのではないだろうか。

 舞台は近未来、すでに地球上の鉱物資源は枯渇寸前になり、月に埋蔵されている鉱石を掘り起こす事業が大々的に展開されていた。採掘基地の一つに3年契約で単身派遣されたサム(サム・ロックウェル)だが、契約満了まで2週間となった時点で月面車で事故を起こしてしまう。気を失い、基地のベッドの上で目を覚ました彼だが、何やら釈然としない気分だ。やがてサムは信じられないものを目撃し、この事業の“真の姿”を垣間見ることになる。

 本作のカラーは中嶋莞爾監督の「クローンは故郷をめざす」とリドリー・スコットの「ブレードランナー」のテイストに通じるものがある(注:これはネタバレではない。序盤部分だけで大半の観客は気付く)。ただし、サムは「クローン~」の主人公のような静かな狂気を漂わせてはおらず、「ブレードランナー」の登場人物たちのように現状に対しての激烈な抗議が先行することもない。あるのはただ“悲しさ”である。

 任務を終えて地球に帰ることだけを心の支えにし、日々孤独で単調な仕事に精を出すサム。しかし、営利優先主義の雇い主はそんな彼のささやかな希望さえも単なる“業務ツール”にしてしまう。現実を目の当たりにしてサムは慟哭するしかない。

 彼の境遇に身の回りの世話をするロボットも“同情”し、何かと手助けをしてくれる。ケヴィン・スペイシーが声の出演を担当するこのロボットの佇まいがとてもいい。「2001年宇宙の旅」に出てきたエゴイスティックなコンピューターとは大違い。本作の作者は、たかが機械といえど、永年一緒に暮らしていると血の通ったコミュニケーションが可能になると願っている。よほど性根の優しい人間なのだろう。監督のダンカン・ジョーンズはデイヴィッド・ボウイの息子だそうだが、親の七光りを感じさせない映像センスと的確な語り口は見上げたものだ。

 真相を知ったサムの取る行動は、結果的に巨大コングロマリットに対する効果的な一撃になる。しかし、一握りの強者が大勢の弱者を搾取してゆくという構図は変わらないのだ。ヘタすれば劇中のサムは我々の行く末なのかもしれない。従業員を単なる“部品”と見なし、都合の良いときだけ使ってあとは放棄する。マクロ的経済状態を改善せずに、帳尻合わせに終始する政財界。そしてそれに対して不平は言ってみるものの、根本的な解決手段さえ見出せない労働者。観ているこちらも、サムと同様に不安な気分になってくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「弟切草」

2010-04-29 07:01:52 | 映画の感想(あ行)
 2001年作品。人気ゲームを題材にした長坂秀佳による同名小説の映画化。ゲームクリエイターの元恋人と共に山奥の洋館に一泊するハメになったヒロインの、恐怖の一夜を追う。「パラサイト・イヴ」(97年)から始まった東宝のJホラー路線の中の一本で、監督は「真夜中のマーチ」などの下山天。

 実を言うと、私は原作を読んでいる。どうして読もうという気になったのか不明だが、とにかく“子供だましの小説だな”と感じたものだ。で、その映画化は“もっと子供だまし”であった(笑)。まったく起伏のないストーリー、メリハリのない演出、学芸会並みの演技、気勢の上がらないラストetc.何より観ていて全然ドキドキしない点は、ホラー映画という看板に偽りありである(爆)。

  主演の奥菜恵と斉藤陽一郎もまるで手持ち無沙汰の様子で、ちゃんとした演技をやろうと思っても、どこからもマトモな指示が出ていないという事を如実にあらわすような仕事ぶり。プロデューサーに仙頭武則の名前もあるが、何をやっていたのだろうかと思う。

 唯一面白いと感じたのがデジカムの使い方。まあこれも一種の“子供だまし”なのだが、画質の悪さを逆手に取って好き放題やってるあたりは納得した。少なくともラース・フォン・トリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のビデオ撮影よりは気が利いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「第9地区」

2010-04-28 06:46:31 | 映画の感想(た行)

 (原題:DISTRICT 9)これは面白い。優れた社会風刺劇であると同時に、ハードSFでもあり、ブラックな笑劇の体裁も取りつつ、ハイ・クォリティなアクション映画でもある。これがデビュー作となるニール・ブロムカンプ監督は、デイヴィッド・クローネンバーグばりの異常感覚を保持していながら、ハリウッドの娯楽作品でも十分仕事が出来る得難い人材だと思う。また、製作担当のピーター・ジャクソンの持ち味ともクロスする題材であり、相乗効果で求心力の高い映画に結実している。間違いなく今年度の代表作の一つだ。

 巨大UFOがよりによって南アフリカのヨハネスブルグ上空に“停泊”してしまう。中には甲殻類にも似たエイリアンが多数乗船。しかも弱り切っている。明らかに“難民”であり、当局側は彼らを“下船”させて地上キャンプに住まわせることにする。それから20余年が経ち、キャンプはスラム化しギャングが横行する危険地帯になる。

 映画は彼らを別地区へ移動させるプロジェクトチームの責任者に任命された難民管理組織の職員を中心に進んでいくが、冒頭からの似非ドキュメンタリー手法がまず荒唐無稽な設定を現実側に引き寄せる効果を発揮し、主人公の“受難”に切迫感を付与することに成功している。要するに“つかみはオッケー!”ということなのだ(笑)。

 異星人の出現により、建前的には廃止されたはずの南アフリカのアパルトヘイト政策が別の形で復活。偏見を取り除くには多大な努力と時間を要するが、それが無に帰すにはちょっとしたきっかけと、わずかな時間しか掛からないというシニカルな視点には、苦笑しながらも納得するしかない。

 さらに未知のウイルスに感染して身体がエイリアン化してゆく主人公に対する当局側の仕打ちは、筆舌に尽くしたいほど残酷だ。しかも、この難民管理組織は公共性の高い国際機関の看板を掲げていながら、その実は大規模な軍産複合体なのである。この問題に手を出したのも、異星人の使う破壊力の強い兵器を手に入れるためだ。昔も今も、そして未来も、グローバルな公益を担う国際組織などというものは存在せず、あるのは私利私欲のぶつかり合いと妥協しかない。この切り口は、中東問題を扱った凡百の映画よりも鋭いと言える。

 命からがら逃げ出した主人公を、難民管理組織と地元のギャングが追う。異星人親子の思わぬ協力を得て、事態は三つ巴・四つ巴の様相を呈してくるが、ここからあとはジェットコースター的な展開で観客をグイグイと引っ張って行く。終盤にはモビルスーツを操縦しての大立ち回りまで用意され、いわゆる“ガンダム世代”の共感を呼ばずにはいられないだろう。切ないラストシーンも心に残る。

 宇宙からの“難民”を扱った映画としては過去に「エイリアン・ネイション」があったが、本作はスケール感と観客へのアピール度であの映画を完全に上回る。あまり予算を掛けていないせいか有名俳優は出ていないが、主演のシャルト・コプリーはしがない小市民が開き直った様子を切迫したタッチで演じて圧巻だ。アカデミー賞候補になったのも当然かと思わせる快作である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「清作の妻」

2010-04-27 06:57:25 | 映画の感想(さ行)
 昭和40年作品。明治時代末期の山奥の寒村。この村の出身である母親に連れられて移り住んだ若い女と、若い兵士との不運な結婚生活を描く増村保造監督作。吉田絃二郎の同名小説を新藤兼人が脚色を担当している。

 増村監督らしい、力のこもった密度100%の作品だとは思うが、私は主人公たち二人の破滅がどうだというより、村人たちの筋金入りのボンクラさ加減が目に付いた。チラシには「反戦映画」とあるけど、それは違う。戦争があろうがなかろうが、ヒロインは疎外され、清作は浮いたままであったはずだ。それどころか「お国のため」というアホみたいな単純な価値観を植え付けた方が、何も原理原則を持たないボンクラどもが野放し状態になって好き勝手振る舞うよりは、いくらかマシなのかもしれない。

 ボンクラ達は自分たちのことを棚に上げて異分子を排斥し、欲求不満のはけ口にする。清作にとって不幸だったのは、このボンクラの行動形態を甘く見たことだ。軍隊で学んだ“先進的な知識”だけで村を活性化できると思っていた。しょせん清作は「七人の侍」の超人的な武士たちではない。ただの無力なインテリで、ボンクラどもを御しきれる器ではなかったのだ。田村高廣の線の細い容貌がそれを如実に示している。

 若尾文子扮するヒロインも、ボンクラな母親を説得できずにうっかり因習深い村に戻ってしまったことがそもそもの間違い。ああ、げに恐ろしきはボンクラの開き直りとゴリ押しか。ラストの清作の独白に“何もかも捨てて愛に生きる潔さ”よりも“負けてしまった人間の哀れさと未練”を感じてしまった私である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「十二人の怒れる男」

2010-04-26 06:48:10 | 映画の感想(さ行)

 (原題:12 Angry Men)57年作品。シドニー・ルメット監督の代表作で、法廷ドラマの金字塔と言われている映画だが、私は今回のリバイバル公開で初めて目にすることが出来た。作品の印象だが、とても優れた作劇であり、観賞後の満足感が高い。特に、2007年にロシアでニキータ・ミハルコフ監督によってリメイクされた「12人の怒れる男」との比較により、本作のクォリティの高さを確認出来る。

 ルメット版は上映時間が1時間半とコンパクト、対してミハルコフ版は2時間40分の長尺だ。ミハルコフは12人の陪審員による討議という設定に現代ロシアの社会問題を織り込もうとした。その狙い自体は悪くなかったが、結果として各登場人物に対する山のような説明的シークエンスを挿入しなければならなかった。しかもそれがあまり面白くなく、映画の流れを阻害した。ルメット版はセリフや態度の端々に織り込められた暗示により、必要最小限のモチーフでキャラクター設定を完了させた。

 次に時代背景である。ミハルコフ版はいくらロシアとはいえ舞台は現代だ。いい加減な審理が通るはずもなく、またそれを陪審員達が当初まったく気が付かないのは不自然である。ルメット版が作られた50年代は公民権運動も始まっておらず、根強い偏見が存在した。陪審員の大半が被告を有罪だと決めてかかるのも無理もない。

 そして最大の違いは主題だ。ミハルコフ版はタイムリーなネタを取り入れてはいるが、結局行き着く先は“諦念”である。チェチェン問題が容易に片付くはずもなく、また解決の糸口さえ見出せず、12人の陪審員達は肩を落として法廷を後にするしかない。ところがこのルメット版にあるのは“希望”だ。どんなに不利な状況であっても、問題を見極める真摯な姿勢さえあれば、そして行動を起こす勇気を持てば、必ず道は開ける。当時のアメリカは60年代の混迷をまだ知らず、民主主義の正しさを信じて疑わなかった。

 その頃は明るい未来があると皆が思っていた。当然、多種多様な価値観が複雑に絡み合う現在とは違う。しかし、こんな時代だからこそ、必要なのはヘンリー・フォンダ扮する陪審員のような周りに流されない確固とした信念とヒューマニズムであり、民主主義の原点を見つめ直すことなのだ。審議が終わって雨の上がったニューヨークの街に散って行く登場人物達の晴れやかな表情に、清々しい感動を覚える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

部屋が変われば、音も変わる。

2010-04-25 06:21:05 | プア・オーディオへの招待

 先月(3月)から始まった新居での生活で気になる点の一つに、オーディオシステムの鳴り方が以前の住まいと異なることが挙げられる。はっきり言ってしまうと、まるで別物だ。音が四方に行き渡り、響きも朗々としたものに変わっている。

 今までは和室に設置していた。対して新居でのリスニングルームは洋間だ。考えてみれば実家のメイン・システムも含めて、オーディオシステムを洋室に置いたことはなかった。洋間と和室との一番大きな違いは、音の反響の多寡である。畳は中高域を吸収するため、リスナーの耳に届くのはスピーカーからの直接音が中心だ。そのために音の広がりは抑えられる傾向がある。前の住居は和室にしてはライヴな環境だったが、それでも洋室に比べればデッドな状況であったことは否めない。

 さらに、フローリングの床はスピーカーのセッティングの面でも有利だ。畳の上よりも安定する。前の部屋でもスピーカースタンドの下に人工大理石のボードを敷いて足元を固めていたが、やはり洋間の方がしっくり来る。また、今度の住まいは天井が高い。測ってみると以前の部屋より十数センチは違う。鳴り響く空間が大きければ、それだけ音場も広くなるのだ。

 私が使っているスピーカーは英国ブランドだが、当然欧米には和室というものはないので、すべてライヴな洋間で鳴らすことを前提に設計されているのだろう。たとえ国産スピーカーであっても、土台を固めやすい洋室での使用が有利なのだと思う。

 やはり一番影響力が大きい“オーディオ・アクセサリー”はリスニングルームなのだ。昔のオーディオ雑誌には六畳や四畳半の和室に大型スピーカーを置いて悦に入っている“マニア”の方々の写真が載っていたものだが、今から考えるとナンセンスな話である。オーディオ機器は趣味の商品であると同時に、所詮は家電品でもある。生活空間を圧迫するような機器の導入は、やはりどこか間違っていると思わざるを得ない。

 実家のメイン・システムを持ってこようかとも思ったが、残念ながら部屋の広さが少し足りない(メイン・システムは大きめのアナログプレーヤーを装備しているので尚更だ)。それは今後の楽しみ(自宅新築時?)に取っておくことにしよう(^^;)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ」

2010-04-24 06:48:41 | 映画の感想(ら行)

 意外にも楽しめた。私は元ネタになったTVシリーズは見たことがないし、甲斐谷忍による原作コミックも読んだことがない。それでも最後まで退屈せずに観ていられたのは、脚本が“程良いレベル”に収まっているからだと思う。

 荒唐無稽な設定を映画単品としてゼロから立ち上げる丁寧な語り口はない代わりに、それに付随する煩雑さも回避している。しかも、本作の筋書きはドラマにも漫画版にもないオリジナルのものだという。安易なTV版の焼き直しよりも、数段好感が持てる。

 冒頭、ドラマの簡単な概要を数分で紹介した後、いきなり対決に入るというくだりは、元ネタのファンを意識したものであると同時に、私のような一見の客をもアッという間に映画の中に引き込むスピード感を生む。孤島に連れてこられた11人の男女が不条理なゲームに挑むという、ケレン味たっぷりのシチュエーションに関してグタグタと状況説明から始めてしまうと、上映時間はいくらあっても足りない。観る側に考えるヒマを与えずに本題に入るという、この作戦は成功だ。

 彼らが参加するのは「エデンの園ゲーム」なるシロモノ。これが単純のようで、けっこうルールは込み入っている。一応の説明はあるが、駆け足気味で十分に把握出来ない。だが、作る側はそれを見越している。ゲームの進行によりルールの該当部分を再確認するというスタイルを取っているため、説明部分に余計な時間を与えずに済んでいるのだ。

 本作は観客に対して知恵比べを仕掛ける“コン・ゲーム”ではない。プロット面でかなりの突っ込みどころを残しながら、ジェットコースター気味にラストまで引っ張るという、アトラクション系に徹している。その割り切り方も潔い。各登場人物は適度に“立って”おり、悪趣味になる寸前のところで踏み止まるキャラクターの動かし方は、松山博昭監督の節度を守った姿勢が窺われる。

 主演の松田翔太はクールな持ち味が活きており、不貞不貞しくもどこか純情な詐欺師を好演。ヒロイン役の戸田恵梨香は“バカ正直な女子大生”という、実際にはまず存在しない(おいおい ^^;)役柄に果敢にチャレンジしており、なかなかに見せる。それにしても、笑うと歯茎が大々的に出てしまうのに可愛く見える女優というのは、この戸田ぐらいだろう(爆)。

 終盤には金銭万能の世相に対するプロテストも挿入され、それに派生して“人を疑うことの意味”にも言及している。ここが取って付けたように思えないのは、少なからず核心を突いているからだろう。またエンドクレジット後のエピローグも秀逸で、見事にテーマと呼応している。とにかく思わぬ拾い物の一編で、観て損はない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「飛ぶ教室」

2010-04-23 06:08:25 | 映画の感想(た行)
 (原題:Das Fliegende Klassenzimmer )2003年作品。この作品の原作者エーリッヒ・ケストナーは「点子ちゃんとアントン」「ふたりのロッテ」などの児童文学の作者として有名だが、恥ずかしながら私は一冊も読んでいない。彼の代表作であるこの小説も題名だけは知っていたが、どういう話なのか今回映画を観て初めて分かった次第である(^^;)。

 原作は1933年のドイツを舞台にしているらしいが、映画では現代のライプツィヒにある寄宿学校に設定されている。言うまでもなくライプツィヒは旧東ドイツであり、統一前のドイツを生きた教師達の世代と生徒達を比較する事によって映画の裏に現代史を織り込み、話に深みを持たせようとしていることは分かる。

 ただし、作りがあまりにも素直で平易すぎて観ていて気恥ずかしい。映画館で封切るより、小学校の課外授業として体育館で吹き替え版を上映する方がふさわしいと思う。子供達をはじめ出演者は皆好演。全寮制学校の描写にも興味深いものがあった。トミー・ヴィガンドの演出は丁寧だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ソラニン」

2010-04-22 06:15:07 | 映画の感想(さ行)

 面白くない。何がイヤかと言って、この映画の登場人物たちほど見ていてイライラする連中はそういないだろう。主人公は大学を卒業して2年、学生の頃に組んでいたバンドの活動は継続しているものの、プロを目指す実力も度胸もなく、さりとて自分の本業をしっかりと持っていて音楽を“趣味の一つ”として割り切れるような要領の良さもない。

 そんな彼と同棲しているヒロインもまた似たようなものだ。勤めていた職場を些細なコミュニケーション・ギャップから辞めてしまい、かといって新たに仕事を積極的に探すでもなく、日々を無為に送る。二人を取り巻く者達も同様で、自分の居場所を見つけられない根無し草のような頼りなさが付いて回る。彼らに出来るのは同病相憐れむような微温的な会話を交わしたり、時には子供のようにじゃれ合うことだけだ(こういうのを草食系と言うのだろうか)。

 断っておくが、こういうヤワなキャラクターを画面の中心に置いてはイケナイという決まりはない。ダメぶりを容赦なく突き詰めて映画的興趣を醸し出していた作品など、過去にいくらでもある。ただ、本作のつまらなさは“ダメ描写”が表面的で少しも登場人物たち内面を抉っていないところだ。すべてが微温的で上っ面しか捉えていない。生々しさがまったくないのだ。

 これがデビュー作となる監督の三木孝浩の演出力は未熟で、サラサラとした肌触りの良い映像タッチは披露できても、肝心の人間ドラマの構築についてはお寒い限りだ。その代わりと言っては何だが、エクスキューズめいた説明的モノローグが山のように挿入されている。ドラマ運びで映画のテーマを語れない素人監督(および周りのスタッフ)がよくやるパターンだ。

 そして致命的なのが、音楽の扱い方が全然なっていないこと。主人公達がどうしてバンド活動にのめり込むのか、最後にはヒロインまでもがギターを手にするその理由が示されていない。演奏シーンは“ただ、カメラを置いて撮りました”というレベルで、音楽の素晴らしさ、ロックの熱気は皆無である。

 呆れるのは監督の三木は元々プロモーション・ビデオの製作スタッフ出身であることだ。彼の過去の仕事ぶりは知らないが、斯様に音楽の躍動感をも引き出せない者がプロモーション・ビデオを手掛けていられるとは、日本の音楽業界のレベルの低さが分かろうというものだ。

 ギターを弾いて歌まで歌った宮崎あおいも“御苦労様でした”という程度だし、共演の高良健吾や桐谷健太、近藤洋一などの面々もパッとしない。浅野いにおによる原作(私は未読)に対して思い入れのある者以外は、あまり観る必要のないシャシンだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アヴァロン」

2010-04-21 22:44:23 | 映画の感想(あ行)

 2000年作品。荒廃した近未来、非合法の仮想戦闘ゲーム“アヴァロン“に熱中するあまり殺戮と自らの死を繰り返す興奮から抜け出せない若者が大量発生したある国を舞台に、最強のパーティを自らの失敗で解散させてしまった過去を持つ女戦士のバトルを描く。

 ポーランドでロケされ、キャストも現地で集められているが、監督は押井守である。少し前まで“押井守に実写は撮らせるな”という原理原則が邦画界にあったらしいが(ねえって、そんなの ^^;)、今や得意のアニメーションでも気合いの入った作品をリリースできない彼の、凋落を暗示させる何とも弱体気味の映画だ。

 現実の中の虚構(ゲーム)、虚構の中の現実といった、すでに手垢にまみれた仕掛けを何の芸も工夫もなく差し出すのみ。第一、舞台となる近未来社会の構造等がほとんど説明されていないのには閉口する。これでは登場人物たちがゲームにのめり込んでいく理由が、“単に面白いから”ということ以外に存在しなくなり、いくら深刻な表情をしてみても、“それがどうした”としか思われず、ドラマ自体が寒々となるばかり。

 出てくるキャラクターには全然魅力なし。冒頭の戦闘シーンとメカ類、モノクロに近い画面で展開するCG処理などには見るべきものはあるが、困ったことにこういう“一見先鋭的な画面”は古くなるのも早いのだ。大仰な音楽も願い下げ。撮影監督のグジェゴシ・ケンジェルスキだけが的確な仕事で唯一気を吐いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする