遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

五木寛之「親鸞」

2010-11-12 06:04:32 | 日本の本

ようやく半分読んだところ

昨日は何とも言えず疲労困憊という感じで

エネルギーのなさを感じた

  

親鸞という人にすごく関心があるんだが

途中で そうか 五木寛之の親鸞だな と思うときもあった

 

いまから800年くらい前 カヤノキさんが生まれたころだ!

世は末法の世と言われ

人々は苦しい生活を強いられ悪行の限りが世にはびこっていた時代だ

 

その時のキーワードが 人は皆平等である

ということだったんだな

平等である  ということが 革命的なことだったんだ

 

私はなぜか日本には歴史上宦官と奴隷がいなかった

よい国だと思い込んでた

 

奴隷はいたのね

下人というのが売り買いされモノ扱いされていた人とは知らなかった

 

羅生門の主人公は下人だ

 

子供のころの考えでは

平安時代から鎌倉時代になるころは

貴族の世の中が崩れ去っていく

民衆の力が蓄えられて 力を得てきたからだ

民衆にもわかりやすい念仏を唱えれば救われるという宗教が広がったのは

そういう

力を大きくしてきた民衆がいたからだ

と理解していた

親鸞が比叡山を降り

法然のところに通っていたとき

法然が阿弥陀如来に出会う話をするところがある

 

うっかりしてたが

阿弥陀如来だろうが 釈迦如来だろうが

私には区別がつかない

 

阿弥陀如来はあまねくすべての衆生を救う

というのが本願なのよね

言葉ではこのことは何回も脳裏を通っているが

いまごろ初めて なむあみだぶつ だったかあ

と思った

 

韓国ドラマは やたら 南無観世音菩薩だなあ

 

人は皆平等である ということがパワーとなり

新しい時代を切り開いていった

今? ちっとも 平等ではない

 

平等であるというのは具現するのはたぶん永遠の問題なんだろうな

念仏を唱えれば救われる

という簡単なことが人々に受け入れられた

と思ったけれど

そう簡単な話ではない

 

もっとも下層の世界で苦しんでいる人たちが

地獄を恐れて 必ず地獄に落ちるしかない

そう思い込んで恐れおののきながら暮らしている

 

だからこそ

悪行の限りを尽くして生きてきたと思い込んでいる民衆

というのは もっとも救われる人である

っていうのは 考えてみればわかるよ

 

民衆を搾取し 権力闘争の敵は叩き潰して

贅の限りを尽くして 坊さんに多大なお布施をし

立派な法要を行い 俺様は偉いんだぞという権力者は

それやあ 羅生門の上にいた髪の毛を死体から剥いで売ってたお婆よりは

救われないな

 

800年後の今も 末法の世だ

 

 

 

コメント
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