2012. 7/23 1136
五十一帖 【浮舟(うきふね)の巻】 その44
「乳母出で来て、『殿より、人々の装束なども、こまかに思しやりてなむ。いかできよげに何ごとも、と思う給ふれど、ままが心ひとつには、あやしくのみぞし出で侍らむかし』など言ひ騒ぐが、心地よげなるを見給ふにも」
――乳母が出て来て、「薫の君より、女房たちの装束のことまで細々とご配慮いただきました。何とかして万事手ぬかりなく調えたいと思いますが、私の一存ではみすぼらしいことしか出来ないでしょうよ」などと言って騒いでいるのが、いかにも楽しそうで、それを御覧になると――
「君は、けしからぬことどもの出で来て、人わらへならば、たれもたれもいかに思はむ、あやにくにのたむふ人はた、八重たつ山にこもるとも、かならずたづねて、われも人もいたづらになりぬべし、なほ心安く隠れなむことを思へ、と、今日ものたまへるを、いかにせむ、と、心地あしくて臥し給へり」
――浮舟は、けしからぬ事態が生じて、人々の物笑いにでもなったなら、女房たちもどう思うだろう。無理なことをおっしゃるあの方(匂宮)がまた、たとえ八重山たつ山の奥に隠れても、必ず尋ね出し、私もあなたもきっと命を棄てることになるでしょう。やはり今のうちに、気を楽にもって、隠れることをお考えなさい、と、今日も言ってお寄こしになりましたのを、どうしたものかと思っているうちに気分が悪くなって、うち臥してしまわれました――
「『などかかく例ならず、いたく青み痩せ給へる』と驚き給ふ。『日ごろあやしくのみなむ。はかなきものも聞こし召さず、なやましげにせさせ給ふ』と言へば、あやしきことかな、もののけなどにやあらむ、と、『いかなる御心地ぞ、と思へど、石山とまり給ひにきかし』と言ふも、かたはらいたければ伏し目なり」
――(母君が)どうして今日は、いつもと違ってこんなにお顔の色が青白く、痩せていらっしゃるのでしょう」と驚いております。乳母が「この頃ずっとお加減が悪いのでございます。ちょっとしたものも召しあがらず、もの憂そうにしておいでになりまして」と申しますと、おかしなこともあるもの、物の怪などのせいかしらと思ったり、「どういうご気分なのでしょう。(ひょっとして妊娠されたのでは、とも思いますが)あの石山詣ででも、月の障りのためお取り止めになったのですし」と言っていますのを、浮舟は恥かしくて目を伏せています――
「暮れて月いとあかし。有明の空を思ひ出づる、涙のいととめがたきは、いとけしからぬ心かな、と思ふ」
――日が暮れて、月がたいそう明るく冴えきっています。浮舟は、いつぞや、匂宮と舟で渡った時の、あの有明の空を思い出しますと、とめどもなく涙がこぼれて、どうすることもできないのは、ほんとうに良からぬ心よ、と、われながら思うのでした――
では7/25に。
五十一帖 【浮舟(うきふね)の巻】 その44
「乳母出で来て、『殿より、人々の装束なども、こまかに思しやりてなむ。いかできよげに何ごとも、と思う給ふれど、ままが心ひとつには、あやしくのみぞし出で侍らむかし』など言ひ騒ぐが、心地よげなるを見給ふにも」
――乳母が出て来て、「薫の君より、女房たちの装束のことまで細々とご配慮いただきました。何とかして万事手ぬかりなく調えたいと思いますが、私の一存ではみすぼらしいことしか出来ないでしょうよ」などと言って騒いでいるのが、いかにも楽しそうで、それを御覧になると――
「君は、けしからぬことどもの出で来て、人わらへならば、たれもたれもいかに思はむ、あやにくにのたむふ人はた、八重たつ山にこもるとも、かならずたづねて、われも人もいたづらになりぬべし、なほ心安く隠れなむことを思へ、と、今日ものたまへるを、いかにせむ、と、心地あしくて臥し給へり」
――浮舟は、けしからぬ事態が生じて、人々の物笑いにでもなったなら、女房たちもどう思うだろう。無理なことをおっしゃるあの方(匂宮)がまた、たとえ八重山たつ山の奥に隠れても、必ず尋ね出し、私もあなたもきっと命を棄てることになるでしょう。やはり今のうちに、気を楽にもって、隠れることをお考えなさい、と、今日も言ってお寄こしになりましたのを、どうしたものかと思っているうちに気分が悪くなって、うち臥してしまわれました――
「『などかかく例ならず、いたく青み痩せ給へる』と驚き給ふ。『日ごろあやしくのみなむ。はかなきものも聞こし召さず、なやましげにせさせ給ふ』と言へば、あやしきことかな、もののけなどにやあらむ、と、『いかなる御心地ぞ、と思へど、石山とまり給ひにきかし』と言ふも、かたはらいたければ伏し目なり」
――(母君が)どうして今日は、いつもと違ってこんなにお顔の色が青白く、痩せていらっしゃるのでしょう」と驚いております。乳母が「この頃ずっとお加減が悪いのでございます。ちょっとしたものも召しあがらず、もの憂そうにしておいでになりまして」と申しますと、おかしなこともあるもの、物の怪などのせいかしらと思ったり、「どういうご気分なのでしょう。(ひょっとして妊娠されたのでは、とも思いますが)あの石山詣ででも、月の障りのためお取り止めになったのですし」と言っていますのを、浮舟は恥かしくて目を伏せています――
「暮れて月いとあかし。有明の空を思ひ出づる、涙のいととめがたきは、いとけしからぬ心かな、と思ふ」
――日が暮れて、月がたいそう明るく冴えきっています。浮舟は、いつぞや、匂宮と舟で渡った時の、あの有明の空を思い出しますと、とめどもなく涙がこぼれて、どうすることもできないのは、ほんとうに良からぬ心よ、と、われながら思うのでした――
では7/25に。