萩原朔太郎の
この詩が例に挙げられていた。
日本語で表現されたものを読み取る人がいなくなれば
日本語は滅びる
というわけ
この詩
ふらんすを
カタカナで
漢字で
表したらこんなに違う詩になってしまう。
漢字と ひらがな カタカナ で
書き表される日本の文章の作り出す世界に違いを
もう読み取れない世代は育ってしまったかもしれない
何しろかなり長いこと
国語の授業は中学校で
週3時間だった?
私の子供時代は毎日、国語の授業があったよ。
旅上
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
フランスへ行きたしと思へども
フランスはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
仏蘭西へ行きたしと思へども
仏蘭西はあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
前の
数
という記事でも書いたけれど
数を稼げない作品が世に表れることがなくなり
教材を通して日本語で書かれた優れた文章を
今の子供の興味・関心にそのままでは響かないからと
駆逐していくようなことがあったら
そりゃ
日本語は滅びるなと思う。