四〇 蔵人おりたる人、昔は (53)その1 2018.4.8
蔵人おりたる人、昔は御前などいふ事もせず、その年ばかり、内わたりには、まして影も見せざりける。今は、さしもあらざンめる。「蔵人の五位」とて、それをしもぞいそがしくもてつかへど、なほ名残つれづれにて、心一つは暇ある心地すべかンめれば、さやうの所にいそぎ行くを、一度二度聞きそめつれば、常に詣でまほしくなりて、夏などのいと暑きにも帷子いとあざやかに、薄二藍、青鈍の指貫など、踏み散らしてゐたンめり。
◆◆蔵人を辞した人は、昔は、今のように行幸の御前駆などということもしないで、辞めたその年位は、遠慮して宮中のあたりには、まして影も見せないものであった。今はそうでもないらしい。「蔵人の五位」という名でよんで、そういう人も頻繁に起用するけれども、やはり蔵人退職のあとは所在ない感じで、心では暇があるように感じているはずであるようだから、そうした説経をする場所に急いで行くのだが、一度二度聞き初めてしまうと、いつもお参りしたくなって、夏のひどく暑い時でも、直衣の下の帷子をたいそうくっきりと透かせて、薄い二藍、青鈍の指貫などを無造作に踏みつけて座っているようだ。◆◆
烏帽子に物忌みつけたるは、今日さるべき日なれど、功徳のかたにはさはらず見えむとにや、いそぎ来て、この事する聖と物語して、車立つるをかへぞ見入れ、ことにつきたるけしきなる。久しく会はざりける人などの、詣で会ひたる、めづらしがりて、近くゐ寄り、物語し、うなづき、をかしき事など語り出でて、扇広うひろげて、口にあてて笑ひ、装束したる数珠かいまさぐりて、手まさぐりにうちし、すがりを物言ふ拍子にこなたに打ちやりなどして、車のよしあしほめそしりなにかして、その人のせし経供養、八講と言ひくらべゐたるほどに、この説経の事も聞き入れず。何かは、常に聞く事なれば、耳馴れて、めづらしうおぼえぬにこそはあらめ。
◆◆烏帽子に物忌みの札をつけているのは、きょうは物忌みで謹慎すべき日であるけれど、説経聴聞という功徳の筋のためには、外出も差し障りがないように、はたの人たちに見られようというつもりだろうか、急いでやってきて、その説経するお坊さまとお話しをして、聴聞にきた女車を立てるのをまで世話をし、何かと場馴れしている様子である。長い間会わないでいた人で、この参詣で出会って、珍しがって、近くに寄って座り、話をし、頷いたり、おもしろいことなど話し出して、扇を広げて口に当てて笑い、飾りをつけた数珠をま探って、手でいじりまわし、、数珠のすがりを、ものを言うときの調子をとるために、話し相手のほうにぶつけてよこしなどして、車の良いの、悪いのを褒めたりけなしたりして、そんなことを、あれやこれやして、何の某(なにがし)が行った経供養や、法華八講と比較してどうのこうのと、座り込んで話してしるうちに、この説経のことも耳に入れようとしない。いや、なに、いつも聞くことなので、耳馴れて、きっと珍しくもないのであろう。◆◆
蔵人おりたる人、昔は御前などいふ事もせず、その年ばかり、内わたりには、まして影も見せざりける。今は、さしもあらざンめる。「蔵人の五位」とて、それをしもぞいそがしくもてつかへど、なほ名残つれづれにて、心一つは暇ある心地すべかンめれば、さやうの所にいそぎ行くを、一度二度聞きそめつれば、常に詣でまほしくなりて、夏などのいと暑きにも帷子いとあざやかに、薄二藍、青鈍の指貫など、踏み散らしてゐたンめり。
◆◆蔵人を辞した人は、昔は、今のように行幸の御前駆などということもしないで、辞めたその年位は、遠慮して宮中のあたりには、まして影も見せないものであった。今はそうでもないらしい。「蔵人の五位」という名でよんで、そういう人も頻繁に起用するけれども、やはり蔵人退職のあとは所在ない感じで、心では暇があるように感じているはずであるようだから、そうした説経をする場所に急いで行くのだが、一度二度聞き初めてしまうと、いつもお参りしたくなって、夏のひどく暑い時でも、直衣の下の帷子をたいそうくっきりと透かせて、薄い二藍、青鈍の指貫などを無造作に踏みつけて座っているようだ。◆◆
烏帽子に物忌みつけたるは、今日さるべき日なれど、功徳のかたにはさはらず見えむとにや、いそぎ来て、この事する聖と物語して、車立つるをかへぞ見入れ、ことにつきたるけしきなる。久しく会はざりける人などの、詣で会ひたる、めづらしがりて、近くゐ寄り、物語し、うなづき、をかしき事など語り出でて、扇広うひろげて、口にあてて笑ひ、装束したる数珠かいまさぐりて、手まさぐりにうちし、すがりを物言ふ拍子にこなたに打ちやりなどして、車のよしあしほめそしりなにかして、その人のせし経供養、八講と言ひくらべゐたるほどに、この説経の事も聞き入れず。何かは、常に聞く事なれば、耳馴れて、めづらしうおぼえぬにこそはあらめ。
◆◆烏帽子に物忌みの札をつけているのは、きょうは物忌みで謹慎すべき日であるけれど、説経聴聞という功徳の筋のためには、外出も差し障りがないように、はたの人たちに見られようというつもりだろうか、急いでやってきて、その説経するお坊さまとお話しをして、聴聞にきた女車を立てるのをまで世話をし、何かと場馴れしている様子である。長い間会わないでいた人で、この参詣で出会って、珍しがって、近くに寄って座り、話をし、頷いたり、おもしろいことなど話し出して、扇を広げて口に当てて笑い、飾りをつけた数珠をま探って、手でいじりまわし、、数珠のすがりを、ものを言うときの調子をとるために、話し相手のほうにぶつけてよこしなどして、車の良いの、悪いのを褒めたりけなしたりして、そんなことを、あれやこれやして、何の某(なにがし)が行った経供養や、法華八講と比較してどうのこうのと、座り込んで話してしるうちに、この説経のことも耳に入れようとしない。いや、なに、いつも聞くことなので、耳馴れて、きっと珍しくもないのであろう。◆◆