元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

楡周平「象の墓場」

2016-06-30 06:22:03 | 読書感想文

 とても興味深い内容だ。激変する市場トレンドに対する企業のあり方を、実にヴィヴッドに示している。現時点でも、本書の題材になっている企業と同じような“症状”に見舞われているメガカンパニーが少なくないことを考え合わせると、読む価値は大いにあると言って良い。

 1ドルの売り上げで70セントの高収益を得るといわれる世界最大のフィルム会社ソアラ。92年当時にその日本法人に勤めていた中堅社員の最上栄介は、いきなり新事業のデジタル製品の販売戦略担当を命じられる。画像をデジタルデータとして保存する機器とソフトを売れというのだ。その頃はパソコンはまだ高嶺の花。ましてやソアラがリリースする製品は図体ばかりが大きくて機能も貧弱だ。



 こんなものが市場に受け入れられるはずがないと誰しも思ったが、案の定、在庫の山を築いただけであった。しかし、本社はそれに懲りずに矢継ぎ早にデジタル関係のアイテムを繰り出してくる。社員は右往左往するばかりだが、やがてソアラ内部の紛糾を尻目にデジタルカメラが普及し、フィルムはその役割の大半を終えようとしていた。

 誰でも分かる通り、劇中に登場するソアラというのはコダック社のことだ。しかも作者の楡周平はそこに勤めていた。臨場感があるのは当然だろう。実はコダック社は70年代にはすでにフィルムのない世界を予見していた。従来路線のままではダメだと自覚していたからこそ、製薬会社を買収する等の多角化を図ったのだが上手くいかなかった。その理由は、銀塩フィルムの市場があまりにも大きかったからだ。

 現状でも十分な利益率が保証されているのに、どうしてワケの分からないデジタル部門に全面シフトチェンジする必要があるのか・・・・という固定観念に会社の上層部は囚われていたのであろう。そのため、同社が発売するデジタル機器は銀塩の世界に片足を突っ込んだままの、極めて中途半端なシロモノに過ぎなかった。そんな売れない製品を持て余している間に、完全に世の中の動きから置いて行かれたのである。また、過度な株主優先の外資系企業の実態や、ドライな社員気質の描写も面白い。

 それにしても、一世を風靡した企業が逆にその実績に絡め取られ、新たな一歩を踏み出せないまま破綻(または破綻寸前)に追い込まれた例は、現在の日本でも枚挙にいとまがない。会社が大きくなってくると幹部が“官僚化”し、消費者をなめてかかるようになるのは仕方のないことなのだろうか。あの有名企業やこの大手企業の苦境を見ると、それを痛感する。
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「デッドプール」

2016-06-29 06:21:30 | 映画の感想(た行)
 (原題:DEADPOOL)さっぱり面白くない。賑々しい画面とは裏腹に、こちらは眠気を催してきた。アメリカではR指定作品としては興収歴代1位のオープニングを飾ったらしいが、こんなものを観て喜んでいるようでは、彼の国の観客のレベルもそう高くはないようだ(苦笑)。

 元傭兵のウェイド・ウイルソンは、金をもらって悪い奴らをこらしめるという、ヒーロー気取りの生活を送っていた。“仕事先”で知り合った恋人で元娼婦のヴァネッサとの結婚も決まり、私生活は順調のはずだったが、ある日身体の不調を覚えた彼は、医者からガンで余命幾ばくもないことを告げられる。

 落ち込む彼に声をかけたのが、ガン治癒を標榜する謎の組織。藁をもすがる思いで治療を依頼したウェイドだが、怪しげな人体実験によりガン完治はもちろん高い身体能力と不死身の肉体を得たものの、醜い身体に変えられてしまう。彼は顔を隠すために赤いコスチュームを身にまとったヒーロー“デッドプール”となり、組織のボスであるエイジャックスの行方を追う。

 まず、主人公の造型が気に入らない。度を越したお喋りで、下ネタ満載のギャグを飛ばしまくる。果ては観客に対して話し掛けたりするのだが、困ったことに全然笑えない。作り手の“冗談言ったぞ、さあ笑え!”という不遜な態度ばかりが目に付いてしまう。そもそも、主人公がエイジャックスに対して復讐しようという理由が不明だ。重い病気を治してくれたのだから、感謝しても良いではないか(笑)。さらに、相手が不死身だということが分かっていながら“デッドプール”を通常兵器で駆逐しようとするシンジケートの皆さんの間抜けぶりにも脱力する。

 ネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッドとコロッサスというX-MENのメンバー(それも二線級キャラ)が何の前振りも無しに登場するあたりは、この手の映画にありがちの“一見さんお断り”の姿勢が表面化して愉快になれない。また不必要な残虐描写の大量採用は、観る側の気勢を大いに削いでくれる。

 監督は、視覚効果分野出身で今作が初長編作となるティム・ミラーなる人物だが、力量に乏しいと言わざるを得ない。展開が行き当たりばったりである上にヘタに時制を入れ替えているものだから、ゴチャゴチャとした印象しか受けないのだ。映像面でのアイデアに特筆するようなものは無く、予算が限られているせいか「アベンジャーズ」などと比べると貧相に見えてしまう。

 主演のライアン・レイノルズはチャラいが愛嬌に乏しく、途中で顔を見るのも鬱陶しくなってくる。モリーナ・バッカリンやエド・スクレイン、ブリアナ・ヒルデブランド、ジーナ・カラーノといった脇の面子もパッとしない。観る必要の無い映画だが、MARVELものはキャラクター関係が込み入っているので、今後の作品をチェックする上で概略だけでも押さえておかなくてはならないのは、何とも複雑な気分になる。
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「ペイバック」

2016-06-17 06:28:38 | 映画の感想(は行)

 (原題:Payback )99年作品。展開にかなりご都合主義が入っているが、あまり気にらない。なぜなら、これはキャラクターを見る映画だからだ。主演のメル・ギブソンの傍若無人でサノバビッチな持ち味がよく出ていて笑えるし、脇の面子も申し分ない。快作と言えよう。

 コソ泥稼業に身をやつすポーターは、妻のリンや相棒のヴァルと共謀し、チャイニーズ・マフィアから大金を奪うという久々の大仕事をやってのける。ところがリンとヴァルはすでに懇ろになっており、ポーターは裏切りに遭って重傷を負う。一時は死んだと思われた彼だが、飲んだくれのヤブ医者の治療で何とか回復。復讐を誓う彼は、ヴァルが奪った金を“組織”と呼ばれるシンジケートからの借金返済に充てたことを突き止める。

 ポーターは昔好きだった娼婦ロージーからの情報を得て、ヴァルが滞在していたホテルを急襲し、自分の分け前をよこすように強要する。トラブルを察知した“組織”はポーターを始末すべく動きだし、このネタに勘付いた悪徳刑事たちも問題の金を横取りしようと画策する。かくして三つ巴の争奪戦が始まった。リチャード・スタークの小説「悪党パーカー/人狩り」の2回目の映画化である。

 主人公が何かアクションを起こすと、必ず次のヤマの手掛りが転がり込んでくるというパターンは安直で、敵役になる“組織”もチャイニーズ・マフィアに比べれば小粒で物足りない。悪徳刑事たちは大して“活躍”もせず、ラストの仕掛けはシンプルに過ぎる。そもそも、これだけの大暴れをやらかして警察が大々的に介入してこないのは不自然だ。

 しかしながら、ギブソン御大の不敵な面相を見ていると“まあ、これでいいじゃないか”とも思ってしまう(笑)。窮地をホイホイと脱してしまうのも“まあ、メル・ギブソンだからね”と納得だ。

 ブライアン・ヘルゲランドの演出は、深みは無いがテンポは良い。ジェームズ・コバーンをはじめクリス・クリストファーソン、マリア・ベロ、ウィリアム・ディヴェインといった濃いメンバーが顔を揃えているのも嬉しい。なお、リンに扮するデボラ=カーラ・アンガーにはきっちりと脱いでもらいたかったが、それは欲張りというものだろう(爆)。

 この頃のメル・ギブソンは絶好調で、次々と仕事が舞い込んでいたものだが、素行の悪さが明るみになった昨今は第一線から退いてしまった感がある。俳優としての存在感はまだまだあると思うので、機会があれば復帰してほしいものだ。
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「団地」

2016-06-13 06:28:26 | 映画の感想(た行)

 観ている間は退屈しないが、鑑賞後の印象は強いものではなく、それどころかヘンな後味が残る。だいたい、有名な原作を取り上げているわけでもないオリジナル脚本で、この企画が通ったこと自体、とても不思議だ。何か“裏の事情”でもあったのだろうか(笑)。

 商店街の一角で営んでいた漢方薬店を畳み、住居を兼ねた店舗まで売却して団地に移り住んだヒナ子と清治の夫婦。清治はすでに年金生活に入っており、ヒナ子はスーパーのレジ打ちのパートに出ている。とはいえ漢方薬の材料と製造用の道具は持参しており、今でも清治の作る薬を求めにやってくる謎めいた男・真城のために、便宜を図っている。

 そんな中、団地の自治会選挙に立候補した清治だが、あえなく落選。期を同じくして彼は姿を消してしまう。落ち込んだ清治は単に引き籠もっていただけなのだが、団地内ではヒナ子が清治を殺して死体を隠しているという噂が流れ、それを聞き付けたテレビ局まで取材に訪れる。一方、真城は大口の注文を持ちかけ、清治はそれに対応している間に事態は思いがけない展開を示す。

 阪本順治監督には「鉄拳」(90年)という怪作があるが、序盤のお膳立てが終盤に全てひっくり返されるという意味では、本作も似たようなものだ。しかしながら、今回の人情喜劇から“超大作”へのワープというギャップは、今までになく大きい。問題は、荒唐無稽な設定をフォローするような作劇が上手く機能していない点だ。

 まず、前半から時制をバラバラにしているのはマイナスだ。ただの小細工にしか見えず、主人公の夫婦に観客が感情移入することを妨害している。そもそも、これでは彼らが団地に引っ越してきた理由である“悲しい事実”が軽視されているように見えてしまう。向かいの棟に住む中学生が虐待されているというエピソードは尻切れトンボのまま終わり、ロン・ハワード監督の「コクーン」(85年)にも通じるようなラスト近くの扱いにしても、結局何がどうなったのか分からない。

 ならばタイトルにもある団地の雰囲気や人間模様がよく出ていたかというと、これも不発だ。私も子供の頃から何度も団地住まいを経験しているが、大量の床下収納が可能な団地なんて見たことが無い。漢方薬の材料等が搬入可能であるという時点で、団地の範囲を逸脱している。また自治会選挙に複数が立候補して、落ちた者が悔しがるということは、実際はほとんど無いだろう。自治会長なんて(何かの下心がない限り)誰もやりたくないものだ。少なくとも、先日観た是枝裕和監督の「海よりもまだ深く」における団地の描写とは雲泥の差があると言って良い。

 主人公夫婦を演じる藤山直美と岸部一徳をはじめ、大楠道代、石橋蓮司、斎藤工、濱田マリ等の濃い面々が揃い、それぞれ個人芸で笑わせてはくれるのだが、ストーリー自体がこの有様では何やら寒々とした雰囲気になる。大阪の団地という設定ながらロケは栃木県足利市で行われたというのも、何やら違和感が漂う。各キャストの“持ち芸”を楽しみたい観客以外には、あまり奨められないシャシンだ。
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「チアーズ!」

2016-06-12 06:20:01 | 映画の感想(た行)

 (原題:Bring It On )2000年作品。チアリーディングを題材にしているが、それまでこのネタを大々的に取り上げた映画はあまり存在しなかった。それだけでも本作では大きなアドバンテージになるが、出来の方もかなり良いので、まさに言うことなしだ。幅広く奨められるシャシンである。

 カリフォルニア州のランチョ・カルネ高校のチアリーディング・チーム“トロス”は、全国大会で何度も実績を上げた名門だ。ところが、今シーズンも優勝を狙おうと張り切っていたキャプテンのトーランスに、思いがけない事実が突きつけられる。実は、それまで高評価だった“トロス”の振り付けが、市内の無名高校のチーム“クローヴァーズ”から盗用されていたというのだ。

 高校側は慌てて自称“カリスマ振り付け師”の怪しげな男に仕事を依頼してしまうが、コイツがとんだ食わせ物で、逆に“トロス”は窮地に追いやられてしまう。さらに、トーランスのボーイフレンドで大学生のアーロンが浮気していることが発覚。果たしてトーランスと“トロス”の面々は、逆境を克服して大会に臨むことが出来るのか。

 とにかく“ライバルがいて友情があって恋があって、一度は挫折するけど最後にはみんな頑張って大きな活躍を見せる”という明朗青春スポ根ドラマのルーティンを何のてらいもなく追っているところが嬉しい。ペイトン・リードの演出はあくまでテンポが良く、善玉悪玉(?)入り乱れた各キャラクターも実に良く“立って”いる。猪突猛進型ながらそそっかしい面が笑いを誘うトーランスの言動もケッ作だが、彼女の家族(特に色ボケの弟)が絶妙のコメディ・リリーフだ。

 見所のチアリーディングの場面はサーカスのようなダイナミックな技の連続で多いに楽しめるが、それ以前に(たぶん)素人である主要キャストに一端のチアリーディングの演技をさせてしまうハリウッドの製作システムは認めざるを得ない。

 主演のキルスティン・ダンストは相変わらず不美人だが(笑)、この作品に限っては明るく元気で愛嬌たっぷり。実に魅力的に撮られている。冒頭のミュージカルもどきの場面なんか、大いに受けた。さらにはラストにNG集まであり、観客サービスは万全。ショーン・モーワーのカメラによる、明るい西海岸の“空気感”の醸成、クリストフ・ベックの音楽も申し分ない。それにしても、封切られたときはミニシアターでの上映公開だったのは解せない。もっと拡大公開してもおかしくない内容だ。
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「ヒメアノ~ル」

2016-06-11 06:18:18 | 映画の感想(は行)

 ラブコメとサイコホラーの“二本立て”という、その構成が面白い。もっとも、後半のサイコホラーの部分はあまり上等な出来ではないが、ラブコメとの対比の妙によってあまり気にならなくなってくる。こういう作り方はまさにアイデア賞ものだ。

 将来に不安を抱きつつもビル清掃会社のパートタイマーとして冴えない日々を送る岡田は、ある日職場のヘンな先輩である安藤から、想いを寄せるコーヒーショップの店員ユカとの恋のキューピット役を頼まれる。渋々引き受ける岡田だが、キモい安藤をユカが気に入るはずもなく、あえなく断られてしまう。ところが、どういうわけか彼女は岡田の方を好きになり、安藤には内緒で付き合うことになる。

 一方、ユカが働くカフェには森田という風体の怪しい男が毎日客として通っていた。森田は岡田の高校時代の同級生であり、岡田は彼が昔手酷いイジメに遭っていたことを思い出す。森田は“ある事実”をネタにしてかつてのクラスメイトの和草を強請っていたが、森田の態度を忌々しく感じていた和草は、婚約者の久美子と共謀して森田を殺害しようとする。古谷実による同名コミック(私は未読)の映画化だ。

 前半のラブコメの部分は楽しめる。仲介役をやるハメになった主人公が、思いがけず“漁夫の利”を得ることになり、知らぬは依頼元の安藤だけという設定は、ベタだがけっこう笑える。しかも、安藤のキャラクターがすこぶるいい加減で、反面すこぶるピュアだという、アンビバレンツなスタイルを見事に体現化しているのがケッ作だ。

 また、一見清純そうなユカが実はかなりの“肉食系”で、それを知った岡田が困惑してしまうのもおかしい。さらに、登場人物たちが“普通の生活”を夢見ながらも、自らの甲斐性を勝手に見切ったように非正規雇用に甘んじているあたり、当世の若者気質を垣間見るようで切なくなってくる。

 さて、森田が中心となって展開する後半の血しぶき満載の修羅場は、ハデだがイマイチ盛り上がらない。それは、彼が平気で人を殺すようになったのは、学生時代のイジメが原因であることが明示されているからだ。どんなに異常な言動を見せつけられても、底が割れてしまってはインパクトは弱い。しかも、過去のトラウマが彼を悩ませていることを、過度に平易な描き方で片付けられているのは気勢が削がれる。この点、得体の知れない暴力が横溢する「ディストラクション・ベイビーズ」と比べれば、かなり見劣りすると言えよう。

 サイコホラーのパートが斯様に冴えないものならば、いっそのこと全編(エッジの効いた)ラブコメにしてしまった方が良かったかもしれない。とはいえ吉田恵輔の演出は、過去の諸作より語り口が上手くなっている。主演の濱田岳や森田剛、佐津川愛美も好演。特に安藤に扮するムロツヨシはまさに怪演で、観ていてかなり盛り上がる。野村卓史による音楽も効果的だ。
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音楽に全く関心の無い人々。

2016-06-10 06:21:55 | 音楽ネタ
 日本レコード協会が今年(2016年)3月に発表した“音楽メディアユーザー実態調査”の最新版となる2015年度版において、10代から60代までの約2千人の調査対象の中で、無料でも音楽を聴かない“完全な無関心層”が34.6%を占めたことが明らかになった。つまり、今や我が国ではおよそ3人に1人が“無料でも音楽を聴かない完全な無関心層”であるらしいのだ。

 これに対してネット上やマスコミでは“(AKB商法などをやり玉に挙げて)最近のJ-POPの製作サイドのいい加減さ”を指摘したり、“良い楽曲が少なくなった”ということを嘆いてみたりと、いろいろな意見が飛び交っているようだが、それらはすべてピント外れである。なぜなら、もしも作り手の怠慢や目立つ楽曲の不在などが“音楽離れ”の原因であるならば、提供側の努力によって何とかなりそうなものだが、今回の調査における“無料でも音楽を聴かない完全な無関心層”は、それでも動かないからだ。

 最初から全く関心の無い層に対して、いくら良質のコンテンツを提示しても無駄である。例えれば、ゴルフに興味の無い者に安くて良いクラブを奨めたり、近場にある環境の良いゴルフ場を紹介するようなものだ。言うまでもなく、そんな行為は徒労に終わる。

 私はこの結果に対して、(調査方法の内容は別にしても)少しも驚きはしなかった。その理由は(以前も書いたとおり)日本人は元々あまり音楽が好きではないからだ。諸外国の状況はどうか知らないが、少なくとも日本に西洋音楽が入ってきてから百数十年しか経っていないのは事実。音楽を鑑賞するという行為は根付いていないと考えるのが自然だろう。

 では、なぜ90年代半ばまではミリオンセラーが頻出したのか。それは今ほど景気が悪くなく、庶民には自由に使える金がまだまだあったからだ。そして“みんなが聴くから自分も聴く”というような、日本人らしい横並び的な発想があったことも見逃せない。

 で、景気が後退して将来の展望も見えない現在は、音楽という“元々好きではないもの”に対してカネやヒマを注ぎ込むことが無くなったと・・・・つまりはこういうことだ。実に単純な話である。さらに巷では“若者が音楽を聴かなくなった”ということがクローズアップされるが、調査結果で目立っているのは40歳以上の年配層の“音楽離れ”の方だ。これも単に“若い頃は付和雷同的にハヤリの音楽に耳を傾けていたが、トシを取って世のトレンドに無頓着になった結果、音楽自体に興味が持てなくなった”という筋書きでしかない。

 しかしまあ“3人に1人が音楽について完全な無関心”であることは、言い換えれば“3人に2人は、今でも音楽に何らかの関心がある”ということでもある。オーディオの潜在市場も決して小さくないとも言えるわけで、業界は“音楽離れ”を言い訳にせずに、市場の拡大に精進してもらいたいものだ。
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「ディストラクション・ベイビーズ」

2016-06-06 06:22:51 | 映画の感想(た行)
 暴力の持つ禍々しい魅力を活写し、観る者に強い印象を与える問題作だ。言い訳無しで小賢しい考察もスッ飛ばし、現象としての暴力を理不尽なまでに定点観測するだけの映画。それを“表現力の不足だ”と切って捨てる向きもあるかもしれないが、私はこの潔さを大いに楽しんだ。

 舞台は松山市の三津浜地区。泰良と弟の将太は子供の頃に親がいなくなり、小さな造船所の社長に引き取られて暮らしてきた。泰良は物心ついたときからケンカにしか興味が無く、18歳になった今でも誰彼構わずケンカを売りまくり、手酷くブチのめされてもしつこく食い下がっていく。ある日彼は、弟の将太を一人残して松山の繁華街に赴く。そこでも無差別的に暴力を振るい、遂にはヤクザの構成員とも揉め事を起こす。



 そんな泰良に興味を抱いて近付いてきたのは、地元のヘタレな不良高校生の裕也だった。彼は泰良に“2人でコンビを組んで面白いことをしようや”と持ちかけ、通行人に対して通り魔的な行為を繰り返す。果てはヤクザの車を強奪し松山の市外へと向かうのだが、たまたま乗り合わせていたのが若いホステスの那奈だった。那奈を拉致した2人の行動はエスカレートする。一方、兄を探すため松山市街にやってきた将太はスケボー仲間との関係が険悪化し、さらなるトラブルを抱え込むことになる。

 とにかく、泰良の造型が凄い。どんなにダメージを受けてもしばらくすると何事も無かったかのように立ち上がり、狙った相手を叩きのめすまで攻撃をやめない。すでに人間の領域を逸脱してターミネーターの次元にまで到達している(笑)。何のバックグラウンドも無く、ただ呼吸するように暴力を振るい続ける彼の姿に、嫌悪感を通り越して一種の陶酔感を覚えるのは、新鋭監督の真利子哲也の偏執的な人間観ゆえだろう。



 つまりは“人間、一皮剥けばこんなものだ”という決めつけにより、力業で観る者をねじ伏せているのだ。こんなインモラルな方法論も(技量が伴えば)許されるだろう。それに貢献しているのが、泰良役の柳楽優弥の卓越した演技力だ。常軌を逸した言動は、キ○ガイそのもの。ほとんど“地”ではないかという気もしてくる。

 裕也に扮する菅田将暉の狂いっぷりも見ものだ。人間のクズというのは斯くの如しだという、突き抜けたパフォーマンスで圧倒させる。将太を取り巻く状況もロクなものではないが、土地の祭をモチーフにしているところが出色だ。もちろん、地域のコミュニティーを肯定的で描くための小道具では決して無く、祝祭の裏側に隠されたドス黒い暴力の奔流を見事にすくい取っていく。文字通り暴力的な幕切れまで、緊張の糸が切れることが無い。小松菜奈や村上虹郎、池松壮亮、でんでんといった他のキャストも言うことなしだ。
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「イグジステンズ」

2016-06-05 06:40:01 | 映画の感想(あ行)

 (原題:eXistenZ)99年作品。デイヴィッド・クローネンバーグ監督作としては、ストーリーや映像のキレ具合は「ヴィデオドローム」(83年)や「裸のランチ」(91年)などには及ばない。しかしながら、取り上げられているモチーフには面白いものがあり、観て損は無い映画だと言える。

 誰もが脊髄にバイオポートと呼ばれる穴を開け、そこにコントローラーを接続して仮想現実ゲームを楽むようになった近未来が舞台。新作ゲーム“イグジステンズ”の発表会場で、カリスマ的な天才ゲームデザイナーのアレグラが何者かによって銃撃される。犯人はヴァーチャルリアリティーゲームを敵視する“リアリスト”のグループらしい。警備員のテッドは負傷した彼女を連れて現場から逃げるが、彼女は自身の安全よりも襲撃された時に傷ついたゲームの原本の方が心配らしい。それが正常に動くかどうか確かめるために、テッドはアレグラと共にゲームの世界に入る。

 そこは実世界と見分けが付かないほどの造型を示すが、敵グループもやっぱり存在し、2人を追い回す。何とかそれらを倒してステージをクリアしていくが、現実に戻っても事態は変わらない。果たして、この事件自体が本当のことなのか、あるいは最初からゲームの中での話だったのか、それを見極められないまま、2人の逃避行は延々と続くのであった。

 いかにもクローネンバーグらしいグロいコンテンツが満載だが、ストーリー自体はありきたりで物足らない。公開された時期においても“ゲームの虚構性と現実とのギャップ”なんて、誰でも考えつきそうなネタで珍しくも無い。まあ上映時間は短めだし、初めてクローネンバーグに接する観客にはちょうどいい入門編になるかもしれないが・・・・。

 ただし、バイオポートによりデジタルのコンテンツを“そのまま”脳に送り込むというアイデアの映像化には興味を惹かれる。これを応用すれば、ゲームの他にも多種多様な情報をダイレクトに脳に書き込む事が可能になる。音楽鑑賞も同様で、スピーカーを介さずにソースのデータを認識できるだろう(笑)。

 ジュード・ロウやジェニファー・ジェイソン・リー、イアン・ホルム、ウィレム・デフォーといった面々がアクの強い演技を披露し、ハワード・ショアはハッタリの効いた楽曲を提供。同年のベルリン国際映画祭にて芸術貢献賞を受賞している。
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「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」

2016-06-04 06:21:25 | 映画の感想(ま行)

 (原題:WHERE TO INVADE NEXT)観ている間は面白い。取り上げられている題材も興味深い。しかし、この作家が物事を表層的にしか捉えていないのは、相変わらずだ。ひょっとしたら、社会的・歴史的な深い考察を試みないのは彼だけではなく、アメリカ人自体の特徴ではないのだろうか。そういうことを考えてしまう一作である。

 大義名分を掲げて今まで世界のあちこちに出兵していったアメリカだが、いずれも良い結果に繋がらなかった。困ったアメリカ国防総省幹部は、政府にとっての要注意人物であるはずのマイケル・ムーアに相談を持ちかける。そこでムーアは、自身が国防省に代わり“侵略者”となって、ヨソの国から役に立ちそうなものを略奪するために出撃することを提案。彼は空母ロナルド・レーガンに乗船し、ヨーロッパを目指す。・・・・以上の前振りはもちろん“ネタ”に過ぎないのだが(笑)、要するにムーアによる欧州探訪記であり、そこで拾った面白い話を披露しつつ、外からアメリカのあり方を論評しようという仕掛けである。

 イタリアでは労働者に長期の有給休暇が付与され、しかも平均寿命はアメリカより長い。フランスの小学校の給食はフルコースが出てくる(対してアメリカのそれは猫のエサ並だ)。フィンランドの学校では宿題は無いが、生徒の学力は世界有数である。スロベニアの大学は学費がタダで、アイスランドの政界や財界は女性が元気だ。

 特に感銘を受けたのがノルウェーにおけるテロ事件の犠牲者の遺族が、決して犯人に対して極刑を望まないことだ。まさに“罪を憎んで人を憎まず”という姿勢が徹底しており、そこには崇高な精神が存在していることが窺われる。

 そして、これらの国では広く認知され実行されてきた概念、すなわち男女同権とか教育重視、労働者の権利の保障や福祉政策などは、実はアメリカが発祥であったことが示される。つまりは“ヨソの国ではちゃんとやっているのに、本家本元のアメリカでは全然成されていない。だからアメリカよ、しっかりせよ!”という筋書きを、例によって面白おかしい語り口で綴っているのである。

 なるほど、作者の言いたいことはよく分かる。しかしながら、それだけでは不足なのだ。大事なのは、どうしてアメリカはそんな体たらくなのか、その原因を探ることである。本作にはその姿勢が無いので、良く出来たテレビのバラエティ番組程度の訴求力しか獲得出来ない。

 とはいえ、ムーア以外のアメリカ人の映像作家にはそれが可能だったのかというと、すこぶる疑問だ。なぜなら、アメリカには“歴史”が存在せず、元々はイデオロギーだけで成り立った国だからだ。そんな国の住人にとって、自らを深遠な歴史観や思想・宗教観によって他国と比較することなんか、無理な注文だろう。

 ムーアの奔放な言動は健在で、他国の大統領とも会見出来てしまうのは驚く。だが、今回は必要以上の体重の増加と老いが目立ち、颯爽とした感じがあまりないのは心配だ。健康には気を遣ってほしい。
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