元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マンチェスター・バイ・ザ・シー」

2017-05-29 06:25:00 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MANCHESTER BY THE SEA )全然面白くない。何より、感情移入出来るキャラクターが皆無であるのが痛い。加えて、ストーリーも演出も実に低レベル。映画自体がさっぱり盛り上がらず、観ている間は眠気との戦いに終始した。第89回アカデミー賞では2冠に輝いているが、ハッキリ言ってノミネートすら疑問に思える出来だ。

 ボストン郊外でアパートの便利屋として働くリー・チャンドラーは、仕事は的確にこなすが無愛想で誰とも打ち解けない。半分地下室のような部屋で一人暮らしだ。ある日、故郷のマンチェスター州マンチェスター・バイ・ザ・シーに住む兄のジョーが心筋梗塞で倒れたことを電話で知る。リーは車を飛ばして病院に到着するが、すでにジョーは息を引き取っていた。

 医師や友人のジョージと共に今後の身の振り方を考えるリーだが、一番の問題はジョーの16歳の息子パトリックの処遇である。リーは弁護士から、兄の遺言書にパトリックの後見人として指名されていたことを聞かされて驚く。弁護士はリーにこの町に移り住んでほしいと告げるが、彼には故郷を捨てなければならなかった辛い過去があったのだ。

 自らの過失で悲劇を呼び込み、ヨソの街に逃げて捨て鉢な生活を送っているリーにはまったく同情できない。最初から最後まで、ずっとダメ人間のままだ。もちろん“ダメな奴を描いてはイケナイ”という決まりは無く、そこに映画的な興趣が盛り込まれていれば文句は出ないのだが、本作の主人公はただ“漫然と”ダメであり、その有り様をこれまた“漫然と”追っているに過ぎないのだ。

 パトリックも“ダメなティーンエイジャー”でしかなく、父親が死んだのに友人と遊び呆けているという理解不能の行動を取った挙げ句に、リーとの関係もナアナアで終わらせてしまう。生前のジョーや、リーの元妻、及び他の連中の扱いもいい加減で、一体何を考えているのか分からない。

 この愉快ならざる状態を昂進させるのが、過去の出来事を遠慮会釈無く挿入してくる演出法だ。唐突な時制の変化は場合によっては効果的であることは承知しているが、本作においてはタイミングが掴めておらず、観ていて鬱陶しいだけである。この監督(ケネス・ロナーガン)の腕は三流だ。

 本作でオスカーを獲得したケイシー・アフレックのパフォーマンスは大して良いとは思わない。まあ“普通の演技”だろう。ミシェル・ウィリアムズやカイル・チャンドラー、ルーカス・ヘッジズ、C・J・ウィルソンら他のキャストも精彩を欠く。良かったのはジョディ・リー・ライプスのカメラによる清涼な映像と、クラシックを多用した音楽だけであった。
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カセットテープの復権。

2017-05-28 06:17:22 | プア・オーディオへの招待
 アナログレコードが見直されていることは以前述べたが、何と最近ではカセットテープの人気も再燃しつつあるらしい。カセットテープが今も製造・販売されていることは知ってはいたが、それはかつての音楽ファンによる懐古趣味や、高年齢層のカラオケ練習用としての存在価値しか無いと思っていた。ところが、昨今カセットテープに興味を持っているのは若年層だという。

 ビームス・レコーズやHMVはアナログレコードと共にカセットテープを積極的に取り扱い、それなりのセールスを上げているとか。ユニコーンや大貫妙子、海外ではジャスティン・ビーバーやカニエ・ウェストなど、カセット作品をリリースするミュージシャンもいる。てっきり“消えゆくメディア”だと思っていたカセットテープだが、今もしっかり命脈を保っているようだ。



 再評価されている理由は何かというと、各関係サイトにも書いてあるように、まず“モノとしての存在感”に尽きるのだろう。ダウンロード音源のような“データのみ”のソースは、やはり所有することによる満足感は乏しい。カセットテープは扱いは面倒くさいが、その分じっくりと音楽とじっくり向き合える。また音自体も周波数特性は狭いが、独特のローテク感は聴いていてホッとするところがある。テープメディアに付き物のヒスノイズも、一種の“風合い”と捉えれば別に不満も無いということか。

 しかしながら、現在国内でカセットテープを製造・販売しているメーカーは日立マクセルのみ。品目もURとULの2種類だけだ。昔は日本だけでも7,8社がカセットテープを作っており、バラエティに富んだ製品ラインナップを揃えていた。以前は現行のノーマル・ポジション仕様(TypeI)だけではなく、ハイポジション(TypeII)、メタルテープ(TypeIV)の3種類もあったので、モデル数が多かったのは当然かもしれない(どうしてTypeIIIが抜けていいるのか、そのあたりの事情を知る者も今では多くはないだろう)。

 ポジションの違いだけではなく、パッケージに関しても各メーカーは工夫していた。薄型のケースや、ポップな色合いを採用したりと、見ているだけでも楽しかった。もちろん音もメーカーごとに違っていた。そして(ある意味困ったことだが)品質も異なっていた。最もしっかり作られていたのがTDKの製品で、対して一番良くないと(個人的に)思ったのがSONYのモデルだった。



 SONYのカセットテープ(特に80年代前半までの製品)はとにかくトラブルが多かった。テープ自体が劣化するのが早かったし、メカ部分に絡み付くのも珍しいことではなかった。しかし、後年発売されたガイド部分をセラミック製に強化したモデル(HF-Proなど)は音も耐久性も格段に向上し、安心して使えるようになったのは有り難かった。

 テープだけではなく、再生装置(ラジカセやカセットデッキ)に関しても昔はいろいろな製品が出ていたが、これに関してはまた機会を改めて言及したい。

 今後このカセットテープの復権のトレンドがいつまで続くのか(あるいは、定着化するのか)分からないが、音楽鑑賞という趣味においては(ダウンロード音源などの)簡便性ばかりが取り沙汰されるものではないことは確かなのだろう。メディア製造元や機器メーカーとしても、ユーザーの真のニーズを把握した商品展開をして欲しいものだ(お仕着せの“ハイレゾ音源ブーム”なんかは敬遠したい)。
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「帝一の國」

2017-05-27 06:23:23 | 映画の感想(た行)

 全く期待していなかったが、意外や意外の面白さだった。理由はいろいろあるだろうが、一番の勝因はチャラチャラした色恋沙汰(のようなもの)がほとんどクローズアップされておらず、全編これ“オトコの映画”に徹していることだろう。もちろん、野郎ばかり出していれば内容は保証されるというわけではないが、本作には必然性と確固とした技巧が存在している。観る価値はある快作だ。

 私立の男子校である海帝高校は、飛び抜けた秀才たちが集まる全国屈指の名門だ。政財界に強力なコネを持つこの学校で生徒会長を務めた者には、有名大学への推薦はもちろん、将来の政治家への道が確約されている。事務次官の息子である赤場帝一は主席入学を果たすが、いずれは総理大臣になって自分の国を作るという野望を持っていた。その第一歩として、何としてでも生徒会長の座を得なければならない。

 帝一はその年の生徒会長選挙で候補になっている3人の2年生のうち、まずは最有力とされる氷室に取り入ろうとする。しかし、強引なやり方で顰蹙を買うようになった氷室に早くも愛想を尽かした帝一は、あっさりと2番人気の森園に鞍替えする。そんな中、奨学生の枠で入学してきた大鷹は人望が厚く、彼の動向が選挙の帰趨を決することなると察した帝一は気が気でない。古屋兎丸の同名コミック(私は未読)の映画化だ。

 キャストの大仰な演技とケレン味たっぷりの展開はヘタすると作劇を空中分解させるが、ここではそうならない。それは、物語の根幹が(普遍性の高い)政治的パワープレイをトレースしているからだ。力で押し通そうとする者、理想を掲げる者、権謀術数を駆使しようとする者、一歩引いて情勢を見極めようとする者etc.現実の政治の世界でも存在しそうなキャラクターを配し、いかにも“あり得そうな”言動を披露させることにより、ストーリーにリアリティを持たせている。

 もちろんここで言うリアリティとは普通の学園生活のそれではなく、野心を持った人間達の生態という次元における現実感である。また、単なる露悪趣味ではなく、若者の成長を描く青春映画の側面もしっかりとキープしているのがアッパレだ。もっとも、終盤における帝一の“成長”とはフィクサーとしてのあり方を模索するという極めてインモラルなものなのだが、その生き方も肯定していることにも感心する。

 永井聡の演出はノリが良く、最後まで飽きさせない。主演の菅田将暉は絶好調で、バイタリティの塊のような主人公像を上手く表現している。野村周平や竹内涼真、間宮祥太朗、志尊淳、千葉雄大といった他の若手の面子も実に達者だ。吉田鋼太郎や榎木孝明などのベテラン陣も影が薄くなりそうである。ヒロイン役の永野芽郁にさほど魅力が無いのは残念だが、あまり目立ちすぎると“オトコの映画”としてのスタイルが揺らいでくるので、これで良いのかもしれない(笑)。
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「エドワードII」

2017-05-26 06:28:16 | 映画の感想(あ行)

 (原題:EDWARD II )91年イギリス作品。シェークスピアと並び称される英国の作家クリストファー・マーロウの戯曲の映画化。ゲイの恋人とともに迫害されていく悲劇の王の姿を描く。ただしデレク・ジャーマン監督作品らしく、衣裳と舞台装置は現代で、セリフだけは原作通り。凝りまくったライティングに男の裸が跳梁跋扈するという、独特の映像が展開する。

 でも、正直言って、どこがいいのかさっぱりわからない。こういう舞台設定にすることで何か意味があるのだろか。いきなりアニー・レノックスが出てきて歌を歌う場面も意味不明。主演の男(スティーヴン・ウォーディントン)は別に美しくもセクシーでもない。ピーター・グリーナウェイ監督のように自らの美学を波状攻撃で仕掛けてくる大胆さもなく、画面には隙間風が吹きまくり、寒々とした印象しか受けない。

 でもひょっとしたら、こういうのが案外凄い芸術なのかもしれない。芸術はあまりに高尚になると、私のような凡人には理解できない次元に突入すると言われている。そういえば、当時この映画について書いてあった評論家連中の文章も、高尚すぎて何を言いたいのか全然分からなかったことを思い出す(苦笑)。

 さて、私はこの映画を封切り時(92年)に渋谷にあったシネマライズという劇場で観ている。ハッキリ言って、この小屋は私は好きではなかった。まず、非常に分かりにくい場所にある。そしてチケットを切る場所ってのが、非常に足場の悪い階段の途中にある。しかも階段にはワックスか何かがしっかり塗ってあって、これは危ないのではないだろうか。

 劇場の中はというと、黒一色で何やら怪しげな雰囲気。よく見るとコンクリート打ちっぱなしの壁面を黒くペイントしていて、しかも、椅子は見た目はスタイリッシュだが硬くてすぐお尻が痛くなるし、照明は場末のキャバレーみたいに薄暗い。これらはバブル以前のDCブランド専門のブティックの雰囲気と一緒で、作った当時は目新しかったのだろうが、その頃すでに場違いな感じを醸し出していた。やがてミニシアターのブームも去り、2016年に閉館してしまう。よく“興行は水もの”と言われるが、映画館自体のスタイルも栄枯盛衰は付き物だということか。
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「カフェ・ソサエティ」

2017-05-22 06:30:31 | 映画の感想(か行)

 (原題:CAFE SOCIETY)ウディ・アレン作品だが、いつものニヒリスティックな視線が希薄で、アレンの分身のようなインテリぶった野郎も出て来ない。その点では物足りないのだが、豪華なエクステリアの釣瓶打ちで、鑑賞後の満足度は決して低くはない。こういうやり方もアリだろう(もちろんそれは、アレンみたいな大物だから許されるのだが ^^;)。

 1930年代。ニューヨークに住む青年ボビーは、平凡な人生を嫌ってハリウッドにやってくる。彼の叔父は映画業界で敏腕エージェントとして鳴らしており、すぐに会えて仕事をもらえると期待していたボビーだが、さんざん待たされた挙げ句にやらされたのが叔父の“付き人(雑用係)”だった。それでもめげずに職務に励むボビーだが、同時に叔父の秘書のヴェロニカに心を奪われてしまう。

 だが、彼女には別に交際中の男性がいることが分かり、彼は傷心のままニューヨークに戻るしかなかった。やがてギャングをやっていた兄の計らいでナイトクラブの経営者に収まったボビーだが、数年後に好きな女が出来て結婚する。偶然にも、妻の名前もヴェロニカだった。ある日叔父が二番目の奥方を連れてボビーの店にやってくる。

 有り体に言えば若者のサクセス・ストーリーなのだが、シニカルな味わいはあるものの、それ自体あまり面白くはない(まあ、似たような筋立てである「ラ・ラ・ランド」よりは数段上質だが)。それよりも、当時のハリウッドは斯くの如しと思わせるようなゴージャスな御膳立てに圧倒された。名匠ヴットリオ・ストラーロのカメラによる流麗な画面造型と、スージー・ベンジンガーによる煌びやかな衣装デザインは、まさに目の保養だ。

 ただし、印象深いのはハリウッドの賑々しさよりも、陰影の濃いニューヨークの描写の方で、やはりこのあたりはニューヨーク派のアレンの名目躍如ということになる。狼藉をはたらくボビーの兄の扱いがポップで陰惨さが無いのをはじめ、ユダヤ教に関するギャグが散りばめられているのも面白い。

 ボビーを演じるジェシー・アイゼンバーグはナイーヴで優柔不断な等身大の若者像を上手く表現。叔父に扮するスティーヴ・カレルはさすがに海千山千で、食えないオッサンを楽しそうに演じている。ただ、ヒロイン役のクリステン・スチュワートはイマイチ。正直言って、私は彼女の御面相が好きではないのだ(笑)。スタッフが何とか彼女を可愛く撮ろうと努力していることは分かるが、個人的にはそれは徒労に終わっていると思う。

 もう一人のヴェロニカを演じるブレイク・ライブリーの方が魅力的に思えるが、出番がそれほど多くないのは残念である。なお、ナレーションはウディ・アレン自身が担当しており、クールな雰囲気が出ていて悪くなかった。
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アナログレコードの優秀録音盤(その6)。

2017-05-21 06:25:10 | 音楽ネタ
 所有しているアナログレコードの中で録音が優秀なものを紹介したい。まず取り上げるのが、16世紀にイングランドで活躍した作曲家、ジョン・ダウランドの室内楽曲やリュート独奏曲、歌曲などを集めたディスクで、演奏はパリ古楽奏団。79年録音。タイトルは「パヴァーヌ、ガイヤルド、エア、アルマンドと幻想曲」。フランスのCALIOPEレーベルからリリースされている。

 パリ古楽奏団は6人編成。うち5人がリコーダー奏者だという。曲自体は親しみやすいもので、誰が聴いても違和感は覚えないであろう。特にパヴァーヌは美しい旋律でしみじみと聴かせる。だが、本作の存在価値は録音にある。とにかく、レコーディング状況がユニークなのだ。



 録音はスタジオでは行われていない。かといってライヴ会場や教会の中でもない。レコーディング場所は普通の人家、それも古い建物の庭先である。かなりデッドな状態になるが、各音像は丁寧に録られており、切れ味は不足気味ながらボケたところはない。そして、このレコードには外部の“ノイズ”も収録されている。具体的には、小鳥のさえずりと家の前を通る自動車の音だ。

 B面5曲目のリュートのソロでは、演奏者のバックにしっかりと小鳥が定位し、盛大に鳴き声を聴かせる。自動車は遠慮会釈無く家の前を横切っており、向かって右から左に走っているのが分かる。これらは決して音楽の進行を邪魔するものではなく、逆にのどかな雰囲気で興趣を盛り上げてくれる。メジャーなレーベルでは決して採用されないであろう録音形式だが、面白さでは随一だ。

 スウェーデンのBISレーベルといえば、73年の創立から意欲的にクラシック系のソースをリリースしており、好録音の多いブランドとして知られるが、今回紹介するのは79年に録音されたトランペットとピアノのデュエットによるディスクだ。トランペットはエドワード・タール、ピアノはエリザベート・ヴェシュンホルツという奏者は馴染みは無いが、実績を積んだ手練れだということだ。



 曲目はガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」、マルティヌー、アレクシウス、ヒンデミットの各ソナタである。「ラプソディー~」を除けば知らないナンバーばかりだが、どれもクールな曲想とハーモニーの面白さで聴かせてくれる。ユニークなジャケット・デザインは小学生の絵を採用したらしい。

 録音はデンマークの高校で行われている。とにかくトランペットの音が最高だ。艶やかなサウンドが広い音場の中に吸い込まれていく様子には、感心するしかない。なお、トランペットは曲によってBACHとYAMAHAのものが使い分けられているらしいが、両者の音の違いも明確に描かれている。BACHはくすんだ渋い音で、YAMAHAは闊達で明るい。ピアノの音は幾分硬いが、適度なエコーが付随して気にならない。

 BISレーベルのディスクは他に数枚保有しているが、どれも音が良い。機会があればまた取り上げたい。

 経営危機に陥っている東芝が昔レコード会社を持っていたことは以前の書き込みで述べたが、その東芝EMIの創立20周年記念ディスク(非売品)が、なぜか実家のレコード棚にある。優秀録音ではないのだが、面白いので紹介したい。



 このレコードが製作されたのは70年代半ばだと思われるが、東芝EMIの創立が73年なので、これはその前身である“東芝レコード”の設立から数えて20年目という形で作られたのだろう。2枚組で、1枚は邦楽、もう1枚は洋楽が収められている。邦楽は短縮ヴァージョンが中心だが、洋楽は全てフルコーラスだ。

 興味深いのが、曲の合間に創立から“20周年”までの音楽シーンの概要がナレーションとして挿入されていることだ。その口調は何のケレンもない真面目なものだが、賑々しいヒット曲の数々と並べられると、ミスマッチな興趣を呼び込む。

 収録されている楽曲はどれも懐かしいものばかりだが、個人的にウケたのが米国のカントリー歌手ジェリー・ウォレスの「マンダム 男の世界」(原題は「LOVERS OF THE WORLD」)。ある年代より上の者達にとってはお馴染みの、チャールズ・ブロンソンをフィーチャーした男性化粧品のCMに使われたナンバーだ。もちろんヒットしたのは日本のみで、オリコン洋楽チャートでは1位を獲得しており、70年度の年間総合チャートでも20位にランクインしている。昔はヒット曲のジャンルの幅が広かった。
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「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」

2017-05-20 06:36:06 | 映画の感想(か行)

 (原題:GUARDIANS OF THE GALAXY VOL.2 )面白いと思えなかったのは、何も前作を観ていなかったからではない。おなじみMARVELの作品ながら、設定自体が他のシリーズとは“一線を画した”ようなつまらなさ。大して工夫の無い筋書きを、狂騒的に粉飾してハデっぽく見せようとしているだけ。鑑賞後は疲労感だけが残った。

 地球からやってきたピーター・クイルをリーダーとする宇宙のはみ出し者チーム“ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー”は、今日も某惑星の依頼によるモンスター退治を引き受け、小金を稼ごうとしていた。ところがメンバーの一人であるアライグマのロケットが、その惑星の貴重品を勝手に拝借してしまったことから、彼らは追われる身となる。膨大な数の敵艦隊が迫り絶体絶命と思われたとき、ガーディアンズを救ったのは“ピーターの父親”を名乗る謎の男エゴだった。

 エゴが昔地球を訪れたとき恋人が出来て、その際に生まれたのがピーターなのだという。エゴは宇宙創成の頃から生きている“神”みたいな存在で、彼は自分の後を継いでくれる者としてピーターを指名したのであった。一方、ヨンドゥ率いる宇宙海賊や件の惑星からの追撃隊、さらにはメンバーのガモーラを付け狙う彼女の妹ネピュラなどもガーディアンズに迫り、彼らは四方八方からの敵に対峙するハメになる。

 同じMARVELのキャラクターの多くが地球(現実世界)を舞台に活動しているのに対し、ガーディアンズの仕事場は宇宙である。つまりは現実との接点もギャップも無い“何でもあり”の作品世界で、こういうシチュエーションではよほど話が面白くないと楽しめない。しかし本作のシナリオは実に幼稚だ。

 行き当たりばったりに見かけだけハデな登場人物を多数並べ、ワーワーギャーギャーと叫ばせて走り回らせることの繰り返し。そもそも、エゴがオールマイティの存在ならば、こんな七面倒臭いプロセスを踏まずにとっととピーターを拉致すれば良いではないか。しかも、意外な“弱点”もあるという設定には脱力するしかない。

 ジェームズ・ガンの演出は平板で、全編を埋め尽くすギャグ(らしきもの)は全くウケず。CG満載の賑々しい画面や、アクション場面の段取り、さらにはメカ・デザインなども既視感があってシラけてしまう。

 主演のクリス・プラットをはじめゾーイ・サルダナやデイヴ・バウティスタ、マイケル・ルーカーといった面々も、別に彼らでなくてもいいような役柄をこなしているのみ。シルヴェスター・スタローンとカート・ラッセルの扱いも大したことがない。エンド・クレジットの表記によれば次回作もあるようだが、私は観るのを遠慮したい。
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「結婚ゲーム」

2017-05-19 06:30:28 | 映画の感想(か行)

 (原題:Starting Over )79年作品。アラン・J・パクラ監督といえば「コールガール」(71年)や「大統領の陰謀」(76年)といった硬派な作品が有名だが、この映画では珍しくラブコメに挑戦している。その心意気やヨシなのだが、残念ながらあまり印象には残らない。やはり映像作家には向き不向きがあるのだろう。

 ニューヨーク在住のコラムニストのフィルは、ある日突然妻のジェシカから別れ話を切り出される。2人の間には子供もいないし、彼女はこれからはシンガーとして自由気ままに生きたいらしい。思いがけなく独身に戻ったフィルだが、新しい仕事も入り、ボストンに転居して何とか生活を落ち着かせる。ある日、兄夫妻から夕食に誘われた彼はその道中、何とバスの中で痴漢よばわりされる。その場は上手く切り抜けて兄の家に着いてみると、兄が気を利かせて女性を紹介してくれた。ところが、彼女はちょっと前に彼を痴漢と罵った女マリリンであった。

 こうして最悪の出会いをした両人だが、言葉を交わすうちにどこかウマが合うものを感じ、交際を始める。その後2人はデートを重ねて関係が深まるが、そんな中ジェシカがニューヨークから突然フィルを訪ねてきて、3人が一度に顔を合わせることになってしまった。さて、変則的な三角関係に直面したフィルはどうするのか・・・・といった話だ。

 ストーリーはありきたりで、途中で結末も読める。ならば捻った演出が施されているかというと、そうでもない。登場人物の内面描写に優れているわけでもない。結局、本作の売り物はキャスティングなのだろう。当時「トランザム7000」(77年)や「グレートスタントマン」(78年)などで男臭いアクション・スターとしての地位を確立していたバート・レイノルズが、ここでは冴えない中年男を演じるという、そのミスマッチが面白い。

 マリリン役のジル・クレイバーグはステレオタイプの役柄を血の通ったキャラクターとして表現していた。ジェシカに扮するキャンディス・バーゲンは、その昔“時代の先端を走っている女優”であったが、ここではそのテイストが茶化されているような役を振られているのが何とも玄妙である(苦笑)。撮影監督にスヴェン・ニクヴィスト、音楽にマーヴィン・ハムリッシュという一流スタッフを起用しているだけあって、さすがにその点は優れていた。
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「フリー・ファイヤー」

2017-05-15 06:31:51 | 映画の感想(は行)

 (原題:FREE FIRE )製作総指揮にマーティン・スコセッシが関与しているので期待していたが、実物は何とも気勢の上がらない出来であり、脱力するしかなかった。明らかに作者はアクション映画の撮り方を間違えている。虚構の筋立てに中途半端なリアリティを挿入することが、どれだけ作劇を阻害するのか分かっていないと見える。

 1978年のボストン。銃の闇取引のため、場末の倉庫に二組のギャングがやってくる。注文した機種と実物が違っていたという不手際はあったものの、取引は無事に終わりそうな気配だった。ところが前日に身内のトラブルで殴り合いをした者達が双方に存在しており、その私怨が取引の場で爆発。一方が発砲したことから、居合わせた全員を巻き込んだ銃撃戦が始まる。

 時代背景を70年代に設定したのは、ちょうどこの頃が“アクション映画といえば派手なドンパチが付き物”という定説が罷り通っていたからだろう。しかしながら、この映画はいただけない。冒頭“FBIの資料によると、実際に銃撃戦が起こっても人は簡単に死なないし、殺すことも出来ない”とかいう但し書きが表示される。確かにそれは正しいのかもしれないが、そのことを簡単に映画の中身に適用してもらっては困るのだ。

 登場人物達は闇雲に拳銃を撃ちまくるが、大半の被弾は致命傷には至らない。全員傷つきながらも、地味に匍匐前進を続けるしかないのだ。斯様な展開を延々と繰り返せば、観ている側は飽きる。いくら“急所に当たらなければ、人は即死しない”とはいっても、映像面では従来通り“一発か二発当たれば、倒れてそれっきり”という仕掛けにしておいた方が、断然見栄えが良いのである(しかも、相手が数発で御陀仏になるのならば、撃ち方や身のこなしにスタイリッシュな演出が可能になる)。

 そういうことを無視して、いたずらにリアリズム(みたいなもの)に拘泥していては、盛り上がりに欠けるのは仕方がない。そんなにリアリティに執着するのならば、作劇自体をドキュメンタリー・タッチにしてしまえば良かったのだろうが、そこまでの度胸は無かったようだ。

 長々と続く銃撃戦の段取りは上等ではなく、誰が誰を狙っているのか判然としないばかりか、途中で挿入される爆発や火災が何のカタルシスも喚起しないという有様だ。加えて、出てくる連中がどれも頭が良さそうには見えず、まったく感情移入出来ない。

 ベン・ウィートリーの演出は平板で、1時間半の上映時間がとても長く感じられる。ブリー・ラーソンやアーミー・ハマー、キリアン・マーフィ、シャルト・コプリー、ジャック・レイナー、マイケル・スマイリーといった出演陣もむさ苦しくてパッとせず、わずかに印象に残ったのが劇中で場違いに流れるジョン・デンヴァーの歌声だけだった。第41回トロント国際映画祭ミッドナイト・マッドネス部門で最高賞にあたる観客賞を受賞したらしいが、あいにく当方はそんなアワードは知ったことではない。
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アビスパ、連勝。

2017-05-14 06:46:58 | その他
 去る5月13日(土)に、福岡市博多区の東平尾公園内にある博多の森球技場(レベルファイブスタジアム)にて、サッカーの試合を観戦した。対戦カードはホームのアビスパ福岡とファジアーノ岡山である。

 前回のホームの試合(4月28日)に連続してスタジアムに足を運んだことになるが、自腹でチケットを買った前回とは違い今回はひょんなことから“招待券”が回ってきて、無駄には出来ないのでいそいそと出掛けた次第である(笑)。とはいえ、ホームチームの負け試合は見たくはない。自然と応援にも力が入った。



 序盤はアビスパの積極的な攻めが目立った。パスはよく通るし、空きスペースへの展開も巧妙だった。ところが決定力を欠いたまま時間が経つと、ファジアーノも調子を取り戻し、試合は膠着状態に陥る。正直言って、選手の奮闘ぶりとは裏腹に、ゲーム中盤は退屈だった。

 だが、このままスコアレスドローで終わるかと思われた後半44分、フォワードのウェリントンが相手ゴールにボールを押し込み、先制点を挙げる。そのままゲームセットで、アビスパは5月7日のアウェイのゲームに続き、白星を重ねることが出来た。この時点でアビスパは3位に浮上である。



 とはいえ、アビスパで順調にゴール数を稼いでいるのがウェリントンだけというのは、心配ではある。もしも彼が故障などで離脱した場合、攻撃力が落ちることも考えられる。まあ、言い換えれば一人のストライカーに頼ったようなチームの有り様では、上のクラスには行けないというのも確かなのだ。他の選手(特にフォワード)の、より一層の奮起を望みたい。
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