元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

“身を切る改革”は無意味である。

2023-03-10 06:04:35 | 時事ネタ
 去る2023年1月に、立憲民主党と日本維新の会は共同して“行政改革・身を切る改革プロジェクトチーム”を立ち上げ、2月には国会内で会合が開かれた。このチームの設立趣旨は、増税に積極的になっている現政権に対し“その前に身を切る改革や行政改革を実行せよ!”と迫ろうというものだ。

 このニュースを聞いた時、私は何とも言えない違和感を抱いた。当初から“身を切る改革”を党是として掲げている維新の会はともかく、立憲民主党はホームページに“「小さな政府」「身を切る改革」が必要以上に進んだため国民の生活に負の影響が出ています。安易な人員・経費の合理化による住民サービスの切り捨てではなく、国民の命と暮らしを守り抜き、ベーシック・サービスを充実させます”と公言しているのだ。いつから変節してしまったのか。

 とはいえ、立憲民主党が斯様な無節操ぶりを展開している理由は想像できる。それは、当の国民が“身を切る改革”というスローガンが大好きだからだ。政策を有権者の趣味嗜好に合わせるのは、票を獲得する上では不可欠。マーケティング(?)としては的確である(まあ、別の言葉でポピュリズムとも言うが)。

 この“身を切る改革”というのは決して国民の利益には繋がらない。それどころか有害だ。行政改革というのはつまり、公務員の数を減らしてスリム化を図り、費用を削ろうというものである。それが実行されると、当然のことながら行政サービスは低下する。たとえば住民からの各種申請は受付が滞りがちになり、ハローワークの業務も阻害されて求職者は困ってしまう。

 “そんなものは業務効率化で乗り切ればいい!”という意見もあるだろうが、あいにく合理化のためのシステム導入にも多大な費用が必要なのだ。ましてや役所では非正規職員が多くなった昨今、業務に対するモチベーションは期待できない。さらには人口当たりの人員数が先進国中で下位レベルにある警察官や自衛官を減らすなどもってのほかだ。

 また“身を切る改革”を主張する者の言い分として代表的なものに“議員の数が多すぎる。減らせ!”とか“議員歳費は徹底的に削減せよ!”といったものがあるが、ナンセンスの極みだろう。我が国の人口当たりの国会議員数はかなり少ない(国際平均よりも下。アメリカに比べれば幾分多い程度)。また、議員歳費合計は年156億円ほどだ。国家予算が110兆円を超えるのに、たかだか156億円程度の支出に青筋立てて一体何をしたいのだろうか。

 断っておくが、私は何も“公費の無駄遣いを放置せよ”などと言ってるのではない。不合理な支出は減らすのは当然だ。しかし、それはあくまで綱紀粛正やコンプライアンス(あるいはそれに準じたもの)の範疇で取り扱うべきもので、少なくとも増税とのトレードオフにするようなものでは断じてない。そもそも“身を切る改革”を前面に掲げている政党の構成員が、給与を返上したとか、政党助成金の支給を断ったりとかいう話は聞いたことが無いのだ。

 では、どうしてこの“身を切る改革”に賛同する国民が多いのか。経済に対する知見が不足していることはもちろんだが、日本人の国民性のマイナス面によるところが大きいと思う。それは悪しき平等主義、及びそれに付随する妬み嫉みの類だ。加えて“ぜいたくは敵だ!”とか“上見て暮らすな、下見て暮らせ”とかいった、いわゆる貧乏臭さが追い打ちをかける。つまりは“政治家や公務員は身を切る改革を実行して貧乏になり、国民は増税で貧乏になる。だから平等で良いじゃないか”という、敗北主義に陥っているわけだ。

 しかしながら、敗北主義にひた走っている状況を“国民性だから仕方がないね”で済ませてしまえば、日本は衰退する一方だ。さらに政治家がそれに迎合して“身を切る改革”とやらを打ち出せば事態は悪化するばかり。国民の低次元の同質性意識を跳ね返すには、経済を右肩上がりに成長させていくしかない。そうすればルサンチマンは解消されていく。

 さて、政権の支持率が低迷している状態にあっても、それを活かせない野党の非力さが指摘されている昨今、必要なのは真に国益に適う政策だろう。早い話が(1)経済成長を実現すること(2)某教団の息のかかった者を国会から放逐すること、この2点を主要政策として本気で打ち出せば政権交代も夢ではないと考える。敗北主義がもたらす劣情に阿諛追従して“身を切る改革”なんぞに拘泥している限り、永遠に道は開けない。
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理不尽な校則が現存していることに驚いた。

2023-02-03 06:23:15 | 時事ネタ
 去る1月29日の毎日新聞に、鹿児島市の公立高校では男子生徒の防寒着に制限を設けていることが、同新聞の情報公開請求で判明したという記事が掲載された。何でも“オーバー・ジャンバーコート等の着用は認めない。ただし、生徒指導部の異装許可がある場合はこの限りではない”という内容らしく、要するに学校当局の許可がなければ、どんなに寒くてもコート類は着用禁止ということだ。

 この記事を読んで私は驚いた。前にも一度書いたことがあったが、私は福岡県出身で今でも福岡県に住んでいるが、親が転勤族だったので幼少時から各地を転々としていた。高校時代はちょうど鹿児島県に在住で、そのまま同県内の高校を卒業している。断っておくが、通っていたのはラ・サールみたいな超進学校でも鹿児島実業みたいなガテン系(?)でもなく、この記事で取り上げられているような公立の普通校だ(笑)。

 私が在籍していたその高校は、とにかく校則が多かった。そして例によって、不合理な“ブラック校則”のオンパレードだ。もちろん、男子は真冬でもコート類の着用は禁止。それどころかワイシャツと上着の間にカーディガンやセーター類を着込むことも禁じられていた。なお、拙ブログの読者諸氏諸嬢の中には“鹿児島って本土の最南端だから冬でもそんなに寒くならないのでは”と思う向きもあるかもしれないが、いくら“南国”でも冬場はかなり冷えるし、年に1,2回はしっかり雪も積もる。

 今はオッサンである私が高校に通っていた時期というのは、当然“かなり昔”である。あれから長い時間が経過しているので、さすがにヤバい校則は淘汰されていると思っていたのだが、今回の報道に接して事態はほとんど変わっていないことを知り、愕然とした次第だ。

 くだんの記事によれば、新聞社が校則で男子生徒のコートなどの着用を制限する理由を学校側に問いただすと、何と教頭は“昔からある校則なので、目的は分からない”と答えたという。確たる理由もなく“昔からそうだから”という既成事実によりアホな校則が漫然と長期間存続しているとは、改めて学校現場の閉鎖性・硬直性を思い知らされる。

 たぶん斯様な状況は鹿児島県に限らず、全国規模で散見されるのだろう。ダイバーシティ教育の必要性が叫ばれる昨今、当の学校では前時代的な慣習が罷り通っている。これでは国力が低下する一方だ。また、理不尽な校則を“社会に出てからの苦労に備えるための予行演習”といった謎な理由で肯定する保護者もいるらしい。その予行演習とやらのために、生徒の人権や健康が損なわれても構わないという考え方は、倒錯的と言わざるを得ない。

 余談だが、私が昔通っていた高校では女子だけ学校指定のコートを着ることが認められていた。今回の記事によると、そういう仕切りは現在でも続いているという。その件についても学校側は“昔からそうなので仕方がない”と答えるのだと思うが、さらに問い詰めれば“鹿児島のオナゴは学校を卒業するとすぐに結婚して子供をたくさん産まなければならないから、身体を冷やさないための措置だ”というトンデモな“本音”が返ってくるかもしれない。実際、私の出身校の生活指導担当教師は真面目な顔でそう言っていた。
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バブル時代の思い出。

2021-08-08 06:57:27 | 時事ネタ
 最近、テレビをつけても大して面白い番組はやっていないので、定額制配信サービスによる映画やYouTubeなどのネット動画をテレビで見ることが多くなった。その中で、とても印象的だったプログラムがある。それは、80年代後半の、いわゆるバブル時代にオンエアされていたTVCMを集めたものだ。

 いずれもカネがかかっており、有名タレントを惜しげもなく投入。見ているだけで何だかリッチな気分になってくる(笑)。特に某清涼飲料メーカーのCMシリーズには感動すら覚えてしまった。

 そのCMには有名芸能人は出てこない。市井の人々や、一般人に扮したモデルと思しき若い男女だけだ。しかし、その映像(および音楽)が醸し出す高揚感はただものではない。とにかく、皆幸せそうな顔をして人生を楽しんでいるように見える。一般人とはいっても、身なりはキチンとしており、ファストファッションに身を包んだ者など一人もいない。デフレ下の現在から見れば別世界だ。

 バブル景気の時期は、私はただの若造だった。バブルの恩恵は我が家には及んでいないようで、父親の給料が大きく上がることは無かった。しかも地方暮らしだったので、テレビで見かけるような金廻りのよさそうな連中とは、まるで縁がなかった。そして内心では“こいつら、浮かれやがって”という苦々しい思いが渦巻いていたのである(笑)。

 しかし今から考えると、そんなルサンチマンは的外れであったことが分かる。あの頃だって、誰しも困ったことの一つや二つ抱えていたはずだ。私も、当時は学業面や仕事面では愉快ならざる状況に陥ったことがある。それでも胸の内では“まあ、何とかなるんじゃないか”と楽観的に構えていて、世の中全体もそういう雰囲気だった。そして実際、何とかなっていたのである。

 バブルの恩恵を受けなかった者など、存在しなかったのではないかと思う。たとえ収入が大幅アップしなくても、海外旅行や大型レジャーを楽しんでいなくても、世の中全体が“何とかなる。見通しは明るい”という前向きなトレンドに振れていれば、捨て鉢な気分になる者などあまりいなかったはずだ。

 対して現在は、バブル崩壊から約30年も経つのに相変わらず景気は悪いままだ。加えて昨今のコロナ禍においては、各国が積極的な経済対策をおこない景気を支えているにも関わらず、日本だけが遅れを取っている。

 経済面で無策な自公政権が今も続いているのは、もちろん“低い投票率(組織票の効果)”に支えられていることもあるが、出口の見えない低迷状態により国民の間に“諦め”の空気が充満してしまったのも事実だろう。しかも、40歳以下の若年層は“景気が良いときの日本”を知らない。現在の暗鬱な状態が“普通”だと思っている。それに追い打ちをかけるように“日本は人口減少と衰退を引き受けるべきであり、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい”という意味の極論を展開する識者もいる始末だ。

 とにかく、バブル経済自体には何かと批判もあったようだが、バブルだろうが何だろうが、好景気の方が不況より良いに決まっている。景気が良くなれば、社会問題の大半は解決したも同じなのだ。

 その意味でも、次の選挙では積極財政を提唱する候補者を支持したい。財政均衡主義や構造改革優先などという妄言を並べる者は、お呼びではない。そしていつの日か、くだんのバブル期のCMで描かれた世界のように、皆が笑って暮らせる世の中が到来すればいいと思う。
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“体育会系”という名の理不尽(その3)。

2021-04-16 06:21:17 | 時事ネタ
 予定通りだと、前年から延期された東京オリンピックが2021年7月23日から開催される。続くパラリンピックは8月24日からだ。さて、この大会の開催の是非について、いまだに世論は分かれている。早い話、さらなる延期を希望する層も含めて、2021年に開催すべきではないとする意見が、各種アンケート結果では全体の過半数を占めている。

 個人的には、開催すべきではないと考える。コロナ禍が収束する見通しがつかず、さらに夏期は熱中症などに医療現場は取り組む必要があるのに、この上オリンピック関係者の対応まで要求されると、リソースが枯渇するのは目に見えている。さらには新たな変異株が流入してくる可能性もあり、国民の健康と安全を考えると中止以外の選択肢はあり得ないように見える。

 ただ、そんな中にあっても開催を望む者たちは少なからず存在する。その理由としては“経済的効果が見込めるから”という意見が最も多いようだが、経済的側面は要するに“金目の話”なので、ある程度は予測できる。問題なのは“オリンピックで日本国民が元気をもらえる”とか“困難に立ち向かう精神的土台が形成される”とか、はたまた“グローバル社会融和のシンボルになる”とかいった、理想論や心情論により開催を希望している向きである。その割合についてはハッキリとした数字は分からないが、経済的効果を想定している層に次ぐパーセンテージを占めていると思われる。

 この“心情的開催希望派”とも言うべき者たちの意見が際立って特徴的なのは、何ら具体的な根拠が無いことだ。開催反対派は主にコロナ禍という“現実”を見据えているのであり、経済的効果を期待して開催に賛成している層の興味の対象はリアルな“金目の話”である。対して“心情的開催希望派”には論理も何もない。単なるセンチメンタリズムや根性論みたいな抽象的なものに突き動かされているに過ぎない。

 スポーツ、特にアマチュアのそれにはあまり関心の無い私からすれば、単なる大規模体育大会にすぎないオリンピックに“元気をもらえる”だの“精神的土台”だのと、何をそんな御大層なものを求めているのだろうかと思ってしまう。この思考パターンは、理屈が通用せず、何でも根性で乗り切ろうとする“体育会系”そのものではないか。

 そもそもIOCがオリンピズムを完全無視したような“金儲けの組織”であることが判明した現在、オリンピックを根性でやりきれば平和と連帯と元気と精神的土台が形成されるといった“体育会系”みたいなテーゼを信じること自体、ナンセンスであると思う。
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“経済を回す”というスローガンの誤解。

2021-01-22 06:28:06 | 時事ネタ
 昨今のコロナ禍においてよく議論されるのが“経済活動と感染防止、どちらを優先すべきか”ということだ。しかし、この二者択一はナンセンスである。経済活動も感染防止も重要なことで、どちらも推進しなければならない。一方を優先するために、もう一方を軽視するようなことは、断じてあってはならないのだ。

 さて、良く聞かれる“(コロナ禍においても)経済を回す”というフレーズが、この“経済活動と感染防止とのトレードオフ”という範疇での物言いでしかないことに、強い危惧を覚える。つまり“経済を回せ”と言い募る識者たちが想定している着地点とは、感染防止との兼ね合いで達成した上での経済成長率のことなのだ。これは、明らかな欺瞞である。

 そもそも、コロナ禍が発生する前の時点でも、日本経済は壊滅的な状態だったのだ。2019年の10月から12月期の実質GDP成長率は、前期比年率7.1%ものマイナス。言うまでもなく、これは消費増税に伴う駆け込み需要の反動減および負の所得効果に求めらる。この低迷状態から、2020年からはコロナ禍によりさらに厳しくなった。

 だから、現時点でいくら“経済を回そう!”と主張したところで、想定される経済政策(自粛要請の緩和、およびGOTOキャンペーンや五輪開催などによる特需)が最大限効果を発揮したとしても、到達するのはコロナ禍直前の状況でしかない。つまりは消費増税後の不景気な構図が再現されるだけだ。

 しかも、それら経済政策が100%有効に機能することは無い。なぜなら、自粛要請を早期に取り止められるほどコロナ禍が直ちに収束するとは考えにくいし、GOTOキャンペーンの再開もそれだけ遅くなるからだ。オリンピックに至っては開催自体も危ない。百歩譲って今後コロナ禍が幾分収まって五輪も開けたとしても、パンデミックの可能性がゼロにならない限り、経済活動はコロナ禍以前の状態には戻らない。

 本気で“経済を回そう”と考えるのならば、経済を回すに足る財政を投入することを提案すべきなのだ。コロナ禍における日本の経済マクロの損失額は、内閣府が2020年夏に発表した数字では今年度は約40兆円になっている。さらに第三波が始まってからはこの損害額は積み上がることが予想される。

 2019年末でのGDPの低迷に加え、コロナ禍による40兆円以上の損失。“経済を回す”というのは、これらをリカバリーさせる額の有効需要を作り出すことだ。だから100兆円単位での財政支出が必須条件である。ちなみに、GOTOキャンペーンの予算規模は約1兆6千億円。これで“経済を回そう”などと言うのは、まるで笑い話だ。

 経済ネタの議論に必要なのは“数字”である。具体的な“数字”を抜きにして“経済を回そう”というスローガンを連呼することは、百害あって一利無しである。
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“体育会系”という名の理不尽(その2)。

2019-08-09 06:31:28 | 時事ネタ
 タイトルに“その2”とあるが、ならば“その1”はどこにあるのかというと、2016年の11月である(大笑)。およそ3年ぶりの“続編”のアッブということで、我ながら節操が無いが、とりあえず御容赦願いたい。

 先日、私の親戚筋(仮に、A氏としておく)が勤めている会社に取引先の幹部が来社し、新しく担当になった入社3年目の男性若手社員を紹介したとか。一通り打ち合わせを終えた後、A氏は彼に“出身校はどこ?”と聞いてみたらしい。すると相手は“○○大学です”と答えたが、A氏は驚きを隠せなかったとか。なぜなら、その取引先は歴史も実績もある東証一部上場の有名企業で、彼が卒業した大学はどう考えてもそんな会社が受け入れそうもない“非・有名大学”だったからだ。

 A氏は彼に入社できた経緯を尋ねてみると“僕は学生時代は野球部のレギュラー選手だったんですよ。で、この会社の本社のお偉いさんも若い頃に野球をやっていて、しかも同じポジション。話が盛り上がっているうちに、いつの間にか採用決定です。あははは”とのこと。ついでにA氏は彼に専攻を聞いてみたら“グローバルコミュニケーション何とかカントカ学部”とのことで、一体どういう講義内容なのかと尋ねたら“全然分かりません。何しろ、授業中はずっと寝てましたから。あははは”と答えたらしい。

 それでもA氏は“この業務をやるからには、世界情勢やマクロ経済に精通していなければならないが、それは大丈夫なのか”と尋ねると“何だか難しそうですけど、これから勉強です。あ、でも体力には自信がありますから、残業続きでも平気です。あははは”との返答。ちなみに、彼は入社10年以上の(高スキルの)女子社員より遙かに高い給料を貰っているらしい。

 もちろん、いくら無名大学卒で“スポーツ枠”での入社でも、優秀な人材に育つことは十分ありうることだが、学生時代に完全に学業を疎かにしていたことを堂々と吹聴するような人間が、仕事ができるとは考えられない。実を言えば、過去に私も似たようなケースに遭遇したことがある。相手は某大手企業の管理職だったが、いわゆる“スポーツ名門校”出身で、とにかく気合と根性で業務に当たることを部下に推奨(強要?)しているようなタイプだった。

 働き方改革に伴う雇用環境改善や機会均等、同一労働同一賃金などが取り沙汰されている昨今、いまだにあからさまな体育会系優先や男女差別がまかり通っている事例(それも有名企業で)が存在することは、憂慮すべき事態だ。

 さて、このアーティクルを作成している時点で甲子園球場では全国高校野球大会が開催されている。大会が始まる前(そして、始まってからも)話題になっていたのは、ある有力校が地方予選決勝においてエースを登板させなかったことで敗退したことだ。アマチュアスポーツにあまり関心の無い私が言うのも何だが、これは別に議論になるようなネタではない。日頃選手を間近で見てきた監督が登板を見合わせただけの話で、部外者がガタガタ言う筋合いなど、微塵も無いのだ(注:これがもし、無理に登板させて故障したというのならば、話は別だろう)。

 ところが、今回この“どうでもいい話”が大騒動に発展してしまった。この構図が、アマチュアスポーツ界を取り巻く歪な状況を物語っている。特に悩ましいのが、この決定を下した件の監督を非難し、“腕が折れても投げさせるべきだ”と言わんばかりの極論を展開する者たちだ。某テレビ番組のコメンテーターである元有名プロ野球選手の物言いなどがその典型で、彼は“ケガが怖かったら、スポーツなんかやめろ”とまで断定している。

 さらに、この高校に苦情の電話を入れた者が多数いたそうだが、呆れた話だ。たかが高校生の野球に何を熱くなっているのか。

 まあ、結局それは“甲子園”に代表される感動ポルノと言うべき“美談”や“根性論”に浸りたい者が少なくないということだろう。選手が炎天下にハードなプレイを強いられ、それを観客が日陰のほとんどないスタンドで難行苦行のごとく見つめるという、倒錯した状況が正当化されている。母校の名誉だの郷土の期待だのといった御題目が最優先され、行きつく先は勝利至上主義の指導者による“盲目的な忠誠心を持つ選手”の大量生産だ。

 ビジネス現場に依然残る“体育会系なるもの”の存在理由というのも、なんとなく分かる。つまり、感動ポルノを共有し、御題目の為ならば疑問を抱かず粉骨砕身で取り組んで当然という価値観を持つ体育会系の者たちは、ある意味“使える”からだ。そして“体育会系なるもの”を温存していることこそ、ブラック企業の成立要因の一つになる。

 別に、この状況を打破するために何をすべきだとか、そういうことを言うつもりはない。“体育会系なるもの”は一種の宗教なので、当事者達に改心させるのはほぼ不可能だ。我々に出来ることは、“体育会系なるもの”に近付かないことだろう。ちなみに、親戚筋のA氏はその“体育会系優先の企業”とは距離を置くことを決めたそうだ。
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民主主義を破壊しているのは、野党である。

2019-05-31 06:28:50 | 時事ネタ
 昨年(2018年)いわゆる“モリカケ問題”が勃発し、安倍政権は批判を受けた。そして今年には厚生労働省の統計不正があった。また閣僚の失言や強行採決も相次いでいる。普通に考えれば現政権の支持率は下降してもおかしくない状況だが、実際にはそうならない。それどころか、安倍総裁4選に向けて盤石の体制が整いつつある。その理由は何かといえば、早い話が野党がだらしがないからだ。

 現政権の前は民主党が政権を担っていたのだが、これがまた評判が悪かった。もちろん、東日本大震災やリーマンショックが起きたことは不運だったが、それにもまして民主党政権が世間から見放された大きな要因は、勝手に消費税率アップを決めてしまったことだろう。

 リーマンショックなどで経済マクロが低迷している中で、あえて増税を決定したというのは、正気の沙汰とは思えない。しかも、当時の菅直人首相は党内で十分吟味することも無く、独裁的に断行してしまった。続く野田首相はまるで財務省のスポークスマンのような言動に終始した挙句、無謀な衆議院解散に打って出て“自爆”する始末。

 斯様に前政権が低レベルであれば、いくら今の政権がゴーマンに振る舞おうとも、国民の間では“それでも、民主党政権よりはマシだ”という認識が定着してしまったのは当然のことだ。

 加えて、安倍政権はアベノミクスなる経済政策を打ち出している。その内容は(特に数値の面からは)まるで物足りないシロモノではあるのだが、とにかく“経済政策を実施してきた”という体裁は整えている。何の経済政策も実行せず、それどころか経済政策の重要性さえ理解していなかったような民主党政権とは、その点でも違う。

 要するに、現政権の高支持率は、ひとえに“低劣だった民主党政権との比較”によって成り立っているようなものだ。もしも野党に政権交代するようなことがあれば、あるいは安倍首相と意見を異にする自民党内の別の者が政権の座に就けば、現状より悪くなるのではないかという懸念が横溢しているのであろう。

 ただし、このまま安倍政権が続けば経済状態は(ゆるやかに下降することはあっても)急激に悪化することは無いのかもしれないが、良くなることは決してない。したがって、少子化問題も所得格差も貧困問題もブラック企業の跳梁跋扈も解決しない。座して死を待つばかりである。

 残念ながら、現政権によるこうした“薄甘い低迷トレンド”を阻止する勢力は存在しない。あれから民主党は分裂したが、いずれの政党も旧民主党と似たような経済政策を踏襲している。つまり、財政の健全化という空疎なスローガンの連呼だ。だから“当面、消費税率は8%に据え置くべきだ”とは言うのかもしれないが、どのようにして経済を立て直してゆくのか、そのヴィジョンを提示出来ない。

 もしも安倍政権が“消費税率アップの延期”を公約に掲げて衆参ダブル選挙に打って出たら、野党に勝ち目は無い。それに対抗するには“増税延期など生ぬるい! 景気が完全に回復するまで消費税は廃止する!”ぐらいのことを言うべきだが、経済オンチばかりの無能な野党にはそんな度胸も無い。

 時として政権与党が暴走するのは、まあよくあることだ。しかしそれを牽制するはずの野党が、国民生活を無視した空理空論ばかりに終始していては、事態は好転しない。民主政治というものは国民の利益を最優先させるシステムであるはずだ。そのことを自覚しないまま“ただ政権与党を批判していれば良い”と言わんばかりの野党の態度は、まさに民主主義を貶めるものだ。

 昨今MMT(現代貨幣理論)と呼ばれる米国生まれの新しいセオリーが話題になっているが、概要を見る限りでは真っ当な考え方だと思える。野党の連中はMMTの文献を熟読して自らのスタンスを顧みて欲しいものだが、まるで55年体制の再現みたいな構図で満足しているような者達には、無理な注文だろう。
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“体育会系”という名の理不尽。

2016-11-18 06:34:32 | 時事ネタ
 2015年12月に自ら命を絶った電通の若手女子社員の労災認定が、2016年9月末に下りた。この件に関してはマスコミはもちろんネット上でもいろいろな意見が提示されているので、改めて私がコメントする必要も無いとは思うが、この大手広告会社も持ち合わせてるらしい“体育会系の企業体質”について、自身の体験を交えて述べてみたい。

 大昔、私が大学4年生になったばかりの頃、就職課が主催して有名企業に勤めている卒業生を招いての意見交換会が何度か行われた。当然私も参加したのだが、その中で強く印象に残ったのは、名の知られた旅行会社に勤務しているOBの講演であった。

 彼は居合わせた学生達に、こういう質問をした。

“海外で団体旅行の添乗員が、もしも急病や思わぬケガに見舞われて業務が続行不可能になった場合、どう対処したらいいと思うか”

 学生側は“現地の支店・営業所に連絡して、代役を立ててもらう”とか“まずは本社の指示を仰ぐ”とか“日本大使館や領事館に助けを求める”とかいった、まあ妥当と思われる答えを返したのだが、そのOBは“すべて違う!”と言ってのけた。さらに彼は大真面目でこう述べたのだ。

“添乗員が勤務中に病気になったり、ケガすることはあり得ない。もしもそういう奴がいるとしたら、それは根性が足りないのだ”

 その時、学生はもとより就職課のスタッフ達も目が点になったことは言うまでも無い。彼の物言いが質問に対する回答になっていないことはもちろんだが、とにかく業務上の危機管理もへったくれもなく、“根性があれば何とかなる”といった精神論で全てを押し切ろうという、その姿勢には違和感しか覚えなかった。もちろん私は、そんな企業に入社しようという気は完全に失せた。

 聞けばそのOBは、在学中は某体育部のキャプテンだったらしい。学力うんぬんよりも、クラブ活動で培った体力と目上の者に対する(盲目的な)忠誠心により就職戦線を勝ち抜いたと豪語していた。正直、私はこの“体育会系のノリ”というやつが苦手である。個人的にスポーツが不得意だったというのもあるが(笑)、何より“無理が通れば道理が引っ込む”ということわざを地で行くような、非合理的な方法論が罷り通る世界とは、出来るだけ距離を置きたいと思っているのだ。

 幸い、私が選んだ就職先は“体育会系の企業”ではなかったのだが(ただし、部署によっては体育会系の雰囲気のところもあるようだが ^^;)、もしも道理よりも体育会系ゴリ押しが優先するような職場に身を置いていたならば、長くは続かなかっただろう。

 さて、報道をチェックする限り、電通というのは“体育会系の企業”そのものであるようだ。どんなに理不尽なことを強要されても、上司・先輩や取引先の命令には絶対に逆らえないらしい。まあ、電通に限らず、この業界は多かれ少なかれそんなものだろう(私も昔、広告会社をいくつか訪問してみてその尋常ならざる雰囲気だけは感じ取れたものだ)。

 はっきり言って、体育会系のノリに徹している企業に明るい未来があるとは思えない。体力だけで勝負していては効果的なイノベーションは望めず、早々に行き詰まってしまうだろう。電通はたまたま昔からの、業界大手としての既成の“利権”がモノを言って現在の地位を維持しているだけだ。今後も発展し続けていくかどうかは疑問である。少なくとも、従来通りの仕事の進め方をしている限り、小手先的な対策で残業時間を規制したぐらいでは事態は好転しないだろう。また犠牲者が出ることは想像に難くない。

 余談だが、くだんのOBが勤めていた会社は、後年別の企業に吸収されて“単なる子会社”に成り果てている。彼がどうなったか、当方の知るところではない。
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民主党は馬鹿の集まりか?

2016-02-23 19:38:35 | 時事ネタ
 去る2月17日、民主党の幹事長の枝野幸男は“消費税率の10%への引き上げについて、軽減税率が導入された場合や衆議院議員の定数削減が実施されない場合には反対する”という考えを示したらしい。また“消費税率の引き上げ前には低所得者対策を十分に行う、それから社会保障の充実、定数削減をセットで行うべきである”とも述べたとか。

 正直、馬鹿としか言いようがない。だいたい、議員の定数削減が消費税率の引き上げ反対の“取引材料”になるほど大それたものだと思っていること自体が噴飯ものだ。じゃあ、議員定数の削減や軽減税率の見送りが実行されれば、民主党は嬉々として消費税率アップに賛同するとでもいうのだろうか(呆)。

 2014年12月の前回総選挙の際の世論調査でも明らかなように、国民が政治に最も期待しているのは景気対策である。議員の定数削減なんかではない。ましてや、昨年(2015年)一時的に盛り上がったような安保法制の是非なんか、多くの国民にとっては“どうでもいい話”なのだ。あくまで大事なのは“目先の金”や“日々の生活”のことである。

 安倍政権は盛んに経済政策での実績をアピールしているようだが、最近の世論調査では常に7割もの人が“景気回復を実感していない”と答えている。ならば、野党第一党としてはこの国民の痛切な思いを汲んで、現政権よりも効果的な景気対策案を打ち出すべきではないのか。低所得者対策や社会保障の充実なんてのは、経済マクロの回復を前提に議論する話であり、それらを先行して論っても“木を見て森を見ない”ような結果にしかならない。

 それにしても、当の枝野が“金利を上げれば景気が良くなる”などという妄言を堂々と披露していることに代表されるように、民主党の連中はことごとく経済音痴である。元首相の野田佳彦に至っては“確実な消費税率アップを求める。今上げなければ、ずっと上げられない。財政の危機は深刻だ”などと、頭がおかしいとしか思えないような寝言を披露する始末だ。

 もちろん、今の安倍政権の経済政策は全然十分なものではないが、民主党の政治家は(代表の岡田克也を筆頭に)経済政策そのものの重要性さえ理解していない。現政権が今でも高い支持率をキープしているのは、曲がりなりにも経済政策(のようなもの)を実行しているからであり、国民は経済政策の何たるかを全然分かっていない野党側に政治を任せるよりも数段マシだと見切っているからだろう。

 民主党が本当に国民生活のことを考えているのならば、議員の定数削減みたいな小ネタを振るのではなく、堂々と“消費税率アップは日本経済に悪影響を及ぼすから、絶対に認められない。それどころか景気が回復するまで5%に戻すべきだ”とか何とか主張しなければならない。

 今のままでは、もしも次の参院選の際に現政権が“消費税率アップをまた延期する”という公約を掲げて衆参ダブル選挙を仕掛けてきた場合、民主党は壊滅的な打撃を受けるだろう(解党もあり得るかもしれない)。まあ、経済のことを知らない馬鹿の集まりが政界から消えるのは良いことだが、与党を監視すべき立場にある野党の第一党が極端に弱体化するのは国民にとって選択肢が無くなることを意味しており、望ましい話ではないだろう。

 いずれにしても、今の日本に国民生活のことを第一義的に考え、なおかつヨソの国の走狗でもない真の意味での保守政党が存在していないことは、実に不幸なことだと思う。
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“ポエム”という名のカルト宗教。

2014-01-17 06:37:07 | 時事ネタ
 去る1月14日(火)に放映されたNHKの「クローズアップ現代」は実に興味深かった。タイトルは「あふれる“ポエム”?! 不透明な社会を覆うやさしいコトバ」というもので、実態をひた隠しにして口当たりの良い謳い文句で誤魔化そうとする“ポエム化”なる風潮を切ってみせる内容である。なお出演者は司会の国谷裕子のほか、コメンテーターとして大学教員の阿部真大(社会学)とコラムニストの小田嶋隆が顔を揃えていた。

 番組はまず、熊本県人吉市が制定した条例について紹介する。その名は「子どもたちのポケットに夢がいっぱい、そんな笑顔を忘れない古都人吉応援団条例」という気色悪いものだが、内実は“ふるさと納税をよろしくお願いしまーす”という勧誘スローガンに過ぎない。人吉市では極度に老朽化した市庁舎も建て直せないほど財政が逼迫しているという。ならば率直にその旨を訴えてふるさと納税をPRすればいいのに、無駄に“子どもたち”だの“笑顔”だのといったフレーズをくっつけてイメージ戦略を打ち出そうとしている。その考えが浅ましい。

 次に、千葉県習志野市で、震災後マンション開発業者から“売れ行きに支障が出る”とかいう陳情が出たため、地名を昔からある“谷津”から“奏(かなで)の杜”に変更したことが取り上げられていた。この“谷津”という地名は文字通り地勢を示すものでそれ自体に立派な意味があるのだが、それを民間業者の損得勘定によって簡単にポエティックな名称に変えてしまう市当局の無節操さが浮き彫りにされる。

 だが、以上二つのポイントは単なる“ダメな自治体に対する批判”に過ぎず、殊更強く興味を抱かせるようなものではない。本番組のハイライトは、この後だ。

 某NPOが主催する居酒屋甲子園という全国規模のイベントがある。2006年から始まり、年一回開かれているらしい。毎回5,000人規模の集客があるという、けっこう大きな催し物だ。この居酒屋甲子園という名称を聞けば、誰だって“ああ、全国の居酒屋が自慢のメニューを出し合い、一番美味しい店を観客の投票で決めるといった大会なのだな”と思うだろう。ところが実態はまるで違う。

 全国から選抜された居酒屋のスタッフが、ステージで自店への想いや取組みを発表するというのがこのイベントの“中身”なのだ。ならばよくある(QC大会みたいな)業務改善のプレゼンテーションの場なのかというと、それとも全く異なる。若い店員達が舞台に上がり、いかに自分たちが居酒屋で働くことによって幸せになれたか、いかに居酒屋で掛け替えのない“仲間”を得られたか、そういうことを絶叫パフォーマンスと共に延々と訴えるのだ。

 テレビ画面に映し出される彼らの表情は陶酔感で溢れ、涙を流す者も大勢いる。“居酒屋から日本を元気にする”とかいう意味不明のスローガンを盲信したかのように、ひたすら前向きでポエティックなフレーズ繰り返す。その有様は、まるでカルト宗教だ。

 ならばその大会で優勝した居酒屋の実状はどういうものかというと、実にお寒い限り。従業員は毎日大声で内容空疎なシュプレヒコールをブチあげると、激務で疲れ果てた身体に鞭打って、夜遅くまで働く。二十歳代後半の店長は目の下に隈を作りながら、極度に長い労働時間(一日16時間にも及ぶこともある)をこなしているという。おそらく、休みはほとんどないだろう。それでいながら、彼の年収は大手企業の新入社員にも及ばないのだ。

 しかし、そんな彼らには絶望の影はなく、それどころか毎月給与明細に同封される上司からの自筆の“激励の手紙”を読んで素直に喜んでいる。なお、この居酒屋チェーンではこの“ポエムなカリキュラム”を導入することにより離職率を押さえ込むことに成功したという。

 何のことはない、これはポエムを隠れ蓑にしたブラック企業である。コメンテーターの指摘の通り、ブラック企業が強要する“同調”は“連帯”とは違い、排除と表裏なのだ。ただ、そんな劣悪な職場環境においてもポエティックなスローガンを前面に掲げられれば“やり甲斐”(らしきもの)を感じてしまう若者達が哀れだ。彼らがいくら“やり甲斐”を持とうが、こんな企業はそれに報いることはない。

 いわゆる“振り込め詐欺”が手を変え品を変え、一般ピープルのなけなしの金を虎視眈々と狙っているように、ブラック企業も強制一辺倒から今回のような“ポエム作戦”に装いを変えて、従業員の労働力を買い叩こうとしているのだろう。そして当然の事ながら、ブラック企業がはびこる状況を作り出した景気の悪さが背後にはある。

 口当たりの良い“ポエム”な言葉の氾濫の裏にある深刻な現実。カルト化するブラック企業の労務管理。世の中の風潮にケンカを売ったような、本当に見応えのある内容だった。この番組は毎回見ているわけではなく、月に2,3回チャンネルを合わせる程度だが、偶然こういうヴォルテージの高い回に当たったことはラッキーだったと思う。

 それにしても、ポエティックな名の条例のことを取材され、当然番組の中では好意的な扱いを受けるだろうと思い込んでいた人吉市役所の面々は、今頃顔色を無くしていることだろう(爆)。
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