2012. 1/29 1061
五十帖 【東屋(あづまや)の巻】 その(32)
さて、
「明けぬれば、車など率て来て、守の消息など、いと腹立たしげに、おびやかしたれば」
――夜が明けると、常陸の守が迎えの車などを寄こして、たいへん腹立たしげな文面で脅してきましたので――
北の方は、中の君へ
「『かたじけなくよろづに頼み聞こえさせてなむ。なほしばし隠させ給ひて、巌の中にともいかにとも、思ひめぐらし侍る程、数に侍らずとも、おもほし放たず、何事をも教へさせ給へ』などきこえ置きて、この御方も、いと心細く、ならはぬ心地に、立ち離れむを思へど、今めかしくをかしく見ゆるあたりに、しばしも見馴れたてまつらむ、と思へば、さすがにうれしくもおぼえけり」
――「恐縮でございますが、万事お頼み申しあげます。浮舟をもうしばらくお匿いくださいまし。出家させようかどうしようかと思案しております間、取るに足らぬ者ではございますが、お見棄てなく何かとお導きくださいまし」と(泣く泣く申し上げて退出します。)
この姫君(浮舟)も、母親と離れ離れになるのはたいそう心細く案じられますものの、当世風で華やかな御殿で暫くの間でも住まわせていただけることを思いますと、さすがに嬉しくもあるのでした――
「車引き出づる程のすこし明うなりぬるに、宮、内裏よりまかで給ふ。若宮おぼつかなくおぼえ給ひければ、忍びたるさまにて、車なども例ならでおはしますに、さしあひて、おしとどめて立てたれば、廊に御車寄せて降り給ふ」
――車を引き出す頃のあたりが少し明るくなりました程に、匂宮が御所から退出して来られました。若宮がどうしておいでかと、そっと見たいとお思いになりましたので、お忍びのご様子で、車もいつもより目立たない風でお帰りになったのでした。北の方の車が、匂宮の御車とすれ違いそうになりましたので、車を止めて立てていますと、匂宮の御車は廊に寄せてお降りになります――
「『何ぞの車ぞ。暗き程にいそぎ出づるは』と目とどめさせ給ふ。かやうにてぞ、忍びたるところには出づるぞかし、と、御心ならひにおぼし寄るもむくつけし」
――(匂宮が)「誰の車だ。まだ暗いうちに急いで出ていくのは」と見咎めておっしゃる。こんな風に密かに通う女のところからは、こっそりと帰るものだと、ご自身の経験から気を回されるのも困ったお心癖です――
北の方の供の者が、
「『常陸殿のまかでさせ給ふ』と申す。若やかなる御前ども、『殿こそあざやかなれ』と、笑ひあへるを聞くも、げにこよなの身の程や、と悲しく思ふ。ただこの御方のことを思ふゆゑにぞ、おのれも人々しくならまほしくおぼえける。まして正身を、なほなほしくやつして見むことは、いみじくあたらしう思ひなりぬ」
――「常陸殿の北の方が退出されるのです」と申し上げます。すると匂宮の若やいだ先駆の者どもが、「殿、とはまあ、大袈裟に言ったものだ」と笑いあっているのを、車の中で聞くにつけても、北の方は、なるほど自分はこの上もなく劣った身の上だ、と悲しくなるのでした。それにつけても、ただこの浮舟を大事に思うからこそ、自分も人並みの身分になりたいと思うのであるし、まして当の浮舟を、当たり前の身分に引き下げて見ようなどとは、とんでもなく惜しいことに思うようになったのでした――
では1/31に。
五十帖 【東屋(あづまや)の巻】 その(32)
さて、
「明けぬれば、車など率て来て、守の消息など、いと腹立たしげに、おびやかしたれば」
――夜が明けると、常陸の守が迎えの車などを寄こして、たいへん腹立たしげな文面で脅してきましたので――
北の方は、中の君へ
「『かたじけなくよろづに頼み聞こえさせてなむ。なほしばし隠させ給ひて、巌の中にともいかにとも、思ひめぐらし侍る程、数に侍らずとも、おもほし放たず、何事をも教へさせ給へ』などきこえ置きて、この御方も、いと心細く、ならはぬ心地に、立ち離れむを思へど、今めかしくをかしく見ゆるあたりに、しばしも見馴れたてまつらむ、と思へば、さすがにうれしくもおぼえけり」
――「恐縮でございますが、万事お頼み申しあげます。浮舟をもうしばらくお匿いくださいまし。出家させようかどうしようかと思案しております間、取るに足らぬ者ではございますが、お見棄てなく何かとお導きくださいまし」と(泣く泣く申し上げて退出します。)
この姫君(浮舟)も、母親と離れ離れになるのはたいそう心細く案じられますものの、当世風で華やかな御殿で暫くの間でも住まわせていただけることを思いますと、さすがに嬉しくもあるのでした――
「車引き出づる程のすこし明うなりぬるに、宮、内裏よりまかで給ふ。若宮おぼつかなくおぼえ給ひければ、忍びたるさまにて、車なども例ならでおはしますに、さしあひて、おしとどめて立てたれば、廊に御車寄せて降り給ふ」
――車を引き出す頃のあたりが少し明るくなりました程に、匂宮が御所から退出して来られました。若宮がどうしておいでかと、そっと見たいとお思いになりましたので、お忍びのご様子で、車もいつもより目立たない風でお帰りになったのでした。北の方の車が、匂宮の御車とすれ違いそうになりましたので、車を止めて立てていますと、匂宮の御車は廊に寄せてお降りになります――
「『何ぞの車ぞ。暗き程にいそぎ出づるは』と目とどめさせ給ふ。かやうにてぞ、忍びたるところには出づるぞかし、と、御心ならひにおぼし寄るもむくつけし」
――(匂宮が)「誰の車だ。まだ暗いうちに急いで出ていくのは」と見咎めておっしゃる。こんな風に密かに通う女のところからは、こっそりと帰るものだと、ご自身の経験から気を回されるのも困ったお心癖です――
北の方の供の者が、
「『常陸殿のまかでさせ給ふ』と申す。若やかなる御前ども、『殿こそあざやかなれ』と、笑ひあへるを聞くも、げにこよなの身の程や、と悲しく思ふ。ただこの御方のことを思ふゆゑにぞ、おのれも人々しくならまほしくおぼえける。まして正身を、なほなほしくやつして見むことは、いみじくあたらしう思ひなりぬ」
――「常陸殿の北の方が退出されるのです」と申し上げます。すると匂宮の若やいだ先駆の者どもが、「殿、とはまあ、大袈裟に言ったものだ」と笑いあっているのを、車の中で聞くにつけても、北の方は、なるほど自分はこの上もなく劣った身の上だ、と悲しくなるのでした。それにつけても、ただこの浮舟を大事に思うからこそ、自分も人並みの身分になりたいと思うのであるし、まして当の浮舟を、当たり前の身分に引き下げて見ようなどとは、とんでもなく惜しいことに思うようになったのでした――
では1/31に。