永子の窓

趣味の世界

枕草子を読んできて (13)

2018年01月12日 | 枕草子を読んできて
六    大進生昌が家に    その1  (13) 2018.1.12

 大進生昌が家に、宮の出でさせたまふに、東の門には四足になして、それより御輿は入らせたまふ。北の門より女房の車ども、陣屋のゐねば入りなむやと思ひて、頭つきわろき人もいたくもつくろはず、寄せておるべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛の車などは、門小さければ、え入らねば、例の筵道敷きておるるには、いとにくく、腹立たしけれど、いかがはせむ。殿上人、地下立ち添ひ見るもねたし。
◆◆大進生昌の家に、中宮がお出ましあそばす折に、東の門においては、四足の門に改装して、そこから中宮様の御輿はお入りあそばされます。北の門から女房どもの牛車は、陣屋の武士が詰めていないから、多分入ってしまえるだろうと思って、髪かたちのみっともない人もたいして繕わず、車は直接建物に寄せて降りるはずだとのんきに考えていたところ、檳榔毛の車などは、門が小さいので、入れないので、例のとおり、筵を敷いて降りるというのには、ひどくにくらしく、腹立たしいけれど、どうしようもない。殿上人や地下の役人たちが、陣屋のそばに立ち並んで見てるのも、いまいましい。◆◆



 御前にまゐりて、ありつるやう啓すれば、「ここにても人はみるまじくやは。などかはさしもうち解けつる」と笑はせたまふ。「されど、それはみな目馴れて侍れば、よくしたてて侍らむしもぞおどろく人も侍らむ。さても、かばかりなる家に、車入らぬ門やはあらむ。見えば笑はむ」など言ふほどにしも、「これまゐらせむ」とて、御硯などさし入る。「いで、いとわろくこそおはしけれ。などてか、その門せばく造りては住みたまひけるぞ」と言へば、笑ひて「家のほど、身のほどに合わせて侍るなり」といらふ。
「されど、門の限りを高く造りける人も聞こゆるは」と言へば、「あなおそろし」とおどろきて、「それは于公が事にこそ侍ンなれ。古き進士などにはべらずは、うけたまはり知るべくも侍らざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、かうだにわきまへられはべり」など言ふ。「いで、御道もかしこからざんめり。筵道敷きたれど、みなおちいりてさわぎつるは」と言へば、「雨の降りはべれば、げにさも侍らむ。よしよし、また仰せられかくべき事もぞ侍る。まかり立ちはべりなむ」とて、いぬ。「何事ぞ、生昌がいみじうおぢつるは」と問はせたまふ。「あらず。車の入らざりつる事申しはべり」と申しておりぬ。
同じほど、局に住む若き人々などして、よろづの事も知らず、ねぶたければ、寝ぬ。
◆◆中宮様の御前に参上してさきほどのありさまを申し上げると、「ここでだって、人が見ないということでもなかろう。どうしてそんなに気を許してしまっているのか」とお笑いあそばされる。「ですけれど、そうした人がみな見慣れておりますから、こちらがよく身づくろいをして飾っておりましたら、それこそかえって驚く人もおりますでしょう。それにしてもまあ、これほどの人の家に、車の入らないような門があってよいものだろうか。ここに現れたら笑ってよろう」などと言っている折も折、「これを差し上げましょう」と言って、成昌が御硯などを御簾の中に差し入れる。「まあ、あなたは、つまらない方でいらっしゃいましたね。どうして、その門を狭く作って、お住みになったのですか」と言うと、笑って「家の程度、身分の程度に合わせているのでございます」と応じる。「でも、門だけを高く造った人もあると聞きますよ」と言うと、「これはまあ恐れ入ったことで」とびっくりして、「それはどうやら于公のことのようですね。年功を積んだ進士などでございませんと、とても伺ってわかりそうにもないことでございましたよ。私はたまたまこの文章の道に入っておりましたから、せめてこれくらいのことだけは自然に弁別いたすのでございます」などと言う。「いえもう、その御『道』も立派ではないようです。筵道をしいてあるけれど、みな落ち込んで大騒ぎしましたよ」と言うと、「雨が降りましたから、なるほど、きっとそうでございましょう。まあまあ、またあなたから仰せさけられることがあると困ります。下がってしまうことにいたしましょう」と言って立ち去る。中宮様は「何だったの、成昌がひどく怖がったいたのは」とおたずねあそばされる。「なんでもございません。車が入らなかったことを申したのでございます」と申し上げて、局に下がってしまう。同じころ、局に住む若い女房たちと一緒に、何にも知らず、眠たいので寝てしまった。◆◆



■大進生昌(だいじんなりまさ)=中宮識の三等官。平生昌。珍材(よしき)の次男。邸は三条にあった。ここに中宮がお産のために行啓された。

■檳榔毛(びりょうげ)の車(びろう)の葉を細かく裂いて白く晒したもので屋形を覆った牛車。

■于公(うこう)が事=前漢の于定国の父。門を大きく作ったら、子の于定国は相丞になり子孫が栄えたという故事。