青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

上野の国の一之宮。

2024年02月13日 17時00分00秒 | 上信電鉄

(貫先神社の最寄り駅@上州一ノ宮駅)

西毛に夜の帳が降りて、上州一ノ宮の駅。「ゆかりは古し 貫前神社」と上毛かるたに謡われる、上野の国の一之宮・貫前(ぬきさき)神社の最寄り駅。富岡の街の西のはずれ、鏑川が刻んだ河岸段丘の上にあり、1500年の歴史を持つ、まさに「ゆかりは古し」神社なのですが、今の社殿も江戸時代に三代将軍徳川家光が建立したものと言われていて、「一之宮」としての格式の高さみたいなものが感じられますね。そんな神社の最寄り駅であるこの駅も、小さいながら立派な風格のある駅舎を持っており、平日は駅員さんも常駐しています。仕事帰りと思しき男性が、出札窓口でキップを購入。

平日の午後6時過ぎ、上り電車に10人程度の乗客。上信電鉄らしい特徴のある独特の太文字で書かれた駅名票が目を引く。何というか、こう、ウナギが元気にのたくったみたいな太文字である。そして、富岡製糸場の世界遺産登録を祝う広告も、既に平成26年の登録から今年で10年になるのだが、いつまで祝っておるのかという気にはなる(笑)。それまではこのスペースに地元のお店の広告とか入ってたんだけど、いまさらそういう場所の広告を募ったところで集まりませんもんねえ・・・JRでも今は車内とか駅の広告を集めるのに難儀しているということですから、いわんや上信電鉄をや、という感じか。交換のサファリ編成を待たせてやって来たデハ251+クハ1301のコンビ。ホームの乗客を吸い込んで、足早に高崎へ向かって上って行きます。

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夕映え、学生の家路。

2024年02月11日 10時00分00秒 | 上信電鉄

(長い翳伸びて@上州福島駅)

上州福島駅の線路脇に立つ、福島変電所。地方私鉄の線路端にある変電所、意外にも建設当時のモノがそのまま使われていたりして雰囲気がありますよね・・・。ここ、福島変電所も上信電鉄の社紋が白壁にくっきりと浮かんでいて。少し破れかけた変電所の窓のカーテンも、まあ地方私鉄の設備ってこんな感じだよなあという妙な納得感のある風情で。冬の西日に当てられる、白壁に伸びる架線柱の長い影が不思議な造形を結んでいます。

西日を浴びて、側線に佇む廃貨車。レールの上に置かれている以上、「廃」ではないのかもしれないが・・・西上州の物資輸送を担う貨物の取り扱いも活発であった上信電鉄、自社発注の貨車もテム1~10の10両を製造しており、下仁田の白石工業から水濡れ厳禁の袋詰め生石灰を運んでいたそうだ。同じ下仁田からは、白根火山を源とする酸性の強い吾妻川の水を中和するため、青倉工業の石灰石が渋川に向けて輸送されていましたが、こちらは国鉄のトキ25000を使っての輸送。1994年に貨物の取り扱いが終了するまで続けられていました。下仁田の駅には未だに当時の荷役の跡や倉庫がそのまま残されていて、地方私鉄が取り扱っていた貨物輸送の痕跡を見ることが出来ます。

6000形の大きな一枚ガラスから、夕陽の西上州を眺める。上信電鉄、交換駅が島式ホームで運転士がタブレット交換をする関係上、自社発注車は運転台を右側に設定するのがスタンダードであった。地方私鉄にはこういう右ハンドル車というのがたまにいる。運転台周りはシンプルですけど、1981年製造で、地方私鉄の車両がワンハンドルマスコンを採用したというのもかなり意欲的であり、画期的な話。

平日の夕方の車内は、富岡や吉井の高校生の下校時間とも重なって、学生たちが主力となる。2両編成のロングシートを学生服やジャージ姿が埋め尽くして、床にはスポーツバッグが投げ出される。冬の西日を受けたホームに、家路へ向かう姿。駅の改札で待つ妙齢の女性の駅員さんと交わす会話にも馴染み感があって・・・こういった地方私鉄らしい風景を一枚一枚カメラの中に収めて行くのだけど、自動車所有率が日本一高い群馬県のことだから、きっと高校を出るころには免許を取って、ワゴンRとかラパンに乗る生活を送ってしまうのでしょうね。

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西毛に、独立独歩で生きて来た。

2024年02月09日 23時00分00秒 | 上信電鉄

(こちらも貴重な自社発注車@上信6000系)

単行運転が可能なデハ250系列に次いで、自社発注車の6000系がやって来ました。昭和50年代中期、まだまだ地方私鉄に元気があって、投資意欲も相応にあった頃に、新潟鐵工所で肝入りで製造された新型通勤電車です。その頃の上信電鉄は、世の中がクルマ社会へと変貌して行く中で群馬県の補助金を利用した近代化を進めていて、下仁田~高崎間に準急・急行を設定したり、2ヶ所の信号所(新屋・赤津)を整備して交換設備を増設したりと、スピードアップとフリークエンシーを高めて利用者の回復を懸命に図っていました。上信電鉄で一番輸送人員が多かった時代は昭和40年代前半の頃で、その当時は年間800万人を輸送していたのだから驚く。この6000系が出た頃くらいに上信電鉄は年間輸送人員が500万人を切りつつあり、経営陣にもかなり危機感があったのだろうな、ということが伺い知れます。まあ、現在が約220万人だからピークの4分の1になってしまっているのだけど・・・

馬庭から上州福島の駅へ移動。駅からぽてぽてと畑道を歩き、見晴らしの良い田園地帯に出る。コロナ以降、日中が一時間に一本に間引かれてしまって電車で移動しながら撮るのがやりづらくなってしまった。それこそ「孤独のグルメ」では、下仁田駅で帰りの電車を乗り逃してしまった五郎さんが、正名僕造扮する駅員さんに、何度も「次は、30分後ですね」と電車の時間を念押しされるシーンがあるのだが、そう思うと、まだその時は上信電鉄は日中でも30分ヘッドだったんだよなあ・・・この日は終日運用のコーラルレッド。かつての150形や200形が塗られた、この絶妙なダサ感のある塗色は、なんでも経費節減のための一色塗りだったのだとか。

下仁田から折り返して、デハ251+クハ1301のコンビが戻って来ました。冬枯れの田園、色のない時期にひときわ冴える上信ストライプ。このストライプというには正確に言えばホチキス型、いや、ありていに言ってしまえば毛抜きのカタチであるのだが、何にせよ「ディス・イズ・個性」という感じがする。トレーラー役のクハ1301を押しながら、西上州の風景の中をガッタンゴトンと走り抜けて行くその姿。奇しくも6000形とこのデハ250形は1981年製造の同期の桜。地鉄の14760形や、長電の新OSカー(OS10系)などと同世代で、ちょうど、大手私鉄からの中古車両の大量購入で地方私鉄の在籍車両が一斉に塗り替えられる少し前の・・・地方私鉄における自社発注車の最終世代の生き残りでもあります。

上信電鉄に関しても、この6000形とデハ250形の導入以降は、西武鉄道からの譲渡車による車両補充が設備投資の中心になりました。西武451系を改造して導入した150形の廃止以降は、現在の主力車であるJR107系の導入を実施するなど、引き続き譲渡車による車両更新を進めています。それでも、富岡製糸場の世界遺産登録を機に、群馬県からの補助金を受けて輸送力増強のため2013年に7000系が製造されており、自社発注車の灯を消さぬ!と頑張り続けているのがポイント高い。上信電鉄は、特に特定の大手私鉄の系列になったこともなく、そういう会社が株主にも名を連ねないという独立独歩の経営体制を敷いており、古く120年の歴史をさかのぼる上野鉄道の時代から今に至ります。筆頭株主が群馬日野自動車ってのが面白いですよね。鉄道会社なのに。

ここ30年程度は、どこの地方私鉄も大手からの中古車導入で車両のラインナップを賄ってきました。しかしながら、大手私鉄の西武鉄道が小田急8000系や東急の9000系の導入を決めるなど、今後の鉄道事業の相対的な費用対効果を見据えて大手私鉄ですら大胆な車両の設備投資には及び腰となっている側面もあります。そんな中、今後は地方私鉄に譲渡可能なまとまった中古車の出モノも少なくなることが予想され、地方私鉄の車両調達と設備投資は新たな曲がり角を迎えているのも事実でしょう。地方私鉄にやむにやまれぬ自社発注車の時代が再び来るような、そんな気がしています。

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待てば海路の鏑川。

2024年02月06日 17時00分00秒 | 上信電鉄

(浅間遥かに鏑川@馬庭~吉井間・鏑川橋梁)

下仁田のコロムビアで豚すき焼き定食をいただいた後は、すっかりいい気分になって当初の目的であったデハ251+クハ1301のコンビのことなんぞどっかへ行ってしまった。やはり美味いものというのは偉大である。食というもので十分な仇を討ったという気持ちで、とりあえず今日は終わりにしちゃっていいかな!みたいな(笑)。高崎に入庫してしまった運用がどこへ繋がるか分かりませんですし、いつ来るかも分からない状態で、沿線に繰り出して寒い中で出て来るのを待ってたら風邪ひいちゃうかもしんないし。持ってる「ぐんまワンデーローカルパス」は県内どこでも使えるから、高崎に戻って吾妻線で金島の金島温泉とか小野上温泉辺りまで行ってみようかなあ・・・と割り切った気分ではありました。一応SNSで上信の運用情報を探ってみると、一応午前に高崎入庫になった編成でも、午後の31レ~33レからまた出てくるパターンもあるらしいですよ・・・なんて丁寧な情報をいただいて、当初の目的をもう一度思い出す。行きに下車した馬庭の駅で改めて下車し、駅の近くの鏑川の鉄橋で31レを待ってみることに。冬の鏑川、榛名颪か妙義颪か、とにかく冷たい北風の季節風が吹きつけてめっちゃ寒い。

橋の上で、浅間山をバックに撮影する構図を考えていたのだが、あまりにも橋の上の風が強く寒いので、辛抱たまらず橋の脇の土手にアングル変更。下仁田側から鉄橋を渡って来る電車を正面~サイドから狙いに行くオーソドックスなパターン。下仁田側に連結されているデハ251なので、浅間山をバックにする構図では後追いっぽくなってしまうのでなあ。こっちだと浅間山も鏑川の流れも捨ててしまうことになるが、もし31レがデハ251で来るんだったらこれが正解でしょ?ということで待つこと暫し。遠くからレールのジョイントを叩く音が北風に乗ってやって来たと思うと、灌木の隙間から鏑川の鉄橋に踊り出した31レはデハクハコンビ!安易に諦めず、情報通の先達さんたちの話を聞いておいて良かったと思う(笑)。まあ、31レで来なかったら諦めて高崎へ戻ろうと思ってたのは内緒だ。

土手の自転車道から、下仁田へ向かう31レを後追いで。これで午後運用が確定。お、こっちも工場越しになってしまうとはいえ雪に覆われた浅間山を構図に入れ込むことが出来る。それにしても、午後の低い日差しに映えるデハ251のストライプ、いいですなあ・・・コントラスト強めのオレンジと臙脂色がひときわ映えます。お相手役のクハ1301も、今は水色とクリームの地味なツートンカラーですけど、かつてはクリーム地に正面裾から連なるブルーのストライプを纏っていたことがあるんですよね。あれはカッコよかったねえ。

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鉄鍋の中の下仁田。

2024年02月04日 17時00分00秒 | 上信電鉄

(西上州のどんづまり@下仁田駅)

お目当てのデハ251に入庫されてしまった自分。方向性を見失ったまま、ただただひたすら西上州をガタゴトと走る田舎電車に乗って、終点の下仁田に着いた。側線の赤錆びたテムが迎えてくれる下仁田の駅、何度目の訪問だろう。列車別改札の駅で、駅に着いたら駅員さんに急き立てられるようにとっとと改札を出なくてはいけないのはいつもの通り。まあ、断わってホームの風景を撮影することも出来るのだろうけど、マニアの割にはそういうことをあまりしたくない人間でもある。馬庭から乗って来たのは上信の現在の主力である元JR107系の700形。300形を中心とした上信電鉄生え抜きの旧型車の一掃のため、JRから107系を大量導入したのは2017年のこと。JR時代は新前橋電車区に所属して、両毛線&吾妻線や高崎~水上間の上越線ローカル運用に起用されていましたが、同じ群馬の鉄道会社へ華麗な転身を遂げました。この704Fは、JR時代に纏っていたカラーリングに復刻されており、白いボディに細い緑帯がピンクのラインを挟む「ハムサンド」と呼ばれる特徴あるデザインが復活している。いつだって鉄道マニアのニックネームの付け方は秀逸である。

駅を降りて左手に歩くと、下仁田の商業地区。下仁田の町は、西の荒船山に源を発する鏑川に、支流の南牧川と青倉川が合流する山間の小盆地にある。関東山地の東の山すその、いわゆる「谷口集落」の街。下仁田ネギやこんにゃくで有名な農産物や林業、そして石灰石を中心とする鉱物資源、そしてご当地の産業の一つでもあった養蚕を中心に古くから栄えていて、趣のある街並みが残っている。趣があるといっても、いわゆる「小京都」的な小ぎれいな街並みではなく、商人と街人、そして山で働く人たちのエネルギーみたいなものが街にあって、八百屋、肉屋、和菓子屋、薬屋、写真屋、食堂,、旅館などなどが路地にひしめいている。数々の個人商店を中心とした緩やかな連携があって、静かながらも昔ながらの機能としての「街」の体裁が保たれているように思う。

御影石の重厚な門構えを見せる料理旅館「常盤館」。地元産のコンニャク料理が有名。古くからこの地域の迎賓館として、ランドマークのような旅館として街を見守っている。下仁田町の人口は2023年の4月時点で6,500人。そしてそのうちの半数が65歳以上。日本の縮図のような高齢化社会を構成しておるのですが、この下仁田町とお隣の南牧村、高齢化する日本の中でも特に超高齢者が山間の辺境集落にて耕作をしながら暮らしていて、いわゆる「限界集落」などと言われる場所も少なくありません。この下仁田の街並みも、そういった「都会に出て行かなかった団塊世代」で維持されてきた側面があり、将来に続く定住者を増やしていかないことにはどうにもならないのは、どこの地方とて同じことです。

路地を抜け、お目当ての店の前へ。下仁田の街で何とも特徴的なのが、「街の規模に比べて飲食店の類がかなり多い」ということで、非常に「グルメな街」というイメージがある。確かに盆地であり、物資の集散地であり、この地域の行政と交通の中心ではあるのだが、そんなに大きくもない街でこの食の充実ぶりは特筆すべきものがある。食は人間が生きとし生けるための生命の源ではあるけれど、とりわけ「美味しいもの」には、人を引っ張り込む力があるよね。上信電鉄の沿線観光、一番は「世界遺産」の富岡製糸場だったり、多胡碑だったりするんだろうけど、個人的にはこの「下仁田グルメ」というのも非常に侮れないコンテンツだと思う。そんな「マチノチカラ」のグルメを求めて、すき焼きの名店「コロムビア」で、上州牛&下仁田ポークのすき焼きを味わうことに。

「孤独のグルメ Season7」にて紹介されたということもあり、休日はお座敷が埋まって並びが出るほどの混雑になることもあるそうな。この日は平日であったこともあり、先客は地元の奥様グループと思しき三組程度のお客様。上州牛のすき焼きセットも良かったんだけど、3,300円のお値段を見て、迷うことなく下仁田ポークの肩ロースすき焼きセット(1,500円)。どどんとお皿に盛られた厚め&大ぶりの豚ロース、五郎さんも食べた豚すき焼きセットを前に俄然気勢が上がる。我が家でもすき焼きは豚肉でやることが多いし、しかも肩ロースとくれば話が早い。すき焼き・しゃぶしゃぶ系は豚の肩ロースが一番美味いよね。適当に脂っ気があって、バラほどしつこくないし、肉質も噛み応えがあってちょうどいい。

牛脂で下仁田ネギを焼いて、焼き目をついて香りを出してから、豚ロースを投入して割り下を注ぎ込み、一気にすき焼きへ。下仁田ポークのお肉、下仁田ネギ、大きな椎茸、そしてこんにゃく芋から作るしらたきと、順次投入する鍋の中の具材を構成する要素のほとんどが下仁田産である。すき焼きという料理は広くポピュラーながら、これほど地場モノで揃えることが出来るのも食に恵まれた下仁田らしさか。ちなみに、自分は牛丼はともかくすき焼きにはあまり生卵はつけないのだが(みんな同じ味になるでしょ)、この豚ロースは生卵につけても卵と割り下の味に負けない味わいがあるんだよな。いい肉なんだろう。肉と並んで存在感を主張する下仁田ネギは、一人一本分くらいてんこもりで配膳される。割り下でほどよく煮詰まったその味は、焼き目を付けたせいで甘く香ばしく・・・お酒もいいけど、とにかく白いメシの進む味である。脇役の春菊もいいなあ。子供の頃は「なんでこんな匂いの強い葉っぱ入れるんだ!」って思ってたもんだが、春菊の美味さを分かること、大人への階段の一つだと思う。

さんざん食ってお腹もいっぱいになったんだけど、鍋に残ったすき焼きの残り汁を見て、頭の中の井之頭五郎が「このすき焼きの残り汁を見て終われんだろう!」と言ったので追加でうどんを頼む。確か、五郎さんはこの残り汁を生卵とご飯を貰って汁かけご飯にしていたのだが、うどんにしてみた。煮詰まってダシが出た甘っ辛いすき焼きの残り汁で食べるうどん、美味いですよねえ・・・お椀に残ってた生卵も入れて卵とじにしちゃった。 もうね、食い過ぎて胃袋がオーバーランして、下仁田の車止めを突き破っちゃったよね。ごちそうさまでした。

下仁田ネギのすき焼きの名店「コロムビア」さん。洋楽のナンバー流れるお座敷で、下仁田ポークの肩ロースのすき焼きを堪能。すき焼きのお味もいいけど、甲斐甲斐しくお座敷のお客様に世話を焼いてくれる大女将さんも印象深い。店先に山と積まれたネギの箱が信頼の証か。 生では辛いが、火を通すとトロリと甘い下仁田ネギを食べる豚すき焼き、ネギ好きな方は是非に。あ、そう言えばなんで「コロムビア」なのか聞くのを忘れてしまったなあ。いやー、すき焼きなんてみんなで食うもんだと思ってたけど、一人すき焼きも結構いいもんだね。お口直しに娘さんから貰ったキスチョコを口の中に放り込んで、下仁田駅への道を歩く。グルメタウン下仁田、まだまだ掘り起こし甲斐のありそうな街でもある。

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