元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ニーチェの馬」

2012-06-30 06:30:48 | 映画の感想(な行)
 (原題:A torinoi lo)あまりにも図式的な展開で、愉快ならざる気分になってくる。19世紀末の哲学者ニーチェによる“神は死んだ”という名台詞を元にして、聖書にある“七日間に渡る天地創造”を逆パターンにして綴っただけの話。さらにニーチェが正気を失う切っ掛けとなったといわれる“疲弊した馬車馬”というモチーフを、そのまま映像として引用している。いわば、思い付いた素材を漫然と積み上げているに過ぎず、そこには何の工夫も見当たらない。

 烈風吹きすさぶ荒野の一軒家に住む初老の男(デルジ・ヤーノシュ)とその娘(ボーク・エリカ)。男は右腕が不自由で、娘の手助けがないと着替えも出来ない。男は馬車に乗って町へ通うのを日課にしていたが、ある日馬が言うことをきかなくなる。やがて馬はエサも食べなくなり、二人の生活は困窮する。

 家には男の知人や町からやってきた一団などが尋ねてくるが、二人の運命に関与するわけでもない。そして世界は終末に向かって進んで行く・・・・とかいった筋書きだ。



 時代設定がいつなのかは分からないが、とにかく現代ではない(ニーチェが生きた19世紀を想定しているようにも思える)。二人がどうやって生計を立てているのか、それは分からない。どうして男が町に行っていたのか、そのことも不明。映画は“一日目、二日目”といった具合に日毎のチャプターに分かれている。日が進むにつれて二人は追いつめられ“六日目”を最後にしてエンドマークを迎える。

 もちろんこれは、神は天地創造に六日かかって七日目は休んだという話を裏返したもので、六日で世界は終わってしまうので七日目は存在しないというシニカルな筋立てである。

 終末論をテーマにした映画は他にもいくつかあるが、アンドレイ・タルコフスキー監督の傑作「サクリファイス」を思い出す映画ファンは多いだろう。しかし本作は「サクリファイス」の足元にも及ばないヴォルテージの低さを露呈させている。あの映画で綴られた作者の切迫した想いと究極的な“祈り”といった観客を揺り動かすパッションは、この映画のどこにもない。自己満足的な画面が冗長に流れていくだけだ。

 J・G・バラードのSF小説「狂風世界」を思わせるような荒天の描写や、熱気をはらんだ馬体の映し方、長回しを基調としたカメラワーク、モノクロ撮影によるストイックな画像などヴィジュアル面では見るべきところはあるが、本編自体が低調なので、ただの“珍奇なエクステリア”としての存在価値しかない。

 監督はハンガリーの名匠と言われるタル・ベーラだが、私は彼の作品を今まで観たことがない。ただ、本作のようなタッチがどの映画にも踏襲されているのならば、観る気は起きない。
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「ピストルオペラ」

2012-06-29 06:35:46 | 映画の感想(は行)

 2001年作品。謎の殺し屋組織ギルドの番付ナンバー2が殺されたことにより、組んずほぐれつのバトルが勃発。鈴木清順監督が自作「殺しの烙印」を元に、さらにカッ飛んだ世界を演出する。

 実に面白い。伊藤和典によるトリッキィな脚本を、さらに引っかき回したような清順御大の天衣無縫ぶりには脱帽だ。冒頭いきなり沢田研二を殺してしまう大胆さ。オープニングタイトルも「007」シリーズを思わせるカッコ良さだ。

 ヒロインの和服にブーツ姿という奇矯なスタイルも“ちゅうちゅうたこかいな”というシラケそうなセリフも、江角マキコがやると本当にサマになる。現時点での彼女の出演作の中では一番魅力的に描かれているばかりではなく、エージェント役の山口小夜子や子役の韓英恵など、女性陣の扱いのうまさに感服した。一頃“鈴木清順に女は撮れない”と斜に構えていた評論家連中がいたらしいが、彼らは猛省すべきであろう。

 そして映像のトンでもない美しさ。木村威夫による美術もさることながら、撮影の前田米造とSFX担当の樋口真嗣の仕事ぶりも光る。とにかく、強烈な個性と美意識で構築された異色の快作であり、一度観たらクセになる麻薬性を秘めている。

 それにレゲエを大々的にフィーチャーした小玉和文の音楽のなんと素晴らしいこと。唯一不満な点は、宍戸錠が出ていなかったことぐらいだろう(^^;)。
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「コミタス」

2012-06-25 06:35:11 | 映画の感想(か行)
 (原題:Komitas )88年作品。19世紀に実在したアルメニアの修道士兼作曲家コミタス・ヴァルダペットを描く作品。かなりの才能を持ちながら1915年のトルコによるアルメニア侵略戦争の際、作曲活動を断念。余生を精神病院で過ごしたコミタスの生涯を題材とするのは、“アルメニアの映像詩人”と呼ばれるドン・アスカリアンなる人物。評論家出身で、セルゲイ・パラジャーノフの助監督をつとめたこともある。

 さて、観終わっての感想は“なんじゃこりゃ!”である。ストーリーはない。心象風景らしい詩的な映像が意味不明のサブタイトルと共に延々と流れるだけ。

 人によっては美しいと感じるらしいこの画面は、表面的はアンドレイ・タルコフスキーの二番煎じにすぎない。ただ、タルコフスキーの作品に流れる崇高なまでのストイックさや厳しさはここにはない。中身はカラッポだ。かといってBGV的な心地よさも皆無。ミョーに神経を逆撫でする場面もある。反戦のメッセージだの、民族の叫びだの、そんな誰にでもわかる主題をわざと込み入った手法でわかりにくく見せるのがこの作家の情けない手口だ。

 要するに、内容が無いくせに“なんとかカッコだけつけて知的スノッブの観客たちに取り入ってやろう”という意図がミエミエだ。なお、この映画は東京国際映画祭で観たのだが、その後一般上映されたかどうかは不明である。
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「幸せへのキセキ」

2012-06-24 07:15:01 | 映画の感想(さ行)

 (原題:WE BOUGHT A ZOO )何とも“ぬるい”映画である。各モチーフの上っ面を撫でただけであり、ストーリー展開は行き当たりばったり。何ら突っ込んだ描写や骨太のテーマの表明も成されておらず、この程度で“感動作”を標榜しないでもらいたい。

 コラムニストのベンジャミンは半年前に最愛の妻を亡くし、失意の中にあった。仕事面でも行き詰まった彼は、心機一転を図るべく郊外の丘の上に立つ古い邸宅を購入する。ところがその物件には、前所有者が開設し今は休業中の動物園を維持するという条件が付いていた。再オープンを決意して奔走するベンジャミンだが、資金繰りが苦しい中、さらに当局からの査察まで入ってくる。果たして彼は動物園を再建出来るのか・・・・という話だ。

 いささか突飛な設定だが、英国のコラムニストであるベンジャミン・ミーの自伝を元にしており、ほとんどが実話だという。ならば“本当にあったのだ”ということを観客に納得させるために、ディテールを練り上げなければならない。しかし、どうもこのあたりがいい加減なのだ。

 いくら辛いことがあったとしても、それがどうして“田舎暮らし”に繋がるのかよく分からないし、主人公が動物園の運営に乗り出す理由も説明されていない。さらには、オープンの目処が付かないのに黙々と動物の世話をする従業員達の、強い使命感も描出されているとは言い難い。

 ベンジャミンの中学生になる息子は病的な絵ばかり描いて心の傷が深いことが示されるが、後半には大したプロセスも経ずにコロッと“良い子”に変貌してしまうのだから呆れる。そもそも主人公の悪戦苦闘を取り上げる前に、この地に動物園がいかに必要だったのかを十分に説明すべきだったのではないか。おかげでベンジャミンの行動が単なる向こう見ずな“蛮勇”見えてしまうし、終盤の感動シーンも薄っぺらになってしまった。果ては中盤から話が亡き妻との馴れ初めなんかに移行するようになるのだから、観ていて脱力するばかり。

 キャメロン・クロウの演出はキレもコクもなく、主演のマット・デイモンや相手役のスカーレット・ヨハンソンも熱演のわりにはこちらに迫ってくるものがない。まあまあ良かったのは、若い飼育員に扮したエル・ファニングぐらいだ。

 結局、本作の唯一の見どころ(聴きどころ)は音楽である。何と、アイスランドの先鋭的バンド“シガー・ロス”のヴォーカル担当のヨンシーが起用されている。流れるような、それでいて音像のエッジが“立って”いるような独特のスコアは、作品の雰囲気が安っぽくなるのを何とか食い止めているようだ。サントラ盤だけはオススメである。
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「堕天使のパスポート」

2012-06-20 06:34:50 | 映画の感想(た行)

 (原題:Dirty Pretty Things )2002年作品。ロンドンの下町に住む、パスポートとアメリカ行きの切符を手に入れるため危険な選択をする若い移民の女と、彼女を守る男性の姿を描く。

 ロンドンの片隅に住む異邦人たちを描くスティーヴン・フリアーズ監督作といえば「マイ・ビューティフル・ランドレット」を思い出すが、この映画は社会派スリラー方面に振った作りである。ただし、この重いテーマでは「マイ・ビューティフル~」にあった飄々とした味わいに欠けるだけではなく、単純なサスペンス編としても楽しめない。ドラマが主題に負けてしまったような閉塞感が漂っている。

 政情不安な本国から逃れてイギリスに辿り着いた不法滞在者たち。ただし彼らが表社会に出るためには偽造パスポートを手に入れるしかない。そこに犯罪組織が付け入り、臓器売買という闇マーケットが成立する。シビアな現実だが、この問題を前にしても誰も具体的な解決方法を提示できない。

 主人公であるナイジェリア人の元医師とトルコ人の娘も、自分たちに降りかかる火の粉を払うのに精一杯だ。こういうネタは娯楽映画の一要素として扱うには不向きだと思う。どうしても取り上げたいなら、ドキュメンタリー仕立てにして真正面から取り組むべきだろう。

 主演のキウェテル・イジョフォーは好演。相手役のオドレイ・トトゥも頑張っているが「アメリ」のイメージが強い彼女にはトルコ人役は違和感がある。
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McIntoshのアンプを試聴した。

2012-06-19 06:35:06 | プア・オーディオへの招待
 先日、市内の某家電量販店でオーディオシステムの試聴会が行われていたので足を運んでみた。米国McIntosh社の新作アンプ類のデモンストレーションであり、音量調節や入力切り替えを司るプリアンプにC48、スピーカーを駆動するためのメインアンプにMC302、CDプレーヤーにMCD301というラインナップで、スピーカーは米国JBL社の4365が使われていた。定価ベースで総額350万円ほどのシステムである。

 このMcIntoshのアンプにJBLのスピーカーという組み合わせは、昔は我が国のオーディオファンの“憧れの的”だった。電器店のラジオCMにも“マッキンのアンプにジムランのスピーカー、いつかは揃えたい”とか何とかいうフレーズが踊っていたことを思い出す。しかし、どういうわけか私はこの組み合わせを聴いたことがなかったのだ(爆)。



 もちろん、両方のブランドの製品にはこれまで幾度も接している。特にJBLのスピーカーは一時期保有していたほどだ。ただし、両者のコラボレーションが如何ほどのものか、確かめたことはなかった。これではオーディオファンを名乗れない。そういう意味で、今回の試聴会は楽しみにしていた。

 ところが実際に聴いてみると・・・・事前の“素晴らしい音が聴けるのではないか”という期待が雲散霧消してしまうのに1分とかからなかった。ハッキリ言って、この音はダメだ。聴けたものではない。

 高域が押しつけられたように全く伸びない。低音は不明瞭で音像が聴き取れない。中域は無駄に音像が大きく、分解能は著しく低い。音場に至っては奥行き感がほとんど出ていない。最初機器の設定やケーブルの接続がおかしいのではないかと思ったが、よく見てもそんな様子も無い。セッティングにも不適当なところは見当たらないので、この低レベルなパフォーマンスがこのシステムの“実力”だということだろう。

 ただし、温度感というか、妙な熱っぽさだけはある。ひょっとしたら古いジャズならば上手く鳴らせるのかもしれないが、幅広いジャンルを聴くユーザーには不向きだ。



 この組み合わせが昔のオーディオファンの間で高級機の代表であったのは、おそらくは日本に入ってくる米国の高級コンポーネントがこの二つのブランドぐらいしか無かったからではないか(まあ、他にも数社あったが ^^;)。しかも、古いジャズばかり聴くマニアが少なくなかったことも大きかったと想像できる。

 JBLのスピーカーも今回のMcIntosh以外のアンプでは上手く鳴っているケースが多いし、McIntoshのアンプだって同社のスピーカーや英国TANNOY社のスピーカーなどを繋げると楽しい音を出す。個々の性能は悪くないのに、組み合わせると低調な音しか出ない。これがオーディオの面白いところだとも言える。それを改めて実感した次第だ。

 なお、McIntosh製品のデザインは昔からコンセプトが確立されており、黒い筐体にブルーの照明というコントラストは今見てもキレイだ。しかし、仕上げや質感は同価格帯の国産機よりは落ちる。メンテナンスの課題も含めて、このあたりが私が海外製アンプに手を出せない理由でもある。
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「ウォーターボーイズ」

2012-06-18 06:36:05 | 映画の感想(あ行)
 2001年作品。矢口史靖監督の出世作だが、それまで私は彼を全然信用していなかった。デビュー作「裸足のピクニック」(93年)は愚作と言うしかなく、続く「ひみつの花園」(97年)も寒々としたギャグが並んでいるだけのカスだったし、第三作「アドレナリンドライブ」(99年)は観る気も起こらなかった。

 ところが、巷での評判で騙されたつもりになって観たこの新作には心底驚いたものだ。なんと、目のさめるような青春映画の快作ではないか。この監督、知らない間に大きな成長を遂げていたのだ。埼玉県の男子高校を舞台に、シンクロをやるハメになった野郎ども(妻夫木聡、近藤公園ほか)の奮闘を描くこの映画は、明朗青春スポ根ドラマのルーティン(王道)を一歩も踏み外さない。



 思えば矢口監督のスタンスってのは、本作より以前は“いじけたオタク”そのものだった。自分の頭の中だけで考えた“きっと面白いであろうネタ”をそのまま図々しく垂れ流し、それでいて“ウケないかもしれないな。まあいいけど”という自嘲と自己逃避と被害妄想を中途半端に散りばめただけの、実に観客をバカにしたものであった。

 この作品にも、シンクロを提案しながら早々に産休に入ってしまう真鍋かをり扮する女教師や、主人公たちを全然指導する気のない竹中直人演じるコーチの扱い方に、その“いじけぶり”が見て取れて不快な気分になりかかるが、“明るい青春映画”という娯楽路線に邁進する作品の方向性はそれらを破綻寸前で阻止する。

 過度にオタクなテイストを受け付けないメジャーな企画だからこそ、そしてそれに向き合った作者の開き直りこそが作品の成功に繋がったのだと思う。

 ラスト10分間のシンクロ演技は素晴らしい。あまりの見事さに涙が出そうになった。日本映画でもこんなに天晴れなスポーツ場面が作れるのである。主演5人の面構えも良いし、クラシックや歌謡曲等の選曲もセンスいい。まさに必見の映画だ。
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「ソウル・サーファー」

2012-06-17 07:16:44 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SOUL SURFER )良く出来たアイドル映画だと思う。ハワイに住むプロ・サーファー志望の少女ベサニーがサメに片腕を奪われてしまうが、絶望を乗り越えて奮起し大舞台で活躍するという、絵に描いたようなスポ根もの。よく考えてみると、ストーリー面では食い足りない部分がある。

 まず、いくらサーフィンが好きでもサメが泳ぎ回っている(かもしれない)海にスグに入ろうとする、その気持ちが分からない。少しはトラウマを引きずっているような面を出すべきだ。さらに、キリスト教の伝道師グループが介在するというのも、何となく愉快になれない。まあ米国にはこういう“団体”が多数存在して地域の精神的支柱になっているという話は聞くが、部外者の私から見ればカルトもどきの様相を呈してくる。

 しかも、このグループが中心になってタイの津波被災地のためのボランティアを組織し、ヒロインがそれに加わることによって自分が出来ることをシッカリと確認するという、何とも図式的な御膳立てが用意されている。実話を元にしている映画であり、正面切って“これらも本当のことなのだから仕方がない!”と開き直られると何も言えないが(爆)、居心地が悪いのは確かである。

 だが、そんな難点を帳消しにしてくれるのが主人公に扮したアナソフィア・ロブの奮闘だ。「テラビシアにかける橋」や「リーピング」に出演した子役時代からそのルックスは際立っていたが、ハイティーンになった今はアイドル的容姿に磨きが掛かっている(笑)。アメリカ人の女優としては小柄で(同学年のダコタ・ファニングよりも10センチ近く低いらしい)、加えて表情が豊かで可愛らしく、性格が良さそうに見える。実に日本人ウケするキャラクターだと言えよう。

 そんな彼女が逆境をものともせずに困難に立ち向かうのだから、観ている方も応援せずにはいられない。数ヶ月の特訓の成果で、サーフィン場面は頑張っている。難易度の高い技に限っては映画のモデルになったベサニー・ハミルトンが担当しているが、これだけ出来たのだから合格点だろう。

 ショーン・マクナマラの演出は派手さは無いが、スムーズにドラマを運んでいる。両親役のヘレン・ハントとデニス・クエイドも好演。キャリー・アンダーウッドが歌声を少し披露してくれたのも嬉しかった。サーフィンの描写は「ビッグ・ウェンズデー」や「ブルークラッシュ」ほどではないが、かなり健闘している。クライマックスの競技会のシークエンスは、ライバルに大差を付けられるが終盤で怒濤の追い込みを掛けるという、この手の映画の常道手段が展開されるが、やはりかなり盛り上がる。

 エンドクレジットにはベサニー・ハミルトン本人の映像が登場。不自由な身体で妙技を披露し、さらに彼女の家族(両親や兄たち)それから友人も凄腕のサーファーとして名を成しているのを知るに及び、胸が熱くなった。風光明媚なハワイの自然も紹介され、鑑賞後の印象は上々である。
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「明日を夢見て」

2012-06-14 06:09:48 | 映画の感想(あ行)
 (原題:L'Uomo Delle Stelle)95年作品。 戦後間もないシチリア島にやって来たジョー(セルジォ・カステリット)は、映画の新人オーディションと称して島民から手数料を取ってカメラの前でテストをさせる。もちろん詐欺で、カメラにフィルムは入っておらず映画会社とは何のコネもない。ある町で女優を夢見る身寄りのない若い娘ベアータ(テッツィアーナ・ロダート)と出会った彼は、彼女に魅かれるものを感じ、一緒に旅を続けることになる。しかし、官憲の手は着実にジョーを追いつめていく。

 「ニュー・シネマ・パラダイス」(←私の一番嫌いな映画だ)のジュゼッペ・トルナトーレ監督作だが、作劇のクサさは相変わらず。島民たちがジョーのカメラの前で演じるのは“映画への愛にあふれた純情無垢な観客”であり、ペテン師の彼もいつしか映画そのものの魅力にのめり込み改心するという、いかにも頭の中だけで考えたような三文芝居を、イタリア製メロドラマらしいお涙頂戴劇でひと山当てたという感じだ。



 イカサマが見え見えのジョーの手口は、いくらナイーヴな島民とはいえ誰も気付かないのはおかしいし、だいたい大手映画会社のエージェントなら一人であんな片田舎をウロつくわけがない・・・・などという揚げ足取りも今回はむなしい。“阿呆な観客から紅涙しぼり出させるなんてチョロイものさ”という傲慢さだけが先行する、ひたすら不愉快な映画である。

 マフィアのボスの葬式に呼ばれる話や(まるで任侠映画みたいな大仰な展開!)、戦争で言葉を失った老人がジョーのカメラの前で切々と語る戦場での体験(というわりには切迫感も緊張感もなし)、撮影中に女の口説き方を得々と語る田舎のプレイボーイとか、政治的プロパガンダをおっ始める共産党員、娘を女優にするためジョーに身体を与える母親etc.どのエピソードも真剣に描こうとは考えておらず、単に見た目の賑やかさでしかない。

 極めつけはベアータのキャラクター設定で、たぶん「道」のジュリエッタ・マシーナあたりの物真似だろうが、ヒロインに対する愛情も共感もなく、単に胸が大きいだけのバカな女という位置づけしかない。ジョーと心を通わせるプロセスも納得できるようには示されず、演じるロダートの素人演技もあって、ドッと白けてしまった。

 つまりはこの監督、この時代のシチリアの住民なんてちっとも愛しておらず、主人公もヒロインも単なる“記号”でしかなく、すべては低級メロドラマのネタとしか考えていない。それをダンテ・スピノッティのカメラとエンニオ・モリコーネの音楽で何とか厚化粧をして、雰囲気だけで売ろうとする下心がイヤらしい(-_-;)。
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「少林サッカー」

2012-06-13 07:16:29 | 映画の感想(さ行)
 (原題:少林足球)2001年作品。少林拳の達人たちがサッカーチームを結成し、強豪悪徳チームと死闘を演じるという活劇編。当時は香港映画史上No.1のヒットを記録した話題作だ。

 で、私自身の感想はというと、期待が大きすぎたのか、はたまた封切り時に観た時は平日で客の入りがイマイチだったせいか、ほとんどノレなかった。前半で炸裂するお下品ギャグの数々は、あまりにもベタ過ぎて“引いて”しまうし、試合のシーンもアイデア不足だ。



 ・・・・というか、CGを強調するあまりサッカーを逸脱して“ただのSFX満載のバトルもの”になってしまったのは痛い。スポーツのルールは最低限尊重しつつ、荒唐無稽なシーンは必要箇所のみに留めておかないと、観る側はシラケてしまう。我が国の「アストロ球団」を見習って欲しい(爆)。

 キャラクターも、主のチャウ・シンチー(監督も兼ねる)はまだしも、脇にいるのが皮膚病女や食い意地の張ったデブみたいな神経を逆撫でされる面子ばかりで、あんまり愉快になれない。チャウ・シンチーの作品では、この次の作品になる「カンフーハッスル」(2005年)の方を評価したい。
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