青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

100年分のありがとう

2020年05月31日 11時00分00秒 | 長野電鉄

(志賀高原にシカが飛ぶ@長野電鉄2000系)

緊急事態宣言が解除されて以降も、相変わらず引きこもり生活が続いているのでありますが、なんか自粛で引きこもっているうちに梅雨になりそうな空模様ですね。そう言えば、子供の学校も6月1日から始まるとの通達が来まして、ようやく地獄の昼飯作りから解放されそうだ!とヨメが喜んでおりました。ちなみに、移動・接触の自粛が叫ばれるようになってから実家にも長い事帰っていません。電話では話しているので元気にやっているらしいが、正月から顔を見ていないというのは流石に異常事態。自粛自粛でやる事を先延ばしにしているせいで、意外にのんびりとカメラを持って出掛ける時間もないんですよね。さすがに6月からはそろそろ新作を撮りに行きたいぞ。

んで、唐突に長野電鉄の写真なんぞを出してみたのですが、昨日(5月30日)は、長野電鉄の創立100周年記念日だったのだそうです。おめでとうございます。100周年となれば、本当だったら電鉄側も様々なイベントで100周年イヤーを盛り上げたかったはずだと思うんですけども、このコロナ禍の中ではそれも叶わずでしょうか。地方私鉄としては近代的な施設と規模を持つ信州の雄も、平成14年の木島線廃止に続く平成24年の屋代線廃止という旧河東線区間50.4kmの大部分(37.3km)の廃止を経て、だいぶ規模自体は縮小されてしまった感じはあります。今は湯田中への観光輸送と、須坂中野地区の地域輸送に特化しているのかな(山ノ内ローカルは忘れられ気味・・・?)。

個人的には、長野電鉄と言えば、やっぱり2000系の思い出が多い・・・栄光の日車ロマンスカー。いつまでも、信州の永遠のスターですよね。この最後のカットはお別れ運転で最後の湯田中入線を果たした際のものだったかな。今は改良されて棒線駅になってしまいましたが、かつての長野電鉄と言えば、上条からの40パーミルの勾配を登り切って踏切を通り越し、ガッチャコンとモーターが逆回転してスルスルとバックで湯田中に進入する2000系の姿が思い出されます。今のローソンがある先に昔は路盤みたいなのがあって、安代(渋温泉)まで延伸する計画があったらしいですけどね。温泉の湯脈に引っかかってダメだったらしい。

個人的には、長野電鉄さんには小田急10000系ことHiSEの動態保存(?)にご協力頂いて感謝しかないです。まあ動態保存してるっていう意識はないんだろうが・・・これはイベントで須坂駅の5番線に据え付けられたHiSE。検明けだったのか下回りまでピッカピカの姿。長電に移籍した際に長電カラーの赤を基調とした塗装に変えられていますが、イメージを損なうような塗装の変更ではなかったのでよく似合ってますよね(富士山の北側の会社さん聞いてます?)。何でもリバイバルすりゃいいってもんでもないが、S2編成は小田急時代のワインレッドに戻したりしたら、「信州ワイン列車」とかやるのにちょうどいいんでないかなあと妄想してみる。

都会から郊外を通り湯の街へ、という車窓の移ろいは、新宿~箱根湯本間から長野~湯田中間へとその場所を変えましたけれども、今や完全なる長野電鉄のフラッグシップトレイン。連接車は構造的に車体の台枠がヘタりやすく、そう丈夫な車両ではなさそうですが、小田急時代より長く活躍してくれる事を祈念しております。最近は飯山線にかまけちゃって長電はちょっとご無沙汰なんですけど、長野くらいならそう遠い距離でもないですし、コロナ明けの撮影行にはちょうど良いかもしれません。

Thanksgiving for 100 years.
これまでも、これからも。

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温泉行きたくないですか!

2020年05月27日 17時00分00秒 | 温泉

(湯けむりの向こうに@野沢温泉・真湯)

全国に発令されていた緊急事態宣言が正式に解除になりました。解除と言っても、「これ以上自粛を求めて社会活動を止めたら経済も政権も持たない」という政治的思惑も絡めたなし崩し感はあります。当然世の中からウイルスが消えてなくなった訳でもなく、マスコミや政治は盛んに「もう元の生活には戻れない」「ウイルスと共存するのがアフターコロナ」などと喧伝しておりますが、それはもう受け入れなければならない事実なんでありましょう。街の姿を見ると、駅前のパチンコ屋は早速営業を開始し、ほぼ身の回りも平常に戻って来たような気がします。飲食は・・・まあ、店開けててもさすがに客足がすぐには戻っていない感じ。AC(アフターコロナ)時代の食事は、ウイルスの飛沫感染を防止するために、食事の際も向かい合わずに喋らずさっさと食い終われということらしいのだが、食事中は喋るな、喋るなら食事後にマスクをしてから、なんてルールを求められて誰が飲食店(特に居酒屋系だよね)に行くというのか。

それはそうと、さんざっぱら我々今までジシュクして来たわけですけど、今何がやりてえかって聞かれたら、小難しい事は抜きにして温泉行きたいっすよね。とりあえず「緊急事態宣言解除された」って聞いてから、俗っぽい私は早速手に入るはずの一人壱拾万円の給付金を軍資金にすべく、各地のホテルや旅館をアプリで検索してしまいましたですよ(笑)。旅館に着いて、女将さんのウエルカムトークをやりすごしつつ机の上のお茶請けなんか頂いてさ。女将さんが「どーぞごゆっくり」なんて言いつつ下に降りてったあと、何となくテレビをつけて地方のローカルの夕方ワイド番組を10分くらい眺めて、んじゃー風呂入るべか、ってんでいそいそとスリッパペタペタ突っかけて大浴場に向かいたいのよ俺は。

んでさ、誰もいない脱衣所で一人でイソイソと浴衣なんか脱いで、誰もいないから浴場の電気なんかも自分で点けてさ。んで、ケロリン桶で湯船からかけ湯を掬ってかぶったら、一番風呂なもんだからカッチンカッチンに湯が熱くて、「あっちいなオイ!」とか誰に言う訳でもなく叫んでみたいのよ。んで、湯を冷ますのに桶でかき混ぜたり、掃除用のホースみたいなのから強引に水持って来て埋めたりと一人でアワアワしながら、何とか浸かれる温度になった温泉に肩まで入って「ムヴァァー」みたいな不気味な溜息を吐いてみたいんさ。

んでさ、水で埋めてても新鮮な熱い湯がドンドコドンドコ流れ込んでくるからさ、結局5分も経たないうちにノックアウトされて湯船のふちに座ってフーフー言ってるわけだけども、そしたら浴室の高いところについた窓から爽やかな山の夕方の風が入って来て、それと一緒に旅館の厨房から流れて来る夕食の焼き物の匂いがぷーんとして、「そうだそうだメシが6時から1階の藤の間だって言ってたわ・・・」なんて女将さんが言ってたことをにわかに思い出して、思い立って洗い場行ってシャカシャカと体を洗ったり良く分かんない健康器具でカカトこすったりするんですよ。

湯上がりのホコホコした体に浴衣一枚羽織って、生乾きの髪の毛のままペタペタと藤の間へ。あれ、ねーじゃねーかなんて広間の中を探し回って、隅っこに置かれた一人用の「〇〇様」なんて書かれた名札を見て安心してさ。んで、よく見ると名札に去年のカレンダーの裏紙を使ってたりするのがご愛敬だったりするんだよ。とりあえず自分のシマに座ってテメエのテーブルの上に並べられた晩餐を眺めつつ、隣のグループの料理と比べてあっちはオカズのグレードが高いだの低いだの品数が多いだの少ないだの、肉があるのないのと勝手な品定めをしてしまうのは人の性だし、仲居のおばあちゃんに「お飲み物、何かございますか?」なんて聞かれてとりあえずスーパードライの中瓶を頼んでしまうのはお約束。とりあえず乾杯する相手もいないので一人で「Asahi」の小さいグラスにコポコポと手酌でおビール注いで、突き出しの三種盛りに箸を伸ばす午後6時15分・・・

最近はどうしてもカメラを握って鉄道を撮り歩くことが主眼になっちゃって、なるべく駅チカの安いビジホに泊まりながらメシは近場でパパっと・・・みたいな行動になってしまいがちなのだけど、上記のようなベタベタな温泉宿に泊まる旅もヒサビにやってみたいなあなんて思ったわけで。おそらくこのコロナ禍の中で、どこのお宿も相当に厳しい経営になっておるのは想像に難くなく。

体調管理と予防を万全にして。
ぜひ訪れたい、あんな宿やこんな宿があります。

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手探りの解除明け

2020年05月25日 17時00分00秒 | 箱根登山鉄道

(初夏の日差しを浴びて@大平台駅 平成30年)

さて、今日にも最後まで残されていた1都1道3県の緊急事態宣言の解除が発令されるようですが、これで皆さん大手を振って外出をされるのでしょうか。個人的には、そんなすぐにはガードを下げられないという感じもしますが、昨日なんかは天気も良かったせいもあって、みんな前のめりで外に出ているような感じを受けましたね。まあ報道が先走ってるからそう理解されてしまうのも仕方ないのかな。個人的には、緊急事態宣言が解除された以降も「他県との往来の自粛」の呼びかけは引き続き続くようですし、ひとまず県内から始めてみようかな、とは思っているところではあります。

そう言えば、先日より7月下旬の運転再開を目指して箱根登山鉄道が試運転を開始したそうです。大涌谷の活動の活発化から台風被害、そして今回のコロナ禍といいことが全くない箱根からようやく明るい話題が聞こえてきましたな。本当なら、今年の夏に全廃が予定されていた登山の旧車たち。長い運休の中で去就が案じられていたのですが、108号が長きに亘って身に纏っていた金太郎の腹掛け塗装から標準デザインに戻されたようで、どうやら検査通してまた暫く走らせるのではなかろうかと。おそらく台風被害からの長期運休によって、会社としての設備計画なども何らかの見直しがされたと思われますが、復旧に優先投資した分、車両の更新はある程度先送りされた可能性もありそうです。いずれにしろ正式発表が待たれますね。

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アマノイワト、ヒラケ。

2020年05月23日 17時00分00秒 | 小田急電鉄

(善波川・梅雨前の晴れ間@平成29年)

新型コロナウイルスの感染者数に一喜一憂しながら、大規模な自粛生活に入って早や3ヶ月が過ぎました。2月の終わり頃から騒がれ始め、ちょうど3月の春分の日を境に、国内でも明らかな感染の蔓延が顕在化しておりましたが、さすがに夏場にかかってウイルスの勢いも衰えて来たのか、最近では国内でも1日単位で100人を超えるような明らかな感染の拡大というものは見られていません。とはいえ欧米露や南米などでは未だに爆発的感染が拡大していると言うし、今のところクスリもワクチンもないし、厄介に過ぎる疫病に巻き込まれた世界の行く末は予断を許しませんが・・・さすがにウイルスに怯えて閉じ籠っている生活も3ヶ月ともなると弊害は相当に出て来ています。飲食・遊興にかかる店は閉まったまま、外出もままならず、身近な話で言えば子供は3月のアタマから学校に行けていない。自分の仕事も、休業要請こそ求められる業種ではないものの変則的な勤務となり休日がシフト制になったまま。今日あたりの情報だと、5月25日を目途にどうやら緊急事態宣言を解除するのは既定路線になりつつあるようです。まったく緊急事態宣言というものは、日本人特有の同調圧力を利用して国民に自粛を求め続けた良くも悪くも奇策であったのだが、ようやく天岩戸が開きます。これからは手探りでも、個々人がウイルスを遮断しながらなんとか生活をやりくりして行くフェーズに入ったという事でしょう。

人間が引き籠っているいるうちに桜が咲いて散り、若葉青葉の季節は過ぎ、はや梅雨入り前かという天気。遅い相州の田植えもそろそろであろうか。しかしまあ、今年の正月、初日のお天道様を拝んだ時にこんな年になるとは全く思わなかった。私だけでなく、世界中の誰もがそうであったろうと思う。核心的な情報を握っていた赤い大国の一部以外は・・・

 

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秩父線今昔

2020年05月21日 17時00分00秒 | 西武鉄道

(吾野の定番アングル@西武新型特急Laview)

1001レを高麗カーブで押さえた後は、1003レ狙いで吾野のSカーブ軽俯瞰にやって来ました。折角2本あるんだから、同じところで撮影するのは能がないってんで・・・古くからの西武秩父線界隈の名撮影地らしいですけど、さすがにこの時期はニューレッドアローの秩父方面撤退のニュースもあって、そこそこの撮影者がいらっしゃいましたね。まだ「密です!」なんて言われてなかった時期。駆け抜けていく新型特急Laview・・・秩父の新しい顔として投入された新車ですが、側面窓の上下の長さと航空機的な円形の先頭部がインパクトあり過ぎます。初めて見た時、個人的には「カブトムシの幼虫みたい」というのが率直な感想でした(笑)。

1003レの露払いではるばる横浜からやって来たS-TRAIN。コウペンちゃんトレインというキャラクターラッピングでの登場です。あ、吾野のSカーブを「西武秩父線の名撮影地」なんて言ってますけど、正確には池袋から吾野までが西武池袋線なんですよね。便宜的に飯能から先が西武秩父線だと解釈しがちですが、たまにそこらへんに煩いマニアがいるので念のため(笑)。しっかし西武40000はLED写らんな。最近のフルカラーLEDはどの鉄道の車両もこうなっちゃうからあんまり好かん。小田急の更新1000とかも相当に撮り鉄泣かせである。

長瀞・三峰口行き快速急行1003レ。周囲は西武秩父線内でのニューレッドアローのお別れ勢・・・という感じだったんで、私たちのような4000系快速急行をピンポイントで撮りに来た人間は少数派だったようです。ちなみに西武4000系は、1989年(昭和63年)の秩父鉄道乗り入れ開始に伴って作成された車両なのですが、西武秩父線が開通した当初は、秩父鉄道的には「(対東京で)客が取られる」的な感情があって乗り入れに否定的だったとも聞きます。かつての秩父鉄道は、東武東上線から寄居経由で「急行ながとろ・みつみね」が乗り入れていた、というのもあったのかもね。結局、西武乗り入れの3年後、1992年3月をもって東武からの乗り入れは消滅しています。

我々的にはオマケのニューレッドアロー。待ってる間は隣に陣取ってたおじさんと話し込んでたんだけど、「ここでE851の貨物列車を良く撮影してたんだヨ。E851のさよなら運転の時は、下の斜面から撮り鉄で鈴なりになったなァ・・・」なんてアツい時代の話も聞いた。個人的にはE851の牽引する西武秩父線のセメント貨物ってのは目にする事の出来なかった憧れの列車なんで、実に羨ましい話である。私鉄にはありえない体躯の大型電機が、重連で正丸峠を超えて行く写真をカラーブックスとかで見て興奮したもんだ(笑)。

「貨物列車の目玉は、前日に用意された荷を満載した早朝5:55東横瀬発の2250列車で、セメントを満載したタキ1900と途中の狭山ヶ丘で切離すセメントバラ積みのテキ400、両端に国鉄乗り入れ規格の車掌車を連結した1000トンの列車(略)横瀬を重連単機で出庫し、東横瀬から次の芦ヶ久保までの連続上り25パーミルの難所をE851の重連が登坂していた(RM314号「西武秩父線開通40周年」より引用)」

おお・・・と言う感じで、在りし日のこんな文章を読むだけで血がたぎってしまうのですが、現在ではすっかり都市間輸送と観光路線になった西武秩父線。当初の建設目的には「武甲山の豊富な石灰石産業の一翼を担い、秩父地域の鉱工業の発展に寄与する」という名目もあった事を忘れてはいけません。三菱マテリアルによる東横瀬からのセメント出荷は1996年の春に廃止されてしまったのですが、貨物盛業だった頃の西武秩父線沿線にも、ぜひ来てみたかったですね。

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