青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

愛岐の名車、桜と眠る。

2024年04月28日 10時00分00秒 | 名古屋鉄道

 (名鉄600V、北縁の防人@モ755)

樽見鉄道沿線の桜を愛でつつ、再び名鉄の谷汲線沿線まで戻って来ました。訪れたのは終点の谷汲駅。ここには、モ755とモ514という名鉄600Vを代表する2両の名車が、今でもきれいな形で保存されています。廃線の後、郷土の鉄路の歴史を残すための鉄道保存の取り組みについては、村の議会では負担が重すぎるとして予算が付かなかったのだそうです。現在の谷汲駅での車両保存は、村の議会でいったんは否決されながら、地元有志の熱心な働きかけによって名鉄からの譲渡に漕ぎ付けられたもので、それだけ谷汲村民にとってこの赤い電車が大きな存在だった・・・ということが分かるエピソードでもあります。

西国三十三か所霊場巡りの中では、一番東に位置する谷汲山華厳寺。名鉄谷汲線の前身である谷汲鉄道が、谷汲山への参詣客と沿線の開発を目的にここ谷汲駅までレールを敷設したのが大正15年(1926年)のこと。昭和初期に名鉄に合併され、同社の谷汲線となってから廃線となる平成13年(2001年)までの間、約80年に渡って西美濃の里山風景を走り続けたモ755。名古屋鉄道の一期生とも言える半鋼製の新型車両で、当時はデセホ700形と750形を名乗り、同形式の一部はお召列車にも使われたのだそうです。1960年代の本線の昇圧により、以降はほぼ揖斐・谷汲線を中心とした名鉄600V区間に転属。同線区の主軸として一生を終えています。

谷汲線は、21世紀までこのような昭和初期に製造された冷房もない半鋼製のツリカケ旧型車が最後まで路線を守り続けました。岐阜市内線の末期は、現在でも福井や豊橋で頑張るモ770形やモ780形のような新型車両も投入されましたけども、谷汲線と揖斐線の末端部分には、その恩恵はありませんでした。揖斐線と谷汲線への電力供給は、黒野の手前にあった小さな変電所だけが頼り。そのため揖斐や谷汲方面は変電所から離れれば離れるほど電圧が下がってしまい、インバータ制御で回生ブレーキを持つ新型車両では黒野以遠に入線することが出来ませんでした。モ750を始めとする旧型車は、直流の電気を交流変換せずにそのまま使用する直流モーターを装備しており、簡単な機構で電圧降下にも強いという特性がありました。路線が廃止されるまで、揖斐谷汲線の末端部が旧型車の天国であったのは、このような劣悪な電力環境の中で、直流モーターの頑強さと故障への強さが遺憾なく発揮された結果、ということが出来ます。

保存されたモ755の運転台周り。公称では600Vの路線でしたが、末端部は300Vも出ていなかったのでは、なんて話もあるくらいで、谷汲線の運転士さんは走るたびにいっつも電圧計とにらめっこしていたのではないだろうか。特に冬場の雪の日は、ただでさえ心もとない電力が架線に付着する雪によってさらに集電力が低下し、その中でスノープロウを装着して雪を押しながら走ることの苦労は大変なものがあっただろう。交換駅の北野畑の駅で交換相手の電車を待っていると、更地の駅を出て遠く八王子坂を力行してくるモ750の音に合わせ、力行による電圧降下によって車内の電気が付いたり消えたり・・・みたいなことが起こっていたらしく、北野畑の駅では、双方向の電車を同時に発車させることは電圧が弱すぎて難しいことから、先に出した電車が十分に加速してからもう1両の列車へ出発の合図を出していたのだとか。

モ755の傍らには、これも岐阜市内線と言えばこのクルマ!というモ514が。揖斐線の前身である美濃電気鉄道が新造した美濃電最後の新車。個人的にも名鉄600Vの岐阜市内線と言えば、忠節橋を渡って軌道区間に「急行」のマークを付けて乗り入れて来るモ510の2連という感じがします。モ510は美濃駅・JR岐阜駅前・そしてこの谷汲駅と三ヶ所で保存されているのだから、岐阜の人々にも思い出の深い車両なのだろうなとも思う。大正ロマンを感じさせる品のいい丸窓、武骨なリベット、錦鯉を思わせるノーブルな紅白のカラーリング。車内の座席に取り付けられた白いヘッドカバーと相まって高級感がある。製造当初から美濃町線で運行されていたものを、揖斐から岐阜市内への急行運転を開始するにあたってクロスシートに取り換えたのだそうな。

谷汲の街は桜の街。この時期、谷汲駅から華厳寺に続く道には桜が咲いて、多くの人が訪れていました。谷汲線がなくなってから、この街を訪れる手段はほぼクルマしかないんですけど、名刹と桜という組み合わせは古くから日本人の心を捉えて離さないものなのだろう。せっかくここまで来たのだから、と汗を拭き拭き参道を歩く。この日は春を通り越して夏のような一日だった。華厳時の本堂までは駅から歩いて15分程度、延暦年間(798年)の建立とされる西国三十三ヶ所霊場回りの結願の寺。けっこう色々な場所に行っては拝むタイプなのですが、どのくらいの神様が私についているのだろう(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憧憬の 春に桜が 咲き乱れ。

2024年04月17日 17時00分00秒 | 名古屋鉄道

(来ない列車を待つ桜@旧名鉄谷汲線・更地駅跡)

旧名鉄600V線区を辿る旅は、黒野から北へ。根尾川に沿って、谷汲へ向かう参詣鉄道の廃線跡を辿ります。根尾川沿いに開けた平野がやや狭まり、視界に山が近付きつつあるあたり。県道を少し折れた集落の路地裏に、ひっそりと一本のホームがありました。これが旧名鉄谷汲線・更地(さらぢ)駅跡。ここに駅があったことを示すかのように、ホームの傍らに立つ一本桜。谷汲線が現役だった頃は、春になるとこの一本桜とオールドタイマーの赤い電車の組み合わせを求めて、多くの鉄道ファンがこの駅を訪れたそうです。電車が来なくなってはや四半世紀弱、今年も春を迎え、今年も桜が咲き、そして駅のホームが静かに来ない電車を待っていました。

名鉄谷汲線の更地駅。何年か前、この駅で撮られた写真の数々に触れる機会があり、その雰囲気の素晴らしさが印象に残っていた駅です。それにしても、もう廃線になってから20年以上の時が流れているというのに、こうもはっきりと駅の遺構がそのままになっていることに驚く。今でも目を閉じれば、一両の赤い電車が山裾を回って走って来そうな、そんな雰囲気すらある。廃線跡は、レールこそ剥がされているものの、さりとて何かに転用される素振りもなく。路盤は草に覆われつつもその下にバラストを残し、そしてホームは白線を鮮やかに残したまま、大きな躯体物としてそこにあり続けていた。道路と路盤の境目の部分にはフェンスが立てられていて、一応公有地と私有地の境目くらいの区切りはついているのだが、放置?というならもう少し朽ち果ててる気もするし、少なくとも草刈り程度の最低限の管理はまだなされているのだろう。廃線跡によくある、駅があったことを示すような案内看板なども特にないのだが、見た目がまごうかたなき「駅」であったことを示しており、保存状態をして天然かつ絶妙、とも言える状態である。

レールが剝がされた路盤に彩りを添える菜の花。更地駅のホームの少し谷汲寄りには、おそらくキロポストだったと思われるコンクリートの標識がそのまま残されている。営業当時、黒野起点で更地駅が3.9kmの位置にあったことが記されているので、ペンキが剥げるまでは白地に黒い文字で「4」の表示がなされていたものと思われる。かつての更地駅は、ホームの上に市民プールの日よけのようなビニールの小さな屋根掛けと、駅を示す駅名票、そして駅の黒野寄りに「更地駅」という名鉄の駅看板があったそうな。「谷汲線 更地駅」で検索すると、あまたの先輩諸氏が撮影されたその当時の写真を見ることが出来ますが・・・やはり春に撮られた写真が多いですね。憧憬、といってもいいでしょう。それだけに、レールが現役の時に来てみたかったなという思いは訪れてなお一層強くなってしまったのは言うまでもない。谷汲線が廃線になったのは2001年(平成13年)のこと。21世紀まで、名古屋の近郊で夢のようなローカル私鉄の風景が楽しめた訳で・・・笠松競馬までは来てたけど、岐阜まで出て谷汲まで行けよ!とその頃の自分に伝えてあげたい気分だ。

誰も訪れることのない春の朝。何となく立ち去りがたく、別れがたく、いじましく駅の周りをグルグルと回ってしまう。当時の写真を改めて見返すと、桜の木がずいぶん大きくなったことが分かる。おそらく、現役当時は架線や車両に干渉しないよう、伸びた枝は適時剪定されて揃えられていたのだろう。正式に廃線となった後は、特に遮るものもない分、桜の木は思う存分に枝を伸ばすことが出来るようになった。桜の気持ちとしては、電車が来なくなったことがかえって良かったのかもしれない・・・けれど、この桜には、やっぱり赤い電車が必要だよね。そう思いませんか。


赤い電車を待ち続け、四半世紀の時が過ぎ。
桜咲く春、霞の朝も、まだかまだかと、待っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ追憶の600V。

2024年04月15日 17時00分00秒 | 名古屋鉄道

(ああ、追憶の名鉄600V@黒野レールパーク)

北陸新幹線の敦賀開業前の話をしていたら、既に年度末が過ぎ、桜の時期になってしまった。今年の桜は例年に比べると咲く直前の天候の悪さで花の進みが遅く、新年度に入ってからようやく咲き始めるという体たらくであった。まあ自然の摂理に「体たらく」も何もないもんだが、この時期は桜の開花に合わせて撮影行動を取るのがカメラ趣味のあるある。ウェザーニュースの予報を眺めながら、「今年は3月22日過ぎに開花からの3月27日~28日満開」と読み、この年度末のクソ忙しい時に後ろ指を指されつつ有給の申請まで出したのに花の気配が全くなく・・・(その後有給は「忙しくって休めないっすよね!」みたいな感じでカジュアルに取り下げてしまった)。改めて仕切り直しの新年度。どこへ行くかは天気と花の咲き具合、狙いと天気を定めて4月6日(土)の丑三つ時に家を出て、新東名を西に西に。春霞の夜明けを迎えたのは岐阜県揖斐郡大野町。2005年に全線が廃止された名鉄の600V路線、旧名鉄揖斐線・谷汲線の黒野駅。現在は「黒野レールパーク」としてその遺構が残されています。

今回の春の桜旅のテーマのひとつは、在りし日の岐阜県に名鉄600V区間の遺構を訪ねる・・・というもの。「名鉄600V区間ってなんですのん?」というそこまでテツではないお客さまに簡単にご説明すると、名鉄が岐阜市内中心部に走らせていた路面電車(岐阜市内線)と、岐阜駅前から関・美濃市方面へ向かっていた美濃町線、そして岐阜市内線を北に走り、長良川を渡って忠節から美濃北方~黒野~本揖斐に向かっていた揖斐線、そして東国の名刹・谷汲山華厳寺への参詣路線としてこの黒野から分かれて北へ向かった谷汲線の4路線こと。岐阜市内を中心に、周囲に広がる全長約70kmの路線網が各方面から軌道線の岐阜市内線に乗り入れてくるため、軌道線と郊外線の特徴を持ったステップ付きのクラシカルな名車が西美濃のローカルな風景とアーバンな岐阜市内の光景の中を行き交うという鉄道ファンにはつとに有名な魅力ある路線でした。しかしながら、狭い道路を電車が占有することが市内の交通渋滞の原因と目されたこと。また、市内線の通る道幅の狭さから軌道内の車両通行を警察が許諾したこと。そのせいで鉄道がクルマの渋滞に巻き込まれ定時性が確保されないこと。特に岐阜市内線では道路の真ん中にある安全地帯もない未改良の電停が多く、乗車には車通りの多い場所での道路横断が伴い危険なこと。そしてなにより名鉄本体による投資がなかなか後回しになっていて、大正時代に製造された冷房もない古い電車が走り続けていたこと。岐阜市のクルマ優先の交通政策と、そもそもの岐阜中心部の経済の落ち込み(繊維産業の衰退とか)や、もろもろの理由による乗客離れによる累積赤字はいかんともしがたく、名鉄が撤退を表明。2001年(平成13年)の谷汲線全線、揖斐線・美濃町線の末端区間廃止を端緒に、2005年(平成17年)に600V区間は根こそぎ全廃されてしまいました。

揖斐線と谷汲線が分岐していた黒野駅は、そんな名鉄600V区間の北の要衝。残されたホームから、揖斐・谷汲方面を望む。黒野駅は、岐阜県揖斐郡大野町の中心部にあり、当時は揖斐・谷汲線系統を走る車両を一手に管理する黒野検車区を擁する主幹駅でした。保存されたのは島式の旧2番・3番ホームのみですが、当時はもう1本南側(この写真で言うと左側奥)に片面の1番ホームがあり、ここから揖斐行きの電車が発着していました。廃線を控えた末期は、岐阜駅前~黒野と黒野~本揖斐・谷汲で系統が分断されており、2番線は岐阜からの電車の折り返しに使用され、1番線から黒野~揖斐間の折り返しローカルと、3番線から谷汲線の電車が出発していたそうです。名鉄揖斐線が廃線となって鉄道のなくなった大野町ですが、現在では岐阜駅前から毎時一本の岐阜バス(大野忠節線)が大野町のバスセンターまで運行されており、またJRの穂積駅からもバスが出ていて、公共交通はある程度維持されているようです。

鉄道が廃止され、ホームとかつての駅舎を中心に整備された黒野駅周辺は再整備され、広い構内を活かした公園となっています。駅舎はミュージアムになっているのだけど、朝早過ぎて開いてなかったのは仕方なし。廃止されてからの植樹と思われる桜並木が、春の朝に七分咲き程度の花を咲かせていましたが、吊るされた桃色のぼんぼり、夜になったら灯りがつくのかな・・・それにしても、黒野レールパーク、折角ホームと上屋と上下のレールを残したのだから、ここに保存する車両の1両でもあってもよさそうなものだが。手作り感満載のモ512だけじゃ寂しくないかい。

在りし日の黒野駅とモ512の案内板。現在は長良川鉄道の美濃市駅前にある旧名鉄美濃駅の保存館で静態保存されている車両ですが、平成27年に、揖斐線の全線廃止10周年のイベント企画として1年間だけここで展示されていたことがあったようだ。いまさら揖斐線・谷汲線を走ったツリカケ旧型車両の新しい展示などはなかなか難しいのだろうから、揖斐線の末期を飾った名鉄の770系が福井鉄道での役目を終えたら、ここへ迎え入れて静かに余生を過ごさせてあげればいいのではないか・・・と思う。2月に乗って来たけど、あっちではまだバリバリの現役だから、ちょっとここに来るには時間がかかりそうだけど。そうそう、モ513が岐阜市内の公園から岐阜駅前に移設されて保存されてるけど、こっちに持ってくるという話はなかったんかね。岐阜市の持ち物?っぽいから、大野町に移設というわけにもいかなかったのかな。

谷汲線の発着番線に残されていた行灯式の注意表示。谷汲線は、終点の谷汲までの交換設備は途中の北野畑駅の一つだけでした。この行燈式の表示灯は、そんな谷汲線の運転取り扱いの確認のために使われていたもので、 北野畑での交換があれば左側が光り、黒野~北野畑では「△」、北野畑~谷汲では「□」のスタフ(通票)を設定。北野畑でそれぞれの列車がスタフを交換するという「基本」の閉塞で2列車の運用。北野畑での交換がなければ右側が光り、北野畑を境とする前後2つの閉塞区間を「併合」して黒野~谷汲を1閉塞とみなし、谷汲線には「□」のスタフを持つ1列車しか入れませんよ、ということにしていたのだと思われる。末期はおよそ1時間に1本の閑散スジで、日中は単行のモ750形がひたすらに往復するダイヤだったそうですから、「併合」の□スタフが常用になっていたということかな。

ただ、谷汲山の初詣や例大祭などの多客時は増発を実施して日中も北野畑交換を行っていたようで、 「基本」の「△スタフ」を出して30分ヘッドにダイヤを詰めていたようだ。
黒野に残る行灯に、北辺の600Vへの思いを馳せる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

にしがまの、未来に何を描こうか。

2023年07月19日 19時00分00秒 | 名古屋鉄道

(重厚な家並み@西尾市吉良町)

渋焦げ色の板塀に、水神様と思しき小さなお社。三ヶ根山の西麓に源を発する、矢崎川という小さな川のほとりに広がる吉良の街。2011年に周辺市町村と合併し現在は西尾市に含まれていますが、かつての幡豆郡吉良町の中心街。三河湾に面した漁業と農業の街で、あの「忠臣蔵」の吉良上野介の生まれ故郷としても有名です。江戸時代以前から西尾藩に属する古い街らしく、そこかしこに雰囲気のある家並みが続いています。

愛知県の三河湾沿岸は、東海道本線と新幹線、東名高速道路が通る内陸部から遠く離れていることがネックなのか、開発や都市化の波からは遅れている印象で、アサリやカキ、ノリなどの養殖や小規模な沿岸漁業で生計を立てる第一次産業の街。それだけに、華美な商業施設や繁華街などは影も形もなく・・・吉良の街からお隣の一色町にかけて目立つのが、鰻料理の店やかば焼き・白焼きなどの加工品の販売所。この時期「三河産」のウナギは、浜名湖産や鹿児島県産と並んで国産ウナギのトップクラスのシェアを占めています。

重厚な旧家の軒先を掠めて、矢崎川の堤防へ駆け上がる蒲郡線の6000系。吉良吉田は、東へ向かう蒲郡線、南北を結ぶ西尾線、そして碧南・刈谷を経て知立へ向かう三河線の三線が交わる名鉄電車の要衝でもありました。事業的に収支の極めて悪化していた三河線の吉良吉田~碧南間は、電化設備を廃した上で気動車転換して存続を図りましたが、2004年に廃止されてしまいました。平成中期の名鉄に相次いだ末端ローカル区間の廃線、セントレア開港を控えた「選択と集中」であったのでしょう。蒲郡線は辛くも難を逃れましたが、投資か、撤退かという明確なビジョンはなく、沿線自治体の支援はあるものの、今後は不透明なままです。

真っ赤な電車が矢崎川の鉄橋を渡る。川の護岸にはカキ殻がビッシリとくっついていて、独特な潮の香りを放っていました。潮干狩りをしている人もいましたが、食べたり出来るのかな。カキは水中の有機物を大量に吸い込むので、水質の浄化にはかなり効果の高い貝らしいですがね・・・

高度経済成長期には、蒲郡競艇や西浦温泉を始めとする沿線の温泉地、三河湾沿岸の潮干狩り客・海水浴客を運び、一大観光路線であった蒲郡線。対名古屋を見据えると、速達能力はJRに大きく水を開けられ、現在は地区間の小規模なローカル輸送を担う路線となっています。これ以上の合理化を避けながら路線維持の道をどのように模索するか。注目しながら応援して行きたい路線です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三河の海よ、豊かな恵みよ。

2023年07月16日 17時00分00秒 | 名古屋鉄道

(三河湾コーストライン@東幡豆~西幡豆間)

少し高い場所から、幡豆の街を走る白帯車を眺めれば、線路の向こうに三河湾の入江と浮かぶ小島。島の名前は前島と言うらしい。陸との間には東幡豆の干潟が広がっていて、アサリやハマグリなどの大変良い漁場でもあります。ちなみにこの三河湾沿岸って、とにかく春の潮干狩りが一大レジャーなんですよねえ。潮干狩りなんて、この令和の時代に何だか昭和のレジャーっぽいように思うのだけど、いやー、三河の人々の潮干狩りはガチです。幡豆の街を少し走れば、浜辺には潮干狩り用の番屋みたいなのがたくさん並んでますからね。時期になれば浜を網で囲って潮干狩り場にして、番屋に入った漁協のジジババが料金を取って観光客に潮干狩りをやらせる訳です。そして、漁港や浜辺のあちらこちらにロープで囲っただけのやたらと広い草の生えた空き地があるんですけど、だいたいそこには「潮干狩り駐車場」なんて書いてあるんですよ。ようは、そんくらいの広い駐車場がクルマで埋まるだけの需要があるということで・・・その広さを見ながら改めて「三河っ子、潮干狩り好きすぎねえか?」となるのだ(笑)。

暗がりに冴えるスカーレット。名鉄蒲郡線は、三河湾に沿って走りながらも、町と町の間で小さなサミットを抜けるシーンがいくつかある。特に西浦~こどもの国~東幡豆~西幡豆間では、駅の合間合間に三河湾に突き出た小半島の付け根の鞍部を越えていくので、こんな山深い雰囲気の場所があったりしてドキリとさせられます。

森を抜けて走る6000系。車体にこの時期、雨に濡れて濃くなった緑が映る。ちなみに潮干狩り、だいたい春から梅雨前までくらいがシーズンなので、この時期すでにシーズンは終わっていた。西幡豆の沖合にある梶島という島が潮干狩りのメッカになっているらしく、その様子は愛知県の観光HPに掲載されているのでありますが、老若男女が網と熊手を両手に持って一心不乱に磯を掘り漁るその姿は、もはやレジャーでもなんでもなくて狩猟そのものである。

ちなみにかくいう我が家も、ヨメさんのほうに豊橋在住の親戚がおりまして、シーズンになると「潮干狩りで獲れた」というアサリやハマグリや岩ガキみたいなのをクール便で冷蔵庫に入りきらないくらい送ってくれる。定番の味噌汁に始まって、酒蒸し、バター焼き、ボンゴレ、アサリご飯となんでも美味い。三河湾の貝類は味が濃くて、それこそスーパーの水に浸ったパックのアサリなんか物足りなくて食べられなくなっちゃいますねえ。贅沢な話です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする