元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「AGAIN アゲイン」

2021-01-31 06:30:22 | 映画の感想(英数)
 84年作品。前々年の82年は日活の創立70周年であり、それを記念して作った名場面集映画だ。なお、当時の同社の名称は平仮名の“にっかつ”であり、ロマンポルノを主に手掛けていたのだが、本作で取り上げられているのは60年代までのいわゆる“日活アクション映画”の数々である。本作の構成は、年老いた殺し屋がかつて共演したライバルを捜し求めて彷徨するというスタイルを取っている。

 面白いのは、この映画の公開当時の観客に“日活アクション映画”の概要を説明しようという意図がまったく感じられないこと。さまざまな映画から引用された断片的なショットを、脈絡も無く積み上げていくだけなのだ。同じ頃に作られた「生きてはみたけれど 小津安二郎伝」(83年)は小津映画の何たるかを体系的に示そうとしていたが、それとは対照的なシャシンである。



 この手法は一見むちゃくちゃだが、別にこれは悪くないと思える。なぜなら、この“日活アクション映画”自体が無国籍風で混沌としたスタイルを取っていたからだ。もちろん私は“日活アクション映画”をリアルタイムで観た世代には属していない(笑)。しかしながら、この映画を観ていると、全盛期の日活映画の持っていた雰囲気や魅力が何となく伝わってくるから不思議なものである。もっともそれは、当時の“日活アクション映画”が多くの若手スターを輩出し、ブームが去った後も彼らが活躍する姿を見ているからなのかもしれない。

 引用している作品は「狂った果実」「赤いハンカチ」「帰らざる波止場」「ギターを持った渡り鳥」「泥だらけの純情」「紅の流れ星」など全38本。その中でも「嵐を呼ぶ男」の有名なドラム合戦のシーンを、石原裕次郎主演の井上梅次監督版(57年)と、渡哲也主演の舛田利男監督版(66年)を交互にシンクロさせて編集する場面は本作のハイライトであろう。

 監督は作家の矢作俊彦で、構成や脚本も担当している。映画畑とはあまり関係ない人材によるシャシンなので、いろいろと思い切った施策を講じることが出来たのだと思われる。ただし、このネタで上映時間が1時間42分というのは少し長いような気がする。38本をさらに絞り込んで、本当にインパクトの高い場面を再編集して1時間強にまとめたら、もっと訴求力が大きくなったと想像する。なお、宇崎竜童による音楽は良かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「俗物図鑑」

2021-01-30 06:44:55 | 映画の感想(さ行)
 82年作品。今も昔も、最も映画化しにくい題材として挙げられるのが筒井康隆の作品群だろう。「時をかける少女」のようなジュブナイル系を別にすれば、映画作品は数本しかない。しかも、いずれも(まあまあのレベルに達しているシャシンはあるが)成功しているとは言い難い。これはひとえに、あの狂気じみた設定とインモラルな筋書きを違和感なく映像化することの困難性が立ち塞がっているからだ。ただし、この作品だけは何とか筒井ワールドに肉薄していると思う。

 古いアパートに入居している梁山泊プロダクションは、接待評論家の雷門享介に贈答評論家の平松礼子、横領評論家の本橋浪夫、万引評論家の沼田峰子といったワケの分からない評論家たちで構成される怪しげな集団だ。彼らはマスコミに露出する共に、破天荒な言動で世の注目と顰蹙を集めるという“炎上芸”を生業としていた。



 ある時、吐しゃ物評論家の片桐考太郎が、テレビの“反吐当てゲーム”で見事にマスコミ界の大物である大屋壮海の反吐を的中させて大屋に気に入られ、梁山泊プロは新メンバーも集めてビッグになってゆく。その様子を面白く思っていない主婦連や全国PTA協議会などの“良識派”が、梁山泊プロに怒鳴り込んでくる。騒ぎは大きくなり、機動隊が出動して鎮圧に当たろうとする。ところが、人質を取って立てこもる梁山泊プロの狼藉に手を焼くばかりの当局側は、自衛隊の投入を決意する。

 無茶苦茶な評論家どもが、それ以上に異常なマスコミ人種たちとその体制を徹底的にコケにするのが痛快だ。また、梁山泊プロのオーディションの場面はケッ作で、やってきた“まともな評論家”たちが一刀両断にされ、評論家そのものの胡散臭さを白日の下にさらすという構図は堪えられない。自衛隊がやってくると登場人物の一人が“筒井康隆作品ではこういう場面で自衛隊が出動するのが通常パターンだ”みたいなことを呟くシーンは笑った。

 脚本は桂千穂、監督は内藤誠が担当しているが、彼らの多彩な人脈により製作費がわずか500万円程度にも関わらず、濃すぎるキャストが大集結しているのも圧巻だ。主演の平岡正明をはじめ、南伸坊に入江若葉、山城新伍、伊藤幸子、山本晋也、朝比奈順子、大林宣彦、安岡力也、珠瑠美といった者達が顔を揃える。

 さらには北川れい子や四方田犬彦、松田政男、石上三登志といった“本物”の評論家も出てきてセルフ・パロディを演じている。映像は限りなくチープだが、それが逆にイイ味を出している。筒井康隆の作品の映画化は、こうした安っぽいヘタウマを狙うか、あるいはハリウッド大作並みに巨費を投じなければサマにならないと思った次第である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「聖なる犯罪者」

2021-01-29 06:22:45 | 映画の感想(さ行)

 (原題:BOZE CIALO)示唆に富んだ内容で、キャストの力演も光る。生きる上で“真実”とされるものは何か。それは絶対に揺るがない存在価値を持ち合わせているのか。多様性が介入する余地は無いのか。さらに本作では宗教がモチーフとして採用されることにより、神と人間との関係性にも言及する。第92回米アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートされたポーランド映画だ。

 少年院で服役していたダニエルは、院内でおこなわれる神父の説教に感動し、いつか宗教家になることを夢見ていた。仮出所した彼は遠方の田舎町の製材所で働くことになっていたが、ふとした偶然で新任の司祭に成り済ますことに成功。彼はトマシュ神父と名乗り、うろ覚えの聖書の知識を自分なりにアレンジして型破りの説教を展開する。そんな彼に町の人々は困惑するが、やがて全力投球のトマシュのパフォーマンスに共感する者が増えていく。

 一方、この土地では数年前に7人もの犠牲者を出した交通事故が発生しており、事故の真相が曖昧なまま、町民たちは責任を一人の運転手になすりつけようとしていた。トマシュはこの状態を何とかすべく、関係者からの聞き込みを開始する。だがある日、彼の“正体”を知る少年院仲間がこの地にやって来ることになり、トマシュは窮地に追い込まれる。

 カトリックでは、ダニエルのような前科者は神父にはなれないらしい。しかし、事故にまつわる町民の疑心暗鬼を放置していたのは前任までの教会関係者であり、真剣に解決に向けて動いたのはこの若いニセ神父だった。事故の詳細を隠蔽しようとするのは、一見信心深い町民たちの欺瞞性だ。信心と不信心とを都合良く使い分けようという、人間の弱さを容赦なく暴いていくドラマ運びには説得力がある。

 そもそも、前科者が宗教的に救われないというのは、神を無視するものであろう。仏教の浄土真宗では悪人正機説という教義がある。もちろんそこに謳われている善悪とは法的・道徳的な問題をさしているのではないが、罪を犯してそれを償った者が救われないということではない。

 この点、本作で描かれるカトリックの偏狭性には閉口してしまう。人間誰しも多面性を持ち合わせており、それを一面的な方向から決めつけてしまうのは、反宗教的でしかない。終盤の、ダニエルの風雲急を告げる行動、そして暴力的とも言える幕切れは圧倒的で、監督ヤン・コマサの力量が遺憾なく発揮されている。

 主演のバルトシュ・ビィエレニアをはじめ、エリーザ・リチェムブルにアレクサンドラ・コニェチュナ、トマシュ・ジェンテクなど、皆馴染みは無いが良い演技をしている。そしてピョートル・ソボチンスキ・Jr.のカメラによるポーランドの田園地帯の風景はとても美しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ミッション・マンガル 崖っぷちチームの火星打上げ計画」

2021-01-25 06:21:03 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MISSION MANGAL)国威発揚映画だという指摘も一応うなずけるが、それでも鑑賞後の満足度はとても高い。インド製娯楽映画らしいポップでカラフルなエクステリアと、テンポの良い演出。加えてキャストはスクリーン映えする者ばかり。実録ものなので、結末は分かっている。しかしこれだけ力一杯作ってもらえれば、評価しないわけにはいかない。

 2010年、インドの宇宙開発事業の命運をかけた月探査ロケットの打ち上げは、あえなく失敗する。責任者のラケーシュとタラは火星探査プロジェクトに異動させらせるが、この部署は名ばかりの閑職で、明らかな左遷であった。使える予算はわずかで、集められたスタッフは駆け出しの若い女子職員たちと冴えないオタク野郎、そして定年間近の窓際のオッサンだけ。

 それでもタラは料理をヒントに、手持ちの資産を有効利用して探査機を火星に送るアイデアを提示する。渋るインド宇宙研究機関(ISRO)の行政官を説得し、何とか開発の許可を取り付けたものの、次々と難関が立ちはだかる。アジアで初めて火星探査機の打上げを成功させたインド宇宙開発チームの奮闘を描く。

 アメリカ映画「ドリーム」(2016年)に通じるところがあるが、このインド映画は思いっきりエンタテインメント方向に振られている。登場人物たちは困難にぶち当たると、アイデアとチームワークでひとつひとつそれらを乗り越えてゆく。その展開は平易で屈託が無く、それだけ幅広い観客に対する訴求力が高い。

 各メンバーのキャラクターは十分掘り下げられており、まるで「七人の侍」のようにそれぞれに見せ場が用意されている。また、題材が理系であるためか(笑)、プロットがほぼ理詰めで積み上げられるのは観ていて心地良い。まあ、中には“そんなバカな”と思うネタもあるのだが、そこは愛嬌と勢いで乗り切ってしまう。

 クライマックスの打ち上げ場面と、それに続くオペレーション。果たして探査機は火星の軌道に乗ったのかどうかというサスペンスも、存分に盛り上げられる。そしてラストシーンは、とても感動的だ。映画館を出た後、思わず夜空を見上げるほどに。

 ジャガン・シャクティの演出は好調で、インド映画得意の音楽シーンも含めて、畳み掛けるタッチで迫る。ラケーシュ役のアクシャイ・クマールは海千山千のリーダーを快演している。タラに扮するビディヤ・バランをはじめ、タープスィー・パンヌー、シャルマン・ジョーシー、ニティヤー・メネン、キールティ・クルハーリと、女優陣は場違いなほど美人揃いだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「夜叉」

2021-01-24 06:02:01 | 映画の感想(や行)
 85年東宝作品。製作当初は“高倉健の俳優生活の集大成”というキャッチフレーズが付いていたらしいが、なるほど映画の佇まいには惹かれるものがある。しかし、内実は全然大したことが無い。何が良くないかというと、まず脚本だ。そして次に非力な演出。キャストはけっこう豪華で、皆頑張っているのに惜しい話である。

 若狭湾に面した小さな港町で漁師として働く北原修治が、この地で暮らし始めて15年になる。妻の冬子と3人の子供、そして冬子の母うめとの静かな生活だ。あるとき、大阪ミナミから螢子という子連れの女が流れてきて飲み屋を開く。螢子の色っぽさもあり、店は繁盛するようになる。数ヶ月後、螢子を訪ねて矢島という男がやってくる。矢島はヤクザで螢子のヒモだった。



 矢島は漁師たちに覚醒剤を売りつけるなど、早速あくどいことをやり始める。しかし矢島は所属する組に払う上納金を滞納したため、追っ手に捕まりミナミに連れ去られる。螢子は修治に矢島を助けて欲しいと懇願する。実は修治は、かつてミナミで“夜叉”と呼ばれ恐れられた凄腕の極道者だった。修治は大阪に舞い戻り、矢島を拉致した組織に対して殴り込みを敢行する。

 主人公のキャラクター設定が曖昧だ。まずは螢子と妻という2人の女の間で揺れ動く修治の心理を描出しないと、後半の彼の言動が説明出来ないはずだが、それが成されていない。いくら高倉健が“不器用”だといっても(笑)、態度で示す手段があったと思うのだが、演出にはそのあたりが網羅されていない。そもそも、どうして修治が螢子に惚れたのか分からないし、わざわざ矢島みたいなヒモ野郎を救ってやる義理は無いはずだ。

 修治だけではなく、他の登場人物たちも“挙動不審”で、主人公をミナミでの刃傷沙汰に駆り立てるためだけの“手駒”にすぎないと思えてくる。かと思えば、都会へ出て行く少年に主人公の若き日をオーバーラップさせたり、キャバレーでホステスと踊ったりと、無駄なモチーフも目立つ。かつて高倉が演じた、人情に厚く正義のためならば危険も顧みないという共感度の高いキャラクターたちとは大違いの、場当たり的に行動する卑俗な人物にしか見えないのは辛い。

 降旗康男の演出は詰め込みすぎたエピソードを片付けるのに精一杯で、キレもコクもない。螢子に扮する田中裕子をはじめ、いしだあゆみに乙羽信子、ビートたけし、田中邦衛、小林稔侍、大滝秀治、寺田農と配役は贅沢だが、機能していない。ただし、木村大作のカメラがとらえた日本海の荒涼たる風光と、佐藤允彦とトゥーツ・シールマンスの音楽、そしてナンシー・ウィルソンの主題歌は見事だ。その意味で、観る価値無しとまでは言えない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「スタントウーマン ハリウッドの知られざるヒーローたち」

2021-01-23 06:59:33 | 映画の感想(さ行)
 (原題:STUNTWOMEN THE UNTOLD HOLLYWOOD STORY )映画の出来に関して述べる以前に、このような題材を取り上げてくれたことは実にありがたいと思う。ハル・ニーダム監督の「グレート・スタントマン」(78年)やリチャード・ラッシュ監督の「スタントマン」(80年)といった、映画のスタントに関わる者たちを描いた作品は過去にもあったが、スタントウーマンを中心に据えたドキュメンタリー映画はこれまでなかったと思う。その意味で、存在価値は高い。

 まず、映画の歴史はスタントの歴史でもあることが示される。映画の黎明期においても、女性のスタントマンは存在していた。彼女たちは当たり前のように、出演女優の代わりに馬から落ちたりバイクから汽車に飛び移っていたのだ。ところがこの仕事が儲かることが知れ渡ると、野郎どもがカツラをかぶってスタントをやるようになり、スタントウーマンの仕事は減っていった。



 それから長い時間が経過し、彼女たちが復権したのは60年代以降である。だが、相変わらず男女差別は残り、それは今でも尾を引いている。本作では、現役のスタントウーマンの面々や、すでに引退した往年の“名人”たちのインタビューを集め、この職業に携わる者たちの実相を浮き彫りにしていく。

 60年代に彼女たちの組合が発足するが、映画会社はまったくいい顔をしなかった。現在でもスタントウーマンは“女性なのに凄い”といった捉えられ方をされているが、本来そんな見方は間違いである。映画作りにおいて女性がスタントをやる必要性が生じれば、その業務をプロ意識を持って粛々とこなすだけだ。

 彼女たちの“役作り”は男性のそれと変わらない。基礎体力を付けるためのトレーニング、マーシャル・アーツなどの体術の会得と技量向上、そして役柄に合ったスタントのスタイルをとことん追求する。劇中では“車にひかれる場面を上手くこなすには、実際にひかれてみるのが一番だ”という恐ろしいセリフも出てくるが、それは当然のことなのだ。



 生傷は絶えないが、それでも彼女たちを仕事に突き動かすものは、映画への情熱に他ならない。インタビューを受ける彼女たちは、誰しも自信たっぷりで明るい表情を見せる。70歳過ぎて引退した伝説のスタントウーマンも、現役への未練がある。本当に、頭が下がる思いだ。エイプリル・ライトの演出は殊更才気走ったところは無いが、丁寧で好感が持てる。

 ミシェル・ロドリゲスやポール・ヴァーホーヴェンといった映画人たちが述べる、スタントウーマンへの想いも印象的。紹介される作品が過去のものばかりというのは不満が残るかもしれないが、個人的には懐かしく思った。そして、現役のスタントウーマンには意外と美人が多いのにも感心した(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“経済を回す”というスローガンの誤解。

2021-01-22 06:28:06 | 時事ネタ
 昨今のコロナ禍においてよく議論されるのが“経済活動と感染防止、どちらを優先すべきか”ということだ。しかし、この二者択一はナンセンスである。経済活動も感染防止も重要なことで、どちらも推進しなければならない。一方を優先するために、もう一方を軽視するようなことは、断じてあってはならないのだ。

 さて、良く聞かれる“(コロナ禍においても)経済を回す”というフレーズが、この“経済活動と感染防止とのトレードオフ”という範疇での物言いでしかないことに、強い危惧を覚える。つまり“経済を回せ”と言い募る識者たちが想定している着地点とは、感染防止との兼ね合いで達成した上での経済成長率のことなのだ。これは、明らかな欺瞞である。

 そもそも、コロナ禍が発生する前の時点でも、日本経済は壊滅的な状態だったのだ。2019年の10月から12月期の実質GDP成長率は、前期比年率7.1%ものマイナス。言うまでもなく、これは消費増税に伴う駆け込み需要の反動減および負の所得効果に求めらる。この低迷状態から、2020年からはコロナ禍によりさらに厳しくなった。

 だから、現時点でいくら“経済を回そう!”と主張したところで、想定される経済政策(自粛要請の緩和、およびGOTOキャンペーンや五輪開催などによる特需)が最大限効果を発揮したとしても、到達するのはコロナ禍直前の状況でしかない。つまりは消費増税後の不景気な構図が再現されるだけだ。

 しかも、それら経済政策が100%有効に機能することは無い。なぜなら、自粛要請を早期に取り止められるほどコロナ禍が直ちに収束するとは考えにくいし、GOTOキャンペーンの再開もそれだけ遅くなるからだ。オリンピックに至っては開催自体も危ない。百歩譲って今後コロナ禍が幾分収まって五輪も開けたとしても、パンデミックの可能性がゼロにならない限り、経済活動はコロナ禍以前の状態には戻らない。

 本気で“経済を回そう”と考えるのならば、経済を回すに足る財政を投入することを提案すべきなのだ。コロナ禍における日本の経済マクロの損失額は、内閣府が2020年夏に発表した数字では今年度は約40兆円になっている。さらに第三波が始まってからはこの損害額は積み上がることが予想される。

 2019年末でのGDPの低迷に加え、コロナ禍による40兆円以上の損失。“経済を回す”というのは、これらをリカバリーさせる額の有効需要を作り出すことだ。だから100兆円単位での財政支出が必須条件である。ちなみに、GOTOキャンペーンの予算規模は約1兆6千億円。これで“経済を回そう”などと言うのは、まるで笑い話だ。

 経済ネタの議論に必要なのは“数字”である。具体的な“数字”を抜きにして“経済を回そう”というスローガンを連呼することは、百害あって一利無しである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「チャンシルさんには福が多いね」

2021-01-18 06:23:59 | 映画の感想(た行)
 (英題:LUCKY CHAN-SIL)淡々とした展開だが、楽しめる映画だ。特に、タイトルの“福が多い”というフレーズの根源的意味を追求しているあたりが実に玄妙である。少しでも生き辛さを感じている層(おそらくは、かなり多くの観客)にとっては、文字通り“福音”になりそうな映画だろう。

 主人公のイ・チャンシルは40歳の女性プロデューサー。長年玄人受けする映画を作り続けてきたベテラン監督を支えてきた。ところが飲み会の最中にその監督が急死。途端に仕事が無くなり業界から放り出されてしまう。気が付けば彼女は人生の全てを映画に捧げたため、結婚相手はもちろん住む家も恋人もいない。やむなくチャンシルは下宿を探し、妹分の若手女優ソフィーの家政婦として当面は糊口をしのぐことになる。



 そんな中、彼女はソフィーの家庭教師キム・ヨンと知り合い、憎からず思うようになる。しかし、なかなか自身の想いを相手に伝えられない。一方、チャンシルは住んでいる下宿屋でランニングシャツ姿の怪しい男を目撃する。つかまえて問い詰めてみると、彼は“自分はレスリー・チャンの幽霊だ”と名乗る。ちっともレスリーには似ていないが、彼は彼女以外の人間には見えないのだ。こうして、片想いの相手とおかしな“幽霊”をまじえたチョンシルの平穏ならざる日々が始まった。

 金にも仕事にも交際相手にも恵まれない冴えない中年女子の生活には、実は“福が多かった”という逆説的なことが無理なく語られるのが面白い。なぜなら、何も無ければこれから何かを得るだけだから。合理的に行動を起こせば、今後は人生はプラスにしかならない。もちろん、誰しもそんなに上手くいくはずはない。だが、周囲を見渡せばいくらでもチャンスは転がっているのだ。そんな前向きな姿勢を無理なく奨めてくるあたりが、本作の大きなアドバンテージである。

 主人公のプロフィールを活かした“映画ネタ”が繰り出されているのも出色で、小津安二郎の信奉者である彼女が、ハリウッド大作が好きなキム・ヨンと話が合わないのがおかしく、レスリー・チャンの“幽霊”はウォン・カーウァイ監督の「欲望の翼」(90年)の際の出で立ちなのもケッ作で、他にもエミール・クストリッツァ監督の「ジプシーのとき」(88年)をめぐるエピソードなど、映画好きにはたまらない仕掛けが満載だ。

 これが初監督になるキム・チョヒの仕事ぶりは達者で、静かな中にもウィットとペーソスに富んだモチーフを巧みに絡める作劇には感心した。主演のカン・マルグムは目を見張るパフォーマンスを見せる。外見は地味だが、映画が終わる頃には彼女がとても魅力的に思えてくる。下宿のおばあさん役のユン・ヨジュンはイイ味を見せ、レスリー・チャンらしき男に扮するキム・ヨンミンの怪演は面白いし、ソフィーを演じるユン・スンアはとても可愛い。ロケ地はどこだか分からないが、坂の多い街の風景が実に効果的に捉えられている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「この世界に残されて」

2021-01-17 06:19:46 | 映画の感想(か行)

 (原題:AKIK MARADTAK )第二次大戦中のナチスドイツによるユダヤ人迫害を描く映画は数え切れないほどあるが、この作品は新たな視点のアプローチが印象的だ。戦争の悲劇を取り上げる際に、声高にシビアな歴史の事実を糾弾することだけが方法論ではない。こうした静かなタッチが、より主題を引き立たせることがあるのだ。

 1948年のハンガリー。戦時中の苦難を何とか生き延びた16歳のクララだったが、両親と幼い妹を失い、今は大叔母の元に身を寄せている。だが、辛い経験をしたクララは情緒が安定せず、学校では問題児扱いされていた。ある時、彼女は中年の産婦人科医のアルドに出会い、自分と通じるものを感じる。アルドもやはり、大戦中に家族を失って一人で暮らしているのだった。

 やがてクララは父を慕うように彼に懐き、アルドも彼女を保護することで人生を取り戻そうとする。しかし、ソ連がハンガリーで実権を握って世相が不安定になり、周囲の者たちも2人に対していらぬ詮索をするようになる。そのためアルドはある決心をするのだった。ジュジャ・F・バールコニによる小説の映画化だ。

 中年男と女子高生が同居することで何やらセクシャルな展開が始まることが予想されるが、実際そんなものは無いし、そういった筋書きは不適当であることはスグに分かる。2人は心の奥底で共感し合っている。こういう題材を取り上げた映画にありがちの、悲惨なシーンや観ていて辛くなるような展開は無い。だからソフトタッチの作品だと思ったら大間違いだ。

 絶対的な悲劇は、この映画が始まる前にすでに“完結”していたのである。悲劇のあとの風景を定点観測しているのが、本作の特徴である。登場人物たちは戦後それぞれの道を歩み、ささやかな幸せを掴むケースもある。しかし、本来そこにいて彼らと哀歓を共にしているはずの人々はもういない。その圧倒的な不在が、観る者に大きく迫ってくる。これこそが、戦争の不条理そのものなのだ。

 1時間半という短めの尺ながら、監督のバルナバーシュ・トートは高密度のドラマを構築しており、実に見応えがある。アルド役のカーロイ・ハイデュク、クララに扮したアビゲール・セーケ(凄く可愛い ^^;)、共に好演。ガーボル・マロシのカメラによる、荒涼とした戦後すぐの風景もインパクトが強い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ダーティ・ダンシング」

2021-01-16 06:29:58 | 映画の感想(た行)
 (原題:Dirty Dancing )87年作品。日本では封切り時にはほとんど話題にならず、短期間でほぼ忘れ去られた映画だが、アメリカでは大ヒットして、その時代を代表する青春映画の快作という評価が確定している。まあ、そんなタイプのシャシンもあることは認識してはいるが、本作ほど(少なくとも公開時において)本国と他国との受け取られ方の差が大きかった映画はないのではと思う。

 1963年の夏、ニューヨークに住む17歳のフランシスは、夏休みに州の中部にあるキャッツキル山地のリゾート地にやってくる。彼女は“いいとこのお嬢さん”であり、高校卒業後は大学で開発途上国の経済学を学び、いずれは国際ボランティアに励む予定だった。フランシスはリゾートでダンスのインストラクターを務めるのだが、ふとしたことで労働者階級のジョニーと知り合う。



 ジョニーとその仲間たちと仲良くなったフランシスは、彼らのシークレット・パーティーに誘われる。すると彼らが踊る“ダーティ・ダンシング”と呼ばれる扇情的なダンスを目の当たりにして衝撃を受ける。このダンスに興味を持ったフランシスはジョニーに踊り方を教わることになるが、やがて2人は恋仲になる。

 ストーリーとしては身分違いの2人の恋路とか、ジョニーの仲間であるペニーの妊娠騒動とか、フランシスの父親が娘とジョニーとの関係を許さなかったりとか、いろいろとエピソードが積み上げられていて飽きさせない。しかし、それほどの盛り上がりは感じさせず、全体的に安全運転でまったりと進んでいくという案配だ。

 言い換えれば、過度に刺激的なモチーフを織り込まなかったことが、当時の本国の観客に幅広く支持されたということなのだろう。ただ、この映画のセールスポイントであるダンスシーンはなかなか良く描けている。ヒロインならずとも、このダンスを見ればびっくりして心が高揚するだろう。その影響力は今でも持続しているらしく、2009年からノースカロライナ州ではダーティ・ダンシング・フェスティバルが開催されているという。

 エミール・アルドリーノの演出は特に目立った仕事をしているわけではないが、その分キャストの存在感がカバーしている。主演のジェニファー・グレイとパトリック・スウェイジは適役で、まさに青春スターといった感じだ。ジェリー・オーバックやシンシア・ローズといった脇の面子も良い。なお、続編が作られる予定だったが、いつの間にか立ち消えになったという。興行側としては残念なハナシだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする