元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「妻への家路」

2015-03-30 06:36:30 | 映画の感想(た行)

 (原題:歸来 Coming Home)張藝謀監督作品とも思えない、腑抜けた出来だ。もちろん、これまでの彼のフィルモグラフィが全て良作であったわけではなく、凡作・駄作もいくつかある。しかし本作は文化大革命という歴史的イベントを題材に、過去何度かコンビを組んで成果を上げてきたコン・リーを主演に据えているにもかかわらずこの程度のレベルに終わっているのは、この作家としての衰えを感じさせて寂しい気持ちになる。

 70年代、それまで長い間当局側に拘束され遠隔地に送られていた男イェンシーが収容所から逃亡。妻と娘の住む町にたどり着くが、官憲に捕まってしまう。妻のワンイーはそんな彼を駅で見送るしかなかった。それから数年経った77年、文化大革命が終結しイェンシーは20年ぶりに解放され、故郷に戻って家族と再会する。ところが妻は心労で記憶障害になっており、夫の顔も覚えていない。イェンシーは他人として向かいの家に住み、成長した娘タンタンの助けを借りながら、何とか妻の記憶を取り戻そうと奮闘する。

 イェンシーは冒頭の逃亡劇の時点で十数年間も家に帰っていないが、その際はワンイーは夫をしっかりと認識していた。それからわずか数年しか経たないのに、これほどまで(何の伏線も暗示もなく)急激にメンタル障害が悪化しているというのは、乱暴な作劇と言わざるを得ない。しかも、部屋の中には物の名前や役割などを指示する張り紙が多くあって、ワンイーが認知症患者である様子が示されるが、こんな症状を抱える者に一人暮らしをさせている設定には無理がある。

 またイェンシーは必死になって妻に自分を思い出させるように苦労するのだが、認知症を患う者に対してピンポイント的に“夫の記憶”だけを取り戻させようとするのは、筋違いなのではないか。病状を心因性忘却症に限定して、罹患したプロセスも明かすべきだった。そのあたりを押さえておかないから、イェンシーの頑張りは空振りを続けて観る側はカタルシスを得られない結果になる。

 最大限に穿った見方をすれば、ワンイーの忘却症は文化大革命の象徴なのかもしれない。つまり、多くの中国人にとって“忘れてしまいたいこと”であるという解釈だ。しかし、たとえそうだとしても本作の御膳立ては粗雑に過ぎる。

 張監督の今回の仕事はメリハリが感じられず、漫然と話が進むだけで、気勢の上がらないラストに行きつくのみ。コン・リーはもちろん夫役のチェン・ダオミンも熱演なのだが、それが空回りしている状態だ。唯一興味を覚えたのは、娘タンタンを演じるチャン・ホエウェンの扱いだ。バレエのシーン等で溌剌とした存在感を発揮するが、明らかに同じ張監督の「初恋のきた道」のチャン・ツィイーや「至福のとき」のドン・ジエと同じ位置付けで、つまりは“これからプッシュしたい”という意図が透けて見える(爆)。新進女優を取り立てることに関しては、相変わらず積極的のようだ。
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「コキーユ 貝殻」

2015-03-29 06:43:12 | 映画の感想(か行)
 99年作品。中原俊監督作らしく、とても肌触りが良く丁寧な仕上がり、しかし、中身があんまりないのもこの監督らしい。山本おさむの同名コミックの映画化で、脚色は「死にゆく妻との旅路」(2011年)などの山田耕大が担当している。

 地方都市にある中学校の同窓会に出席した中年男の浦山は、地元を離れて東京に越してからずっと疎遠だった、かつてのクラスメイトの直子に再会する。彼女は離婚して、今は中学生の娘と二人暮らし。この町で「コキーユ」という名のスナックを経営しているらしい。



 それから縁があって彼女の店に通うようになった浦山だが、上司の自殺未遂騒ぎがあってから足が遠のいてしまう。それでも浦山を慕う直子は、彼の職場に押しかけて思いを伝える。それを知った浦山は、出張と偽って直子とハイキングに出かける。だが、思わぬ出来事で二人の関係は終わりを告げるのであった。

 要するに、これは主人公の“ヤリ得”ってことじゃないか(笑)。主役二人のどうしようもない劣情を容赦なく描かないから、単なるムード映画になってしまった。とはいえ演じるのが小林薫と風吹ジュンなので、どう考えても生々しさは前面に出てこない。終盤に至る展開も行き当たりばったりで、どうも登場人物に感情移入しにくい。

 自ら命を絶とうとした浦山の上司が、全共闘時代を思い出しているというのは何やら違和感がある。脚本担当の山田は多数のロマンポルノ作品を手掛けた実績があるが、一般映画では持ち味は出せなかったようだ。ただし、上野彰吾のカメラによる清涼な映像は印象に残る。
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「シェフ 三ツ星フードトラック始めました」

2015-03-28 07:18:33 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Chef)面白かった。“風采の上がらない中年男と利発な子供”という鉄板の設定と、ロードムービーの組み合わせ。それにグルメ映画のテイストが加われば、誰がどう見たって失敗作になるはずがない。これまで活劇映画を中心に手掛けてきたジョン・ファヴロー監督としても、会心作と言えるのではないだろうか。

 ロスアンジェルスにある有名レストランのシェフであるカール・キャスパーは、腕は良いが我が強くて敵を多く作るタイプ。創意工夫する余地がないマンネリなコース料理ばかり作らされることに腹を立て、オーナーとケンカした挙げ句に店を飛び出してしまう。再就職先などすぐに見つかると思っていた彼だが、すぐに現実の厳しさを思い知らされる。

 仕方なく別れた妻の元の旦那を頼ってマイアミまで落ち延び、何とか中古のフードトラックを譲ってもらってサンドウィッチの移動販売を始めることにする。手伝ってくれるのは元の職場で彼を慕っていた助手と、カールの小学生の息子パーシー。こうして彼らはフードトラックを駆って、フロリダからロスまでの大陸横断の旅に出るのであった。

 口では偉そうなことを言うが、羽振りの良い元のカミさんに引け目を感じ、如才ない息子からもやり込められる主人公像がケッ作。だが、そんなカールでも一応は人の親だ。子供に対しては自分なりに社会人としてのケジメをしっかりと教え込んでゆく過程には説得力がある。たぶん夏休みが終わった頃には、パーシーも一回り大きくなっていることだろう。

 カールのフードトラックは初めはマイアミ名物のキューバサンドをメインに扱うが、旅を続ける間に各地の郷土料理の要素を加えていく。さらに興味深いのが音楽の扱いだ。フロリダではサルサ、ルイジアナに入るとディキシーランド・ジャズ、テキサスではサザン・ロック、そして目的地ではウエストコースト・サウンドが高らかに響き渡る。これはアメリカ土着の文化を再確認する旅でもあったのだ。

 ファヴローはカール役として主演も勤めるが、レストラン支配人役にダスティン・ホフマン、女友達としてスカーレット・ヨハンソン、他にロバート・ダウニー・Jr.までも顔を揃えるという豪華さで、この監督の顔の広さを確認出来る。ジョン・レグイザモやソフィア・ベルガラらの他の面子も良い。

 そして特筆すべきは料理がとても美味しそうに撮られていること。最近の映画では「深夜食堂」と双璧だろう。序盤のコース料理よりもファストフードに近いサンドウィッチの方が旨そうなのは、作者の好みかもしれない(笑)。それにしても、アメリカ政府がキューバとの国交回復に向けて動いている最中に公開されるとは、いかにも意味ありげである。
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「プリンス・オブ・シティ」

2015-03-27 06:56:11 | 映画の感想(は行)
 (原題:Prince of the City)81年作品。この頃のシドニー・ルメット監督作としては地味で、娯楽性も高いとは言えない内容なのだが、しっかりと作り上げられており、観る価値はある。社会派作品が好きな映画ファンならば、満足する出来だろう。

 ニューヨーク市警の麻薬調査班に籍を置くダニーは、裁量権の大きいこの部署の仕事が気に入っていた。仲間たちとも良い関係を築き、事件関係者から若干の“袖の下”をいただきつつも、市警本部とも距離を置いた“町のプリンス”とも呼ばれるこの遊撃隊において実績も上げている。ある日、かねてより市警内部の腐敗堕落ぶりを忌々しく思っていた地方検事局は、ダニーに協力を要請する。警察内の汚職を地検に通報することにより、それまでの彼の所行は不問にするというのだ。



 地検からのオファーを渋々引き受けたダニーは、無線マイクを身体に隠して問題警官に次々と接触。証拠を集めていくが、当初の“協力はするが、仲間は売らない”という彼の言明とは裏腹に、結果的に麻薬調査班の同僚たちをも窮地に追いやっていく。ついには追いつめられた汚職警官が自殺したり、彼の親戚筋にも不幸が忍び寄ってくる。それでも地検の捜査は拡大する一方で、連邦検察官まで乗り込んでくるに至り、事態はダニーの手に余るようになる。

 主人公を取り巻く環境の厳しさの描写には、まるで容赦ない。仲間を失い、周囲からの信用も得られないようになる。ただし、これが現実だという本作の主題には納得出来る。アメリカの警察はその組織的構造上、不正が起こりやすい。ダニーのようなディレンマを抱えている警官も大勢いるのだろう。そして、突き放したようなラストシーンは、この問題の深刻さをより一層印象付けられる。

 ルメットの演出は実に手堅く、長い上映時間を飽きさせずに引っ張っている。主演のトリート・ウィリアムズをはじめ、そんなにメジャーではない俳優ばかり集めているのもドキュメンタリー・タッチの作風に合致している。アンジェイ・バートコウィアクのカメラによる、冷たい手ざわりのニューヨークの街の風景、ポール・チハラによる音楽も効果的だ。
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「グランド・ブダペスト・ホテル」

2015-03-23 06:30:03 | 映画の感想(か行)

 (原題:The Grand Budapest Hotel)上映時間が長すぎる。100分という時間だけを聞けば殊更長いようには思えないが(それどころか、昨今のハリウッド製娯楽映画なんかと比べれば短い方だ)、こういうキッチュなエクステリアを持ったシャシンはボロの出ない間にサッと切り上げるのが鉄則。1時間以内にまとめるのが望ましい。不必要にストーリーを盛って尺を長くすると、観る側の視点が物語の側に寄ってしまい、フットワークが重くなる。ましてや筋書きが大して面白くないこの映画では、致命的だ。

 1930年代、東欧の仮想の国ズブロフカにある名門ホテルのコンシェルジュであるグスタヴ・Hは、宿泊客に対するキメ細かなサービス(夜の相手も含める)で評判を博していた。その日もお得意様の一人である老女マダム・Dと一夜を共にするが、間もなく彼女は何者かに殺されてしまう。

 マダムは高価な絵をグスタヴに譲るつもりだったが、彼女の息子ドミトリーはグスタヴに母を殺した罪を着せ、絵を我が物にしようとしていた。グスタヴは絵を奪われないように、ベルボーイのゼロ・ムスタファと共にヨーロッパ中を飛び回ることになる。

 ウェス・アンダーソン監督の作品は初めて観るが、映像センスは噂通りに個性が強い。紙芝居のような舞台背景、書き割りのようなセット、左右対称に拘った構図、こってりとした色使いetc.そんな奥行き感がゼロの画面の中で、登場人物達は大昔のサイレント喜劇のような大仰な身振り手振りで動き回る。そしてオフビートな音楽とシンクロした映像展開が、独自の興趣を呼び込む。

 とにかく観る者の目を奪うようなヴィジュアル的仕掛けが満載なのだが、困ったことに、それだけでは1時間40分も保たせられない。ハッキリ言って、映像ギミックの連続では30分もすれば飽きてくる。やはり話自体に求心力が無いと劇映画としての体を成さないのだ。ならば本作のストーリーはどうかというと、これがどうも心許ない。

 そもそも時制を3つもセッティングする必要があったのか。話がややこしくなるだけで、軽快であるはずの映像リズムも鈍ってしまう。プロットも練られておらず、行き当たりばったりに進むかと思うとヘンなところで意外性を強調していて、シラける場面に何度も遭遇してしまった。観終わっても、カタルシスのカケラも無い。

 主演のレイフ・ファインズをはじめ、F・マーレイ・エイブラハムやエイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー、ハーヴェイ・カイテル、ジュード・ロウ、ビル・マーレイ、エドワード・ノートン、ティルダ・スウィントン等、キャストは凄く豪華だ。この監督の人脈の広さは確認出来るが、ただの“顔見世興行”にしかなっていないのが辛い。要するに“映像が面白ければそれだけで満足”という観客以外には奨められない映画だ。
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「エターナル・サンシャイン」

2015-03-22 06:57:46 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Eternal Sunshine of the Spotless Mind )2004年作品。記憶除去治療などという胡散臭いものをドラマの重要な小道具に持ってくるあたり、さすがは「ヒューマンネイチュア」のミシェル・ゴンドリー監督と脚本家チャーリー・カウフマンのコンビである。ただし、物語自体は古典的な恋愛(失恋)映画のルーティンを堅持しており、その点が万人にアピールする出来になった理由であろう。

 バレンタイン・デーも近いある日、ジョエルは、最近別れたクレメンタインが、自分との記憶を全部消してしまったという、意味のよく分からない手紙を受け取る。どうやら記憶を消すことが出来る“治療法”があるらしく、ジョエルも彼女との日々を忘れようと、記憶除去を専門とする病院に出向く。ところが治療の途中に消したくない彼女との記憶があることに気付き、中止を申し出るが時既に遅かった。翌日、彼は偶然にクレメンタインと出会うが、互いに知らない仲なのに瞬く間に惹かれ合ってしまうのだった。



 失恋から立ち直って新しい人生に踏み出したいという表向きの気持ちと、楽しい思い出に対する執着および“あの時ああしていれば相手を失わずに済んだのに!”という未練とが混じり合う複雑な感情は、誰しも抱いたことがあるはず。映画はその辺を“記憶除去治療を受けている最中の主人公の内面描写”という掟破りの手法で観る側を強引に説得しようとする。

 映画は中盤から目の回りそうな画面展開と大仰なSFX処理の釣瓶打ちになるが、ストーリーの前提がしっかりしているので違和感はなく、主演のジム・キャリーのオーバーアクトもまるで気にならない。正直言ってラストは読めてしまうのだが、このあたりはラヴストーリーの王道路線、分かっていても感心する。後味は良い。

 ヒロイン役のケイト・ウィンスレットは髪を染めて無軌道な娘を熱演。だが、やっぱり彼女には現代劇は似合わない。意外に良かったのがキルスティン・ダンストだ。相変わらず美人とは言えないルックスながら(笑)、今回はノーブラ&Tシャツのサービスショットまで披露し、何より観客にとって感情移入しやすい役だったのがポイントが高かった。
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「アメリカン・スナイパー」

2015-03-21 06:43:34 | 映画の感想(あ行)
 (原題:American Sniper )いかにもクリント・イーストウッド監督らしい、生ぬるい映画である。体裁を整えてはいるが、中身は薄い。何より、同じようなネタを扱ったキャスリン・ビグロー監督の「ハート・ロッカー」(2008年)がオスカー受賞などの結果を残した後に、どうして証文の出し遅れみたいな内容の映画を撮ったのか、理解に苦しむところだ。

 テキサス州で生まれ育ったクリス・カイルは、98年にアメリカ大使館爆破事件をテレビで見て愛国心を刺激され、海軍に志願。特殊部隊ネイビー・シールズの一員となり、私生活では結婚して充実した日々を送っていたはずの彼であったが、2003年にイラク戦争が勃発して戦地へと派遣される。

 カイルは狙撃兵として大きな戦果を挙げ、軍内では“レジェンド”と呼ばれるまでになるが、元オリンピック射撃選手の敵スナイパーとのバトルや、相次ぐ戦友の死によって次第に神経をすり減らしてゆく。そして、戦地から帰国するたびに家族との溝は広がっていくのであった。カイル自身によるベストセラー自伝の映画化である。

 とにかく話にキレもコクも無く、漫然と進んでいくだけであるのには呆れた。主人公が戦地で負った大きな屈託も、妻との確執も、除隊してからの虚脱感も、何も描かれていない。カイルの心は戦争でかなり傷ついたように説明されるが、それが傷痍軍人たちと知り合うようになってからコロッと回復するに至っては、あまりの単純さに脱力するしかない。

 要するに、ただ“こうなりました”という筋書きを紹介しているに過ぎないのだ。「ハート・ロッカー」での主人公のヒリヒリとした神経症的な描写には遠く及ばず、いったい何のための映画化だろう。ならば戦場における活劇的な興趣はあるかというと、それもない。他のアクション派の監督が担当した方がよっぽどマシだった。

 あまり芳しくない監督としてのイーストウッドの仕事において、過去に唯一見応えがあったのが「硫黄島二部作」だが、同じ戦争物で本作とこうも差が付いた理由は、作者にとって中東紛争はまだ“歴史”になっていなかったことが考えられる。現在進行形の事物を前にしては達観したようなことは述べられず、かといって題材をミクロ的に突き詰めるほどの力量もない。結果として極めて及び腰な、要領を得ない出来に終わってしまったということだろう。取って付けたような、気勢のあがらないラストシーンがそれを暗示していた。

 本作の撮影のために体重を18キロも増やした主演のブラッドリー・クーパーをはじめシエナ・ミラー、ルーク・グライムス、カイル・ガルナーといった各キャストの演技は悪くはないとは思うが、映画の出来がこの程度なのでほとんど印象に残らない。
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「ノッティグヒルの恋人」

2015-03-20 06:30:33 | 映画の感想(な行)
 (原題:Notting Hill)99年作品。ラブコメである。当然ながら、完全に私の守備範囲外の映画である(笑)。だから観る気もなかったのであるが、公開当時に嫁御が“観たい”と言うから付き合った次第。結果はトホホな気分で劇場を後にしたのを覚えている(爆)。やはり、好みではないジャンルに安易に手を出すとロクなことにはならない。

 ロンドン西部のノッティング・ヒルで小さな書店を営んでいるウィリアムは、離婚歴のある冴えない男。ある日その店に、思いがけずセレブがやってくる。それはハリウッドのスター女優、アナだった。彼女は本を買って店を出るが、そのすぐ後に飲み物を手にしたウィリアムと街角で衝突してしまう。



 ジュースで汚れたアナの服を何とかしなければと思った彼は、何を考えたのか近くにある自分のアパートに行って服を乾かすという“暴挙”に出る。そんなことが切っ掛けになって二人は良い雰囲気になるが、有名人と一般人とのアバンチュールがそう上手くいくはずもなく、映画はその半年後とそれからの1年後の彼らの多難な恋の行方を追う。

 だいたい、大スターのヒロインがサングラスもかけずに下町を歩いていても周囲が平然としている導入部からしてもうアウトだ。彼女がウィリアムのどこにホレたのか全く分からず、後にアナが巻き込まれるスキャンダルも取って付けたような感じで、御都合主義的な結末に至っては閉口するしかない。

 それでもキャラクターに魅力があれば何とか許せるのだが、これがもう最悪。アナは自己中心的で、周囲に気配りも出来ない女だ。しかも“自分は人一倍苦労した、叩き上げの人間だ”と思い込んでいるのだから始末が悪く、その態度は最後まで変わらない。演じるジュリア・ロバーツの品の無さも相まって、途中から見ていて面倒臭くなってくる。

 ウィリアムも単なるヘタレな野郎であり、アナが憎からず思ったのは少しばかり顔立ちが良かったからとしか思えない。まあ、扮しているヒュー・グラントの持ち味には合致しているのかもしれないが(笑)。

 全体的に恋愛映画としての御膳立てが成されておらず、違和感ばかり残る内容。ロジャー・ミッシェルの演出は平板。良かったのはエルヴィス・コステロが歌うテーマ曲ぐらいだ。脚本のリチャード・カーティスは後に「ラブ・アクチュアリー」という快作をモノにするのだが、この頃はパッとしなかったようである。
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「さいはてにて やさしい香りと待ちながら」

2015-03-19 06:32:52 | 映画の感想(さ行)

 さっぱり面白くない。仕込みも作りも素人臭く、とても映画館でカネ取って見せられるような代物ではない。意味も無く褒め上げている評論家は、いったいどこに目を付けているのやら。とにかく、とっとと忘れてしまいたい作品である。

 奥能登の海辺の寒村に、東京からやってきた女・岬がコーヒー販売店を開業する。彼女はこの土地の出身で、子供の頃に両親が離婚した後に母親に引き取られて地元を離れ、漁師だった父親は数年前に海で行方不明になっていた。岬はこの地に居を構えれば、いつか父親が帰ってくるのではないかと淡い期待を抱いている。

 店の向かいの(開店休業中の)民宿には、シングルマザーの絵里子が幼い子供2人と共に暮らしていたが、絵里子は生活のため金沢まで出向いて風俗まがいの仕事をしているため、留守がちだった。見かねた岬は時折子供たちの相手をするのだが、絵里子は“大きなお世話だ”とばかりに食って掛かる。だが、絵里子と付き合っていた男が狼藉沙汰に及んだことをきっかけに、2人の女の距離は縮まっていく。

 とにかく設定がデタラメだ。岬が開いた店はなぜか当初から繁盛するのだが、その理由が説明されていない。東京ではどういう商売をしていたのか、一切不明。さらには彼女の暮らしぶりには生活感が無い。だいたい、ネット通販で顧客を確保しているはずなのに、パソコンが一回も画面に登場しないのは噴飯ものだ。

 荒んだ生活をしていた絵里子が、いくら交際相手の外道ぶりを再確認したとはいえ簡単に“いい人”になってしまうのにも閉口するが、父親の消息が分かりかけてきた途端に逃げ腰になる岬にも呆れる。

 画面構成は平板で、能登の厳しい自然はほとんど描かれておらず、季節感のまるでない展開には脱力するばかり。それでも出てくるコーヒーが旨そうならば大目に見る点もあったが、まったく言及されていない。客にただ“美味しいね”と言わせるだけというのは、手抜きである。極めつけは、前触れも必然性もなく唐突にやってくるハッピーエンドもどき。観客をバカにしているとしか言いようがない。

 台湾人である監督のチアン・ショウチョンは、かつての巨匠ホウ・シャオシェンに師事したらしいが、残念ながら力量は師匠の足元にも及ばない。いつもは持ち前の演技力でドラマを引っ張っていく岬役の永作博美も、かくも脚本と演出が低調では仕事が出来る余地が無い。村上淳や永瀬正敏、浅田美代子といった脇の面子も手持無沙汰のようだ。

 絵里子に扮しているのは佐々木希だが、相変わらず演技がヘタだ。しかしながら、かなり努力している様子はうかがえるので、あまり嫌いにはなれない。少なくとも、大根のくせに有名女優ヅラしている堀北某や長澤某、榮倉某といった同世代の連中よりはいくらか好感が持てる(笑)。
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「超少女REIKO」

2015-03-18 06:28:27 | 映画の感想(た行)
 91年東宝作品。本作の公開当時は芸能界で“3M”なる言葉がもてはやされていた。当時人気のあったアイドル・タレント3人の頭文字を取ったもので、具体的には宮沢りえと牧瀬里穂、そして観月ありさを指していた。この映画はその観月のデビュー作である。

 文化祭を一週間後に控えた高校で怪現象が頻繁に起こり、学校運営が危機に陥る。生徒会長の緒方をはじめ6人からなる“超常現象研究会”は対策に乗り出すが、相手は強力で手に負えない。彼らのピンチを救ったのがメンバーの一人の玲子で、彼女こそ霊媒師の祖母からサイキック・パワーを受け継いだ超能力少女だったのだ。どうやらこの一件の背後には昔この学校で投身自殺した女生徒の亡霊が関与しているようなのだが、除霊を試みるも失敗。学校は崩壊寸前になり、玲子たちは捨て身の戦いを挑む。



 映画の質としては凡作もいいところだ。学園を舞台にした悪霊とESP研究会の戦いというテーマは使い古されているし、某シナリオ大賞を獲得したとかいう脚本は期待外れだし、SFXは意外とよくやっているが、出演者全員がセリフ棒読みで芝居になっていない。

 でも、製作サイドにとってそんなことはどうでもいいのである。この映画はズバリ観月ありさを観るためだけの作品なのだ(笑)。キャストの中では彼女だけが光っており、出てくると画面に緊張感が走る。監督の大河原孝夫のオタクぶりがそれに拍車をかけ、特に冒頭の登場シーンでの、足元から頭までなめるように移動するカメラワーク、そして長い髪が渦を巻くように風になびくショットなど、苦笑してしまう場面の連続だ。

 ただ、観月ら“3M”も映画俳優としては大成せず(宮沢りえは大女優になったという意見もあるが、そんなのは却下する ^^;)、今ではそこそこのレベルのタレントとして落ち着いてしまったのは、何とも不本意である。やはり3人だけではムーヴメントを起こすには力不足。日本の若手女優陣が注目され始めるのは、頭数が揃った2000年代以降まで待たなければならなかったようだ。
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